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共同統治領

 
  アンドラ   コンパンジア島   モーゼル川の小島   ニューヘブリデス諸島   フェニックス諸島
  ナウル   サモア   スーダン   沿海州   樺太

2つ以上の国が同時に主権を及ぼしている地域が共同統治領。(1)その地域へ進出してきた国同士が国境 線について折り合いがつかず、とりあえず共同統治とした、(2)利権を確保しておきたいけど遠く離れた親分国が、近場の子分国に現地での行政運営を任せて 統治コストの削減を図った・・・などのパターンがあります。




【過去形】アンドラ (フランスとスペインの旧共同統治領) 

アンドラの衛星写真  (google map)

フランスとスペインの国境地帯、ピレネー山脈の山の中にあるアンドラ。世界地図などでは以前から 「独立国」のように描かれていたが、フランスの大統領とスペインのウルヘル司教が主権を共有する共同統治領だった。その下でアンドラ住民によって選出され る議会による自治が行われ、一般にアンドラ共和国と呼ばれていた。そして1993年にアンド ラは住民投票で憲法を制定し、アンドラ公国として独立。フランスとスペインもアンドラを主権 国家として認め、さっそく国連に加盟し、日本やその他の国々とも外交関係を結んで、ようやく本格的な独立国となった。ただし、現在でもフランスの大統領と ウルヘル司教が象徴的な共同元首を務めている。

アンドラの成立は9世紀に遡る。839年にウルヘル司教がアンドラの住民に自治を認め、11世紀初めには地方の豪族に封土として与えた が、やがてこの所領を相続したフォア伯爵とウルヘル司教との間で支配権をめぐる対立が起き、1278年に双方は徴税、司法、徴兵などの封建領主権を対等に 共有する契約を結んだ。その後、ウルヘル司教が持つ宗主権はそのまま現代へ至るが、フォア伯爵が持っていた宗主権は相続によりフランス国王に移り、さらに フランス大統領に受け継がれた。

かつて「辺境の地」とされたピレネー山脈には、小王国や広範な自治権を持つ地域がいくつも存在していたが、フランスやスペインの中央集 権が進み、両国の国境線が調整されるにつれて消滅していったが、アンドラだけは主権共有というヤヤコシイ制度のおかげで、どちらかの国に併合されることも なく、そのまま残ったもの。

共同統治時代のアンドラには、フランス政府とウルヘル司教がそれぞれ任命したベグエールと呼ばれる総監が駐在し、2人のベグエールが裁 判官の任命や議会の召集などを共同で行っていた。議会はアンドラ領内の6つの村から4人ずつ選出された合計24人の議員で構成され、議長と副議長もベグ エールにより任命。またアンドラは宗主国であり「領主」であるフランスへ960フラン、ウルヘル司教へ480ペセタを1年ずつ交互に上納していた。

近年までフランス側との「国境」は1年のうち半分以上が雪に閉ざされていたため、住民の多くはス ペイン系で、フランス語とスペイン語が公用語とされたが、住民たちは主にカタロニア語を話している。ただし、警察や郵便、通信などはフランスが支配し、通 貨は両国のお金が通用したがフランスの通貨圏に組み込まれ、ウルヘル司教には外交上の権限がないためフランス側がアンドラの外交を一手に引き受けていた。

山間の谷であるアンドラは農業に適した土地は少なく、産業といえば牧畜と小さな鉱山、それに大理石の石切り場があるくらいのもの。しか しフランスとスペインの双方の関税がかからなかったので、両国を結ぶ「公認の密輸ルート」として繁盛し、 住民は納税義務がなかった。また内戦やフランコ総統による独裁体制が続いたスペインからは政治亡命者たちが逃げ込み、アンドラ放送局では高地で電波が遠く まで届きやすい地の利を生かして、政治的な宣伝放送の拠点を提供して収入を上げていた。

現在ではEU域内の関税が撤廃されてしまい、密輸のうまみはなくなったが、代わって温泉やスキー場をウリにして年間1000万人の観光 客が訪れ、アンドラはますます繁盛しているようだ。戦前から1950年代にかけて6000人前後だった人口は、現在では7万人近くに膨れ上がっている。で も、アンドラ人に対しては昔はこんな「評判」もありました。。。。

「アンドラ人の性情を見るに、聡明で理解力に富んでいるが、極端なる 狡猾者である。それは不安な自治の喪失を恐れるのからも来るのであろうが、また一方密輸の奸智にも長じているのを見れば、一概にそうでもあるまい。取引先 で相手を欺き、暴利を貪ることは当然と思い、かつ一旦それが露見すれば直ちに馬鹿正直を装う等、まことに巧みなものである。近郷の人々は『またもアンドラ を発揮した』等と言って、人を欺いた者を風刺しているほどである」 (『世界地理風俗大系第13巻』新光社 1929)
今でも近くの村人たちは、嘘をついた人に「またもアンドラを発揮したな!」なんて言って、か らかっているんですかね?さ〜て、どうだか。

外務省—アン ドラ公国  
ア ンドラ旅行 徹底旅行ガイド  現地の写真がたくさんあります
アンドラ写真館  日本の場末の温泉町みたいですね・・・何だか親しみが湧いてきた(笑)




コンパンジア島 (フランスとスペインの共同統治領) 

コンパンジア島の衛星写真  川の手前がスペイン領、向こうがフランス領です (googlemap)

アンドラの共同統治領は主権国家になったが、現在でもフランスとスペインの共同統治領のまま残っているのが、大西洋近くのバスク地方に あるコンパンジア島。この一帯ではビダソア川が国境線になっているが、コンパンジア島はビダソア川に浮かぶホンの小さな中洲。1659年の協定以来、フラ ンスが6ヶ月、スペインが6ヶ月と交代で統治している。「コンパンジア」というのはバスク語で「キジの島」という意味で、フランス語やスペイン語での名称 はフェザン島だ。

かつてはこの島には両岸から橋が架かっていて、文字通り「国境の島」だったのだが、現在では近くに直接両国を結ぶ橋ができて、コンパン ジア島の橋は撤去されている。島の上には碑が建っているが、歩いて見に行くのは無理。

Condominium Island  コンパンジア島の写真と昔の地図があります(英語)
Isla de los Faisanes  ちょっと離れた場所から見ると、こんな感じです(仏語)
リヨン気まま倶楽部  フェザン島(コンパンジア島)の現地ルポです




モーゼル川の小島 (フランス領+ドイツとルクセンブルクの共同統治領?)

