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世界で「最も少人数かつ短時間で成功した革命」により消滅した島国
ザンジバル&タンガニーカ
ザンジバル王国→ザンジバル人民共和国
首都:ザンジバル 人口32万5801人(1963年)
タンガニーカ→タンガニーカ共和国
首都:ダルエスサラーム
ザンジバル王国(左)、ザンジバル人民共和国(中)、タンガニーカ共和国(右)。 現在のタンザニアの旗1961年12月9日 タンガニーカがイギリスから独 立
1962年12月9日 タンガニーカ共和国と改称
1963年12月10日 ザンジバル王国がイギリスから独立
1964年1月12日 ザンジバル革命で、ザンジバル人民共 和国となる
1964年4月26日 タンガニーカとザンジバルが合邦し、 タンガニーカ・ザンジバル連合共和国となる
1964年10月29日 タンザニア連合共和国へ改称18〜19世紀のオマーン領 「Z」はザンジバル
ザンジバルの地図 上がペンバ島、下がザンジバル島
現在のタンザニアの地図
オマーンは今でこそアラビア半島南端のなんだかパッとしない国ですが、18世紀から19世紀にかけてオマーンはインド洋を制する大海洋帝国で、アラビア半島のみならず、北は現在の パキスタン西部 から南はアフリカ東岸まで広大な地域を支配した歴史があります。オマーン帝国のアフリカにおける拠点だったのが、タンザニア本土の30kmほど沖合に浮かぶザンジバル。ここは10世紀頃からアラブの 商人たちが定住してイスラム教を広めていた。1503年にはインド洋へ進出したポルトガルが占領したが、1698年からオマーン領となり、アフリカ大陸で も現在のソマリア南部からケニヤ、タンザニア沿岸へと領土を広げていった。1832年にはスルタンのサイード・サイド王が王宮を建設し、首都をザンジバルへ移したほど。当時のザンジバルは喜望峰回りの東西貿易の重要拠点だったほか、黒人奴 隷や象牙の輸出港としても栄え、奴隷を使って丁子(グローブ)の栽培も盛んになり、スルタンに大きな富をもたらした。
1856年にサイード・サイド王が死ぬと後継者をめぐって宮廷では内紛が続く。イギリスの調停というか介入で、サイド王の2人の息子が オマーン本土とザンジバルを分け合うことになり、61年にザンジバルはオマーンから独立し た。
しかしこの頃からザンジバルの繁栄は衰退し始め、1869年のスエズ運河の開通で東西貿易の拠点としての重要性はなくなり、イギリスか らの圧力で奴隷貿易もやりづらくなる。またイギリスとドイツがアフリカ東岸への進出を本格化し、1884年にドイツは内陸部に住む12部族の酋長たちから 「保護」を願い出る文書を取り付け、イギリスも追随。86年にはイギリスとドイツ、フランスによる共同委員会がザンジバルの領土分割をスルタン抜きで決め てしまった。アフリカ大陸におけるザンジバルの領土は海岸線から10マイルに限定され、イギリスとドイツの境界線も引かれた。これは後のケニアとタンガ ニーカ(現在のタンザニア)の国境線となっている。フランスはコモロ諸島を保護国とする代わりに、アフリカ東岸の英独両国による分割を認めた。その後、ア ラブ商人が反乱を起こしてドイツ人を殺害すると、ドイツはスルタンに圧力をかけてタンガニーカの海岸線を400万マルクで購入。一方でイギリスも90年に ザンジバルを保護国にし(イギリスが北海のヘルゴランド島を譲ることでドイツは承認)、95年にはケニアの海岸線を併合してしまった。
こうしてザンジバルはイギリスの植民地になったが、内政についてはスルタ ンが君臨し続け、土地を所有する少数派のアラブ人が、多数派の黒人を支配する構造は変わらな かった。
