個人統治領
 
 ジョニングス家  クルーニーズ・ロス家      

「どこの国にも支配されていない無人島へ渡って、自分だけの王国を作りたい!」だなんて夢想している人がいるかも知れませんが、かつてホントにそうやって王国を作ってみた人たちがいました。しかし、実際に「どこの国にも支配されない」というのは大変なことで、最終的にはその後自ら願い出てどこかの国の領土になるわけですが、一体どういうことでしょう。

現在では「どこの国にも支配されていない無人島」は存在しないのですが、それを作ろうと頑張っている人たちもいます。例えばこちらとかこちら




【過去形】ジョニングス家(スウェインズ島)

太平洋の地図 American SamoaとTokelau(NZ)の間にある黄緑色の点がスウェインズ島
スウェインズ島の地図 

アメリカ領サモアとSwains Island
太平洋の果てのどこかに、どこの国の支配も受けない個人領有の島が1つくらいあってもいいんじゃないか・・・と思いますが、実際にそれに近い島がかつて存在していました。スウェインズ島(Swains Island)で、1925年に正式にアメリカ領になるまでアメリカ人のジョニングス家が三代にわたって島を統治し、ジョニングス島(Jennings Island)とも呼ばれていた。

スウェインズ島は真ん中に湖(ラグーン)のある面積2・1平方kmほどの珊瑚礁の島で、アメリカ領サモアに属しているが、中心部のツツイラ島からは北に360kmほど離れ、孤島のような存在だ。地理的にはむしろニュージーランド領のトケラウ諸島の方が近い。

スウェインズ島はかつてトケラウの住民の間ではオロセンガ島と呼ばれ、1606年にヨーロッパ人として初めてここを訪れたポルトガル人のキロスは、ここをジェンテ・ヘルモサ島、つまり素敵な人々の島と命名した。しかし「素敵な人々」は、やがてトケラウのファカオフォ島の住民に攻め滅ぼされ、その時にオロセンガ島の酋長が島に呪いをかけたので、やがてファカオフォ島からやって来た移住者も餓死してしまい、無人島になっていた。

さて、1840年にアメリカの捕鯨船が島を再発見して、ここをスウェインズ島と命名。やがて3人のフランス人がコプラのプランテーションを作るために上陸したが、スウェインズ島に本格的に定住したのは、1856年にやって来たイーライ・ハチソン・ジョニングスというアメリカ人だった。イーライはニューヨーク生まれで、サモア人女性と結婚しサモアで暮らしていたが、当時内乱が続いていたサモア人のために軍艦(と言っても手漕ぎのカヌー)を製作したのに、ロクな報酬が得られなかったことに不満を持ち、「恩知らずなサモア」に愛想を尽かしていた。その時「新しい島を発見した」と自称するイギリス人の船長と意気投合し、譲り渡してもらったというのがスウェインズ島だった。

スウェインズ島に定住したイーライは、クック諸島やトケラウのポリネシア人を雇ってコプラのプランテーションを成功させた。コプラとは椰子の果肉を乾燥させたもので、椰子油やそれを加工した石鹸、マーガリンなどの原料になる。無人島だった頃のスウェインズ島は椰子の樹がびっちり生い茂っていたというから、植樹するまでもなく、椰子の実が獲り放題だったらしい。

イーライは1878年に64歳で死亡するが、その後を夫人が継ぎ、夫人の死後はサンフランシスコで教育を受けた息子のジョニングスJrが引き継いで、農園はますます発展し、「ジョニングス島」とも呼ばれるようになった。当時スウェインズ島を訪れた人の記録によると、島にはコプラ作りの作業小屋のほか、教会や学校があり、椰子の実を運ぶための鉄道(と言っても手押しのトロッコ)が敷かれていたらしい。そしてこの人は、一見アメリカの国旗のようで、実は星の部分に白い鳩が描かれている奇妙な旗(星条旗ならぬ鳩条旗?)が翻っているのを目撃。鳩は何を意味するのか聞いたところ、島民たちは「病気の魔除け」だと答えたと言う。

この間、ジョニングス家と島民たちは、「鳩条旗」の下でどこの国の政府の統治も受けずに暮らしていたが、島の領有権が問題になったのは1907年のこと。スウェインズ島に関心を抱いたのは、1886年にトケラウを保護領にしたイギリスで、「ジョニングスJrが儲けている」という噂を聞きつけたイギリス領西太平洋諸島政庁の役人が島にやって来て、税金として85ドルの支払いを要求した。ジョニングスJrはとりあえず支払ったものの、西サモア(当時はドイツ領)のアピアに駐在するアメリカ領事に相談したところ、アメリカ国務省へ話が伝わり、イギリスの政庁はイーライJrへ85ドルを返却した。つまり、イギリスはスウェインズ島に統治(まずは徴税)を及ぼそうとしたが断念し、かといってアメリカも正式に領有権を主張したわけではないので、スウェインズ島はどこの国の領土か曖昧なままだった。