モーゼル川の「小島」の衛星写真  川の左岸はルクセンブルグ、右岸はドイ ツ、下はフランス領(googlemap)

ルクセンブルクの地 図。「小島」があるのは右下の3ヵ国国境地点
国際河川と いうのがある。複数の国に跨って流れる川について条約を結び、どの国でも自由に利用できるようにした川のことで、ドイツから東欧を横断して黒海まで10ヵ 国に跨るドナウ川や、アジアでは中国からミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアを通ってベトナムで海に注ぐメコン川などが代表的だ。内陸(上流)の国に とっては、海への出口となる重要な交通路で、自由に使えるのは結構なことだと思いきや、治水対策や水資源の活用でダムを作ろうとしても難しいなどの問題も ある。

さて、モーゼル川はフランスからドイツに向かって流れ、ライン川に注いでいる。途中ドイツとルクセンブルクとの国境にもなっている国際 河川だ。で、この川の3ヵ国が国境が接する地点に小さな島(というか中洲)があって、島の上を国境線が横切っている。南側(上流)はフランス領だが、北側 (下流)に突き出した一角はドイツとルクセンブルクが共同統治しているのだ。

ルクセンブルク本土と島のフランス領の部分との間には堰があって、歩いて渡れるようになっている。島の上には柵などの仕切りはないの で、いったん上陸してしまえばそちらの方へも自由に行ける。もっとも、フランスとドイツ、ルクセンブルクはシュンゲン協定によってどこでも完全に行き来が 自由だが。

「島」と言っても実際には こ んな感じ で、フランス領の部分には掘っ立て小屋くらい建てられそうだが、共同統治領の部分は歩くのもおっかなそうなほどの細さ。もしかして、この 島はもともとフランス領の部分だけで、共同統治領になっている部分は護岸工事の一環で作られた人工の堤防なのかも知れない。

だとすると、国際法的には「領土」と言えないことに・・・・。

France - Germany - Luxembourg  モーゼル川の小ャ島の写真(英語)




【過去形】ニューヘブリデス諸島 (イギリスとフランスの旧共同統治領)

オーストラリアの東側にあるバヌアツ共和国は、 南北800kmの範囲に約80の島が散らばる国。日本ではその中の「エロマンガ島」という島に人気(?)が集まっていたりしますが、1980年に独立する まで英仏共同統治領ニューへブリデス諸島(またはニューへブリディーズ諸島)と呼ばれ、イギ リスとフランスが一緒に支配していた植民地だった。

ニューへブリデス諸島を最初に「発見」した西洋人は、1605年にここを訪れたスペイン人だが、19世紀に入って島で白檀が発見される と、イギリスとフランスの商人や宣教師が相次いで上陸し、支配権を争うようになった。まぁ、当時は植民地争奪戦の最中だったから世界中で同じ現象が起きて いたのだが、ここではサトウキビの農園を経営していたイギリス人たちが、季節労働者の雇用に関するイギリス政府の規制に反発して、フランスへの併合を求め るというおかしな事態が起きていた。

そこで英仏両国は1878年に「お互いにニューへブリデス諸島の独立を尊重する」と いう覚書を交わしたが、独立を尊重するといっても島には島民たちの部族社会と白人の農園や教会があるだけで政府はなく、実質的に無政府状態が続いていた。 何しろ当時、島民たちには食人の風習があったのだ。特に北部の島々では食人は戦闘に関する儀礼的なものではなく、「人肉は豚肉より美味」だとされ、販売目 的の人間狩りや人間の飼育まで行われていたというからスゴイ。1884年にフランス人が島民に殺される事件が起きると、「島には犯人を捕まえる警察がない から」とフランス軍が上陸。イギリスはこれに「覚書違反だ」と抗議し、フランスは「白人の安全を保障しうる警察の設置」を条件に撤兵した。こうして英仏両 国は1887年に共同海軍委員会を設立して、島の警備にあたることにした。

しかしこの委員会は島民の取締りをするだけで、白人の犯罪に対する権限はないというシロモノ。また住民を保護する法律もなければ行政機 関もなく、無政府状態が続いていた。このためイギリスはイギリス系住民保護のために島で2人の官吏を任命しようとしたが、フランスが抗議して撤回。一方フ ランス系住民は自治市役所を設立したが、イギリスが抗議して解散。そこで英仏両国は「太平洋諸島で正規の政府に従属しない国民に対して行政権を行使できる 法律」を相次いで制定して、島に住む自国民にはそれぞれの法律が及ぶようにしたが、イギリス人とフランス人との間の争いを調停する場はなかった。

1906年、英仏両国はニューへブリデス諸島を共同統治領にして、共同の行政機関と裁判所を置くという条約に調印した。この条約によれ ば、英仏両国の居留民は平等の権利を持ち、両国は島に住むそれぞれの自国民に対して主権を持つとされた。

かくして島にはイギリスとフランスの政庁、それに合同政庁という3つの政府が できた。イギリス人(豪州人やニュージーランド人も含む)はイギリスの政庁が管轄し、フランス人(ベトナムなどフランス植民地からの農場労働者を含む)は フランス政庁が管轄。郵便や通信、税関、衛生、公共工事などは合同政庁が担当した。それぞれの島や村にはイギリスとフランスの警察や学校が別々にでき、司 法は下級裁判所としてイギリスの裁判所とフランスの裁判所、先住民裁判所が作られ、その上に第三国の裁判長(当初はスペイン国王が任命)がいる合同裁判所 を置いた。1930年代当時の人口は6万人足らずで、うちイギリス人(主にオーストラリア人)は270人、フランス人は900人、それとベトナム人労働者 が1600人。たったこれだけの人口のために政府を3つも作るのはムダだし、合同政庁もフランス人が局長ならイギリス人が副局長、イギリス人が局長ならフ ランス人が副局長で、英仏2ヶ国語を話せる職員は10人たらずで、本来なら数分間の打ち合わせで決まる事が、いちいち書類にして翻訳していたので何週間も かかる始末だったらしい。

