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べネチアに反旗を翻した港をトルコが隔絶して保護

ドゥブロヴニク

クロアチア領

1991年 ユーゴスラビアからクロアチアが独立。ダルマチア地方はボスニア(ユーゴ)によって南北に分断され、ドゥブロヴニク一帯はクロアチアの飛び地となる
1992年 ボスニアもユーゴスラビアから独立

旧ユーゴスラビア連邦の地図
ボスニアとクロアチア南部の地図
ネウム(Neum)周辺の地図
ドゥブロヴニク(Dubrovnik)の市内地図
プロチェ(左上の河口)とネウム(右下)の衛星写真  (google map)

1980年代まではユーゴスラビア連邦といえば、模範的な社会主義国ということになってましたね。日本でも左翼の人に「社会主義国ってどこもダメじゃん」と言うと、「ユーゴスラビアを見ろ!」と反論されたりしたもの。なにしろユーゴスラビアは千年以上にわたって紛争の絶えなかった地域で「民族共存」を実現し、各共和国への分権を進め、工場では労働者の自主管理を尊重し、ソ連に対しては自主路線を貫き、西側諸国にも開放的で、欧米や日本から簡単に観光旅行ができる社会主義国・・・ということで有名だった。それが社会主義体制が崩壊した途端、各共和国は独立してそれぞれが内戦に突入し、旧ユーゴは一転して世界でも悪名高い紛争地域になってしまった。

かつてチトーは「西側の民主主義体制はふたたび政治的混乱と地域的な対立を生み出して、戦前と同じくユーゴスラビアを滅亡の淵に導くであろう」と言ってたけど、いやはやホントにそうなりました。さすがネールやナセル、周恩来やスカルノらと国際政治に一時代を築いた人だけあります。

なかでも泥沼の内戦になったのがボスニア・ヘルツェゴビナ。正教徒のセルビア人と、カトリックのクロアチア人、イスラム教徒のムスリム人の、言語が同じスラブ系民族同士が三つ巴の殺し合いを繰り広げ、このぶんじゃ食糧や弾薬が尽きても腹ペコで石投げ合っても殺し合うんじゃないかという勢いだったが、1つの国家の中にセルビア人の「スルプスカ共和国」とクロアチア人+モスリム人の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」という2つの国が並立する形でどうにか内戦は終結しています。

さて、そのボスニアは海岸沿いをクロアチアに囲まれた内陸国だが、ネウム(Neum)付近で幅21kmだけ海岸線に接している。このためクロアチアは南北に分断されて、南端のドゥブロヴニク一帯はアドリア海にへばりついた細長い飛び地だ。ネウムがボスニア領なのは複雑な民族分布を反映したためか、はたまたボスニアの自立のために海への出口を与えたためか・・・と思いきや、いずれでもない。ネウムなどボスニア南西部に住んでいるのは主にクロアチア人だし、ボスニアからアドリア海への出口の役割を果たしているのはネウムから30km北側にあるクロアチア領のプロチェ(Ploce)で、ボスニアから流れる川の河口があり、鉄道や幹線道路もここが起点となっている。

ネウムは南側に突き出した半島や島にさえぎられ、アドリア海へ出るには100km近く迂回しなくてはならないし、ボスニア内陸部とは山でさえぎられ、峠越えの小さな道で繋がっているだけ。こんな奇妙な国境線が引かれたきっかけは、今から500年前に遡る。

アドリア海に面した一帯はダルマチア地方と呼ばれ、かつてはローマ帝国、その後は東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の領域だったが、7世紀に始まるスラブ系民族の侵入とビサンティン帝国の衰退に伴って、10世紀に誕生したクロアチア王国の支配下に置かれた。ただし、当時のダルマチアは「イタリアに縁取りされたスラブ人の地」と形容されたように、海岸沿いの港には古代ローマ人の後裔であるラテン人が住み、ベネチアの植民地が点在していた。クロアチア王国は11世紀末に王位継承で内紛が発生し、王家同士が縁戚関係にあったハンガリー王国に吸収されてしまう。内陸国のハンガリーはアドリア海沿岸の都市に食指を伸ばすが、貿易の利益をベネチア本国に吸い取られていた植民地の中にはハンガリーと手を組もうという港も現れる。

