国境線で「一島両断」にされた島

 
 
 セントマーチン島  イスパニオラ島  キューバ島  コロコロ島  フエゴ島  大ウスリースキー島
 ボルネオ島  スパティック島  ティモール島  ニューギニア島  ボズロジェーニエ島  キング・ファハド海上道路
 キプロス島  マーケット島  ウーゼドム島  ノイジードラー湖  アイルランド島  その他の細かな島々


セントマーチン島 フランス領とオランダ領

セントマーチン島の地図  
1950年代のカリブ海の地図  「サン・マルタン島(佛・蘭)」と書いてある島があるので、捜してください

  

世界地図のワンダーランドと言えばカリブ海。人口数万人単位の小国がウジャウジャあって、さらにイギリス、フランス、アメリカ、オランダの現役植民地も入り乱れているわけですが、その中でもひときわ特異な存在が、セントマーチン島。面積88平方km、人口わずか6万7000人の小島だが、北半分はフランス領、南半分はオランダ領になっているのだ。面積はフランス領とオランダ領で5:3の割合だが、人口はほぼ半々。 ちなみに島の名前はフランス語がサン・マルタンで、オランダ語だとシント・マルテンだ。

この島を1493年に「発見」したのはかの有名なコロンブスで、セントマーチン島という名前も彼の命名。もっともそれより1000年以上前から先住民のインディオが住んでいたわけですけどね。ただしコロンブス一行はこの島に上陸はせず、領有宣言もしなかった。本格的にこの島を占領したのはオランダで、1631年のこと。当時のオランダは北米のニューアムステルダム(現在のニューヨーク)とブラジルに拠点を擁していて、その中間に位置するこの島に拠点を築こうとしたが、2年後にスペイン軍によって追い払われてしまう。その後15年間にわたってオランダは島を奪還しようとフランスの援軍を得て攻撃を続けたため、スペインは撤退。こうして1648年に島はオランダとフランスで分割して領有することになった。

「伝説」によれば、フランス軍兵士は島の北端から、オランダ軍兵士は島の南端から、「ヨーイ、ドン!」で一斉に駆けっこして、双方が出合った場所を国境線に決めた・・・とありますが、かなりマユツバ。さらに「フランス軍もオランダ軍も、景気を付けるために兵士に酒を飲ませ、フランス兵はワインを、オランダ兵はジンを飲んで走ったところ、ジンは強すぎたためオランダ兵は途中で寝てしまい、フランスが大きな領土を占めることになった」なんて尾ヒレもついています。

実際にはそんなほのぼのとした共存が続いていたわけではなく、19世紀初めまで両国にイギリスも加わって、島の争奪戦が繰り返されていた。

1672年 フランスが全島を占領
1689年 フランスとオランダで再び分割
1690年 イギリスが全島を占領
1699年 フランスが全島を占領
1703年 フランスとオランダでまた分割
1781年 フランスが全島を占領
1784年 フランスとオランダでまたまた分割
1793年 オランダが全島を占領
1795年 フランスが全島を占領
1801年 イギリスが全島を占領
1802年 フランスとオランダで再度分割
1810年 イギリスが全島を占領
こうして、島の国境線が現在のように定まったのは、ようやく1816年のこと。島の産業はといえばサトウキビの栽培で、アフリカから黒人奴隷を連行して農場経営をしていたが、1848年にフランス領で、63年にはオランダ領でも奴隷制度が廃止されてからは島は衰退。1939年に自由港(フリーポート)を宣言して、ようやく活気を取り戻した。戦後はオランダ領では1950年代から、フランス領では1970年代から観光開発に力を入れて、現在では「国境線が横切る小島」というのがウリのリゾート地。フランス領とオランダ領との間はパスポートのチェックもなく、完全に行き来が自由になっている。

まぁ、フランス領とかオランダ領とか言っても、住民はどちらも奴隷の子孫の黒人がほとんどで、観光客も大半はアメリカ人。フランス語とオランダ語がそれぞれの公用語だが、実際には英語がよく話されているし、フランス領ではユーロ、オランダ領ではアンティル・ギルダー が法定通貨だが、どちらでも米ドルが通用している。船で北へ20分ほど行けばイギリス領のアンギラ島があり、国境マニアなら一度は行ってみたい場所ですね。

●関連リンク

St.Martin セントマーチン島とイギリス領アンギラ島の写真があります
管理人が見つけたびっくり風景2  セントマーチン島って、なんだか往年の九龍城みたいですね




イスバニオラ島 ハイチ領とドミニカ共和国領 

中米の地図  

カリブ海に浮かぶイスパニオラ島。面積は北海道をひとまわり小さくした程度なのに、東の3分の2はドミニカ共和国、西の3分の1はハイチと、2つの国に分かれています。東と西とでは住んでいる民族が違うのかと思えば、どちらもかつてアフリカから連れて来られた黒人と、黒人と白人の混血(ムラート)がほとんど。ただしその比率はかなり違っていて、ハイチが黒人9割、ムラート1割なのに対して、ドミニカ共和国では混血7割、黒人1割で残りが白人。いちおうドミニカ共和国は元スペイン領、ハイチは元フランス領ですが、歴史を見てみると、いろいろと複雑な経緯があったようです。

イスパニオラ島を西洋人で最初に発見したのはコロンブスで、1492年のこと。「スペインに似ている!」ということでイスパニオラ島(英語だとヒスパニオラ島)と命名し、領有宣言をしてスペイン領にした。しかしスペインは銀の採掘のために先住民を酷使したため(※)、25万人いた人口は40年後にはわずか500人にまで減少した末に絶滅。銀もたちまち掘り尽くされて、スペインは代わりにアフリカから黒人奴隷を導入し、サトウキビの栽培を始めた。

※1503年にスペインのイザベル女王が公認したエンコミエンダ制では、スペイン人植民者は身分や功績に応じてインディオを割り当てられ、キリスト教に改宗させる義務と引き換えに強制労働をさせる権利を認めた。インディオを使役できる期間は限定されたため、インディオたちはその期間内にいっそう酷使され、バタバタと倒れていった。
17世紀になるとフランス人やイギリス人の海賊がカリブ海を荒らしまわるようになり、彼らが根拠地として住みついたのが、現在のハイチ北岸にあるトルトゥーガ島。海賊たちはスペインの船を襲ったり、奪った積荷を密貿易でスペイン人に売りさばいたため、イスパニオラ島の総督は西部に住むスペイン人を東部へ移住させるとともに、海賊退治のために繰り返しトルトゥーガ島を攻撃した。このためトルトゥーガ島を逃れたフランス人たちは、無人の地になっていたイスパニオラ島の西部へ移り住み、結果として1697年に西部はフランス領となった。