しかしその後もイギリスはスウェインズ島を諦めなかったようで、ニュージーランド人とオーストラリア人が設立したサモア海運貿易会社を通じてジョニングス家に圧力を掛けた。スウェインズ島で生産するコプラは、同社の船を使ってサモア経由で出荷していたが、船の運航を故意に「調整」することで、ジョニングスJrは多額の借金を背負うようになってしまった。その頃、サモア海運貿易会社は運送から農園経営へ関心を広げていて、これまたアメリカ領かイギリス領かが曖昧だったナサウ島を買収している。ジョニングスJrは再びアピアのアメリカ領事にイギリスの圧力から守ってくれるように相談し、アメリカ海軍もスウェインズ島をアメリカ領にするための根回しを始めたが、借金で進退窮まったジョニングスJrが1914年に突然「やっぱりウチの島はイギリス領だから」と言い出したために中断。かといってイギリスも第一次世界大戦が勃発すると、南太平洋の小さな島のことなど構っていられなくなったのか放置し、スウェインズ島は引き続きどこの国の領土か曖昧なままだった。

戦争が終わると、ドイツ領だった西サモアをニュージーランド(当時はイギリス自治領)の委任統治領という形で手に収めたイギリスが、再びスウェインズ島に触手を伸ばしてきた。その頃、スウェインズ島の所有権を狙ってイーライJrの妹・メレの一族たちが、サモア海運貿易会社と手を組んで、ジョニングスJrがスウェインズ島でいかに悪辣な支配をしているかを告発。ワシントンのイギリス大使を通じてアメリカ政府へジョニングスJrを島から立ち退かせるように抗議した。

告発状によれば、ジョニングスJrは「ケチで、労働者にまともな報酬を与えず、食べ物まで独占し、ムチで打ったり木に縛りつけたりして罰している」と、まるで暴君のような統治を行っていたそうだが、アメリカの調査団が現地に赴いたところ、島で働くトケラウ人たちは米や魚をたくさん食べており、獲った魚の10分の1はジョニングスJrが税として取り立てていたが、ポリネシア社会における「酋長の取り分」としては妥当な範囲であること、ジョニングスJrは労働者たちに賃金やボーナスを支払っており、妊婦は休ませていること、3組の若い男女を木に縛りつけたことがあるが、それは若者たちが両親の反対を押し切ってカヌーで他の島へ駆け落ちしようとしたからであること、ムチ打ちの刑を行ったのはジョニングスJrの娘婿で支配人でもあるイギリス人カラザーズ氏で、牧師の娘をレイプしようとした甥に対する処罰だったこと・・・などの真相が明らかになって、ジョニングスJrの追放は失敗に終わった。

名誉を回復したばかりのジョニングスJrが1920年に57歳で死ぬと、またまた問題が起きた。ジョニングスJrには息子のアレキサンダーと、支配人のカラザースと結婚した娘のアン・イライザがいたが、イライザは21年に死亡した。こうして島の所有権に関する相続をめぐってトラブルとなったが、スウェインズ島には裁判所なんて存在しない。そこでアメリカ人の子孫であるアレキサンダーはアメリカ領サモアの法廷に訴え、イギリス人であるカラザースはニュージーランド委任統治領サモアの法廷に訴えたが、島がどこの国の領土でもないということは、相続について法律に基づいたお墨付きが得られないということ。そこでアレキサンダーは、アメリカがスウェインズ島を統治するように国務院と大統領に要請。かくしてスウェインズ島は1925年にアメリカが領有宣言をして、アメリカ領サモアの一部になった。

スウェインズ島がアメリカ領として確定したことで、アレキサンダーは島の所有者として公認され(カラザースには別の島の資産を譲ることで和解)、またアメリカ政府が派遣する巡航船が定期的にバゴバゴ(アメリカ領サモアの首都)からスウェインズ島へ運航されるようになって、コプラの出荷も安定するようになった。「いかなる政府の支配も受けない」というとお気楽そうなイメージだが、現実の生活はやはり国家の傘の下に入ったほうがよっぽど安心ということですね。