しかしメリット(?)もあったようで、英仏両国以外の外国人住民は自分が好きな政府を「マ イ政府」として選択することができた。イギリス人やフランス人でも自分の政府に不満があれば別の政府に乗り換えることも可能。実際にイギリ ス人農場主の中には「イギリス政庁は外国人労働者の雇用を認めてくれない」と、フランス籍に帰化してしまう者がかなりいたようだ。

戦後、周辺諸島が相次いで独立していく中で、ニューへブリデス諸島では政治や文化面で混乱が続き、イギリスとフランスの思惑の違いも あって独立は遅れた。島民たちも英仏どちらの学校に通ったか、またはプロテスタントかカトリックかで、イギリス派とフランス派に分かれて対立が始まった。

1980年の独立に際して、主導権を握ったのはイギリス派のバヌアアク党だった。すると北部のサント島や南部のタンナ島では分離独立を 要求して暴動が起こり、 ベ マラナ共和国やタフェア国 の建国を宣言するが、バヌアツが独立すると政府の要請でパプア・ニューギニア軍がサント島に上陸し、分離独立派は鎮圧さ れた。分離独立に関わったフランス人入植者たちは国外追放されたが、独立後のバツアヌでは学校教育も英語とフランス語の学校に分かれたままで、イギリス派 とフランス派の政権交代が続いています。


英仏共同海軍委員会の旗

外務省—バヌアツ共和国
ニューヘブリデスの蝶切手≪閉鎖≫  共同統治時代の切手は、同じデザインのものが英語とフランス語で2種類売られていたようです
VANUATU'92の旅より≪閉鎖≫  共同統治領だった78年当時のニューへブリデス旅行記もあります
植民地時代 の歴史≪閉鎖≫  バヌアツ政府観光局の公式サイト。「宣教師の悲劇」のコーナーがなかなか・・・




【過去形】フェニックス諸島 (イギリスとアメリカの旧共同統治領) 

共同統治時代のカントン島の地図  1943年作成の地図

フェニックス諸島とは、ハワイの南にある赤道直下の8つの島々で、現在ではキリバス共和国の一部。 一時期ポリネシア人が住んでいたことがあったらしいが、その後長らく無人島となり、19世紀半ばにアメリカの捕鯨船が再発見。1857年からアメリカ人に よる燐鉱石の採掘が始まった。しかし1890年頃には燐を掘り尽くしてしまい、再び無人島に戻っていた。

さて、1930年代に入って航空機が発展し太平洋航路が開設されるようになると、フェニックス諸島はハワイとニュージーランド、ひいて はアメリカ本土とオーストラリアを結ぶ給油基地の適地として脚光を浴びるようになる。そこでフェニックス諸島の東西両側にあるキルバート諸島とライン諸島 (といっても共に1000km以上離れてますが)を占領していたイギリスが36年に上陸して、無線局を翌年開設。アメリカもフェニックス諸島の領有権を主 張して38年に上陸したが、結局どちらのものか話し合いがつかず、米英両国は39年にカントン島とエンダーベリー島は主権問題を据え置きにして、両国が商 業・航空・通信について平等に権利を持つこととし、残りの島々はイギリス領となった。こうしてカントン島には水陸両用の飛行場とホテルが作られ、パン・ア メリカン航空のアメリカ〜ニュージーランド便が寄航するようになった。戦時中は日本軍がガダルカナル島撤退にあたっての陽動作戦として空爆と潜水艦攻撃を 加えたこともある。

ところが戦後、ジェット航空機の時代になると、太平洋横断の途中で給油をする必要はなくなり、カントン島の空港は1963年に放棄。戦 後作られたNASAの衛星追跡基地や米軍のミサイル実験基地も76年に閉鎖され、他に島の産業といえば椰子とコプラの栽培くらいで、62年には1339人 いた人口も、現在では50人足らずが残るだけだ。79年にキルバート諸島がキリバス共和国として独立する際に、ライン諸島とともにキリバス領になり、カン トン島とエンダーベリー島の米英共同統治は終了した。

最近では地球温暖化による海面上昇が懸念されていますが、深刻な被害を受けているのがキリバス。国民7万8000人のほとんどが住むキ ルバート諸島は標高1m足らずの土地が多い島で、すでに高波が押し寄せるたびに島中水浸しになっている。お隣ツバルではニュージーランドへの島民の移住 (温暖化難民?)が始まっているが、キリバスではニュージーランドのほかになんとか自国領内で移住できないかとフェニックス諸島へ調査団を派遣したりもし ています。

外務省−キリバス共和国  
国際水 産技術開発−キリバス共和国  ミルクフィッシュというおいしそうな(?)魚の養殖プロジェクトのための現地視察報告。キリバスの写真がいっぱいあります
Kiribati: Phoenix Group  各島の地図や、昔の写真があります(英語)




【過去形】ナウル (イギリスと豪州とニュージーランドの旧共同委任統治領) 

ナウルの地図  島の大部分が 巨大なクレーター。鉄道もありますね
ナウルの衛星写真  (google map)

戦前の地図ではナウ ルは日本のすぐお隣りでした
南太平洋のナウルは面積わずか21平方kmの島で、バチカン、モナコに次ぐ世界で3番目に小さい 国。人口1万2000人でナウル人はうち62%。そんな小さな国が独立してやっているのは特別な産業があるからで、バチカンは宗教で、モナコはカジノで 潤っているが、ナウルは島全体が燐鉱石の山。ようするに鳥の糞が何万年も積み重なったものだ が、それが長い間にサンゴのカルシウムと化合して極上の肥料になった。その燐鉱石を輸出して、ナウルの1人あたりのGDPはアメリカやドイツ並みと世界有 数のレベルに達していた。「いた」という過去形がミソです。

