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結果的に住民と大統領の命を救った「安全地帯」

デケリア&デケリア発電所

イギリス領&キプロス領

 
1571年 オスマン・トルコがキプロスを支配
1878年 イギリスがオスマン・トルコからキプロスを租借する
1925年 イギリス植民地となる
1960年 キプロス共和国が独立。ただしDhekeliaとAkrotiriの英軍基地一帯はイギリス領として残留
1963年 ギリシャ系住民とトルコ系住民の内戦が勃発し、翌年から国連軍が駐屯
1974年 ギリシャ軍が後押ししたクーデターとトルコ軍の介入により、キプロスが南北に分断される
1977年 北部のトルコ系地区で「キプロス共和国内トルコ連邦国家が設立
1983年 北部で北キプロス・トルコ共和国が成立

デケリアの衛星写真  (google Earth)
アクロティリの衛星写真  (google Earth)

分断国家といえば、かつてはドイツ、ベトナム、イエメンといろいろあったのに、今は朝鮮半島くらい。あと中国も一応そうですね、中華人民共和国と中華民国があるから。それからもう1つ、「世界が認めない分断国家」がキプロス。キプロス島はコンクリートの壁や鉄条網で東西に隔てられ、首都ニコシアも市街地が真っ二つに分割されている。壁の南側にはキプロス共和国、北側には北キプロス・トルコ共和国があるが、北キプロス政府を承認しているのは世界でもトルコだけ。キプロスの人口78万人のうちギリシャ系が77%、トルコ系が18%を占めていて、北キプロスはトルコ系住民だけの「国家」だ。

キプロスは1960年の独立当初は統一国家だったのになぜ分断されたかというと、ビサンティン帝国の復活を夢見たギリシャの無謀な拡張欲のせい。第一次世界大戦でオスマン・トルコが解体した時、ギリシャはイスタンブールならぬコンスタンティノーブルや エーゲ海東岸の奪還 を目指して失敗したが、その後エーゲ海の島々を地道に取り戻し、その仕上げにギリシャ系住民が多いキプロス島を併合しようとして大失態を演じたのだ。

地中海の要衝・キプロス島は、イギリスがエジプト防衛のための拠点としてオスマン・トルコから租借していたが、第一次世界大戦後に植民地として併合した。植民地で民衆の不満が支配者へ向けられないようにわざと民族対立を煽っておき、自らは調停者の役を演じるという分割統治の手法は、歴史的に「腹黒紳士」たるイギリスが得意とするやり方だが、キプロスでも少数派のトルコ系住民に肩入れし、北部では行政上の正式な地名にトルコ語を採用してギリシャ系住民との対立を煽ったりした。

1960年にキプロスが独立を達成すると、ギリシャ正教の大司教で独立運動の指導者でもあったマカリオスが大統領に就任するが、トルコ系住民から選ばれる副大統領には防衛や外交を含めた拒否権など大きな権限を与えていた。

しかし、やがてギリシャ系住民の間ではギリシャへの併合を目指す運動が高まり、マカリオスも当初はこれに同調して63年に憲法を修正。副大統領の権限を縮小するとともに、キプロスを独立した国家と規定する条文を削除してギリシャとの統合の道を開いた。このため猛反発したトルコ系住民との間で内戦が勃発し、翌年に国連軍が派遣されてとりあえず停戦。その後、マカリオスはギリシャの軍事独裁政権への批判を強めるとともにソ連に接近し、キプロスはギリシャを追われた民主化活動家の拠点となった。こうしてキプロスは、トルコ系とギリシャへの統合派、ギリシャ系だが軍事政権との統合には反対派の3つに分かれて対立が続いた。

そして74年7月、ギリシャ軍の支援を受けたギリシャ系統合派の民兵がクーデターを起こす。これにはソ連に接近した「赤い坊主」マカリオスを追放したがっていたアメリカがお墨付きを与えていた。クーデター部隊は戦車を先頭に大統領官邸へ投入して、専用車で脱出しようとしていたマカリオスを車ごと粉砕し、傀儡政権を樹立したまでは良かったが、実はマカリオスは生きていて半日後にラジオで肉声を流す。クーデター部隊が爆破した専用車に乗っていたのは、あらかじめこうなることを予想して作らせておいた蝋人形だった・・・というなんだかスパイ映画みたいな話だが、マカリオス大司教の「復活」にギリシャ軍は大混乱に陥る。