もっともスウェインズ島がアメリカ領になったといっても、島ではジョニングス家の3代目当主アレキサンダーがすべてを取り仕切っていたのは同じで、戦後新たな問題が起きた。島の住民は約100人で、ジョニングス家の他は昔から雇われていたトケラウ出身の労働者たちだったが、島がアメリカ領でもイギリス領でもなかった頃はどこの出身の労働者を雇おうが問題なかったが、島がアメリカ領になったということは、ニュージーランド領のトケラウ人は不法滞在者ということになる。そこでトケラウ人たちが正式な権利を求めようとしたところ、アレキサンダーは56人を解雇して島から追放してしまった。

この事件をきっかけに、1954年にアメリカ政府が介入し、島で雇う労働者はサモア人に限定することや、雇用契約はアメリカ領サモア知事の承認を得ること、ジョニングス家は労働者の権利を尊重し、スウェインズ島にも地方自治体を作るように命じた。それ以降アメリカ領サモアの議会へ議員を1人派遣するようになったが、現在でもスウェインズ島だけは選挙を行わないなど、特別扱いされている。また島の土地所有は、1949年にスウェインズ島民と登録した男子かアメリカ領サモア領内で生まれたその直系子孫に限定(労働者たちは1953年の事件でトケラウ人からサモア人へ入れ替わっているので、つまりはジョニングス家に限定)されることや、島への立ち入りはジョニングス家の許可が必要など、一族の特権は今も残っている。

現在の島の人口は30人ほど。住民は1つの村に固まって住んでいるが、ジョニングス家だけはそこから1・2kmほど離れた場所にあって、そこは創世記にちなんで「エデン」と呼ばれているそうな。

JDN No.9?2005 スウェインズ島までアマチュア無線をやりに行ったという写真があります
JA!BK スウェインズ島までアマチュア無線をやりに行ったという動画があります(WMV 26M をクリック)




【過去形】クルーニーズ・ロス家(豪領ココス諸島) 

ココス諸島の地図 
1889年のココス諸島の地図 

「無人島に美女をたくさん集めて、ハーレムを作って暮らしてみたい」・・・そんな漫画みたいなことをホントに実行した人がいました。舞台はインド洋に浮かぶココス諸島。ジャワ島から南西に1000km近く離れた天涯海角(←これって日本語だっけ?)のような場所にあるサンゴ礁の島で、ココスというくらいだから椰子の木がたくさん生えている。1857年にイギリス領となり、1955年からはオーストラリア領になっているが、1970年代末までの150年間、クルーニーズ・ロス家が五代にわたって島の全権を握り、農奴制度のような独立王国を築いていた。もっとも、ハーレムを作ったのはクルーニーズ・ロス家じゃありません。

ココス諸島が最初に発見されたのは1609年で、東インド会社のウィリアム・キーリングが見つけたと言われている。そのためココス諸島は別名キーリング諸島とも呼ばれ、「ココス諸島」という名の場所は複数あるので、現在ではCocos (Keeling) Islandsというのが正式名称だ。

初代の「ココス王」となるジョン・クルーニーズ・ロスは、1786年にスコットランドで漁師の子として生まれ、捕鯨船の乗組員として世界各地をまわっていたが、1814年に東インド諸島(現在のインドネシア)で香料貿易をしていたアレキサンダー・ヘアと知り合い、ヘア商会の船の船長になる。その頃、ナポレオンのヨーロッパ征服でオランダの国力が弱まったのに乗じて、イギリスはそれまでオランダが支配していたジャワ島を占領(1811〜19)ほか、周囲のオランダ植民地も次々と占拠していた。ヘアはボルネオ島南部(現在のインドネシア領カリマンタン)の知事に任命され、ロスもその下で先住民の統治を手伝っていたが、ヘアは奴隷商人もしていて、イギリスがオランダへ植民地を返還した後、東インド諸島での居住を禁止されてしまった。

ヘアはそれまでに十分な財産を築いていて、そのままイギリスへ帰れば資産家として十分暮らせるだけの金があったが、彼は敢えて「男の夢」を実現してみることにした。ヘアはロスに居住に適した無人島を捜すように命じ、1825年にクリスマス島を調査しようとしたロスは悪天候のため代わりにココス諸島に上陸してヘアに報告すると、ヘアは翌年、東インド諸島の各地から集めた40人の女性を連れてココス諸島へ渡り、ハーレムを築いて暮らし始めた。ヘアのハーレムにいた女性の出身地は、バリ島やビマ、セレベス(スラウェシ)、マドゥラ、スンバワ、ティモール、スマトラ、ボルネオ、マラッカ、ペナン、バタビア(ジャカルタ)、セレバンなどで、マレー系がほとんどだったが、中国人やインド人、パプア人、さらにアフリカ人まで揃えたらしい(さすが元奴隷商人?)。