ナウルにはもともとナウル人が住んでいたが、18世紀末にイギリスの捕鯨船が「発見」してから、新たな病気が持ち込まれて激減。 1888年に マー シャル諸島 の一部としてドイツ領になり、1906年からドイツとイギリスの合弁会社が燐鉱石の採掘を始めた。第一次世界大戦でドイツが負けると、 海外の植民地はすべて放棄することになり、新たに設立された国際連盟のもとで、ナウルは1920年からイギリスとオーストラリア、ニュージーランドの3カ 国による 委 任統治領 になった。とはいえ、当時のオーストラリアは英国から自治権を認められた連邦、ニュージーランドは自治領で、完全な独立国ではなかった (現在でも国家元首がイギリスの女王だったり、100%完全な独立国かはアヤシイ部分もあります)。3カ国による共同統治の形を取ったのは、背景に燐鉱石 の配分問題があったから。3カ国は独英合弁の鉱山会社を買収して、新たな英国燐鉱委員会(BPC)を設立したが、買収にあたっての出資比率が英国42%、 豪州42%、ニュージーランド16%で、その比率に応じて燐鉱石を格安で輸出されることになった。BPCは3カ国から派遣された弁務官が運営したが、実際 のナウルの行政はオーストラリアに任されていた。

戦時中、日本軍がナウルを占領して燐鉱石を日本へ輸出しようとしたが、戦況悪化で輸出できないまま敗戦。戦後は国際連合のもとで改めて 3カ国による信託統治領となったが、1968年にナウルは独立して共同統治は終了。燐鉱山も70年にBPCから国営の鉱山会社へ引き継がれた。

20世紀初めに燐鉱石の採掘が始まってから、ナウル人は鉱山会社から土地使用料や木の伐採許可料などを受け取るようになり、ほとんど働かなくてもよい生活を送っていた。鉱山で働く労働者は中国人や他の島からの出稼ぎ労働者ばか り。独立前は燐鉱石の輸出価格に比べてナウル人に支払われる金額は微々たるものだったが、それでも海外から輸入された食糧を購入して暮らすだけの金はもら えた。戦時中の日本の記録でも、ナウル人は遊ぶか、寝るか、飲み食いするか、魚を獲るかの生活をしている・・・ だそうで、当時からほとんど働いていなかったようだ。そしてナウルが独立すると、燐鉱石輸出の莫大な利益がナウル人に転がり込むようになった。税金や教育 費がタダなのはもちろん、国民には年金が支給されて何もしなくてもお金がもらえる。ナウル人は魚も獲らなくなり、三度の食事も中国人が経営するレストラン で済ませて料理さえ作らないようになり、行政はすべて西サモアなどから雇ってきた外国人に任せ、「働いているのは16人の国会議員くらい」とまで言われる 国になった。

ところが、島の燐鉱石には限りがあるのは当然のこと。20世紀中には掘り尽してしまうと言われていただけに、ナウル政府ではオーストラ リアにオフイスビルを建てたり(ナウルハウス)、航空会社を作ってみたり(ナウル航空、鹿児島や那覇へも飛んでいた)して新たな収入源を得ようとしたが、 運営は外国人任せの放漫経営でどれも失敗。それならナウルをオフショアの金融センターにしようと試みたが、マネーロンダリングの格好の場所となったためア メリカ政府の目の敵にされたため中止。オーストラリアが受け入れたアフガン難民などを引き受けて収容料を稼ごうとしているが、おかげで島のホテルは難民で 満室となり、観光客が渡航できなくなってしまった。

そうこうしている間にいよいよ燐鉱石が枯渇。2003年早々には賃金未払いの外国人労働者が暴動を起こし、難民も暴動を起こす。アメリ カに入院していた大統領は死に、政情不安が続く中で、大統領官邸が襲われたった1台あった国際通話ができる電話機が壊れたため、一時は「国ごと音信不通」というワケのわからない状態になってしまった。島の大部分は鉱石を獲ったため巨大な クレーター状態で、人がすめない不毛の土地。100年近く働かずに遊び暮らしてきたナウル人たちは一体どうなることでしょう?見かねたオーストラリア政府 が「ナウル人全員にオーストラリアの市民権をプレゼントする」と名乗り出たのに、ナウルの新大統領は「ナウル人としてのアイデンティティがなくなってしま う」と断ったと言うし・・・。野次馬的に興味シンシンの国ですね。


三ヵ国共同委任統治領時代の旗

外務省−ナウル共和国  
BILDAGENTUR picture agency  ナウルのきれいな写真
ともやくん旅行記ナウル編  90年代のナウル旅行記。ナウルのはちゃめちゃな政策について詳しくレポートしています
適宜更新:ナウルの記事のまとめ音  




【過去形】サモア (ドイツとアメリカとイギリスの旧共同保護領)

オセアニアの地図(1908年)  
共同保護領時代のサモアの地図(1889年)  
現在のサモアの地図  PDF ファイル

ドイツとアメリカで分割していた頃のサモアの地図
南太平洋 に浮かぶ国・サモアは、正式名称を「サモア独立国」と言い、1997年までの国名は「西サモア」でした。ということは、裏を返せば「独立国でない東サモア」がありそうですが、実際に存在 していて、アメリカ領サモアというのがそれ。西サモアは元ニュージーランドの信託統治領で、 7つの島からなり人口18万人、東サモアは5つの島と2つの岩礁で人口7万人ですが、かつては統一したサモ ア王国が存在していて、しかも19世紀末の一時期には、サモア王国はドイツ、アメリカ、イギリスの3カ国共同の保護領だったこともありま す。

サモアに本格的に進出した最初のヨーロッパ人はイギリスの宣教師たちで、1830年にロンドン宣教師協会(LMS)が布教を開始。やが てウェズリー派やカトリックの宣教師もやって来た。当時のサモアは王位をめぐってマリエトア家とサ・トゥプア家が争い、さらにマリエトア家内部でも抗争が 続いていたが、宣教師たちも宗派ごとに王位継承者と組んで内戦は泥沼と化していった。