西部ではフランス支配の下でサトウキビ生産で栄え、「フランス領で最も豊かな植民地」と言われるまでに発展した。1789年に本国でフランス革命が起きると、黒人奴隷は解放されて平等に選挙権を与えることになったが、「黒人に政治的権利を与えたら経済的繁栄が失われる」と現地の白人農場主が猛反対したため、ナポレオンによってウヤムヤにされた。このため91年に黒人が反乱を起こし、1804年に西部は世界初の黒人共和国「ハイチ」として独立、白人農場主を一掃した(※)。

※フランス革命前に3万人いたハイチの白人は、当初は革命を機に平等な地位を求めるムラート(混血)と戦い、後に奴隷制を維持するためムラートと手を組んで黒人と戦い、その後「戦乱を招いたのはフランス本国のせいだ」と、1793年から98年にかけてハイチを占領したイギリス軍と手を組んでフランス軍や黒人と戦い、イギリス軍撤退後は反逆者だとしてギロチンにかけられた。その結果ハイチ独立までに3分の2が死亡し、生き残った者も独立後3ヶ月間で大部分が虐殺されて、残りはキューバへ逃げ出した。
一方、東部はスペイン軍が黒人反乱軍を支援したために1795年にフランスが占領。1809年にスペインへ返還されたが、フランス支配の下で奴隷からいったん解放された黒人は、スペインの下で再び奴隷に戻されたうえ、スペイン軍はハイチに侵入して奴隷狩りを始める始末。1820年にスペイン本国で立憲革命が起きて混乱すると、スペイン植民地だったメキシコなど中米諸国やペルーは相次いで独立を宣言する。イスパニオラ島東部も11月末にスペイン人の副知事が「ハイチ・スペイン人共和国」として独立を宣言し、大コロンビアに加盟しようとするが(※)、独立派と王党派の内戦で混乱している間に、翌年2月にハイチが侵攻して占領。こうしてイスパニオラ島はいったんハイチによって統一された。
※1819年にスペインから独立した現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマに当たる国。ガイアナやペルーの一部も支配していたが、30年にベネズエラが分離独立して解体。
この頃ハイチは「白人農場主への損害賠償」としてフランスから国家予算の10倍に相当する金額の支払いを要求され、経済的苦境に陥っていた。政治権力を握ったムラート(混血)は実質的な奴隷制を復活させたため、1844年に東部は「奴隷制廃止」を掲げてハイチからドミニカ共和国として独立した。しかしハイチが侵攻を繰り返したため、61年に再度スペインの植民地に戻り、1865年に改めて独立することになる。

20世紀に入ると、ハイチもドミニカ共和国も他の中米諸国同様にアメリカに占領されて属国と化し、戦後は長期独裁政治やクーデターが繰り返されている。最近ドミニカ共和国の政情は安定しているが、ハイチは91年の民主化以降、相次ぐクーデターやアメリカが介入しての大統領追放で混乱が続いている。ハイチの失業率は70%に達し、100万人のハイチ人がドミニカ共和国へ出稼ぎに行っている。

 
20世紀のハイチ 20世紀のドミニカ共和国
1915〜34 アメリカが占領
1957〜91 デュバリエ父子による独裁
1991 民主化でアリスティッド大統領が就任するが、クーデターで追放
1994 多国籍軍(米軍)が派遣され、アリスティッド大統領が帰国
2004 反政府軍が首都を占拠。アリスティッド大統領は中央アフリカへ「誘拐」される
1916〜24 アメリカが占領
1930〜61 トゥルヒージョ大統領による独裁
1965 内戦勃発でアメリカ軍が介入
そんなわけで、1つの島を分け合うハイチ人とドミニカ人は人種的にはほとんど同じなのに、あまり仲が良くないようだ。ドミニカ人は国内で低賃金労働に就くハイチ人を見下す一方で、歴史的に見ればかつての占領者であるハイチ人に対して屈折した感情もあるらしい。

ちなみにカリブ海にはドミニカという国もありますが、ドミニカ共和国とはまったく別で、こちらは元イギリスの植民地。佐渡島よりひと回り小さい人口7万1000人のミニ国家です。

●関連リンク

外務省―ハイチ共和国 
外務省―ドミニカ共和国 
ハイチ里親運動 現地の最新ニュースや写真がたくさんあります
混沌のハイチ 「まさにとんでもない国」だそうです
THE TRAMWAYS OF HAITI かつてハイチのポルトー・フランスで走っていた軽便鉄道の写真(英語)




キューバ島 キューバ領とアメリカ領 

キューバ島の地図  グアンダナモ・ベイは右下のほうです
グアンタナモ湾の地図(1985年)
グアンタナモ湾の衛星写真 (google map)

キューバといえばアメリカの天敵。かつてはソ連の同盟国で、ソ連亡き現在でもバリバリの社会主義路線をひた走る。ところがそのキューバの中に、れっきとしたアメリカの領土が存在しているのだ。

この「キューバの中のアメリカ領」は東南部にあるグアンタナモ・ベイで、アメリカ海軍の基地がある。「米軍基地がアメリカ領なら、日本列島だってアメリカ領だらけじゃん」と言う人がいそうですが、日本の米軍基地はあくまで主権や統治権は日本のもので、協定によって治外法権を認めているだけ。しかしグアンダナモ・ベイ一帯の116平方kmはアメリカの永久租借地で、租借期間中はキューバの主権は停止されている。

かつてキューバはスペインの植民地だったが、1898年の米西戦争でスペインが敗れ、1902年にアメリカの保護下で独立。グアンタナモ・ベイの租借協定はこの時に結ばれた。しかし実際にはアメリカの植民地になったようなもので、1906〜09年と1917〜22年にはキューバはグアンダナモ・ベイの米軍基地から出動した海兵隊に占領されてしまう。

その後もアメリカに支えられた独裁政権が続いていたが、58年末のキューバ革命でカストロが権力を握ると、キューバ経済を支配していたアメリカ資本の企業や農場を接収したため、アメリカとキューバは犬猿の仲になり、キューバはソ連に急接近。62年にはソ連がキューバに核ミサイルを配備しようとして、キレかけたアメリカとあわや核戦争になった事件(キューバ危機)にまで発展した。

キューバも自国内の米軍基地を黙って見過ごしていたわけではなく、給水をストップさせて追い出そうとしたが、アメリカはハイチから船で飲料水を運んだり、海水の淡水化工場を作って居座り続け、キューバに年間4085ドルの租借料を払い続けている(キューバ政府は受け取りを拒否)。

最近では米軍がアフガニスタンで拘束したアルカイダ容疑者をグアンタナモ基地に収容して取調べを続けている。かつて世界各地で「反米ゲリラ支援国家」として名を馳せたキューバはこれを大々的に非難するかと思えば、カストロの口調はおとなしく、そろそろアメリカと関係改善を狙っているのでは?とも言われているようだ。




コロコロ島 ベネズエラ領とガイアナ領

ガイアナの地図   
コロコロ島の衛星写真  (google map)

