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他の島に支配されるくらいなら、イギリスに支配されたほうがマシ!
アンギラ共和国
首都:ザ・バレー 人口:6000人(1967年)
67年9月まで使用した人魚の旗(左)と、それ以後使用したイルカの旗(中)、それと現在の旗(右)
1967年2月27日 英領セントクリストファー・ネーヴィス・アンギラとして、イギリスの自治領になる
1967年7月12日 アンギラが独立を宣言
1969年2月6日 アンギラ共和国の成立を宣言
1969年6月19日 イギリスの植民地統治下に復帰
1980年12月19日 セントクリストファー・ネイビスと正式に分離
カリブ海の島々 右端の方にAnguilla島とST. KITTS AND NAVISがあります「もう植民地はイヤだ!」と独立運動をするケースは世界の歴史上いろいろたくさんありますが、「植民地の方がいいや!」と独立運動を始める話は滅多にありません。そんな奇妙な「事件」が起きたのが、カリブ海に浮かぶ島・アンギラ。一体どういうことでしょう?
カリブ海には人口数万人とか数十万人のミニ国家や、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの植民地が入り乱れている状況だが、戦後イギリスは、小さな植民地をいくつも抱えても採算に合わないと、とりあえずカリブ海のイギリス植民地をひとまとめに独立させることにして、1958年に英連邦内の自治国として 西インド連邦 を結成させた。しかしイギリス領を無理につなげた飛び地国家はうまくいかず、4年半ほどで失敗。面積が大きかったジャマイカと、石油が出たトリニダード・ドバゴは分離してそれぞれ単独で独立してしまい、余計採算が合わないような規模の小さい植民地だけが残る結果になった。
そこで全部ひとまとめにして独立させるのは止めて、植民地時代の行政区分をもとに、いくつかのグループに分けて独立させようということになり、手始めに自治権を与えることにした。こうしてセントクリストファー島とネーヴィス島、アンギラ島は、セントクリストファー・ネーヴィス・アンギラとして、67年2月に英連邦の自治領となり、首都は一番大きいセントクリストファー島(といっても、人口2万6000人ほど)のバセテールに置かれた(※)。
※「クリストファー」というのは、コロンブスのファーストネームから付けられた島名で、クリストファーの愛称はキッツだから、セントキッツ島とも呼ばれている。ネーヴィス島も日本語ではネービス島、ネイビス島、ネイヴィス島・・・etc
初代大統領のピーター・アダムス(左)と、2代目大統領で「アンギラの父」ウェブスター(右)これに猛反発したのがアンギラ島の住民たち。セン トクリストファー島とネーヴィス島は隣り合っているものの、アンギラ島からは中間にフランス領やオランダ領、そしてフランスとオランダが半々に分け合う珍妙な セントマーチン島 などを挟んで150km離れている。自治権が与えられるということは、それだけ首都が置かれたセントクリストファー島の権限が強くなるということで、将来そのまま独立しようものならセントクリストファー島による支配はもっと強まる。遠くの大国・イギリスに支配されるのはまだしも、ちょっと離れた小島に支配されちゃタマラナイというわけで、アンギラ島の住民たちは自治領発足3ヵ月後に、セントクリストファー島から派遣されてきた役人や警官を追い出して、7月には独立を宣言、勝手に自治領政府の統治から離れてしまった。
セントクリストファー島の政府はアンギラ島を取り戻そうにも、軍隊はないし、警官隊だってたいした装備があるわけじゃない。手をこまねいているうちにアンギラ島は国連へ陳情団を送ったり、69年にはアンギラ共和国(人口6000人)の成立を改めて宣言して、国際世論にアピールを続けた。こうしてしびれを切らした自治領政府は、イギリス本国へ「独立ゲリラの鎮圧」を要請。イギリスから武装警官隊が派遣されアンギラ島へ上陸すると、「独立ゲリラ」は抵抗するどころか、イギリス国歌を歌いながら大歓声で出迎え、島では一発の弾丸も撃たれることなく、イギリスの植民地統治下に「復帰」した。
アンギラ島は76年に自治権が与えられ、独立運動を率いた人民進歩党(PPP)のウェブスターが首相に就任。80年には正式にセントクリストファー・ネーヴィスと分離して、現在でもイギリス植民地のままやっています。人口はほぼ倍に増え、主要産業は観光と製塩とロブスター漁。アンギラとはウナギのことですが、ウナギが捕れるわけじゃなくて、島の形がウナギみたいってことですかね?
★ネーヴィス島の分離独立運動
ネーヴィス島政府の旗一方で、アンギラ島に逃げられた自治領政府は、83年にセントクリストファー・ネーヴィスとして正式に独立したが、今度はネーヴィス島(人口1万2000人)が分離独立を要求し始めた。自治領時代の77年に行った住民投票では、分離賛成4193票に対して、反対はたったの14票だったが、セントクリストファー島の自治領政府は「投票は無効」と宣言して黙殺。イギリスからの独立にあたって、セントクリストファー島とネーヴィス島は連邦制を導入したものの、ネーヴィス島の独立運動はその後も続き、97年にはネーヴィス島の議会が分離独立を決議。翌年行われた住民投票では61・8%が分離に賛成したものの、独立には3分の2(66・7%)の賛成が必要というルールだったため、ネーヴィス島は独立できずにいる。
ネーヴィス島が独立したがっているのは、かつてのアンギラ島と同じで、連邦政府(=セントクリストファー島)に予算や権限を握られているのが不満なため。連邦政府は「財政難」を理由に84年にネーヴィス島への補助金を停止し、ネーヴィス島の政府は不渡り手形を出して公務員への給与が払えなくなったり、91年にはネーヴィス島の警察署が火災になったが、連邦政府が再建費用を出し渋ったため、ネーヴィス島の警官は焼け跡で仕事を続けるハメになる・・・なんて事件が続いていたそうで、小さな国の主導権争いは深刻だ。
●関連リンク
外務省 セントクリストファー・ネーヴィス
カリブ海(小アンチル諸島)旅行記 (1/3) アンギラ島の旅行記
Nevis Naturally ネーヴィス島観光協会のサイト(英語)
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