このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

兄弟ゲンカの功名でまんまとせしめた天然の良港

グワダル

旧オマーン領

 
1783年 カラートのハーンがオマーン人のスルタンにグワダルを割譲
1797年 グワダルのスルタンがオマーン国王に即位。グワダルはオマーンの飛び地となる
1876年 グワダルを囲むカラートなどパルチスタンの各王国が英領インドの支配下に入る
1891年 オマーンが英国の保護領となる
1947年 パキスタンが英国から独立
1958年 オマーンがグワダルをパキスタンへ売却し、飛び地消滅

 

グワダル周辺の地図
18〜19世紀のオマーン領  「Z」はザンジバルです
アラビア半島の地図(1933年)  グワダルのほか、現在のアラブ首長国連邦やカタールもオマーン領に
グワダルの衛星写真  (google maps)

オマーンは今でこそアラビア半島の一角を占める小さな産油国に過ぎないが、歴史を遡ればアラブからアフリカにかけての海洋帝国として広大な版図を誇っていて、19世紀には一時期タンザニアの ザンジバル島 に首都を移したほど。そしてホルムズ海峡を越えて現在のパキスタン領内にも、グワダル(Gwadar)という面積795平方kmの飛び地のような領土を持っていた。グワダルは古代からインドへの入り口に位置する天然の良港として知られていて、アレキサンダー大王の時代の史料にもその名が出てくるそうな。

そんな由緒ある(?)グワダルをオマーンが領有するきっかけとなったのは1783年のこと。オマーン宮廷での内紛が発生し、Saiadという王族が兄弟たちに追放され、海を越えて逃げ込んで来た。その頃グワダル一帯を治めていた カラート のハーンは、Saiadにグワダルを領地として与えてスルタンにした。ところがSaiadはオマーンに戻り、1797年に国王に即位したため、グワダルはそのままオマーン領になってしまった。カラートのハーンも今さら返せとは言えなくなってしまったらしい。

19世紀後半になるとオマーンはイギリスの保護領となり、現在のパキスタンに当たる地域も英領インドの一部としてイギリスの支配下に入る。つまりどっちにしてもグワダルは英国領なわけだったが、1947年にパキスタンが独立すると飛び地が問題になり、結局オマーンは58年にグワダル一帯の約800平方kmをパキスタンへ300万英ポンドで売却した(※)。当時、オマーンはまだ独立しておらず、グワダル売却は英国の意向によるもの。その頃、非同盟諸国の盟主だったインドはソ連と連携を深めていたため、西側諸国はインドと対立するパキスタンをてこ入れしていたのだ。

※300万ポンドはスルタンの銀行口座に振り込まれたままでオマーンの国家建設のためには使われなかった。その他スルタンの もろもろのドケチぶり にイギリスも呆れ果て、70年に息子が宮廷クーデターを起こしてスルタンを追放し、ようやくオマーンはまともな国になった。
オマーン時代のグワダルは自由港だったので輸入品が安く、パキスタンから買い物客を集めていたほか密輸の拠点としても栄えていた。しかしパキスタン領になってからは辺境の港町として寂れてしまい、水道はなく電気も満足に供給できない状態が続いていた。現在、町の人口は約3万人。オマーンとパキスタンの二重国籍を持っている人が多く、アフリカ系の住民もいる。住民のほとんどはイスラム教徒だが、イスマイル派のコミニュティが影響力を持っているそうだ。

最近、アフガニスタン問題に絡んで再びグワダルが脚光を浴びている。内陸国のアフガニスタンにとって、最も近い海の出口はグワダル。グワダル港は中国の援助で整備が始まり、トルクメニスタンからアフガニスタンを通ってグワダルへ至る天然ガスパイプラインも建設が始まる予定だ。再び自由港に指定して貿易拠点にしようという計画もある。

●関連リンク

Gwadar  現在のグワダル州の産業など基本的なデータがいろいろあります(英語)
Vision Gwadar  グワダルの開発計画のサイト。背景の写真はグルダルじゃなくて香港です。中国系企業がサイトを運営?(英語)
 
 

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