   
右側(東側)がガイアナで、左側(西側)がベネズエラ。もっともガイアナの領土はベネズエラが領有権を主張中

ガイアナといっても日本ではほとんど馴染みのない国で、日本で大きな話題になったのといえば人民寺院の集団自殺くらいなもの。アメリカから移り住んで集団生活をしていた新興宗教の信者たち900人以上が、教祖の命令で集団自殺(実際には逃げ出そうとして射殺された人も多かったらしい)した事件で、死体がゴロゴロしている映像が日本でもニュース番組で流れていたが、それとはまったく関係ないのが、大西洋岸にあるコロコロ島だ。

コロコロ島はバリマ川の河口にある面積690平方kmの広大な中洲だが、島の上を国境線が走っていて、大部分はベネズエラ領、東側の一部はガイアナ領になっている。しかしベネズエラとガイアナの間の国境線は係争中で、両国ともコロコロ島全ての領有を主張している。これは両国の国境になっているアマクロ川の河口をどう解釈するかによるもので、アマクロ川がバリマ川と交差した後、直接大西洋に注いでいると考えればコロコロ島はベネズエラ領になるし、アマクロ川はバリマ川に合流して大西洋に注いでいると考えれば、島はガイアナ領ということになる。とりあえず2つの川の合流地点から西経60度線へまっすぐ引かれた線が国境になっているが、あくまで暫定的と言うものらしい。。

そもそもベネズエラとガイアナの国境紛争はコロコロ島に限った話ではなく、150年以上にわたって紛争が繰り返されている。ベネズエラはガイアナの首都・ジョージタウンの近くを流れるエセキボ川までの領有権を主張していて、そうなると、ガイアナの国土の3分の2はベネズエラ領ということになってしまうのだ。

中南米の大半はかつてスペインかポルトガルの植民地だったが、入植が遅れたガイアナ一帯には17世紀からオランダの西インド会社が進出し、続いてフランスやイギリスも進出して150年にわたる争奪戦を繰り返した後、1814年のパリ条約で英領ギアナ、蘭領ギアナ、仏領ギアナに分割された。英領ギアナは現在のガイアナ、蘭領ギアナはスリナム、仏領ギアナは今もフランス植民地のままだ(※)。

※だからガイアナとスリナム、仏領ギアナで「ギアナ三国」とも言う。実際には仏領ギアナは国じゃないけど・・・。
列強同士のガイアナ(ギアナ)分割が終わった後、イギリスは英領ギアナの西側への拡大に乗り出した。当時のイギリスの入植地はエセキボ川東岸が中心だったが、イギリスはオリノコ川河口までの領有権を主張、一方で1830年にコロンビアから独立したベネズエラは、エセキボ川までの領有権を主張して対立した。両国は係争地を中立地帯とすることでいったん合意したが、ここで金が発見されたことから再び紛争となり、1887年にはアメリカの調停案をイギリスが無視したことから、あわや米英戦争になる事態も。結局1899年に米英露の3ヵ国による国際調停で係争地の大部分(94%)はイギリス領とされ、ベネズエラ領とされたのはオリノコ川河口からバリマ川にかけてのわずかな土地だけだった。コロコロ島の大部分も、この時ベネズエラが確保した貴重な領土だったということ。

いったんは大国による国際調停を受け入れたベネズエラだったが、1966年にイギリスからガイアナが独立すると、再びエセキボ川までの領有権を主張。国境の川の中洲を占領したり、ガイアナからの独立を主張するゲリラを支援すると称して、ガイアナ南西部の町を占領したりした。69年に国境線の現状凍結を確認したものの、1999年にベネズエラで政権交代が起こり、政治改革と新憲法制定を掲げたチャベス大統領が就任すると、三たびエセキボ川までの領有権を主張。今回は国連事務総長に仲介を依頼しているが、コロコロ島周辺には石油があるということで、今後も何かにつけて紛争が再発しそうだ。

 
コロコロ島周辺の国境線が曖昧になっている地図(左)と、コロコロ島がすべてガイアナ領(ただし係争中)として描かれている地図(右)




フエゴ島 アルゼンチン領とチリ領

●まだ準備中です




黒瞎子島(大ウスリースキー島)&アバガイト島(ボリショイ島) 中国領とロシア領 

中国・ロシア東部国境地帯 ハバロフスク周辺  北海道大学のサイト。島の分割図があります
満州国の地図(1933年)  大ウスリースキー島は満州国領に線引きされていますが、島の色はロシア領と同じです
ウスリースキー島の衛星写真 とりあえずロシア側が主張していた国境線が描かれています(google map)

「川が国境線」というと非常に明確なような感じがしますが、現実にはあちこちで国境紛争の元になっています。大きな川だと中洲がありますからね。中国とソ連(現在はロシア)の国境線にしてもしかり。東部の国境線はウスリー川とアムール川、アルグン川ということになっていますが、中洲の帰属をめぐってたびたび対立。69年にはウスリー川の中洲の1つ・珍宝島(ダマンスキー島)で中ソ両軍が軍事衝突する事件も起きました。

しかしソ連の崩壊と前後して、両国の国境線画定はトントン拍子で進み、91年には「河川の主要航路を国境線にすること」で合意。97年までに黒瞎子島(ロシア名:大ウスリースキー島、銀龍島(タラバーロフ島)とアバガイド島(ボリショイ島)を除いて具体的な国境線が決まり(珍宝島は中国領に確定)、残った地域も2005年6月2日に両国が「中露東部国境に関する追加協定」に調印。これまでロシアが実効支配していたタラバーロフ島は中国領となり、大ウスリースキー島とボリショイ島は中国とロシアで分割して、島の上に国境線が引かれることになった。

国際法からすれば、河川を国境にする場合は主要航路を国境線とするのが原則だ。しかし19世紀に結ばれた不平等条約や満州国崩壊時のドサクサで、島の多くはロシア側が支配し、合計2444の島のうち、1845ヵ所をロシア側が実効支配していた。そこで新たに国際法の原則に基づいて国境線を画定させ、ロシアは682の島を中国へ引き渡したが、最後まで帰属が決まらなかったのが大ウスリースキー島とタラバーロフ島、ボリショイ島などの375平方kmだったというわけ。

特に問題になったのが大ウスリースキー島だ。主要航路を国境線にすれば、この島は中国領ということになるが、ロシアにとってこの島は沿海州の主要都市であるハバロフスクの目と鼻の先。実際に島の東部はハバロフスク市の一部になっていて、工業地帯や別荘地などがあり、ハバロフスク市民の家庭菜園が2万ヵ所もあるらしい。結局この島に関しては中国側が妥協して、一部をロシア領とすることを認めた。モンゴル国境に近い内モンゴル自治区のボリショイ島についても、中ソ国境の要衝・満州里に近いことから同様に一部がロシア領のまま残った。またこの他中国領になった2つの島とロシア領になった1つの島については、99年に両国での「共同利用」が決まり、地元に住む相手側住民は5年間に限って島へ自由に上陸し、放牧や漁業などが続けられることになった。

