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「早くマレーシアになりたい!」と、リー・クワンユーが勇み足

シンガポール

首都:シンガポール 人口:179万5000人(1963年)


現在の「シンガポール共和国」の国旗も同じ

1963年8月31日 イギリスからシンガポールとし て独立を宣言
1963年9月16日 マラヤ連邦やイギリス保護領の北ボル ネオ(サバ)、サラワクと合併してマレーシア連邦となり、消滅
1965年8月9日 マレーシア連邦からシンガポール共和国として独立

シンガポールの地図  

「えっ、シンガポールって消滅してないでしょ?」と思うでしょうが、現在存在しているのはシンガポール共和国で、かつて存 在していたのはシンガポール。シンガポールがシンガポール共和国に名前を変えたのではなく、シンガポールは独立してからわずか17日後に、マラヤ連邦と合 併してマレーシア連邦になり、消滅したのでした。そもそもシンガポールが独立した目的は、「独立国家になるため」ではなくて、むしろ逆。シンガポールの独立を防ぐための独立だったわけで、一体どういうことでしょう?

シンガポールは人口の4分の3が華人(中国系)だが、ひとえに華人と言ってもいくつかのグループに分かれている。1つの分け方は、東南 アジアの他の国々と同様、福建や広東、潮州、客家、海南島など出身地(使用方言)ごとのグループ。もう1つの分け方はシンガポール独特のもので、学校教育 を中国語で受けた(華語派)か、英語で受けた(英語派)かというもの。シンガポール独立への道のりは、イギリスの植民地支配に対する住民の 自治・独立を 求める運動や、マレー人中心のマレーシアと華人中心のシンガポールとの抗争だったが、華語派と英語派との闘いでもあった。
 
  政権を取るために華語派と手を組んだリー・クワンユー

マレー半島の先端に位置するシンガポールは、もともとシ ンガプラ(ライオンの居る町=※)と呼ばれたマレー人の漁村があるくらいの小島 だったが、1819年にここに目を付けたイギリス人・ラッフルズが、ジョホール王国の相続争いに介入して獲得。自由貿易港として東南アジア有数の都市に発 展した。

※だから現在、シンガポールのシンボルは「マーライオン」。中国語でシンガポール は新加坡もしくは星加坡だが、東京を江戸、大阪を浪速というような優雅な表現として、「獅城」とも書く。
後にマレー半島を支配下に収めたイギリスは、重要な港であるシンガポールとペナン、マラッカを海峡植民地という直轄領にして、残りのマレー半島は従来から のスルタンを通じて間接統治した。錫鉱山やゴム園などの開発が進んだマレー半島には、中国やインドから多数の労働者が渡ってきたが、特にシンガポールは華 人の比率が高く、ラッフルズは彼らの出身地ごとに居住地を分け、同郷コミ ニュティを作って暮らすようにさせた。

学校教育が普及しておらず、華人のほとんどが中国語の標準語(北京語=華語)を話せず、文盲で筆談もできなかった当時、華人同士でも出 身地が 違えば意思疎通が難しい。同郷出身者がまとまって住めば、 故郷の言葉だけで生活でき、華人は出身地ごとの同郷会館や幇(バン)などの組織を作って結束していた。

福建語    広東語    華語 (南方訛りの 北京語) 

20世紀の半ばにはシンガポールに住む華人の多くは、中国からの移民一世や二世で、家庭では出身地の中国語方言(福建語や潮州 語、広東語など)を話し、華語で学校教育を受け、中国人としてのアイデンティティを持っていた。彼らはイギリス統治下で自分たちの地位向上を実 現するためには、内戦や列強の侵略で弱体化した祖国=中国が強大な統一国家となり、イギリスに「植民地に住む中国人をもっと大事にしろ」と外交圧力を加え るようになればいいと考えていた(※)。だから孫文らの辛亥革命や蒋介石の抗日戦争には積極的に資金を援助し、毛沢東が中華人民共和国を成 立させると華人 の多くはイデオロギー抜きに喜んだ。逆に彼らはマレー半島やシンガポールの政治にはほとんど関心がなかった。