こうしてベネチアに反旗を翻したザーラ(現ザダル)は、十字軍に攻め込まれて再びベネチアに屈服するが、ザーラと並ぶ有力な港・ラグーザ(現ドゥブロヴニク)はもう少し時機を見るのが上手だった。ベネチアが宿敵ジェノバとの戦争にあけくれていた1358年に、ラグーザはベネチアからハンガリーへ乗り換えた。しかし90年には内陸から進出したセルビアがダルマチアの大半を併合したため、ハンガリーの宗主権を認め続けたラグーザは独立国のような存在となり、ベネチアのライバルとして積極的な貿易に乗り出してゆく。

やがて新たにこの地に乗り込んできたのがオスマン・トルコ。1453年にコンスタンティノーブルを陥落させた勢いに乗り、59年にはセルビア王国を滅ぼし、63年にはボスニア王国も征服する。キリスト教徒たちは恐慌状態になったが、ボスニアにいたボゴミール派の信者たちはむしろオスマン・トルコの軍勢を喜んで迎え入れた。ボゴミール派(またはカタリ派)は旧約聖書やキリストの受難、秘跡を否定して教会組織を拒否したために異端とみなされ、正教徒やカトリックから改宗を迫られ迫害を受けていた。その反動で「ローマ教皇に改宗させられるより、スルタンに従って改宗した方がまし」とイスラム教を受け入れ、「トルコ人よりトルコ的で、カリフよりイスラム的」と言われるほど熱心な信者になってしまう。

彼らが現在のムスリム人の先祖で、オスマン・トルコはキリスト教徒に寛容な政策を採っていたが、ボスニアで権力を握ったムスリム人は特にカトリックに対して激しい弾圧を加えた。このため多くのクロアチア人が沿岸部のベネチア領へ逃れ、ここをスラブ化させながらベネチアと協力してトルコに抵抗しようとした。1571年にキリスト教国がオスマン・トルコを破ったレパントの海戦では、ダルマチア艦隊の奮戦ぶりも貢献した。一方で機を見るのがうまいラグーザは、今度はオスマン・トルコに貢物を納めることで安全を保障してもらい、引き続き独立国のような地位を維持してベネチアと貿易を競っていた。

17世紀末にウィーンへ侵入しようとしたオスマン・トルコがオーストリアに撃退されると、ベネチアもトルコと戦争になり、エーゲ海では領土を失ったものの、ダルマチア地方では領土を広げた。1718年にイギリスとオランダの調停で結ばれたポザレバツ条約では、ダルマチア地方のほぼすべてをベネチアが確保したが、ベネチアとトルコ保護下のラグーザとの紛争を防ぐために、ダルマチアとラグーザとの間の海岸線にトルコ領の「緩衝地帯」を作り、両者を引き離すことになった。この時に定められた国境線がほぼ現在でも踏襲されていて、ベネチア領とラグーザは現在のクロアチア領、トルコ領は現在のボスニア領にあたる。つまりネウムは海への玄関口としてトルコ(ボスニア)領になったのではなくて、むしろ逆。港と港を隔てる何もない一角だからアドリア海の貿易に利害がないトルコが管理することになったのだ。

やがて1797年にベネチア共和国はナポレオンに征服されて滅亡。ラグーザはいよいよ貿易の中心地として活況を呈したが、それもつかの間だった。1805年にはやはりナポレオンに征服されてしまい、ダルマチアの旧ベネチア領はフランス領イリリア諸州に、ラグーザはその飛び地となる。そして1814年、ナポレオンの敗北によってイリリア諸州はオーストリア領になり、78年にはオーストリアはボスニアをトルコから奪ったので、ラグーザはオーストリア領の飛び地ではなくなったが、行政区分の飛び地としては残った。当時のオーストリアはハンガリーと合体していたが、ラグーザを含むダルマチアはオーストリアの管轄に、ボスニアはオーストリアとハンガリーの共管地とされていた。

第一次世界大戦によって、バルカン半島の旧トルコ領とオーストリア領、それとロシアの支援で一足先にトルコから独立していたセルビアとモンテネグロは合併して、ユーゴスラビアが成立する。当初は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」といういかにも多民族の共存を尊重したような国名だったが、実際にはセルビア人国王による独裁が強まり、29年には中央集権を強めるために歴史的な行政区分を廃して州の再編成を行った。しかし、これによって結果的にセルビア人による支配が強化されることを危惧したクロアチアでは自治権や分離独立を求める声が高まり、国王はクロアチア独立派のテロで暗殺される。