結局のところ、中国としては「ロシアに奪われていた領土のほとんどを取り戻した」ということになり、一方のロシアにとっても「重要な一角はロシア領のまま残した」ということで、双方にとって面子が立つ決着になったようだ。

しかし、沿海州の政府関係者やハバロフスクの市民にとって、この決着はショックが大きかった。国境画定は2004年10月にプーチン大統領が中国を訪問した際に胡錦涛国家主席とのトップ会談で決めたのだが、事前に地元にはまったく相談や説明がなかったのだ。ロシアの民族主義者は、「プーチンは大ウスリースキー島に続いて南クリル(=日本の北方四島のこと)を日本に渡し、最後はカリーニングラードまでドイツに渡してしまうかもしれない!」と危機感を煽っており、北方四島の返還交渉で日本がとばっちりを受けることにもなりそうだ。

大ウスリースキー島では中国領となる地域ではロシア軍施設の撤去も終わり、中国側は税関の設置準備を進めている。近い将来、貿易拠点として発展することになるでしょう。


大ウスリースキー島・タラバーロフ島の係争地(左)と、ボリショイ島の係争地(右)




ボルネオ島 マレーシア領とブルネイ領とインドネシア領

マレーシアの地図  

ボルネオといえば、一昔前までアマゾンやニューギニアと並んで「秘境、未開」の代名詞のように言われていましたが、森林資源や石油資源の開発で、最近では自然破壊がなにかと話題になっていますね。

かつてのボルネオは各地で沿岸部を支配していたスルタンのほか、外来勢力による「アヤシイ国家」がありました。例えば西部のポンティアナクで中国人鉱山労働者が建国した蘭芳公司(※)とか、イギリス人の探検家ジェームズ・ブルックが「白人王」となって建国したサラワク王国(サラワク土侯国)とか、まるで「冒険ダン吉」の世界ですね。

※蘭芳公司は1777年に客家系の鉱山のボス・蘭芳伯が設立した会社形式の共同体で、大統領に相当する「大唐総長」は4ヵ月後とに互選で選出され、いわばアジア最初の民主主義共和国ともいえる存在。1884年にオランダに征服されて消滅した。
19世紀後半になると、それまでマラッカ海峡で覇を競っていたイギリスとオランダがボルネオにも本格的に進出して、イギリスはブルネイ王国とサラワク王国を保護領とし、さらにスールー諸島のスルタンからサバを獲得して、ここを北ボルネオ会社による会社経営の植民地とした。そして残る地域はオランダが次々と征服し、支配下においていった。

さて戦後、オランダ領の地域はスカルノが率いる独立戦争で1949年にインドネシアとして独立。イギリス領の地域では、日本軍の占領を経てサラワク王国と北ボルネオ会社は統治継続を断念して直轄植民地になり、ブルネイだけが保護領のまま残った。その後57年にマレー半島で独立したマラヤ連邦が、ボルネオやシンガポールのイギリス植民地と合併してマレーシア連邦を成立させよういう構想を発表すると、インドネシアによる統一を目論んでいたスカルノは「イギリスによる傀儡国家作りだ」と激怒。「マレーシア粉砕!」をスローガンにマラッカ海峡やボルネオの国境地帯で軍事行動を起こし、さらにフィリピンも「サバはもともとスールー諸島のスルタンが支配していたからフィリピン領」だと主張しだした。

結局マレーシア連邦は63年に成立したが、石油利権の配分とスルタンの地位をめぐってブルネイはイギリス植民地のまま残って加わらず(84年に独立)、シンガポールも65年に分離独立してしまった。現在でもサバ、サラワクは広範囲な自治権を持ち、入国手続きなどは本土と別々。ただしブルネイ沖合いのラブアン島だけは戦前からイギリスの直轄植民地だった関係で、連邦政府の直轄地になっている。

一時は一触即発の関係までいったマレーシアとインドネシアも、65年のクーデターで「反共第一」のスハルトがインドネシアの実権を握ると関係が改善し、67年にはともにASEAN(東南アジア諸国連合)を設立。最後まで領有権でもめてたシパダン島とリギタン島も、98年に国際司法裁判所の仲裁でマレーシア帰属が確認されて一件落着・・・と思いきや、2005年になって沖合の海底油田の利権をめぐって、再び対立。インドネシアは「島の領有権は譲っても、領海まで譲った覚えはない」と怒り出し、インドネシアのマスコミは往年のスカルノの「マレーシア粉砕!」演説を流して煽っているらしい。

とりあえずマラヤ連邦テンブロン も参照してくださいね

●関連リンク

ボルネオ歴史事典 ボルネオに関係した主に日本人の人物、企業、会社を解説
冒険ダン吉 島のオリンピック  戦前のアニメですよ




スバティック島 インドネシア領とマレーシア領

マレーシアの地図  スバティック島もしっかり載っています
スパティック島の衛星写真  (google map)

  

ボルネオ東岸の沖合にあるスバティック島は、島の中央を国境線が横切り、北半分はマレーシア領サバ州で南半分はインドネシア領東カリマンタン州。島の人口は約8000人で、うち2000人がマレーシア側に住んでいるが、島内の行き来は完全に自由で、国境線の真上にはカンポン・ムラユ(ムラユ村)があり、家の建物が両国に跨っている人もいるとか。島上の境界線は1981年に確定したが、村はそれより以前から存在していたわけですね。

ちなみにムラユとは「マレー」の意味で(というか、ムラユを英語にするとマレー)、マレーシアだけでなくインドネシアやブルネイ、シンガポールなどのマレー系住民やその言語(マレー語)を総称する言葉。もともと7世紀から12世紀にかけてスマトラ島中部に栄えたムラユ王国の言語だったが、ムラユ語はマラッカ海峡を挟んだ地域の貿易の共通語となった。戦後、植民地から独立する際に、ムラユ語を基礎に英語の近代用語を加えて作られた標準語が現在のマレー語で、オランダ語の近代用語を加えて作られた標準語がインドネシア語だから、マレー語とインドネシア語はほとんど一緒だ。そういうわけで、国境線上の村が「ムラユ村」なのはうってつけなわけですが、国境線が決まったときにわざとそういう村名に変えたのかも知れない。

しかし、スバティック島は密貿易や密入国(主にインドネシア側からマレーシア側への出稼ぎ)の拠点だ。近くマレーシア領の町・タワウから、インドネシア領のタラカンやヌヌカンへは高速船が運航されているが、インドネシアでのテロ事件を契機に乗客の荷物検査が厳しくなり、島での密輸に拍車がかかりそうだ。さらに周辺一帯は目と鼻の先のフィリピン領スールー諸島を根拠地とする海賊の常襲地帯だ(※)。