※特に19世紀後半にシンガポールやマレー半島へ娼婦(からゆきさん)を先頭に やって来た日本人が、日本の大国化に伴ってみるみる地位を向上させていったのを傍目で見て、そう実感したらしい。
一方で、当時シンガポールの華人の約1割は、移民から三〜四世代を経て中国語はすでにほとんど話せず、マレー語で育ち英語で学校教育を受けた人たち だった。彼らは中国系というアイデンティティはあっても、マラヤ(マレー半島+シンガポール)に帰属意識を持ち、その英語力で植民地政府の役人やイギリス 商社の従業員になり、イギリスによる支配を支える存在になった(※)。
※中国語では「海峡土生華人」で、「土生」とは土着の意味。さらにマラッカを中心 として、移民から数百年を経て、言語も生活習慣もすっかりマレー人化したババ(男)、ニョンニャ(女)と呼ばれるグループも存在する。
さて、第二次世界大戦後、マレー半島ではマレー人を中心とした独立運動が盛んになり、1948年にイギリス統治下でペナンやマラッカも含めたマラヤ連邦が 発足した(※)。残ったシンガポールは単独の直轄植民地になり、段階的に民主化することになったが、移民一世には選挙権が与えられず、また当時の華語派の 中国系住民はもっぱら「偉大なる祖国」中国の帰趨を決する国共内戦に夢中だったので、シンガポールの選挙にはほとんど投票に行かず、英語派や財界勢力が主 導権を握った。
※イギリスから完全独立したのは1957年。
しかし中国の内戦が共産党の勝利で決着がつくと、華語派の住民たちもシンガポールでの政治的権利の獲得や、経済的な要求にも目が向く。こうして50年代半 ばには、中国との連携を図る左派の指導で、公民権獲得運動や労働争議が盛んになり、54年に華語派の住民を基盤に人民行動党(PAP)が結成された。

PAPの幹事長になった李光耀(リー・クアンユー)は、 中国系(客家人)の移民四世で、家では英語とマレー語で育ち英語教育を受けたため、中国語がほ とんど話せない典型的な英語派華人だった。しかし彼はシンガ ポール住民の地位向上のためには民主化とイギリスからの独立は必然と考え、国家社会主義 的なマラヤの実現を主張した。そして民主化される以上、人口の多数を占める華語派住民の支持を集め、労働運動を通じて華語派住民に強い影響力を持つ左派と 共 闘することは不可 欠だと考えた。こうして弁護士だったリーは、労働組合の顧問弁護士を引き受けて左派と関係を結び、PAPを結成したのだった。

PAPが大勝した59年の選挙ポスター
PAPは55年の選挙で3議席を獲得、 57年の選挙では第一党になって王永元(オン・エングェン) を市長に就任させた(※)。王はさっそく民衆申訴局や密告局を設置して、住民の声を集めながら政府にはびこっていた汚職を一掃し、市庁舎前のエリザベス女 王の銅像を撤去したり、華人が求めていた屋台営業の自由化や郊外のマレー人集落に水道を敷くなどして人気を集め、59年の総選挙では51議席中PAPが 43議席を獲得して圧勝。リー・クアンユーはイギリス統治下で外交・防衛以外の権限を持つシンガポール自治州首相に就任した。

※王永元はオーストラリアへ留学した会計士だが、福建語の演説 が巧みで、リー・クアンユーが左派を抑制するためにPAPにスカウトした。しかしPAP内での首相候補争いに1票差で敗れ、リー政権の下で国家発展相に就 任したが、予算配分をめぐってリーとケンカになり 離党。人民統一党を結成して61年の補欠選挙でPAPを圧倒したため、中国語が苦手なリーは北京語に加え、慌てて福建語の勉強を始めた。

  「シンガポールだけで独立なんてあり得ない!」

リーが首相になってまず直面したのが独立問題だ。PAPはイギリス植民地からの独立を訴えて華語派住民の支持を集めて来たが、「何と言う国で独立を果たす か」は曖昧だった。

今でこそシンガポールは独立国だが、当時はシンガポール が単独で独立するのはまず非現実的だと思われていた。その理由は、(1)シンガ ポールはしょせん小さな島で狭すぎ、国としての体裁が整わない、(2)シンガポールはマレー半島の貿易港として栄えているので、マラヤ経済と切り離せな い、(3)水も食料もマレー半島に完全依存している、(4)東南アジアに華人主体の国が出現したら、周辺諸国から中国(=共産中国)の手先だと敵視され る・・・といったものだが、歴史的に見てもシンガポールはマラヤの一部であり、「現地生まれの華人」と自称する人も、少なからずはマレー半島の生まれだっ た。シンガポール自治州「国語」はマレー語となり、英語と華語、タミール語(シン ガポールのインド系住民の多数派の母語)は「公用語」とされ、国歌はマレー語で制定された(これは現在まで同じ)。

こうしてリーは独立=マラヤ連邦との合併を 主張するが、左派は強く抵抗した。左派は当時、マラヤ共産党の指導を受けていた。マラヤ共産 党は戦時中に日本軍へのゲリラ戦で勢力を伸ばしたが、戦後はイギリスやマラヤ連邦によって徹底弾圧されて非合法組織になり、ジャングルの解放区もあらかた 制圧されて、シンガポールの労働運動で生き残りを賭けていたのだ。