1950年代末になるとアフリカ各地で独立の気運が高まり、第一次大戦後はイギリスの植民地になっていたタンガニーカ は、1961年にニエレレ首相(翌年から大統領)の下で独立した。ザンジバルもスルタンの下での独立準備が進められ、議会開設に向けていくつかの政党が結 成された。1つはアラブ人が中心のザンジバル国民党(ZNP)で立憲君主制を主張、もう1つは黒人が主体のアフロ・シラジ党(ASP)で、当初は「イギリス人がいなくなったら再びスルタンの下で奴隷制度に戻る」と早期独立に反対していたが、やがて 急進派がウンマ(大衆)党を作り、「社会主義国になってアラブ人の土地や財産を没収すればいい」と主張し始めた。63年に行われた選挙では、多数派の黒人に支持されたASPが得票率では上回ったのに、恣意的な選挙区割りのおかげで議席数ではZNP が勝利し、ペンバ島のZPPP(後述)と連立内閣を組んだ(※)。こうしてスルタンの下で12月にザンジバ ル王国として独立し国連に加盟するが、1ヵ月後に「こんな選挙はインチキだ」と黒人たちが暴動を起こしてあえなく崩壊し、ザンジバル 人民共和国が誕生した。
※全31議席のうち、得票率で54%だったASPは13議席だったのに対し、得票 率30%の国民党が12議席を占め、16%で6議席のZPPPと合わせて得票で半数以下だった与党が18議席を獲得した。
ザンジバル革命を率いたのはASP青年団のリーダーで、26歳の「風来坊 の革命家」オケロだった。オケロはウガンダ生まれで幼い時に孤児となり、さまざまな職業を転々としていたが、性犯罪で獄中にいた時に革命思 想に触れ、59年にペンバ島で警官になったが、カストロに心酔し、61年から2年間キューバへ渡って武装訓練を受けた。ザンジバルに戻ったオケロはペンキ 屋で働きながら、選挙結果に不満を持つ黒人の若者たちを集めて「自由の戦士」という300人のゲリラ組織を作り、秘かに暴動の準備を進めていた。オケロは当初、町に放火して混乱を引き起こせば十分だと考えていたが、どうせ暴れるならスルタンの政府を倒す革命をやろうと計画を変 更。64年1月12日の午前3時にライフル銃や槍、自動車の部品などを武器にして郊外の警察署を襲撃した。実際にオケロの命令に従って警察署へ突入したメ ンバーは40人しかいなかったが、警官たちは2人の歩哨を残して寝静まっていたので、45分間でこの警察署を占拠し、ここで獲得した武器を使って朝までに すべての警察署と憲兵隊を制圧してしまった。
放送局に陣取ったオケロは大元帥だと名乗り、「18歳から55歳までのアラブ人の男はすべて殺せ」「処女は強姦しないように」などの指 示を出して暴動を煽り続ける一方、スルタンに対しては「20分以内に家族全員を殺してから自殺しろ」と要求、スルタンは閣僚たちとともに正午にヨットでザ ンジバルから逃亡した(※)。こうしてわずか40人で始めた革命は9時間足らずで終わり、ザンジバル革命は「世 界で最も少人数かつ短時間で成功した革命」といわれた。
※最後のスルタンになったサイー ド・ジャムシド・イブン・アブドラ・アラーは前年7月に即位したばかりだった。スルタンはケニアやタンガニーカを経て、イギリスへ亡命した。もっとも、島に本格的な略奪と殺戮の嵐が吹き荒れたのはこの後で、ザンジバルに住んでいた5万人のアラブ人は数日間で1万2000人が殺され、残りも大部 分が島から逃げ出すことになった。
突然の革命に驚いたのはスルタンやアラブ人たちだけではなかった。当時タンガニーカに滞在していたASPの指導者たちはオケロの要請で慌ててザンジバルへ 戻り、ASPのカルメ議長がザンジバル人民共和国の成立を宣言して大統領に就任した(※)。しかし議会に代わって設立された革命評議会ではオケロやウンマ 党が実権を握り、アラブ人が所有していた土地や産業の国有化を進めたり、「内政に干渉しようと工作している」とアメリカ大使を追放したため、ザンジバルは 一躍「アフリカのキューバ」と呼ばれるようになった。またザンジバル革命に刺激を受けて、タンガニーカやケニア、ウガンダでも軍隊の反乱が相次いだ。※カルメは革命でスルタンを倒すつもりはなかった。選挙で過半数以上の票を得てい たので、「おかしな選挙区割り」を改めさせればいずれ政権を取れると確信していたらしい。そのためオケロたちが暴動の計画を進めていることを知ったカルメ は、ザンジバルの警察にいたイギリス人顧問に連絡したほどだった。ところがイギリス人は何の対処もせず、警察署はあっさり占拠された。そしてアラブ人は殺 害されてもザンジバルのイギリス人は無事だった。こうした中でカルメは、大元帥のオケロを外遊に出したまま追放し、「ザンジバルの治安を回復するため」と称してタンガニーカの警官隊を導入し、「自由の戦 士」の反発を抑える一方で、ウンマ党や革命評議会にも内緒でニエレレと秘密交渉を進めた。こうしてザンジバル人民共和国はタンガニーカと合併し、100日足らずで消滅した。※オケロはその後、ケニアやコンゴ民主共和国(旧ザイール)などをさまよって故郷 のウガンダへ戻り、アミン大統領によって暗殺されたと言われているが、詳しいことは不明。