※海賊はモーターボートで沿岸の町に上陸し、銃を乱射しながら銀行や商店を襲い、ついでに若い娘も連れ去ってボートで逃走するという、電光石火の襲撃パターンを得意とするらしい。このほか最近ではイスラム過激派による襲撃事件もあって、2000年にはダイビングで有名なシパダン島で外国人観光客が誘拐される事件が起きた。
96年の統計によれば、サバ州の人口253万人のうち75万人がインドネシアやフィリピンからの出稼ぎ移住者で、このほかにも不法入国者が多数存在しているという。マレーシア政府では島の国境線を鉄条網で封鎖しようという動きもありますが、果たして国境線上の村はどうなるのでしょう?それより海賊退治が先決だろうと。。。

あの娘はいま ヌヌカンの旅行記
旅日記ーマレーシアその5 たわうあらタラカンへの国境の旅




ティモール島 インドネシア領と東ティモール領

東ティモールの地図  PDFファイル

ティモール島はインドネシアの東の外れのほうにある小さな島で、西半分はインドネシア領だが、東半分は東ティモール民主共和国として独立。「ティモール」とはインドネシア語で東の意味なので、東ティモールならティモール・ティモール、略して「ティムティム」。分断されていなかったら、世界のほとんどの人が存在すら知らない島だったと思いますが、なぜ国境線で仕切られるようになったかといえば、ポルトガルのふがいなさとインドネシアの勇み足のせい。

16世紀から17世紀にかけて、大航海時代のポルトガルは香料を求めて現在のインドネシアにやって来て、ティモール島のほかにも周囲のソロール島、アロール島、フローレス島などを支配したが、後にやってきたオランダに島を次々と奪われ、19世紀末にはティモール島の東部を残すだけとなった。

戦後、オランダ領はインドネシアとして独立するが、ポルトガル領は植民地のまま残り、74年に本国で起きたクーデターで植民地の放棄を決定。いきなり放り出される形になった住民たちの間で、独立かポルトガルとの連合か、それともインドネシアとの統合かとケンケンガクガクしている間にインドネシアが武力で併合。インドネシアとしては「東も西も同じティモール人なんだから、併合して当たり前だろ」と正当性を主張したつもりだったが、併合に抗議する住民を武力で弾圧し続けたため、国際社会の非難を浴びたあげく、99年に国連監視下で実施された住民投票では、(インドネシアとしては)まさかの独立が圧倒的多数で決定した。

こうして東ティモールは国連暫定統治を経て、2002年5月に独立したが、「石油が出るかも」という期待以外にほとんど産業はない地域。失業率は7割を超え続け、生活物資の大半を占めるインドネシア商品は「外国製品」になったので関税がかかるようになり、ほとんどの住民が話せないポルトガル語が公用語になったりで、前途多難な感じです。傍から見れば「独立すればいいってもんじゃなかろうに」と見えますが、現地の住民に言わせれば「とにかくこれ以上、野蛮なインドネシアの支配が続くのはイヤだった!」というわけで、平等な立場になった今後、ゆっくりとインドネシアとの統合が進んでいけばいいと思いますけど、どうでしょう?

詳しくは東西ティモールの国境最前線を行く東ティモール民主共和国 を参照してくださいね。

ひがちもってどんなとこ?  当HPの姉妹サイト。東ティモールの歴史入門編
ひがちも豆知識  これまた当HPの姉妹サイト。古代から東西ティモールが分割されるまでの歴史応用編




ニューギニア島 インドネシア領とパプアニューギニア領

英独蘭の3ヵ国でニューギニア島を分割していた頃の地図(1908年)  

日本じゃひところ「原野商法」なるものがありました。北海道あたりのどうしようもなく辺鄙な二束三文の土地を、「リゾート開発で値上がり確実」などと騙して売りつけ、財産を巻き上げてしまうという類の話ですが、19世紀のヨーロッパでは「ニューギニア商法」というのがあったそうな。「地上の楽園!ニューギニア」という謳い文句で開拓移民を集め、全財産投げ打って船の切符と土地を購入した移民たちが送り込まれたのは未開のジャングル。マラリアや熱病に倒れ、首狩りや食人の風習を持つ先住民に襲われて、生きて本国まで逃げ延びることができた人は、ホンのわずかだったとか・・・。

ニューギニア島は、グリーンランドに次いで世界で二番目に大きな島で、500の民族が住み800の言語が使われているとも言われているが、かつては西半分はオランダ、北東部はドイツ、南東部はイギリスと、3ヵ国が分割して統治していた。3ヵ国が争って進出するほど魅力的な植民地だったのかといえば、「ニューギニア商法」なんてのがあったくらいだからむしろ逆で、容易に手が付けられないような島なので最後まで残っていたというのが真相。マラッカ海峡から東インド諸島(現在のインドネシア)へ勢力を広げてきたオランダが西から、太平洋の南洋諸島から下ってきたドイツが北から、オーストラリア大陸を北上してきたイギリスが南からやって来て、最後に残っていたニューギニア島に相次いで進出。3ヵ国は1885年に協定を結んで境界線を定めて分割した。

しかし、各国とも海岸沿いにいくつか拠点を作ったくらいで、内陸部はまったくの放置状態。1936年になって飛行機で島を横断した人が、初めて内陸部の高原にも人間が住んでいることを「発見」したというほどだった。この内陸部の先住民たちは鉄を知らず、「石器時代」の暮らしを最近まで続けていたそうな(もっともイモ栽培主体の農業は、かなり発達していたようです)。

イギリス領の南東部は1906年にオーストラリア領となり、ドイツ領の北東部は第一次世界大戦でドイツが敗北したため、1920年に国連のオーストラリア委任統治領となった。こうしてニューギニア島の東半分は実質的にオーストラリアの植民地になり、旧ドイツ領は豪領ニューギニア、旧イギリス領は豪領パプアと呼ばれるようになったが、「ニューギニア」とは最初にこの島を訪れた西洋人が、先住民を見て「アフリカのギニアの黒人に似てる!」と思ったので付いた名称。「パプア」とはマレー語で「縮れ毛の人」という意味だ。一方でオランダ領は西イリアンと呼ばれたが、「イリアン」とは地元のピアク語で「日出る処」の意味。

戦時中は日本軍との激戦地となったが、戦後も長らくオランダとオーストラリアによる植民地支配が続いた。このうちオーストラリア領は、75年にパプアニューギニアとして独立するが、ヤヤコシイ展開となったのがオランダ領。旧オランダ領東インドは1949年にインドネシアとして独立したが、この時オランダ領西イリアンは含まれなかった。ネール、ナセル、周恩来と並んで非同盟諸国のリーダーを自認したインドネシアのスカルノ大統領は、オランダ植民地はすべてインドネシアによって解放されるべきだと主張したが、61年にオランダは西イリアンを「西パプア」として単独で独立させようとしたため、スカルノは「西イリアン奪還」を掲げて軍事作戦を開始。62年に西イリアンは国連仲裁委員会 (UNTEA)による暫定統治を経て、翌年インドネシアによる統治に移され、69年に住民投票を経てインドネシアが正式に併合。イリアン・ジャヤ州となった。「ジャヤ」とは偉大なという意味で、スカルノによる命名だった。