1827年に家族と8人の部下を連れてココス諸島へ戻ったロスは、ヘアの暮らしぶりにビックリ仰天したが、やがて「1つの島に2人のリーダーは要らない」ということで、ヘアとロスは反目し合うようになり、劣勢に置かれたヘアはプリゾン島(刑務所島?)と名づけた小島に新しい家を建て、40人の女性を連れて引き篭もってしまう。ヘアがプリゾン島へ移ったのは、女性たちの脱走を防ぐためだったが、プリゾン島は引き潮になると他の島から歩いて渡れるので、ロスの部下たちがやって来てはハーレムの女性を奪っていった。また女性たちもロスの保護を求めて次々とプリゾン島から逃げ出してしまい、夢破れたヘアは1831年に1人島から立ち去り、ジャワ島で死んでしまった。

ジョン・クルーニーズ・ロス
こうしてココス諸島はすべてクルーニーズ・ロス家の土地になり、彼の王国となった。当時の人口は175人で、うちヨーロッパ人が20人だったが、ロスはマレー人たちを率いて椰子を植え、コプラの生産を成功させて島は繁栄した。後に進化論を提唱するダーウィンは1836年にココス諸島を訪れて、「マレー人は名目上は自由の身だが、しかし奴隷である」と記録している。翌年、マレー人たちは賃上げを求めてストライキを起こし、ロスは彼らにそれぞれ家と畑を与えて定住させるようにした。

この年1837年にはココス諸島に立ち寄った捕鯨船の乗組員が、島で狼藉をはたらくという事件が起こった。どこの国の領土でもないということは、どこの国の法律も適用されないので、狼藉を働こうが罰しようがないわけで、このままでは困るとロスはセイロン(現スリランカ)のイギリス政庁に保護領にしてもらうよう求めた。しかし話はうまく進まず、彼は代わってジャワ島のオランダ政庁に保護を求めた。オランダはココス諸島をタックス・フリーとして税金をかけないことにしたので、コプラの輸出はさすます盛んになった。

ジョン・クルーニーズ・ロスは1854年に死に、長男のジョン・ジョージ・クルーニーズ・ロス(ロス2世)が31歳で跡を継いだ。ロス2世はバリ島出身の女性と結婚し、ジャワ島から新たな労働者を増やしてコプラの生産拡大に努めたが、これらの労働者の一部はジャワ島などの酋長から買い取った囚人たちだった。またロス2世は研究熱心でヤシ油の搾油を機械化したりもしたが、1857年に突然イギリスの軍艦がやって来て「今日からここはイギリス領だ」と宣言した。実はイギリスはベンガル湾のアンダマン諸島にあるココス島を併合するよう命じたのだが、船長のフリーマントルは指令書をうっかり読み間違えてインド洋のココス諸島を併合してしまったのだった。イギリスによる併合は亡き父の願いだったのでロス2世に異存はなく、60年にはロンドンに赴いて「間違いだったと取り消さないで下さいよ」と正式な併合を陳情している。

ジョージ・クルーニーズ・ロス(ロス3世)は、父の死によって1871年に29歳で跡を継ぎ、ロス3世の時代にクルーニーズ・ロス家は最盛期を迎えた。ココス諸島は1878年からイギリスのセイロン総督の管轄下にあったが、1886年にシンガポールの海峡植民地総督の下に移され、クルーニーズ・ロス家はビクトリア女王によってココス諸島の永久所有権を認められた。またロス3世はクリスマス島の燐鉱石に目をつけて、1889年にイギリス政府からクリスマス島を借り受け、97年にクリスマス島燐鉱会社を設立。燐鉱石の採掘収入でもクルーニーズ・ロス家は大きな収入を得るようになった。1888年には「オセアニア・ハウス」と命名した大邸宅を建てている。1901年にはイギリスとオーストラリアとを結ぶ海底ケーブルの通信基地ができ、ココス諸島は隔絶した孤島ではなくなった。しかしこの頃、もと囚人の労働者たちがロス3世を暗殺しようと試みたので、ロス3世は囚人の買い取りをやめ、ジャワ島から自由契約の労働者を導入するように切り替えた。