続いてサモアに進出して来たのがドイツの商社で、ゴッドフロイ商会(ゴーデフフロイ商会)が1857年からココヤシや綿花のプランテー ションを開いたが、内戦を続けるサモア人たちは武器を調達するためにゴッドフロイ社へどんどん土地を売り渡してしまう。さらに1869年にアメリカ横断鉄 道が開通すると、アメリカ人も太平洋へ本格的に進出するようになって、サモアの土地を買い占め始めた。サモア人たちもようやく事の重大さに気がついて内戦 を中止し、土地売買の再審査を求めて、ヨーロッパ人と対立するようになった。

そこに現れたのが、シュタインバーガーと言うアメリカ人。彼は1873年にアメリカ政府の代理人としてサモアへ派遣されてきたのだが、 島の有力者たちと会談するうちに彼らの信頼を得るようになり、逆にサモア政府の代理人としてアメリカやドイツをまわって、サモア独立の承認を取り付けた。 こうして75年、サモアに戻ったシュタインバーガーは、マリエトア家のラウペパを国王に据えて憲法を発布。二院制の議会を作り、自分は首相兼最高裁長官に 就任して、島々で知事を任命した。大日本帝国憲法が発布されたのが1889年(明治22年)だから、サモア は日本より14年早く立憲君主国になったということですね。

しかし、サモア人の立場に立つシュタインバーガーは、やがて白人入植者や宣教師たちのヒンシュクをかうようになり、75年末にサモアへ やって来たイギリスの軍艦に連れ去られてしまう。首相を失ったサモア政府は混乱し、クーデターが起きて再び内戦に突入。それに乗じてアメリカ、イギリス、 ドイツは相次いで軍艦の石炭補給港を租借し、米英はラウペパを、ドイツはサ・トゥプア家のタマセセを国王に据えて対立した。1889年には決着をつけるべ く、3ヵ国は合計7隻の軍艦をサモアへ向かわせたが、そのうち6隻が座礁。そこでベルリンで米英独の会議が開かれて、サモアを3カ国の共同保護領にすることや、ラウペパを再び国王にして中立の政府を作らせること、第三者のス ウェーデン国王が任命する最高裁長官がサモア政府を監督することなどが決められた。ラウペパの即位に反対して、タマセセの息子や、マリエトア家の反ラウペ パ派が相次いで反乱を起こすが、ドイツ軍とイギリス軍が鎮圧し、1892年には天然痘の流行でサモアの人口の4分の1が死亡したことで、反乱はいったん収 束した。

ところが1898年にラウペパが死ぬと、またも王位継承をめぐって内戦となったため、米英独はサモアの王位を廃止してしまい、翌年6月 には3ヵ国の領事で暫定政府を組織して共同統治がスタート。11月には再びベルリンで会議が 開かれて、サモアは西部をドイツ、東部をアメリカで分割することが決まり、イギリスはドイツ が ソ ロモン諸島北部 を売却しトンガを英領とするのを認めることと引き換えに、サモアの領有権を放棄した(※)。

※とはいえイギリスは、現在はアメリカ領サモアになっている スウェ インズ島 にちょっかいを出し続けていたようだ。
こうしてサモアの東西分割は1900年3月に実施された。ドイツ領の西サモアでは国王に代わって大酋長を据えて間接統治を行い、中国人労働者を導入してプ ランテーション開発を成功させていたが、第一次世界大戦でイギリス軍が占領。その後はニュージーランドの委任統治や信託統治を経て、1962年に南太平洋 最初の独立国になり、改めて王位が復活している。

一方でアメリカ領となった東サモアでは、軍事基地の維持にしか関心がないアメリカは産業振興には力を入れず、戦後はアメリカの自治領と なって議会が開設されたものの、アメリカの市民権や本国への参政権はなく、植民地の状態が続いています。


三国保護領時代のサモアの旗

外 務省ーサモア独立国  
国際機関太平洋諸島 センターーサモア概要  
サモア旅行 徹底旅行ガイド   
白人とネイティヴのカテゴリーをめぐって ドイツ統治下のサモア  『白人とは何か?』という本の要約レジュメ です
ミードの幻想(サモア編)  「おもしろい白人の娘がカタコトで卑猥なことばかり聞くので作り話をでっち上げて やった」という話




【過去形】スーダン(イギリスとエジプトの旧共同統治領)

1899年から1956年に独立を達成するまで、スーダンは英国とエジプトの共同統治領だった。あれ、エジプトだって英国の植民地だっ たはず。本国と植民地が一緒になって植民地を「共同統治」するって一体どういうことなのだろう?

実はこれ、イギリスが考えた狡猾な作戦。スーダン支配をめぐって対立していたフランスには「スーダンを占領したのはエジプトがやったこ と」と説き伏せ、スーダン支配の上級官僚はイギリス人が独占しながら中下級の軍人や役人はエジプト人に任せて統治コストの削減を図り(エジプト人官吏や軍 人の費用は当然エジプト側が負担)、かつスーダン人には「古代文明以来のナイル川谷統一」と いう歴史的大義をアピールして植民地支配への反抗を抑えようという、植民地経営に関しては腹黒紳士と言われ たイギリス人ならではのアイデアだったわけ。

エ ジプトは16世紀からオスマン・トルコによって支配されていたが、ナポレオンのエジプト遠征に抵抗した傭兵隊長のムハンマド・アリが1805年にオスマ ン・トルコからエジプト副王に任命され、事実上の独立国を築いた。ムハンマドはトルコと戦って一時期シリアを領有するが、一方で1821年にはスーダンへ 遠征軍を派遣して北部を占領する。ムハンマド・アリの孫イスマイルは西欧で教育を受けエジプトの近代化に取り組んだが、その目玉となったのがフランスとの 協力で進めたスエズ運河の建設だった。スエズ運河が完成すれば最も恩恵を受けるのはインド、 東南アジア、アラビア半島、アフリカ東岸に広大な植民地を持っていた英国のはずだが、この時は運河建設には批判的で、虎視眈々とチャンスをうかがっていた のである。

