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フランス語派VS英語派の対立で、再び国土分裂?

カメルーン共和国

首都:ヤウンデ 人口:387万人(1960)

  
旧フランス領だけのカメルーン共和国の旗(左)と、カメルーン連邦共和国の旗(右)。連邦制解消後の現在の カメルーン共和国の旗は こちら

1960年1月1日 フランス信託統治領カメルーン が、カメルーン共和国として独立
1961年10月1日 イギリス信託統治領カメルーンの南部 と合併して、カメルーン連邦共和国が成立し、消滅
1972年6月2日 カメルーン連邦共和国が連邦制を解消し てカメルーン連合共和国に改称
1984年2月4日 カメルーン共和国に改称

現在のカメルーンの地図  Nord-OuestとSud-Ouesuが旧イギリス信託統治領の南カメルーン

戦前のカメルーン。 イギリス委任統治領の部分はナイジェリアの一部として統治されていた
カ メルーンといえば、いつだったかワールドカップかなんかで「選手団がなかなか到着しない」とかいう話題で有名になっていましたが、まぁ、その程度でしか日 本では話題にならないくらい縁が薄い国ということで・・・。さてそのカメルーンは「カメルーン共和国」というのが正式国名で、1984年にそれまでのカメ ルーン連合共和国から改称したのですが、それより昔、60年から61年にかけて現在とは領域が異なるカメルーン共和国が存在していたことがあります。

カメルーンはかつてドイツの植民地。第一次世界大戦でフランスとイギリスに占領され、その後は国連の 委 任統治領 として、東側の5分の4はフランスに、西側の5分の1はイギリスに分割された。

第二次世界大戦後、カメルーンは国連の信託統治領として引き続き東西に分割されることが決まると、カメルーン人の間では不満が高まり、 カメルーンの統一と独立を掲げて1948年にフランス領の東カメルーンではカメルーン人民同 盟(UPC)が結成され、反フランス暴動が頻発した。フランスはUPCを弾圧する一方で、周辺のフランス植民地と比べてインフラ整備に多額の開発予算を投 じたが、55年に国連が実情調査団を派遣し、その勧告によって57年に自治政府が発足した。UPCは自治政府を「フランスによる傀儡政権作りだ」と批判 し、選挙をボイコットしたため、カメルーン人同盟(UC)のアヒジョが首相となり、60年1月に「カメルー ン共和国」として独立を達成した。

一方で、イギリス領の西カメルーンは南北が飛び地となって離れていたの で、同じくイギリス植民地だったナイジェリアと一緒に統治され、北部はナイジェリア北部州の一部に編入、南部はナイジェリア東部州の一部になった。しかし 南部の住民は東部州(= ビアフラ )のイボ族と仲が悪かったため、1954年に独自の自治政府と議会 が作られ、フォンチャが首相に就任した。

フランス領で独立運動が起きると、西カメルーンでもUPCの影響でカメルーンの統一を掲げたカメルーン民族民主党(KNDP)が発足し た。しかしその一方で西カメルーンとは40年間の分割統治で教育言語(フランス語VS英語)や通貨が異なってしまったため、統一に反対する声もあり、「む しろナイジェリアと統合すべき」という主張を掲げたカメルーン民族会議(KNP)も発足した。

1959年12月29日付『毎日新聞』
フ ランス領の独立を前に、イギリス領の東カメルーンでは1959年に住民投票が行われたが、その結果は「イギリスによる統治継続」が多数を占めたので、カメ ルーン共和国には加わらなかった。しかし60年秋にはナイジェリアも独立することになり、翌年改めて住民投票を実施した結果、北カメルーンでは「ナイジェリアとの統合」が多数だったので61年6月にナイジェリアへ編入南カメルーンでは 「東カメルーンとの統合」が多数だったので、61年10月にカメルーン共和国と合併すること になった(※)。