こうして1939年に旧来のクロアチアとダルマチアを合わせたクロアチア自治州が誕生するが、41年にユーゴスラビアへ侵攻したナチス・ドイツはクロアチア人の独立運動を利用してユーゴスラビアを解体し、「クロアチア独立国」という親ナチス政権を設立する。クロアチアはダルマチアの一部をイタリアへ割譲させられるが、そのかわりボスニアを与えられて領土を拡大した。クロアチア人は民族的にはスラブ系だが、歴史的にハンガリーやオーストリアとの結びつきを通じてドイツへの親近感が強かった。一方、セルビアにも親ナチス政権が生まれたが、歴史的かつ宗教的にロシアとの繋がりが深かったセルビアは、ソ連の支援を受けた対ナチス抵抗運動(パルチザン)の拠点となった。

  
左:オーストリア・ハンガリー帝国だった頃の地図(1914年)。右:ナチス占領時の地図。ダルマチアとアルバニアはイタリアの飛び地に(1943年)。いずれもクリックすると拡大します

戦後、改めて成立したユーゴスラビア連邦は、トルコやオーストリア統治時代からの歴史的な地域区分をもとにして6つの共和国を作ったが、ダルマチアではイタリア人がいなくなりクロアチア人が多くを占めたのでクロアチア共和国の一部とされた。こうしてネウムは再びボスニアに所属し、ドゥブロヴニク(旧ラグーザ)はまたクロアチア本土から切り離されることになる。そして90年代初めの旧ユーゴスラビアの解体では、連邦内の共和国がそのまま独立したので、ドゥブロヴニクはクロアチアの飛び地となった。

なんだかタラタラと書いてしまいましたが、歴史ってやっぱそんなもんですね。とりあえずボスニア紛争で争っていたセルビア人、クロアチア人、ムスリム人は宗教が違うというだけでなく、伝統的にそれぞれロシア・ソ連、ハンガリー・オーストリア・ドイツ、トルコとの関係が深くて、それぞれが背後の大国の威を借りて他の民族を抑圧したり虐殺した歴史があるわけで、雑居して住んでいる限り、インターナショナルなイデオロギーを掲げた強力な独裁政権でないと民族対立を抑えるのは難しいでしょう。ボスニアの「一つの国家に2つの国」という中途半端な現状も、正式に2つの国に分離するとなると、飛び地がいくつもできてまたヤヤコシイことになりそうです。その点、100万人単位の住民交換をやって国内の民族問題を「解決」してしまったギリシャとトルコは賢明だったかも知れません。ま、現代の民主主義では強制的な住民交換なんて無理かも知れないけど、殺し合いになったら民主主義もクソもないですからね。

★飛び地「解消」の切り札:ペルジェサク大橋

さて、ドゥブロヴニクの飛び地の面積は1782平方kmで、人口は12万3000人ほど。内戦で破壊された旧市街も復旧が進み、「アドリア海の真珠」と賞賛されて西欧からの観光客で賑わっている。クロアチア本土との交通は、途中ネウムの前後で簡単なパスポート検査を受けるだけで通れるが、車でボスニア領内を通過するためにはボスニアの自動車保険に入らなければならないのがネックになっていた。

そこで、クロアチアはドゥブロヴニクから西へ突き出したペルジェサク半島とクロアチア本土との間に全長2374メートルの橋(ペルジェサク大橋)をかけて、ネウムを通らない新ルートを建設しようとしたが、ネウムに港を作ろうとしていたボスニアは「橋が障害物になって大型船が入港できなくなる」と猛反発。結局ボスニア側による プロチェ港 の管理と引き換えに、ボスニアは橋の建設を認め、2008年には完成する予定だ。

ペルジェサク大橋の地図(北)    (南)  (PDFファイル)

●関連リンク

外務省−クロアチア共和国
外務省−ボスニア・ヘルツェゴビナ
クロアチアへ行こう!  クロアチアへ留学中の日本人が運営しているサイト。クロアチア掲示板もあります 
(旧)ユーゴだより  2つの国に分断されているボスニアの現状を現地レポート。「ネウム小旅行」「安売り天国ネウムの沈没」のコラムもあります
アドリア海北岸を縁取る、美しい小さなイタリア風の港町  アドリア海沿岸の旧ベネチア領の港町について
地中海生活  左枠の「Croatia」のところに、ネウムやドゥブロヴニクの写真や案内があります
(旧)ユーゴスラビア情勢index   なぜjか創価学会のメールマガジン
ボスニア発!  ボスニアに在住している日本人主婦の生活情報。国境採点や姑(セルビア人)への愚痴コーナーもあって面白いです
内戦 国際紛争 テロリズム  ボスニアや旧ユーゴの内戦について、紛争後の現地の写真がたくさんあります


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