1859年から始まった運河建設は10年の歳月をかけ、工事に駆り出されたエジプト人農民12万人の犠牲を出してようやく完成するが、 エジプト政府はこの大事業ですっかり疲弊し、75年に所有していたスエズ運河の株44%を英国に売却する。それでも財政破綻は免れず、76年には英仏両国 の債務監理委員会に国家財政を管理されてしまう。本来ならここで運河建設を一緒に進めたフランスが実権を握るところだが、フランスは71年に普仏戦争で敗 れ、プロイセンに多額の賠償金を支払うことになりエジプトどころではない。こうして英国はスエズ運河ばかりかエジプトの内政さえも手中に収めることになっ た。

英国はエジプト政府に債務返済を最優先させるためイギリス人を蔵相に登用させて重税をかける一方で、76年に判事の半数をヨーロッパ人 が占める混合裁判所を作らせた。そして77年に奴隷交易禁圧条約を結ぶと、奴隷交易の取締りを口実にエジプト政府のスーダン総督に英国軍人ゴートンを就任 させ、スーダン各州の長官にもヨーロッパ人を任命させた。イスマイルは重税への国民の不満を背景にヨーロッパ人閣僚を追放しようとしたが、英国はオスマ ン・トルコに圧力をかけて79年に逆にイスマイルをエジプト副王の座から追放する。そして英国の内政干渉に反発したエジプトの陸軍大臣アラビー・パシャが 反乱を起こすと、英国は82年にエジプトを軍事占領して保護国とし、植民地化してしまった。

一方、スーダンでも重税に対する不満が高まり81年からマフディ(正しい道の指導者)を名乗るイスラム教指導者らが反乱を起こして国家 を作り、ゴートンを戦死させるなど激しい抵抗を続けていた。英国は「エジプト副王」の名で精鋭部隊を送り込み、98年にようやくマフディ国家を壊滅させ た。そして内陸からスーダン南部に進出していたフランス軍を撤退させて、スーダンへの支配を固めた。こうしてスーダンは1899年に英国・エジプトの共同 統治領として、実質的にはイギリス植民地に組み込まれたのだ。

さて、第1次世界大戦が勃発すると、エジプトでは英国の支配に対する反発が高まり、1919年の反英革命を経て22年に独立を達成す る。スーダンでもこの影響を受けてスーダン民族主義とナイル川谷の統一(つまりエジプトとの統一)を掲げた白旗同盟が反英革命を行うが鎮圧された。スーダ ン民族主義とエジプトとの統一は矛盾するようだが、エジプトとスーダンの関係は紀元前27世紀にまで遡る。ナイル川上流のヌビア地方に住んでいたクシュ族 は、古代エジプト王国によって支配され長い間植民地となっていが、紀元前751年には逆にエジプトを征服して第25王朝を建てたこともある。つまりスーダ ンも古代エジプト文明の一翼を担っていたということになる。

白旗同盟の事件の後、それまで「エジプトがスーダンを支配している」ことで植民地支配を正当化していた英国は方針を変え、エジプトとスーダンの切り離しを図った。スーダン人の官吏や将校を積極的に育成して、エジプト人官吏や 軍人を放逐し、「原住民保護」を理由にエジプト人のスーダン南部への立ち入りを禁止してしまう。スーダン北部はアラブ系のイスラム教徒が大半だが、スーダ ン南部にはキリスト教徒の黒人が住む。英国はさらにスーダン南北の分割統治も進め、1930 年には南部各州に北部出身官吏の削減や公用語をアラビア語から英語に切り替えるよう通達を出した。こうしてエジプトとの「共同統治」は名ばかりとなって いった。

第2次世界大戦の後、アラブ諸国が次々と独立しアラブ民族主義が盛り上がる中で、エジプトは51年に英国との条約破棄を宣言する。これ によって英軍はエジプトから撤退し、スーダンの共同統治も終了することが決まった。その後のスーダンについては、エジプトは「ナイル川谷の統一」を求め、 53年に行われたスーダン自治政府の総選挙でも統一派が勝利した。ところがイギリス軍とエジプト軍がスーダンから撤退した途端、統一派内閣は「スーダンの 分離独立」を宣言して、56年にスーダン共和国は単独で独立してしまう。

スーダンが土壇場でエジプトとの統一を中止した大きな理由は、エジプトで52年に自由将校団が無血クーデターが起きて、政局が混迷した ため。クーデターで実権を握ったナセルはアラブ民族主義を掲げて西側諸国と対立し、土地改革や産業国有化など社会主義政策を行った。スーダン支配層がエジ プトとの統一を支持していたのは経済一体化による商業的利益を期待してだから、ナセルのやり方には反発が広がった。またスーダンの主要産業だった綿花はそ れまでイギリスのスーダン政庁に独占的に買い上げられていたが、イギリス支配が弱まったことでアメリカへ輸出を始めて、大きな利益を上げていた。ナセルの 反米路線によってスーダンのエジプトへの統一熱は冷めてしまったのだ。

さて、独立後のスーダンはといえば、72〜83年のわずかな期間を除いて、ず〜っと北部と南部で内戦が続いているありさま。その遠因は といえば共同統治時代に英国が行った分割統治にあるわけで、腹黒紳士のとんだ置き土産ですね。

※その後、内戦 が続いていたスーダンは2005年に南北包括和平合意が成立。2011年1月に南で住民投票が行われた結果、98・83%が分離独立に賛成して、7月9日 に南スーダン共和国が成立しています。


共同統治領時代のスーダン総督旗

外務省−スーダン共和国
外務省ー南スーダン共和国   
ウィキペディア—スーダン  
孫 子が斬る!虐殺と逃げ惑う難民のスーダン内戦 !  孫子の兵法を引用して、スーダン内戦を解説してます
国境な き医師団:スーダン内戦  スーダン内戦の最新ニュースが逐次追加されています




