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「砂漠の狐」を退治したイギリスが、リビアの分割狙って作った傀儡国家

キレナイカ

キレナイカ王国→キレナイカ自治国
首都:ベンガジ 人口:30万人(1949年)

1949年6月1日 イギリスとの協定でキレナイカ王国が独立
1949年11月21日 イギリス軍政下のキレナイカ自治国に変更
1951年12月24日 リビア連合王国が独立し、その一部となる

1930年代の北アフリカの地図  エジプトの内陸部を割譲させて「イタリア領リビア」に

 イタリア植民地初期のリビアの地図。シレナイカ=キレナイカ
「連合王国」といえばグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国、つまりイギリスが有名ですが、50年ほど前にはリビア連合王国というのもありました。現在のリビアの国名はグレートリビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国。王国は一体どうなっちゃったの?と言えば、かの有名なカダフィ大佐が倒してしまったわけですね。で、かつてのリビアの王国は、一体なにが「連合」だったのかというと、トリポリタニアキレナイカフェザーンの3地域の連合。このうちキレナイカは、1951年にリビアが独立するより一足早く、独立王国だったことがあります。

戦前のリビアはイタリアの植民地。北アフリカの沿岸一帯は、16世紀からオスマントルコが支配していたが、本国から遠く離れていたため地方勢力が台頭し、トルコの統治は及びにくく半ば独立した形になっていた。そこで19世紀になると欧米列強が相次いで進出し分割。アルジェリア(1830年)やチュニジア(1883年)はフランスが支配し、エジプトはイギリスの保護国となった(1882年)。その中間に位置するリビアは、当初はドイツが狙っていたが、20世紀に入ると戦略的にもっと価値が高そうなモロッコへ転向。先に進出していたフランスと対立して 第一次モロッコ事件 を引き起こす。代わってリビアに目を付けたのがイタリアで、これを後押ししたのがフランスだった。イタリアは当時ドイツやオーストリアと三国同盟で手を組んでいたが、フランスは1900年と1902年に仏伊協定を結んでイタリアをドイツから引き離し、見返りにイタリアがリビアを支配することを認めた。遅れて植民地獲得に乗り出したイタリアは、エリトリアや ソマリア など東アフリカではイギリスの後援を受けたが、北アフリカではフランスのお墨付きで植民地を確保したのだった。

しかし東アフリカで調子に乗りすぎ、1896年のアドワの戦いでエチオピアに惨敗したばかりのイタリアは、リビア征服に乗り出すまでにはもう少し時間が必要だった。1911年に第二次モロッコ事件が起きて再びドイツとフランスが一触即発になり、世界の注目がそちらへ集まると、イタリアはチャンス到来とばかりにオスマントルコへ宣戦布告。こうして始まった伊土戦争で、イタリア軍はリビアへ上陸するが、トルコ軍の抵抗は予想以上に強く、トリポリなど沿岸部の都市をいくつか占領できただけだった(※)。

※この時、イタリアは9機の飛行機を繰り出したが、これが戦争で本格的に航空機が使われた最初らしい。
苛立ったイタリアは翌1912年に艦隊を繰り出してトルコ本国への攻撃も始めたが、これに刺激されてギリシア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロのバルカン同盟4カ国がトルコに宣戦布告して、第一次バルカン戦争が勃発する。このため四面楚歌に陥ったトルコはイタリアと講和して、リビアとロードス島を中心にしたエーゲ海のドデカネーゼ諸島を譲ると申し出た。形式的には一応トルコが「独立を認める」という形を採ったので、リビアではトリポリを中心にトリポリタニア共和国、ロードス島には エーゲ海自治国 というイタリアの傀儡国家が作られた。

しかしトルコ軍が去っても、リビア人の抵抗は止まなかった。特に東部のキレナイカでは、ムハンマド・イドリースに率いられたサヌーシー教団というイスラム神秘主義(スーフィー派)の信徒たちがジハード(聖戦)を唱えて強固に戦い、第一次世界大戦が勃発するとドイツの武器援助を受けたサヌーシー教団はイタリアの手に負えなくなった。イタリアはやむなく1920年にイドリースをイタリア宗主下でのキレナイカの王と認めて妥協を図ったが、22年にムッソリーニが政権の座に就くのと前後して再び征服戦争を強化したため、イドリースは同年末にエジプトへ亡命した。

その後はイドリースに代わって、オマル・ムフタールが教団のゲリラ部隊を率いて山岳地帯を拠点に勇猛果敢な戦いを継続した。イタリアはエジプトから流入する武器を断つために、第一次世界大戦で連合国側として参戦した見返りとして、イギリスからエジプト内陸部の砂漠地帯を割譲させ、国境線を一直線に引き直して鉄条網を建設。1931年にムフタールを捕らえて処刑し、ようやくキレナイカを平定。続いて無政府状態が続いていた内陸のフェザーンへも支配を広げて、1934年にトリポリタニアとキレナイカ、フェザーンを統合して、イタリア領リビアとして1つにまとめた。

第二次世界大戦では苦戦するイタリア軍に、ドイツが「砂漠の狐」ことロンメル将軍を援軍に派遣したが、補給が続かずに敗退。1942年末から43年にかけて、トリポリタニアとキレナイカはイギリス軍が、フェザーンはフランス軍(ただしドゴール将軍率いる自由フランス軍)が分割占領した。戦後、イギリスとフランスはそのままリビアを分割してしまおうとしたが、植民地支配を続けたいイタリアは猛反発した。イタリアは枢軸国だったが、43年にムッソリーニ政権が崩壊してから連合国として改めて参戦したので、敗戦国にはならなかったのだ。イタリアはせめてイタリア人移住者が多く住んでいるトリポリタニアだけでも確保することを主張したため、英仏伊はリビアを三分割して国連信託統治領とし、イタリアがトリポリタニア、イギリスがキレナイカ、フランスがフェザーンを統治することを提案したが、1949年5月の国連総会で否決された。