ザンジバル人民共和国のカルメ大統領(左)、タンガニーカとザン ジバルの合併を記念して両国の土を混ぜるニエレレ大統領(右)
新たに成立したタンザニアでは、タンガニーカの人口3000万人に対してザンジバルはわずか70万人だが、両者は対等の連合を組み、大統領がタンガニーカ 出身なら副大統領はザンジバル出身(逆もまたしかり)。ザンジバルは独自の大統領を擁して外交、防衛、通貨などを除く広範囲な自治権を維持したし、タンガ ニーカとザンジバルとの往来には引き続きパスポートが必要だ。財政的にも独立したままで、タンガニーカではニエレレが67年から進めたウジャマー政策(村落共同体を中心にしたアフリカ式社会主義) のために経済が低迷し続ける一方で、ザンジバルは「金のなる木」丁子の輸出で潤い続けた。例 えばザンジバルは70年代からテレビ局がありアフリカで最初のカラー放送を実施していたのに、タンガニーカではなんと1995年頃までテレビ局がなかった という具合だ。
ニエレレがザンジバルに大幅な自治権を与えたのは、タンザニアを「アフリカ統一」のモデ ルにしたかったからだ。植民地支配から解放された当時のアフリカ諸国では、かつてヨーロッパ人が勝手に決めた国境線を取り払い、「ブラッ ク・パワー」で団結しようという気運が盛り上がっていた。ニエレレは1963年設立のアフリカ統一機構で中心的な役割を果たし、67年にはタンザニアとケ ニア、ウガンダの3カ国で合衆国スタイルの統合を目指す東アフリカ共同体を成立させている。
なんと言っても統一にとって最大の障害は、それぞれの権力者が権力を失うことを恐れて「総論賛成、各論反対」になることで、「統一し たって、一国の主のままで居られる方法があるんですよ」という実例を、ザンジバルで示そうという狙いだったようだ。合併後のザンジバルでは「選挙なんか永 遠にやらない」と公言するカルメが大統領を続け、ASPの一党独裁による恐怖政治を敷き、反対派を弾圧し続けたあげく、父親を革命で殺された青年によって 72年に暗殺されたが、ニエレレはあくまで介入しなかった(※)。
※カルメによる8年間の独裁下で、ザンジバルの人口の15%がタンガニーカなどへ 逃げ出したといわれている。カルメの死後、ニエレレはタンガニーカの軍隊をザンジバルへ駐屯させたり、タンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)とASPを合併(実質的には吸収) して全国単一政党のタンザニア革命党(CCM)に再編したため、ザンジバルでは分離独立を求める声が高まったが、85年にニエレレが引退するとタンザニア の大統領にザンジバル出身のムウィニが就任。「ザンジバルの富がタンガニーカへまわされている」という不満はくすぶり続けているが、独立運動には至ってい ないようだ。
ザンジバル革命直後の上空映 像(イタリア映画『さらばアフリカ』)
ペンバ人民共和国 〜ペルシャ人の子孫と称する黒人たちが、革命に反発して作ろうとした国〜ザンジバルは旧首都があるウングジャ島(またはザンジバル島)とペンバ島の2つの島から成り立っているが、ザンジバル革命が起きた6日 後の1964年1月18日、ペンバ島がザンジバルからの独立と「ペンバ人民共和国」の成立を宣言したようだ。