※厳密にいうと、南カメルーンは2分割されて、北部は北カメルーンとともにナイ ジェリアへ編入。南部がカメルーン共和国と合併した。
こうしてカメルーン共和国に代わって、新たに東と西(のうち南)の連邦制によるカメルーン連邦共和国が 発足した。もっとも連邦制と言っても人口や面積で優位に立つ東カメルーンが主体で、首都は東カメルーンのヤウンデ、大統領は東の首相のアヒジョ、連邦議会 の議席配分も東が40に対して西(南)は10だった。西カメルーンには独自の権限を持つ州政府や首相が置かれ、副大統領には西カメルーン首相のフォンチャ が就任し、カメルーンは英連邦にも加盟して西カメルーンでは英語による教育を続けるなど、少数派の西カメルーンにも配慮していたが、やがて連邦制は形骸化 して連邦政府(=東)の権限が拡大。1966年にはKNDPはUCに吸収されてカメルーン民族f同盟(UNC)が発足し、カメルーンはアヒジョの下で一党 独裁制の国家となった。フォンチャは副大統領と西カメルーン首相を解任されて、代わってアヒジョの支持者であるムナが据えられた。

アヒジョは反政府のゲリラ闘争を続けていたUPCを徹底弾圧したのに続き、72年には連邦制の廃止を問う住民投票を行い、99・8%の 投票率で99・9%の賛成(いかにも一党独裁国ならではの数字)で連邦制廃止が決まった。こうしてカメルーン連邦共和国はカメルーン連合共和国と名を改めて、自治権を持つ州政府や議会は廃止され、副大統領もなくなった。独裁 体制を築いたアヒジョは1982年に大統領を突然辞任し、後継者のビヤが独裁政権を引き継いだ。ビヤはアヒジョ時代の高官を粛清しながら、84年には国名 から「連合」を外してカメルーン共和国となり、東西カメルーンの一体化をアピールした。

★アムバゾニア共和国(南カメルーン連邦共和国)の亡 命政府

しかし実際には、連邦制が廃止されてからというもの、東カメルーンに権限を奪われた西カメルーンでは、「アムバゾニア共和国」としての 独立を目指す運動が盛んになり、1980年代にはカメルーン英語話者運動(CAM)や自由西カメルーン運動などの独立組織が生まれて弾圧された。1990 年代に入るとそれまで独裁体制が続いていたカメルーンは民主化され、西カメルーンでは連邦制や自治権の復活を求める動きが高まったが、民主化されたところ で人口が少ない西カメルーンが東カメルーンと対等の地位を得るのは無理だった。

このため西カメルーンでは再び独立運動が盛んになり、94年には南カメルーン国民会議(SCNC)が結成され、フォンチャやムナなど植 民地時代やアヒジャ時代の指導者らも加わった。SCNCは独立要求の署名を集めたり、国連に訴えたりして平和的手段で独立を訴えたが、カメルーン政府の弾 圧が続いたため、99年にはアムバゾニア共和国(または南カメルーン連邦共和国)の独立とアメリカでの亡命政府樹立を宣言している。

亡命政府の主張によれば、そもそも1961年に南カメルーンがカメルーン共和国と合併したのは、国連での正式な手続きを踏んでいないか ら無効で、現在でも南カメルーンは法的には国連の信託統治領のままになっているから、国連が 責任を持って「カメルーン共和国による不法占領」を止めさせ、南カメルーンの独立を認めるべき・・・とか。


アムバゾニア共和国の旗

  
左:仏領だったカメルーン共 和国の独立、右:英領西カメルーンの住民投票

●関連リンク
外務省−カ メルーン
Federal Republic Of  Southern Cameroons  旧イギリス信託統治領「南カメルーン連邦共和国」の独立を目指す亡命政府の公式サイト

参考資料:
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
『世界地図』 (三省堂 1942)
『世界年鑑 1960』 (共同通信社 1960)
『世界年鑑 1961』 (共同通信社 1961)
『世界年鑑 1962』 (共同通信社 1962)
小田英郎 『アフリカ現代史3』 (山川出版社 1986)
WHKMLA :  Historical Atlas  http://www.zum.de/whkmla/histatlas/haindex.html
The Post Online (Cameroon) http://www.postnewsline.com/
Federal Republic Of  Southern Cameroons http://www.southerncameroons.info/
SOUTHERN CAMEROONS UNITED NATIONS TERRITORY  http://www.fdrsoutherncameroons.info/
 
 

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