【過去形】沿海州 (清とロシアの共同統治領) 

●まだ準備中です




【過去形】樺太 (日本とロシア両国の旧所領) 

最近、日本の新聞は「サハリン」と書いているけど、なぜ樺太という表記を使わなくなったんでしょうね?たとえロシア領になったからと いっても、日本語の地名は「樺太」なんだし、日本の領土とまったく関係ない場所でも、「英国」「米国」という日本語の表記を使うのに、何かヘンですね。さ てその樺太ですが、幕末から明治初めにかけては日本とロシアが国境を定めない「両国民雑居の地」となっていました。

松前藩は17世紀後半から樺太の沿岸に番屋を作って漁場の開発や現地に住むアイヌ人との交易を行い、1809年にはご存知・間宮林蔵の探検で「樺太は島である」ことが発見されたが、この頃からロシアもたびたび樺太に上陸し、 1853年には樺太北岸にロシア国旗を立てて領有を宣言した。そこで、江戸幕府とロシアとの間で樺太・千島の国境交渉が始まったが、日本側が「アイヌ人は 日本の支配を受けているから、アイヌ人が住む樺太は日本領」と主張したのに対し、ロシア側は「樺太の定住者は先住民ばかりで日本人は交易に来ているだけ。 ロシアは軍隊を駐屯させたからロシア領」と主張したため交渉はまとまらず、1855年(安政2年)の日露通 交条約では、千島列島は択捉島の北側を国境線としたが、樺太には両国の国境を設けず、これま でのしきたり通りとすることとなった。

幕府はこの後、樺太を直轄領として越冬警備兵を派遣したが、ロシア側も炭坑開発を進めながら樺太南部にも軍を駐屯させたのでトラブルが 増え、再度の国境交渉を行った。この交渉で日本側は「北緯50度線に国境を引く」ことを主張したが、ロシア側は「樺太はすべてロシア領とし、漁業権はこれ まで通り日本に与える」と主張したため決裂し、1867年(慶応3年)に調印された樺太島仮規則で は樺太を両国の所領と確認し、両国民雑居の地となったのだ。

「両国の所領」だとすると具体的な行政はどうなるのか?樺太島仮規則を現代文に訳してみると・・・(あくまで自己流です)。
第1条 樺太において両国人民は友好的に誠意をもって交わること。万が一争議や不和があれば裁決は当地の双方の役人が共にあたること。役人が決められない 場合は双方の近隣の奉行が裁断すること。
第2条 両国の所領なので、ロシア人日本人ともに全島を自由に往来すること。建物や園庭のない所や産業の為に用いてない場所には、移住や建築は自由とす る。
第3条 島内の先住民や彼らが所有する物は、どちらに所属するかは本人の自由とすること。先住民自身の承諾があれば、ロシア人も日本人も彼らを雇用するこ とができる。これまでに日本人やロシア人に金銭や物品を借りている先住民は、本人の同意の上でこれまでに定めた期限通りに労働で返済することができる。
第4条 以上、ロシア政府が述べた意向に日本政府が同意し告知する時には、その談判議定は以下のようにそれぞれ(樺太)近隣の奉行へ命ずること。
第5条 以上に掲げた規則は樺太島上の双方の長官が承知した時より施行すること。ただし調印後6ヵ月以上遅らせてはならない。規則で挙げられていない瑣末 な事は双方の長官がこれまで通り扱うこと。

日本は間もなく明治維新となり、明治政府は開拓使を設置して漁民を中心とした移住者を送り込んだが、ロシア側は軍隊を増派して拠点を増 やし、流刑囚を送り込んで農業を始めた。そして日本人が漁業拠点としている集落のすぐ近くに兵舎を建て、干物作りの作業場に「臭くてたまらん」と再三ク レームをつけて壊したり、日本人がサケを取るために川に網をしかけると、上流のロシア農民が「今年は不作でサケを食べなきゃならないが、川を遡るサケを根 こそぎ獲られたら困る」と網を外す・・・などの事件が相次いだ。その他、当時樺太で起きた主な事件を挙げてみると・・・。

●慶応3年、内淵川で日本人がサケ漁をしていたところ、ロシア人が一緒に漁をしたいといい、日本側は断ったものの再三要求するので認め たが、収穫の配分で混乱になった。その後、双方の役人が「日本人は下流、ロシア人は上流」「日本人は昼、ロシア人は夜」などの折衝を毎年繰り返すことに なった。
●明治元年、オチョボカでロシアの鉱山技師が炭田を見つけて「ロシアの所領」と看板を立てたことろ、日本人が「先に見つけたのは俺たち」と看板を外してし まった。ロシア側が「先に見つけたというなら、その時に看板を立てなかった日本側が悪い」と抗議すると、とりあえず双方で採掘は見合わせようとなったが、 ロシア側は採掘を強行してしまった。
●明治2年、小実にいた東善八郎という役人が、書類を携えてロシア側の役所へ行き、ついでにご馳走になったが、従者の栄作がアイヌ人とケンカをはじめ、ロ シア兵へ−ステレコフを殴り制服の記章を剥ぎ取ってしまった。翌日、ロシア人が7〜8人の兵を伴って小実の役所に押しかけ、加害者引き渡しを要求したた め、東は「罪人は各自の法律で処罰することになっているのに、兵隊が直接逮捕に乗り込んでくるのはおかしい」と抗議。今後は書類で交渉することになった。
●明治2年、日本人が漁業基地にしていた函泊にロシア人が大勢やってきて、アイヌ人の墓を壊して家を建て、網干し場に道路を作り始めた。日本側が抗議する と墓はもとに戻したが、網干し場の道路工事は中止しなかった。
●明治4年、市蔵という男がロシア人3人が乗った船に乗せてくれと頼んだところ、ロシア人は市蔵を殺して金を奪い、死体を近くの草原に捨てた。翌年、犯人 が自首しロシア側に逮捕されたが、処罰に対し日本側が問い合わせても音沙汰がなく、3年後になってようやく「終身刑にした」と回答があった。
●明治5年、釜泊で日本人出稼ぎ漁民3人が殺され、金品を奪われる事件が発生。犯人はロシア人4人で山中に潜伏していたところをロシア側に逮捕され、日本 側役人立会いのもとで容疑が確定したが、その後の処罰については日本側が問い合わせても「審理中」としか回答がなかった。
●明治6年、函泊で日本人の漁業倉庫が火災となり、日本人が消火に駆けつけたが、ロシア兵は消火ポンプを奪って火に投げ込み、他の番屋にも放火した。日本 側が抗議したところ、ロシア側は「ポンプは武器と見間違えた」と釈明し、放火については否定した。
 