ココス諸島の鉄道。おそらく軍用
ロス3世は地元のマレー系女性と結婚して1910年に死んだので、その息子のジョン・シドニー・クルーニーズ・ロス(ロス4世)にはマレー系の血が4分の3を占め、外見はほとんどマレー人と変わらなくなっていた。ロス4世もマレー系女性との間に3人の子供を作っていたが、1925年に56歳のとき訪れたロンドンで、レストランのレジ係の女性と結婚。太平洋戦争が始まると、ココス諸島の通信基地は日本軍によって爆撃され、ロス4世は家族を連れてロンドンへ疎開し、そのまま1944年に死亡した。戦時中、主がいなくなったココス諸島には6000人以上のオーストラリア軍が駐屯していたが、46年に18歳で島へ戻ったジョン・セシル・クルーニーズ・ロス(ロス5世)は「王国の再建」に乗り出し、1200人いたマレー系労働者のうち800人を解雇して経営効率化を図った(※)。

※解雇された島民はオーストラリアやイギリス領北ボルネオ(現在のマレーシア・サバ州)へ移住した。現在でもサバ州東海岸のラードダツー周辺にカンポン・ココスという村があり、「ココス・マレー語」という英語が混じったマレー語を話し、スコットランド風の衣装を着た踊りが観光の目玉になっている。
1955年にココス諸島はイギリス植民地のシンガポール政庁からオーストラリア政府へ管轄が移されたが、57年に島を視察したオーストラリアの大臣は「ジョン・セシル・クルーニーズ・ロスはオーストラリア政府を代表しない」との報告を書き、「封建的な農奴制」と見なしたココス諸島を改革する必要性を訴えた。ロス5世は労働者たちに賃金を払っていたが、それはプラスチック製の独自通貨で、ロス5世が経営する島の売店でしか使えなかった。マレー人たちは島を出ようにも、外へ行く船はロス5世が経営していたので、ロス家の許可なくしては島から出ることは不可能で、クルーニーズ・ロス家のために一生働かなくてはならなかったのだ。

オーストラリア政府の意図を察知したロス5世は、オセアニア・ハウスの一角に学校を作って自ら教壇に立つなど島民に対する福祉を向上させる一方で、1967年にはココス諸島の独立を要求するが、オーストラリア政府は「専制支配のまま独立させたら国際的な非難を浴びてしまう」と独立を認めず、国連に視察団を派遣するよう求めた。73年に島を訪れた国連視察団は「1人の人間が、共同体全体の人生を決めている」と報告し、オーストラリア政府にココス諸島の土地所有権をロス5世から買い取るようにに勧告した。こうして国際社会からロス5世の「専制支配」を強制終了させることにお墨付きを得たオーストラリア政府は、1978年にクルーニーズ・ロス家の自宅(オセアニア・ハウス)を除く土地を625万豪ドルで強制的に買収。翌年には島民たちによる自治政府に当たるココス(キーリング)諸島協議会を設立して、行政や土地の管理を協議会が行うことになった。

ココス諸島はロス5世の「王国」ではなくなったが、島と外部を結ぶ船はロス5世が経営していたので、ココス諸島の命綱は引き続きココス5世が握り続けていたも同然だった。自治政府とココス5世の関係はますます険悪になり、1980年に協議会はオーストラリア政府に対して「ロス5世を永久に島から追放するために、あらゆる手段を講じること」を要求。83年にはオセアニア・ハウスを強制的に買収してロス5世を島から追い出そうとしたが、ロス5世は裁判に訴えて勝訴した。しかし自治政府がロス5世の経営する船の利用をボイコットしたため、86年にロス5世は破産。オセアニア・ハウスを売り払って島を立ち去った。

かくして150年以上に及んだクルーニーズ・ロス家による島の支配は完全に終わりを告げた。ロス5世は自分がなぜ島から追い出されたのか納得がいかないまま、オーストラリアで「亡命生活」を続けているらしい。

ココス諸島は1984年の住民投票で、それまでのオーストラリアの属領から正式なオーストラリア領となり、島民たちにはオーストラリアの市民権が与えられた。現在の人口は約600人。かつてのコプラ生産一本の経済から多角化を進めていて、現在では国立公園に指定されて観光に力を入れている。かつて「王宮」だったオセアニア・ハウスも観光スポットの1つだ。

Cocos Islands(ココス諸島) かつてココス諸島で発行されていたオリジナル切手
Cocos (Keeling) Islands Tourism Association ココス諸島観光協会のサイト(英語)
Dynasties クルーニーズ・ロス家について(英語)
 
 

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