しかし、現地住民の間ではインドネシア統治下での「ジャワ化」に反発して独立運動が続き、1990年代末からは東ティモールの独立に刺激されてイリアンジャヤでも再び独立運動が活発化。インドネシア政府は宥和策として2002年にイリアンジャヤ州をパプア州に改名したが、名前を変えたくらいじゃ反発は収まっていない。

一方で、パプアニューギニアでもブーゲンビル島 の独立紛争が続いています。

●関連リンク

外務省―パプアニューギニア 
秘境パプアニューギニア 




ボズロジェーニエ島 カザフスタン領とウズベキスタン領

 
最近のアラル海(左)と1970年代末のアラル海の地図(右)。「ラ」の字の下にあるのがかつてのボズロジェーニエ島

湖のくせに「海」だと称するところがいくつかありますね。死海にカスピ海、そしてアラル海。なぜでしょう・・・?謎です。

さてそのアラル海。かつてはソ連国内にあったわけだが、ソ連解体で北はカザフスタン、南はウズベキスタンと2つの国に接する湖となった。そして湖に浮かぶボズロジェーニエ島の上にも国境線が引かれて、南北に分断された状態。島に住んでる人はさぞ不便になったろうと思いきや、ボズロジェーニエ島は無人島、というか人が住むなどトンでもないという状況だ。

ボズロジェーニエ島にはかつて住民がいた。1936年にソ連はこの島に生物兵器の実験施設を作り、軍隊や研究者が常駐していた。島では炭疽菌やペスト菌、ボツリヌス菌、ブルセラ菌、ツラレミア(野兎病菌)、ベネズエラ馬脳炎ウィルス、天然痘ウイルス・・・などなどを使った動物実験が続けられていたが、ソ連の解体に伴って、実験施設は91年に閉鎖。ロシア軍は残っていた菌やウィルスを殺菌処分して引き揚げた・・・はずだったが、2000年にアメリカの調査チームが調べたところ、殺菌されて地下数メートルに遺棄された炭疽菌の胞子数十トンのうち一部がまだ生きていることが判明したらしい。

ところでアラル海は、かつては世界で4番目に大きな湖だったが、1950年代から周辺一帯で大規模な綿栽培が始まり、アラル海に流れ込む川の水が灌漑用水に使われて減少したため、アラル海の面積は急激に減少。それに伴って雨も減り、周辺一帯は砂漠化が進んで、現在ではアラル海の広さは4分の1になってしまった。一方で湖が干上がるにつれてボズロジェーニエ島の面積は広がり、もともと200平方km足らずだった島は10倍以上に拡大している。

そこでいま懸念されているのは、いずれ島が本土と陸続きになり、島で生き残っているという炭疽菌が、ネズミなどの動物に感染して本土に撒き散らされること。「2010年頃にボズロジェーニエ島は本土と陸続きになる」と予想して、アメリカの援助で炭疽菌の除去作戦が予定されていたが、最近の衛星写真 を見るとすでに島の南部は本土と陸続きになり、「島」ではなくなってしまったようだ。

もともとソ連がここに生物兵器の実験施設を作ったのは、本土と隔絶された島なので病原菌が外部に広がる恐れはないだろうと考えたため。それでも86年には周辺一帯でペストが流行し、88年には家畜50万頭が死んで周辺住民に避難命令が出る事件が起きた。最近、アラル海南岸では、乳幼児の死亡率が上昇していると言われており、住民への健康被害が深刻になりつつあるようだ。

●関連リンク

滅び行く湖 アラル海  干上がりつつあるアラル海の現状について




キング・ファハド・コーズウェイの途中の島 バーレーン領とサウジアラビア領 

キング・ファハド・コーズウェイの衛星写真 なんだかブラジャーのような形をした島ですね

 
バーレーンの地図。2003年(左)と1980年(右)。(クリックすると全体図に拡大します)

バーレーンはアラビア湾岸の小さな島国だが、石油が出るので金持ち国。1986年にサウジアラビアとの間にキング・ファハド・コーズウェイという海上道路が開通して、アラビア半島へ車で行けるようになった。もっとも全長25kmなので、サウジアラビアへ着くまで1時間近くかかる。中間には面積66ヘクタールの島があって、ここでバーレーンとサウジアラビアの出入国手続きをする仕組みだが、この島は両国で分割されている。島にはサウジ側とバーレーン側にそれぞれ展望台があって観光スポットにもなっている。

この島は東京湾アクアラインの海ほたるみたいな人工島かと思いきや、コーズウェイが開通する前の地図を見ると、バーレーン側に小さな島が存在している。この島をサウジアラビア側へ拡張して「国境の島」に変えたようだ。

1時間がかりで橋を渡る人などどれだけいるのかと思いきや、週末(イスラム圏は金曜日が休日)になるとサウジアラビアからバーレーンへやって来る人たちが詰め掛けて渋滞し、第二のコーズウェイ建設中とか。なぜまたバーレーンにサウジの人が殺到するのかといえば、同じイスラム圏の国と言っても、サウジアラビアは戒律にとっても厳しい国、一方のバーレーンはかなり緩い国。というわけで、週末になると酒が飲める(ついでに女も買える)バーレーンへ息抜きにやって来る人が大勢いるというわけ。

キング・ファハドとは2005年に死去したサウジアラビアの第5代国王の名前。国王ならバーレーンにもいるのに、なぜサウジの王様の名前がついているかというと、建設費12億ドルはサウジが負担したからで、当然の結果ですね。

なおバーレーンでは、反対側のカタールとの間にもっと長い海上道路を建設する計画もあるとか。

●関連リンク

バーレーン マナーマ キング・ファハド・コーズウェイ 国境の島にある展望台の様子が載っています




キプロス島 キプロス領と「北キプロス」領とイギリス領

キプロス島の地図  

たいていの世界地図を見ると、キプロス島はキプロス共和国の領土になっているが、現実は74年の内戦以来、トルコ系住民の住む北部とギリシャ系住民が住む南部は分断され、北は「北キプロス・トルコ共和国」が実効支配している。国境線の鉄条網は首都ニコシアの中央を貫き、外国人観光客しか往来できない。しかしこの北キプロスを承認しているのは、世界でもトルコだけ。2004年には国連の調停で、南北統一の是非を問う住民投票が実施されたが、南では反対多数でボツとなり、分断は当分続くことになりそうだ。

そしてこれも地図には載っていないが、キプロス島にはイギリスが軍事使用するための小さな飛び地がいくつかあります。詳しくはデケリア&デケリア発電所 を参照してくださいね。

●関連リンク

分断都市ニコシア(レフコシャ) キプロス島内の国境線の写真
イチローさんの旅行記 




マーケット島 フィンランド領とスウェーデン領 

マーケット島の詳細図  
17世紀半ばの北欧の地図 フィンランドがスウェーデン領だった頃

スウェーデンとフィンランドを隔てるボスニア海の中央に位置するオーランド諸島は、フィンランド領だが住民の大半はスウェーデン系。そこでフィンランド政府は高度な自治権を認めていて、自治州政府が存在している。マーケット島(マーケット・リーフ)はそのオーランド諸島とスウェーデンの中間にある岩礁で、スウェーデンとフィンランドで分割しているが、ここのフィンランド側はオーランド諸島の自治州政府の管轄ではなく、フィンランド政府が直轄している。

マーケット島の標高は2メートル足らずなので、波が高ければ洗い流されてしまうような状態だが、面積わずか3・3ヘクタールにも関わらず、島の詳細図を見ると国境線は島の上で逆S字型に蛇行している。こんな奇妙な国境線が引かれたのは一体なぜだろう?