「PAPはファシスト」と呼びかけるバリサンのポスター
PAPは 路線対立の末、61年に左派が脱退して新たにバリサン・ソシエリス(社 会主義陣線=社陣)を結成した。バリサンへ移った議員は13人だっ たが、労組を基盤にしていた支部や専従職員の多くはバリサンへ移り、リー政権は危機に瀕した。

マラヤ連邦のラーマン首相は61年、当時イギリス植民地だったシンガポールや サ バサラワクブ ルネイ と合併してマレーシア連邦を結成 する構想を発表したが、華人が多いシンガポールと合併すると、華人の人口比率(45%)がマレー人(42%)を上回ってしまうのがネックだった。

リーとラーマンは合併に向けた協議を進め、シンガポールは引き続き自治州として、教育や労働政策も含めた強い自治権を保持し (※)、自由貿易港を続けるが、開発が遅れているサバとサラワクに融資するなどの合併案をまとめた。

※マラヤでは学校教育のマレー語化政策を進 めていたが、シンガポールは引き続き英語や中国語による教育を認め、マラヤで実施していた公務員の採用や企業設立にあたってのマレー人優遇政策(プミプト ラ政策)は、シンガポールでは導入しないということ。

 この合併案をバリサンは猛烈に批判した。シンガポールはマレーシアの総人口の2割を占めるのに、マレーシア下院の議席は 159議席中15しか割り当てられず、上院は55議席中わずか2、そしてシンガポール住民は他の地域へ移ったら選挙権を行使できないなどの点を明らかに し、「シンガポール人はマレーシアの 『二等国民』にされる」とキャンペーンを張った。これらの制限は、人口で上回る華人にマレーシアの政治主導権を奪われないため、 ラーマンが絶対に譲れな い点だった。リーは62年に住民投票を実施して、合併案にお墨付きを与えさせた(※)

※住民投票の選択肢は、「シンガポールは特 別な自治州として合併するか、サバ・サラワク並みの自治で合併するか、マレーシアの普通の州として合併するか」という三択で、「合併しない」という選択肢 はなかったので、バリサンはボイコットを呼びかけた。

62 年12月にブルネイでマレーシアへの加盟反対を主張する北ボルネオ国民軍が反乱を起こすと(※)、バリサンは「反植民地の民衆蜂起 だ」と支持声明を出した。これを口実に、リーはラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに求めて反対派を弾圧し、マレーシア連邦の結成は63年8 月31日に決まった

※ブルネイのスルタンは石油の収入を自分で 使いたいので合併には消極的だったが、反乱事件はブルネイにとってマレーシア加盟を取り止める口実にもなった。

ところがマレーシアの結成にはインドネシアから強烈な妨害が入った。そもそもマラヤやボルネオ島などマレー系民族の住む地域が分断され たのは、イギリスとオランダとの植民地分割によるもので、独立するなら全てインドネシアとして統一国家になるべきだという「大インドネシア主義」を掲げた ス カルノ大統領は、「マレーシア粉砕!」を合言葉に、周辺海域 や ボ ルネオ島 で軍事行動に出た。また「マレーシア連邦の結成はイギリスによる新植民地主義の陰 謀だ」と国際社会に訴えた(※)。

※実際に50年代末から60年代にかけて、 イギリスは各地の植民地で 西 インド連邦 や、 中 央アフリカ連邦南 アラビア連邦(南アラブ首長国連邦) などを結成させ、間接的な支配を続けていた。

サバやサラワクには、「住民は本当にマレーシア参加を望んでいるのか」を確かめる国連調査団が派遣されることになり、連邦結成は9月 16日に改められた。合併延期でバリサンが勢いづき、合併自体がご破算になることを恐れたリーは、あくまで「8月31日にイギリスの植民地 から独立する」 という公約を果たし、ラーマンにこれ以上の延期をさせないために、奥の手を考え出した。

それは8月31日に、とりあえずシンガポールは勝手にイギリ ス から独立してしまうというもの。リー・クワンユーは当日、独立を宣言したが、どうせマレーシアと合併するためのヤラセの独立と知っているイギリスは完全に 無視し、リー・クワンユーに抗議もしなかった。そして9月16日、シンガポールはマレーシア連邦の一部となり、めでたく消滅した。

 
マレーシア連邦結成(=シンガポール消滅)を祝うシン ガポール政府の式典(63年)と、
本当に独 立するハメになり記者会見で涙を流すリー・ クワンユー(65年)