当時、ペンバ島で勢力を築いていたのはザンジバル&ペンバ人民党(ZPPP)だった。ZPPPはASPから分裂した政党で、黒人の組織 とはいえシラジ人が主体だった。ザンジバルの黒人には、スルタンによる統治の下でアフリカ大 陸から奴隷として連れて来られたりイギリス時代に丁子農場の労働者として移住して来たアフリカ人と、アラブ人が支配する前から島に住んでいた先住民のシラ ジ人がいる。シラジとはイラン南西部にあるペルシャ帝国の古都で、紀元前後のはるか昔、シラジ地方から船に乗ってたどり着いた王子の末裔だと自称している のがシラジ人だ。もっとも見た目はアフリカ人とまったく変わらないのだが、シラジ人たちは「アラブ人よりも 正統なイスラム教徒」だと自負している。
しかしシラジ人の由来は実際のところかなりマユツバで、紀元前後に来たのなら当時はまだイスラム教は存在せず、ペルシャでは拝火教(ゾ ロアスター教)が全盛だったはずなのだが、神話にそういう「ツッコミ」を入れるのは野暮というもの。スルタンはじめアラブ人に抑圧されていた先住民の間 で、「ホントは自分たちのほうが格上だぞ」という神話が生まれていったのかも知れない。
さて、ペンバ島に多いシラジ人たちは、当初はアラブ人による支配に反発してアフリカ人と一緒にアフロ・シラジ党(ASP)を結成した が、カルメらASPのアフリカ人指導者たちがタンガニーカのTANUと接近して左傾化すると、「ザンジバルの伝統社会を守れ」と1959年にASPから分 裂してZPPPを結成した。大陸からの出稼ぎ労働者が多かったアフリカ人に対して、先住民のシラジ人には農民が多かった。
こうしてZPPPはザンジバル国民党と連立内閣を組み、ザンジバル王国ではペンバ島のシラジ人であるモハメド・シャムテが首相に就任し た。ザンジバル革命でシャムテ首相はスルタンと一緒に亡命したが、ZPPPの支持者が多かったペンバ島ではASPによる革命政権に反発して独立を宣言した ようだ。ただし1月中にペンバ人民共和国は崩壊して、パンバ島はすぐにザンジバル人民共和国の支配下に入ってしまった。
もっともザンジバルからのペンバ島の分離を求める声はその後も続いている。ザンジバルの 稼ぎ頭である丁子の生産は8割以上がペンバ島なのだ。しかしインフラ整備などの開発ではウングジャ島が優先されていた。やがて丁子の国際価 格が低迷し、ザンジバルは観光収入に頼っていくが、観光客が訪れるのはスルタンの旧王宮があってインフラも整ったウングジャ島がほとんど。ペンバ島では 「ペンバ島の丁子でウングジャ島だけが豊かになっている」という不満が高まった。
CCMによる一党独裁が続いていたタンザニアは、1992年に複数政党制が導入されて民主化した。タンガニーカではアフリカにしては平穏理に政権移譲が行われているが、ザンジバルでは選挙のたびに与党支持のウングジャ 島民と野党支持のペンバ島民とが対立し、野党は開票結果がおかしいと抗議。制裁措置として西欧諸国がザンジバルへの援助を止めたり、暴動やテロも起きて難 民が出ている。
ペンバ人民共和国の旗ダルエ スサラーム便り 世界遺産に登録されたザンジバルの旧市街について
タンザニア便り アラブ人がいなくなってザンジバルのコーヒーは不味くなった・・・とか
元老院議員私設資料展 示館—ドイツ領東アフリカ史 ザンジバルのスルタン領を英独両国がいかに奪っていったかが詳しいです
UNPO使節団の95年10月22日のザンジバル選挙監視報告書
参考資料:
ARAI'S ZANZIBAR,Tanzania PAGE http://www.asahi-net.or.jp/%7Eee1s-ari/index.html
Zanzibar Unveiled http://home.globalfrontiers.com/Zanzibar/
Zanzinet Forum http://www.zanzinet.org/index.html
UNPO Mission to Zanzibar http://www.asahi-net.or.jp/~ee1s-ari/unpo.html
AFRICAN ELECTIONS DATABASE http://africanelections.tripod.com/index.html
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