トラブルの背景には日本側が漁業権を重視していたのに対して、ロシア側は「建物のない場所には自由に建築してよい」という条文をたてにとり、網干し場が 「産業の為に用いている場所」に当たるかは見解が食い違っていた。また裁判権や採掘権をどうするかは「樺太島仮規約」では具体的に触れられていなかった。

それなら、トラブル防止のために細則を交渉すべきだが、明治政府は当初「樺太島仮規則は旧幕府が結んだ条約だから認められない」と いう立場をとった。後にそれが国際法上難しいとわかると、北緯50度線を国境にするよう求めたが、ロシア政府は樺太分割を頑なに認めなかっ た。実は樺太島仮規約には前文があって、樺太はすべてロシア領とし日本の漁業権は認めるというロシア側の主張が記載された後に、「以上を承諾しがたい節 は、樺太島は従来通り両国の所領としておく」という内容だった。つまり樺太はすべてロシアのものというのが 前提で、日本がそれを納得するまでの間の「仮規則」だったというわけ。幕府が ロシアの軍事的な圧力に屈して結んだ内容だったのだ。

「日露両国民雑居の地」と言っても、その実態はロシアの軍人・囚人と日本の役人・漁民が雑居しているのに等しい状態だった。明治政府の中では「日本も 樺太に軍を駐屯させるべき」という意見もあったが、当時の日本にその余裕はなかった。函泊の火災の後、1873年(明治6年)11月に日本の樺太開拓使は 「隣の番屋へ行く際には夜はもちろん昼でも必ず同行者を伴うこと。急用で同行者が見つからなければアイヌ人にでも同行を頼むこと」という通達を居留民に出 したが、単独外出を禁止しなければならないほど、樺太の日本人は脅かされていた。翌年3月、日本政府が北海道への引き揚げ希望者には旅費と支度金を支給す ると呼びかけたところ、居留民の9割近くにあたる485人が樺太を離れた。1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約が結ばれ、日本は樺太を放棄した が、それより前にすでに樺太からほとんどの日本人はいなくなっていた。

日本の樺太放棄でとばっちりを受けたのは樺太のアイヌ人たち。条約では先住民は3年以内に日露どちらかの国籍を選び、日本国籍を選んだ ものは日本へ移るとされていたが、日本政府はアイヌ人をすべて北海道へ移す方針で、結局2400人のアイヌ人のうち841人が強制移住させられた。しかし 最初は「宗谷地方に移し漁業をさせる」と説明していたにもかかわらず、政府は「樺太から遠い場所に離して望郷の念を断たせるべき」「勝手に船に乗って樺太 へ戻られたら困る」と、石狩平野で農業をさせることに方針を変えたため、慣れぬ土地で慣れぬ仕事をすることになったアイヌ人は病気で倒れる人が相次いだ。 日露戦争で日本が再び南樺太を領有すると、彼らは故郷へ戻っていったが、それまでに330人が死亡していたという。
 

全国樺太連盟  戦後、南樺太からの引き揚げ者の援護組織。日本領時代の南樺太の地図があります
Beyond the La Perouse Cannnel  帝政ロシア領以降の樺太の歴史や日本時代の建物の写真、現地での生活エッセイなど
読売新聞—ふるさと探見  北海道へ強制移住させられた樺太アイヌの悲劇について
最後の話し手—消滅する樺太アイヌ方言  日本で最後の樺太アイヌ語話者だった浅井タケさんについて

参考資料:
伊東 祐穀 『世界年鑑』 (博文社 1904)
『世界地理風俗大系第13巻』 (新光社 1929)
『最新世界現勢地図帖』 (新光社 1933)
『英仏共同統治ニユーヘブリヂス諸島事情』 (南洋庁長官々房調査課 1939)
アンドレ・シーグフリード 著 ; 大住龍太郎 訳 『スエズとパナマ』 (大阪朝日新聞社 1941)
『南洋資料第6号 ナウル島事情』 (南洋経済研究所 1941)
冨士原清一:著 太平洋協会:編 『ニューヘブリディーズ諸島』 (日本評論社 1944)
『ニューカレドニア・その周辺』 (太平洋協会 1944)
『世界文化地理大系第20巻』 (平凡社 1955)
『世界地理風俗大系. 第16巻』 (誠文堂新光社 1964)
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
樺太庁 編 『樺太庁施政三十年史. 上』 (原書房 1973)
樺太庁 編 『樺太庁施政三十年史. 下』 (原書房 1974)
『樺太沿革・行政史』 (全国樺太連盟 1978)
北大路弘信,北大路百合子 『オセアニア現代史』 (山川出版社 1982)
栗田禎子 『近代スーダンにおける体制変動と民族形成』 (大月書店 2001)
日本 アンドラ公国 友好ホームページ  http://www.fr.emb-japan.go.jp/jp/andorra/
quadernet http://quadernet.antville.org/
社会人類学の可能性 I 歴史のなかの社会 http://ccs.cla.kobe- u.ac.jp/Ibunka/kyokan/yoshioka/yoshioka-sub4-nagriamel.html
Kiribati: Phoenix Group http://www.janeresture.com/kiribati_phoenix_group/index.htm
ナショナル ジオグラフィック 日本版 http: //nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0402/index3.shtml
外務省 各国・地域情勢 http: //www.mofa.go.jp/mofaj/area/index.html

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