  華語派根絶のために強権を振るい続けた独立後のリー政権

国会議員を辞職したバリサンの街頭デモ

結局、マレーシアの成立に政治生命を賭けたリーだったが、 こういう事情 で 2年後にシンガポールはマレーシアから追い出され、単独で独立 するハメに陥った。本来ならリーの政治責任が問われるところだが、合併に反対していたはずのバリサンは、こんどは「イギリス帝 国主義が仕組んだニセの独立」だと言い出し、「偽国家の偽国会にいても意味がない」と、66年から67年にかけてすべての議員が辞職してし まった。おりし も中国で文化大革命が始まると、シンガポールで「偉大な毛主席万歳!」と宣伝し始め、華語派民衆から見放されてしまう(※)。

※文化大革命終了後の80年、バリサンは 「路線を誤った」と自己批判して再び総選挙に候補者を擁立したが、全員落選。88年に労働者党(WP)に吸収されて消滅した。

バリサンの議員が辞職した補欠選挙では、ことごとくPAPが無投票当選し、シンガポール国会は81年までPAPがすべての議席を独占し た(※)。こうした「一党独裁」の体制の下で、リー政権は不満分子を根絶するにはその基盤となっている華語派を根絶することだと、中国語で授業を行って いた 南洋大学の英語化(75年)と閉鎖(80年)、中国語で教育を行う小中学校の入学停止(87年)、中国語の新聞各社の経営権掌握(75年)と強制合併 (83年)、実質国有化(84年)など、教育やメディアへの強権発動を 進めた。

※81年の総選挙で初めて野党が1議席を獲 得したが、PAPは選挙制度や選挙区割りを次々と変えて野党を当選させないことに腐心し、さらに政府批判をした野党議員や候補者を名誉毀損で訴えて破産さ せたりし た。2011年の選挙では野党が「歴史的勝利」を果たしたとはいえ、全 87議席のうちわずか6議席。

その一方で、79年6月から「華語普及運動(スピーク・マンダリン・キャン ペーン)」に本格的に取り組んだ。北京語の普及は一見、華語派住民の尊重にも思えるが、現実には 華語派の母語であった方言を消滅させ、出身地別に構成されていた華語派住民のコミュニティを根本的に破 壊した(※)。テレビやラジオでは福建語や広東語など方言の使用は禁止され、広東語の香港映画も北京語に吹き替えて上映しなければならなく なった。

※リー政権は住宅難解決のために団地建設を 積極的に進め、現在では住民の8割以上が団地に住んでいるが、入居にあたっては棟ごとに同じ民族や言語集団が集中しないように上限を定め、ラッフルズ以来 の言語別棲み分けを意図的になくした。

「華人の共通語である華語を学べば、全ての華人と意思疎通が容易になる」という論理は、必然的に「シンガポール人の共通語であ る英語を学べば、全てのシンガポール人(さらに全世界の人)と意思疎通が容易になる」という結論に行きつく。

こうして若い世代のシンガポール華人の間では、祖父母が使う中国語の方言は話せなくなり、華語も「受験に必要な第二言語」となって、家 庭でも日常的に英語を使用することが一般化しつつある。PAPの政権が発足してから半世紀がかりで、シンガポール華人の意識を形成する母語は英語に切り替 えられることになったようだ。

シンガポールの17日間の独立の話なのに、なんだか200年分くらいの歴史を書いたような気がしますが、まぁ、こういうこともよくあ るってことで。。。

シンガポールの中国語新聞については こ ちら もご覧くださいね。

シンガポールの人気漫才師(王沙&野 峰)のテレビ番組の変遷

    
70年代:福建語や広東語などで漫才〈左)、80年 代:方言が放送禁止になり華語(北京語)でコント(中)、90年代:英語中心のコントへ(右)


参考資料
リー・クアンユー 『李光耀回憶録—風雨独立路』 (シンガポール:連合早報、連邦出版 1998)
吉田一郎 『星洲日報』紙面における「シンガポール」表記の変遷 http: //www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/singaporepress.html
シンガポール政府の言語政策による国民統合 http://www2.tba.t-com.ne.jp/oldyokohama/ronbun.htm
高橋美由紀  シンガポール華人社会における児童とその母親にみる言語環境の動態の研究(要旨) http: //repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/123870/1/ytiik00071.pdf
新加坡文献館 http://www.sginsight.com/xjp/index.php


DAP (英語)  人民行動党  (中国語) シンガポールの独裁与党 
WP (英語)  工人党  (中国語) バリサンを吸収したシンガポールの野党

 
 

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