フィンランドは12世紀からスウェーデンの属領だったが、19世紀初めにナポレオンがヨーロッパを席巻すると、1808年にナポレオンと手を結んだロシアがスウェーデンを攻撃し、翌年のフレデリクスハムン和平条約でフィンランドはロシアへ割譲されることになった。こうしてオーランド諸島とスウェーデン本土との間に国境線が引かれることになり、ちょうど中間にあったマーケット島を横切ることになったが、当時は島の具体的な地図がなかったため、具体的に島のどこを国境線が通っているのかは曖昧なままだったにも関わらず、ロシアは1885年に灯台を建ててしまった。

その後、1918年にフィンランドはロシアから独立し、マーケット島の灯台はフィンランドが引き継いだが、後に島の中心点を境に具体的な国境とすることが決まると、灯台は中心点よりもスウェーデン側に位置していることが問題になった。結局1985年に改めて国境線が引き直され、島のスウェーデン寄りにあった灯台をフィンランド領にする代わりに、フィンランド寄りの同じ面積の土地をスウェーデン領にすることにして、狭い島(というより岩)に複雑な国境線が描かれることになったという次第。海岸の国境は領海や漁業権の設定が絡むので動かせず、実際に利用価値がない島の上の国境線だけを曲げたようだ。

フィンランド領の灯台には、宿舎や入管など付随する建物3棟もあるが、灯台は1976年に自動化されたため、現在では無人島だ。しかしアマチュア無線の世界では、マーケット島(マーケット・リーフ)は特異な存在として知られているようで、しばしばアマチュア無線の愛好者が島で交信をするために上陸しているようだ。

インターネットの国別ドメイン名(jpなど)のように、アマチュア無線にも国ごとにエンティティというものがあり、1つの国の中に植民地や海外領土、自治領など複数のエンティティが設定されているケースもある(インターネットのドメインでも、オーストラリア=auとは別に、クリスマス島=cxや、ココス諸島=ccがあったり、中国=cnとは別に、香港=hkや、マカオ=moがあったりしますね)。インターネットでは「どれだけたくさんの国別ドメインにアクセスしたか?」なんて何の自慢にもならないが、アマチュア無線では「どれだけたくさんのエンティティと交信したか」を競っている人たちがいて、マーケット島のように普段人が住んでいない島は交信のチャンスが滅多にない。そこで島に上陸して電波を発射すれば、世界中のアマチュア無線の愛好者に感謝されるし(?)、自分も世界中さまざまな地域の人と交信できるという次第。

しかもマーケット島は2つの国に跨っているにも関わらず、エンティティは1つというのも珍しい。もっとも島で機材を設置したりアンテナを張ったりできる場所は建物があるフィンランド領に限定されるので、スウェーデン領から電波を出すのは難しい様子。

 
左側はスウェーデン、右上はフィンランド、中間の大きな島がオーランド諸島で、矢印のあたりを拡大するとマーケット島が・・・

●関連リンク

マーケット島の写真 高波が来たらどうなるんでしょうね・・・?
OJOLA2006 アマチュア無線で交信するためにマーケット島へ上陸した記録。島の建物内部の写真などがたくさんあります




ウーゼドム島 ドイツ領とポーランド領

ドイツとポーランドの地図  
ウーゼドム島の地図  
ドイツの地図(1942年)  オーデル川はドイツの東端どころか、ほぼ中央に位置していました
ウーゼドム島の衛星写真  (google map)

バルト海に面したウーゼドム島は、オーデル川の河口に横たわる砂州のような島だが、島の上に国境線が走り、西側はドイツ領、東側はポーランド領に二分されている。ドイツ領が373平方kmに対してポーランド領は72平方kmと、面積ではドイツ領が5倍以上だが、人口はドイツ領31500人に対して、ポーランド領は45000人と逆転。これはオーデル川の河口に位置する港町・シフィノウィシチェがポーランド側にあるためだ。

ウーゼドム島に国境線が引かれたのは、第二次世界大戦後のこと。それまでドイツとポーランドとの国境線は200kmほど東にあったが、敗戦でドイツは東部の領土をポーランドへ割譲することになり、新たにオーデル=ナイセ線、つまり上流(南部)ではナイセ川、下流(北部)ではオーデル川が国境とされた。

しかしオーデル川が国境線になると、河口近くにある工業都市のステッチン(現:ポーランド領シュチェチン)はオーデル川の両岸に市街地が広がっているため、都市が分断されてしまう。そこでステッチンをまとめてポーランド領とするために、国境線はステッチンの手前からオーデル川より西へずらされ、さらにステッチンから外海への出口を完全にポーランド側の管理下に置くべく、オーデル川河口の両岸をポーランド領とするために、ウーゼドム島に国境線が引かれたという次第。

ウーゼドム島は19世紀から海岸リゾート地として有名で、現在でもドイツ領にはリゾート・ホテルが多く、観光客を集めているようだ。

●関連リンク

USEDON.DE ウーゼドム島の観光案内(独語)




ノイジードラー湖に浮かぶ小島 オーストリア領とハンガリー領 

オーストリアの地図  
ノイジードラー湖の衛星写真 (google maps)
 

b 
右図はピンクの線が国境で、左上の端(Fの字の上)あたりが歴史的な「ピクニック会場」

ウィーンから南東へ50km、ハンガリーとの国境にあるノイジードラー湖(ハンガリー名はフェルトゥー湖)は、「水鳥の楽園」と呼ばれる観光地。かつて東西冷戦が激しかった頃、資本主義オーストリアと社会主義ハンガリーを隔てる最前線だったこの一帯は厳しく警備されていたためか、自然が手付かずの形で残り(※)、現在では国立公園に指定されて保護されている。

