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「オイシイ部分」だけが残った世界一お金持ちなスルタンの国

テンブロン

ブルネイ領

1841年 ブルネイのスルタンが英国人探検家ブルックにサラワクを領地として与え、「白人藩王」が誕生
1846年 サラワク王国がブルネイから独立
1881年 英国の北ボルネオ会社がサバを租借
1888年 サラワク王国と北ボルネオ会社に領土を侵食されたブルネイが、英国の保護領となる
1890年 サラワク王国がリンバン川流域を併合。テンブロンはブルネイ本土から切り離される
1963年 サラワクとサバがマレーシア連邦に参加。ブルネイは英国領のまま残り、テンブロンはその飛び地となる
1984年 ブルネイが英国から独立

ブルネイの地図  
マレーシアとブルネイの地図  
テンブロンの海岸地帯の衛星写真  (google map)

世界一の大金持ちは誰?といえば、ブルネイのスルタンだ。なんせギネスブックにも載ってるらしい。香港で三流女性芸能人のゴシップといえば「ブルネイの王族に雇われて、3日3晩奴隷のように奉仕させられた」というたぐいの話が定番。それほどまでにブルネイ王族の成金ぶりは有名らしい。日本のAV女優にもそういう噂がよくありますね。

しかし領土の面でいえば、ブルネイは歴史的にかなりミジメな国だ。現在ではボルネオの一角を占めるに過ぎないアジア最小の国で、おまけにマレーシアによって国土を分断され、東側のテンブロン地区は飛び地になっているが、かつてはボルネオの北半分を領有し、マレーシアのサバ州、サラワク州を含めた広大な領土を擁していた。ボルネオという島名ももとはと言えば「ブルネイ」が訛ったものらしい。

ブルネイは古くから中国の文献に交易拠点として記載され、アジアとヨーロッパを結ぶ「海のシルクロード」の中継地として繁栄していた。ケチがつき始めたのは18世紀からで、東側のサバの一部を「海賊の島」として有名なスールー諸島(現在はフィリピン領)のスルタンに取られてしまった。さらに19世紀に入ると内乱が起こり、ブルネイのスルタンは1839年にやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を頼む。こうして鎮圧に成功したブルックに、スルタンはクチン(現在サラワク州の州都)を領地として与えてラジャ(藩王)に任じたところ、ブルックは白人王(ホワイト・ラジャ)に即位してサラワク王国を作り、英国の保護の下で次々とブルネイの領土を奪って拡大していった。一方のサバも、イギリスが作った 北ボルネオ会社 が1881年にスールー島のスルタンから租借し、ブルネイの領土を侵食しながら拡大してゆく。

こうして東西から挟み撃ちにされたブルネイは、残った領土を保全するべく1888年に英国の保護領になったが、間もなく内陸部からも勢力を拡大していたサラワク王国にリンバン川流域を奪われて、テンブロンは飛び地になってしまう。

マレーシアに合併するはずだったブルネイ。実現していたらテンブロンは
飛び地にならずに済んだはずだが・・・。1963年7月9日付『朝日新聞』
第二次世界大戦による日本軍の占領を経て、サバの北ボルネオ会社は消滅、サラワクの「白人王」も統治をあきらめ、戦後はイギリスが直接統治するようになったが、1957年に一足早くイギリスから独立した マラヤ連邦 の呼びかけで、63年にはシンガポール、サラワク、サバの英国植民地が合併してマレーシア連邦が発足する。この時、ブルネイも当初はマレーシア連邦に参加する予定だったが、結局マレーシアには加わらず英国植民地のまま残った。

その原因はブルネイ沖の海底油田から産出する豊富な石油の収益配分で連邦政府と折り合いがつかなかったこと。クウェートのスルタンがイラクと一緒になって独立しなかったのと同じだ。

またブルネイではマレーシア合併に反対する北ボルネオ国民軍が反乱を起こす騒ぎも起きた。北ボルネオ国民軍を率いたのは当時ブルネイ最大の政党だったブルネイ人民党で、「かつて奪われたサラワク、サバを奪還してブルネイ独立」「スルタンの下での民主化」を掲げていたが、イギリスの後押しでマレーシア連邦の構想が浮上すると、構想に反対するインドネシアの支援を受けて、スルタンを担いでクーデターを起こし、北ボルネオ連合国として独立しようとした。62年12月に北ボルネオ国民軍は反乱を起こしたものの、スルタンには支持してもらえずイギリス軍に鎮圧された(※)。こうしてホンネではブルネイだけでこじんまりとやりたかったスルタンは、反乱軍を抑えるためにマレーシア連邦結成の話し合いに参加することになったが、もとから本気ではなかったので交渉の土壇場で参加を取りやめたという次第。

※ブルネイ人民党の幹部たちはインドネシアなどへ亡命したが、70年代半ばにこんどはマレーシアのクアラルンプールを拠点にブルネイの独立運動を始めた。ブルネイは後に独立したが、人民党はいまも活動禁止。
出だしからつまずいたマレーシア連邦はしばらくゴタゴタが続き、同じマレー系民族の国であるインドネシアは脅威を感じて武力攻撃を仕掛け、フィリピンは「かつて北ボルネオ会社とスールー諸島のスルタンとで交わした条約」を楯にサバ州の領有権を主張、65年にはマレー系優先政策を進める連邦政府と華人(中国系)が多いシンガポールが対立し、シンガポール州はマレーシアから追い出され「仕方なく」独立するハメになった。独立発表のテレビ中継でリー・クワンユー首相が泣き出してしまった話は有名だ。

ブルネイは84年に英国から独立したが、現在も国防はイギリス軍に任せて、ネパール人の傭兵部隊(グルカ兵)が駐屯している。かつての領土の大半は奪われてしまったが、残った場所は沖合いから石油や天然ガスが出るオイシイ部分だったというわけで、何ともラッキーな結末。スルタンがブルネイだけでこじんまりと好き勝手にやりたかったのも、無理もないですね。

テンブロン地区は飛び地になったとはいえ、ブルネイの町は水上集落が主体だから、陸地で繋がっていなくてもあまり関係なさそう。交通手段も高速ボートが発達して、首都からテンブロンの中心地・バンガールまでボートで1時間弱だが、マレーシア領を通って車で行けば倍近くかかる。

テンブロンは大半がジャングルで、人口はわずか9000人ほど。熱帯雨林が手付かずのまま残っているため、最近では国立公園の自然保護区として観光客を集めているようだ
 

●関連リンク

南の風通信 テンブロン国立公園の紹介があります
ほどほど紀行 やっぱりテンブロンへの足は「水上バス」のボートでした

参考資料:
『サラワツク王国事情』 (拓務省拓務局 1938)
『英領北ボルネオ事情』 (南洋庁長官官房調査課 1940)
『世界の文化地理 第二巻 東南アジア』 (講談社 1968)
池端雪浦、生田滋 『東南アジア現代史2』 (山川出版社 1977)
Parti Rakyat Brunei History Summary http://www.bookrags.com/history/worldhistory/parti-rakyat-brunei-ema-04/
IN: GJA - Liberation Movement Sylla  http://www.hamline.edu/apakabar/basisdata/1997/02/16/0120.html

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