さて、戦時中にキレナイカでは、エジプト滞在中のイドリースがサヌーシー教団を率いて、連合国軍に参加。その見返りとしてイタリアからの独立をイギリスに約束させていた。ただしキレナイカだけでさっさと独立するか、それともリビア全体を統一して独立するかでは、キレナイカのリーダーたちの間でも意見がまとまらず、部族社会の指導者たちは前者を、アラブ民族主義の影響を受けた青年層は後者を主張した。

1949年6月3日付『朝日新聞』
こうした中で1949年6月、イドリースはキレナイカ王国の独立を宣言した。ただしこの王国はイギリスとの協定により、外交や国防、対外貿易の権限はイギリス人に委ねるというもので、イギリス軍に基地を提供し、イギリスからの経済援助で支えられていた。いわばイギリスの傀儡国家で、英仏伊によるリビア3分割の信託統治が否決されても、キレナイカだけはイギリスが確保しておこうという意図が見え見えだと、アラブ諸国をはじめ国際社会の反発を招いた。

そこで半年も経たずに、キレナイカ王国はイギリス軍政下での暫定的な自治国だと改めて宣言。同年12月の国連総会でリビアを独立させるべきという決議が挙がると、トリポリタニアやフェザーンとの統一交渉が始まった。トリポリタニアやフェザーンでも、かつてイタリア相手に抵抗を続けたイドリースを元首に迎えることには異存がなかったが、独立後の国家体制をどうするかで対立した。人口が多く経済的にも中心地・トリポリを抱えるトリポリタニアは中央集権国家を唱えたが、部族指導者たちの力が残るキレナイカやフェザーンは連邦制を主張。結局トリポリタニアが妥協して、リビアはイドリースを国王とする3地域の連合王国として、1951年に独立した。

こうして独立したリビアでは、連邦政府は外交や国防を担当するが、内政は3つの地方政府に大幅な自治権が与えられ、首都はトリポリとベンガジの2ヵ所で、連邦政府は交互に移動する仕組み。またイドリースは親欧米路線を採り、英軍や米軍に基地を提供して経済援助をもらい、イタリア人入植者たちが引き続き経済を支配していた。やがて石油採掘が始まってリビアにもオイルマネーが転がり込むが、利益は国民全体に行き渡らず、地域対立も激しくなり、さらに1956年にお隣りエジプトで スエズ動乱 が起きると、リビアでも反欧米の汎アラブ主義がじわじわと広がりつつあった。

キレナイカとリビアの国王・イドリース1世
イドリースは1963年に連邦制を廃止して、連合王国からただの王国に変更。中央政府の権限を強化してオイルマネーの全体的な配分を強めたり、英軍や米軍の基地を撤退させて、アラブ民族感情の爆発を抑えようとした。しかし2ヵ所に分散していた首都を、ベンガジよりさらに東のバイダへ移転したことからトリポリの住民たちは反発。1969年にトルコで病気療養中のイドリースを追放して、無血クーデターを成功させたのが、フェザーン出身で当時弱冠27歳のカダフィ大尉。追放されたイドリースは再びエジプトへ亡命して、1983年に93歳の生涯を終えた。

その後のカダフィ率いるリビアに関しては、書くのが面倒なので省略しますが、ようするにリビアの経済を支配していた外国人(特にイタリア人とユダヤ人)の資産を接収し、外国企業(特に石油産業)を国有化し、豊富なオイルマネーに支えられて資本主義でもマルクス・レーニン主義式社会主義でもない、イスラム教の教義に基づいた社会主義を追求した・・・ということです。

素朴な疑問として、なんでリビアの最高指導者を長年やっているのに「大佐」という中途半端な階級なのか、そしてなぜ国家元首としての肩書き(大統領とか首相とか)で呼ばないで「大佐」なのか・・・というのがあります。前者についていえば、「大佐」というのは自分で勝手にそう名乗っているだけで、ホントの階級はクーデター当時の大尉らしい。尊敬するエジプトのナセル大統領が大佐だったから、憧れの人と同じように呼ばれたいということのようだ。そして元首としての肩書きだが、カダフィ大佐は79年に公職を辞めてしまい、元首でもなんでもないのだとか。 日本の外務省のHP を見ても、元首ではなく「元首格」と書かれてますね。う〜ん・・・。

●関連リンク

元老院議員私設資料展示館—イタリアのアフリカ侵略  イタリアがリビアやエリトリア、ソマリアを征服するまでがとても詳しく書かれています
リビア見聞録  ローマ時代のキレナイカの遺跡や現在の様子など。「つづき」もあります
Abrahams リビア紀行  リビアの紹介や各地の観光スポットなど

参考資料:
『平和記念改造世界地図』 (東京日日新聞社 1919)
『最新世界現勢地図帖』 (新光社 1933)
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
『世界年鑑 1950』 (共同通信社 1950)
『世界年鑑 1952』 (共同通信社 1952)
宮治一雄 『アフリカ現代史5』 (山川出版社 1978)
元老院議員私設資料展示館—イタリアのアフリカ侵略 http://www.kaho.biz/italy.html
裏辺研究所 http://www.uraken.net/index.html
 
 

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