※他にも朝鮮半島の38度線の非武装地帯や、香港と中国の境界に面した米埔自然保護区など、東西冷戦の最前線で一般人の立ち入りが禁止され続けた地域は、結果的に「野鳥の楽園」になっている場合があります。
で、そのノイジードラー湖の上を国境線が横切っているのだが、現地の地図をよく見てみれば、いくつかの小島の上を国境線が横断。さらに南側(ハンガリー側)から突き出した半島が国境線で分断され、少なくとも3ヵ所がオーストリアにとって「対岸の飛び地」状態になっている。もっともノイシードラー湖は深いところで水深1・8メートルというから、湖と言うより湿地帯。その年の雨量によって水がほとんどなくなってしまうこともあるというから、いつでも島になっているとは限らないとか。
 
東ドイツ人に「ピクニック参加」を呼びかけたビラ
さて、そういうアヤシイ場所だからこそ起きた大事件が、1989年8月の汎ヨーロッパ・ピクニックだ。ゴルバチョフの改革で、ソ連や東欧の社会主義圏では民主化・自由化へのうねりが歯止めが利かなくなっていた当時、東ドイツでは大勢の国民がハンガリーやチェコスロバキア、ポーランドなどの西ドイツ大使館へ亡命を求めて詰め掛け、混乱に陥っていた。

そこでハンガリーの民主化組織が計画したのが、汎ヨーロッパ・ピクニックというイベント。オーストリア領に突き出して国境線が入り組んでいるノイジードラー湖の畔へみんなで「ピクニック」がてら出かけて、ヨーロッパの将来を考えるシンポジウムを開こうという趣旨だが、オーストリア経由で西ドイツへ亡命しようとハンガリー国内でチャンスをうかがっていた東ドイツ人たちにも参加を呼びかけていた。こうしてシンポジウムが始まるやいなや、1000人の東ドイツ人たちが一斉に国境線へ押し寄せて越境。現場にいたハンガリーの国境警備兵は見て見ぬふりどころか、倒れた人を助け起こす始末。実はソ連・東欧圏の終焉も近いと読んだハンガリー政府は、西ドイツ政府に恩を売り西側諸国へ接近するために、あらかじめ「ピクニック」の真の狙いを知ったうえで、黙認していたのだ。

それまで硬く閉ざされていた堰がひとたび切れれば怒涛の如く洪水が押し寄せて来るわけで、「ハンガリーからオーストリア経由で西ドイツへ行ける」と知った東ドイツ人が次から次へとハンガリーに殺到し、ハンガリー政府は「混乱収拾」を理由に9月には正式に国境を開放して、6万人といわれる東ドイツ人が越境。こうしてアヤシイ場所でのピクニックを契機に、11月にはベルリンの壁が崩壊して、翌年には東ドイツという国家が消滅。91年にはソ連も解体してしまったのでした。

現在、ノイジードラー湖は世界遺産にも登録されている。手付かずの自然に加えて、世界史を変えたピクニックも後世へ伝えるべき遺産ということらしく、ハンガリー政府観光局の世界遺産地図には、しっかりと「ピクニック会場」が明記されています。

●関連リンク

ハンガリー政府観光局 湖やピクニック記念公園の写真があります




アイルランド島 アイルランド領とイギリス領

アイルランド島の地図  

●まだ準備中です




その他の細かな島々

●Purnujarvi湖の島 フィンランド領とロシア領 (面積15ヘクタール)

フィンランド東南部のサイマー湖一帯は、大小さまざまな湖がごちゃごちゃと密集している場所だが、Purnujarvi湖はその1つ。フィンランドは1918年にロシアから独立したが、当初の国境線はフィンランド湾の奥とラドガ湖を結ぶ線で、ロシア革命まで首都だったサンクトペテルブルク(ソ連時代はレニングラード)のすぐ近くだった。そこでソ連は1939年、第二次世界大戦の勃発に乗じてフィンランドに侵攻し、国境線を北へ追いやり、ハンコ半島を租借した。この時新たに引かれた国境線がサイマー湖一帯の「湖ごちゃごちゃ地帯」を横切ることになり、国境線にひっかかったPurnujarvi湖の小島が分断された次第。

なおサイマー湖からフィンランド湾に抜けるサイマー運河と河口近くにあるマリービソッキー島は、現在フィンランドがロシアから租借しています。

 
 

●Hison島 スウェーデン領とノルウェイ領 (面積8ヘクタール)
●Utgardsjoen湖のStoroya島 スウェーデン領とノルウェイ領 (面積4ヘクタール)
●Sodra Boksjon湖のKulleholmen島 スウェーデン領とノルウェイ領 (面積0・8ヘクタール)
●Sodra Boksjon湖のTagholm島 スウェーデン領とノルウェイ領 (面積0・3ヘクタール)
●Sodra Boksjon湖の中洲 スウェーデン領とノルウェイ領 (面積0・1ヘクタール)

よく「国境線で二分されている世界で最も小さな島は、セントマーチン島」だと言われているが、このページを見てわかる通り、実際にはもっと小さな島はたくさんあって、世界最小はおそらくSodra Boksjon湖の中洲・・・いや、ノイジードラー湖の小島(上述)の方が小さいかも知れない。

Sodra Boksjon湖があるのはスウェーデンとノルウェーの国境地帯。北欧やカナダの北部には氷河による侵食でできた湖が無数に散らばっているエリア。河川を国境線にする場合は、船の通り道を国境線にするのが原則だから、川の中洲や島を国境線が横切ることはほとんどないが、湖の場合は国境線が達した湖岸と湖岸を直線で結ぶケースが多いので、運悪く(?)直線上に島があれば国境線で分断されることになってしまう。もっともHison島の場合は湖の中で国境線が曲がっているようですが・・・。

スウェーデンとノルウェーは、EU諸国の多くと同じくシェンゲン協定によって行き来が完全に自由化されているので、島の上を国境線が横切っているといっても、鉄条網があったりするわけではありません。

   
これらの湖があるのはノルウェイの首都・オスロの東南の国境地帯(左)。Hison島(右)

  

Sodra Boksjo湖の写真 
 

●プロビンス島 アメリカ領とカナダ領 (面積28ヘクタール)

プロビンス島があるのは、アメリカのバーモント州とカナダのケベック州に跨るメンフレマゴッグ湖で、ネス湖のネッシーならぬ、メンフレという怪物が棲んでいるということで売り出している場所。

 

Memphre  the Sea Serpent of Lake Memphremagog メンフレの紹介サイト。湖の写真もたくさんあります
 

●バウンダリー湖のイースト島 アメリカ領とカナダ領 (面積3・3ヘクタール)
●バウンダリー湖のウエスト島 アメリカ領とカナダ領 (面積1・1ヘクタール)

バウンダリー湖、つまりその名も「境界湖」があるのは米ノースダコタ州とカナダのマニトバ州との境。このあたりの国境は北緯49度線で一直線に引かれているので、境界湖の島が引っかかったという次第。北緯49度線は太平洋岸でもロバーツ岬、東側ではエルム岬という飛び地を形成しています。

バウンダリー湖の写真 冬はこんな感じらしい
 

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