トルコ軍がトルコ系住民保護のためキプロスへ出兵し瞬く間に北部を占領すると、ギリシャ軍はトルコ本土への侵攻を決めて国民に総動員令をかけるが、上から下まで腐敗していた軍事政権の将校らが武器の横流しに精を出していたため、武器庫にあるはずの武器がなく、責任のなすり合いの果てに軍事政権は数日後に自ら崩壊し、ギリシャは棚からボタ餅式に民主化が実現したのであった。。。。

と、長々とキプロス紛争の顛末を書いたが、こうして74年以来キプロス島は分断されたままである。もともとキプロス島ではギリシャ系とトルコ系は地域に関係なく混住していたが、クーデターとトルコ軍侵攻の過程で虐殺事件が起き、トルコ系住民は北へ、ギリシャ系住民は南へと難民になって完全に分かれた。境界線一帯には国連軍の監視地帯が作られ、南北の行き来が出来るのはニコシア市内の検問所1ヵ所だけで、それも外国人しか通れなかった(現在では検問所は4ヵ所に増加して、南北の島民は指定された時間内なら行き来可能)。当初はキプロス島の37%を抑え、重要な港や観光地がある北が経済的に優位に立っていたが、国際社会から孤立したために貿易は衰退。一方で南は企業活動に税金がかからないタックス・ヘブンとして発展したためキプロス島の「南北格差」は拡大し、現在では南の住民1人あたりのGDPは北の3倍に達している。

そして2004年4月にはキプロスのEU加盟を前にして、国連の調停案による統一の是非について、南北で同時に住民投票が実施された。調停案は(1)南から北へ帰還するギリシャ系住民の数を制限する、(2)北ではギリシャ系住民の土地所有を制限する、(3)国会の議席数はギリシャ系とトルコ系が同数、(4)トルコ軍の7年間の駐留を認める・・・といった内容で、著しく北のトルコ系住民に有利な内容。そもそもキプロス内戦のきっかけは、トルコ系住民に与えられていた「拒否権」をギリシャ系(マカリオス)が剥奪したからで、少数派のトルコ系住民の権利を尊重すべきということなのだろうが、住民投票の結果は南のギリシャ系住民の78・5%が反対して調停案は否決され(北のトルコ系は61・5%が賛成だった)、南のキプロス共和国だけがEUに加盟することになり、北はますます孤立を強めている。

さて、ここからが本題。キプロス島には国連軍の監視地帯のほかにイギリス軍の基地が2ヵ所ある。デケリアは南北境界線の一部になっているが、南海岸のアクロティリは境界線とは無関係の場所だ。これらの場所は紛争後に停戦監視のために作られたのかといえば、さにあらず。60年のキプロス独立時から存在し、イギリスの主権下にある、つまりイギリス領なのだ。外国の軍隊が駐屯している国はいくつもある。日本にも米軍基地があるが、協定に基づいて基地を使用させているわけで、治外法権は認めているものの主権はあくまで日本。つまり米軍基地はアメリカ領ではない。しかしキプロスの英軍基地はキプロス独立時にイギリス領のまま残されたもので、現在では「イギリス海外領土」としてジブラルタルと同じ扱いになっている。

イギリスの領土だから、軍人だけでなく行政官もいて、キプロスには高等弁務官が派遣され、裁判所や警察、刑務所もある。ただしイギリスの法律がそのまま適用されるわけではなく、キプロスの法律に準じた法令が適用される仕組み。最近ではキプロス政府と協調して野生動物の密猟取り締まりを強化しているそうだ。このイギリス領内には軍関係者ら英国人8500人のほか、キプロス人も1850人住んでいるが、彼らには英国の市民権は与えられない。

キプロス独立にあたってイギリスがあくまで領土の保持にこだわったのは、当時まだアラビア半島や東南アジアに植民地を持っており、キプロス島を戦略基地として重要視していたから。もっともイギリスは68年にスエズ運河以東からの軍事的撤退を発表してキプロス島の基地保持は意味が薄れてしまうが、結果としてキプロス紛争時にはキプロス人とってこのイギリス領は重要な役割を果たした。ギリシャ統合派民兵に包囲されて虐殺されそうになった南部のトルコ系住民8000人はイギリス領内に逃げ込んで助かったし、蝋人形を使って時間を稼いだマカリオス大統領が姿を隠したのもイギリス領。もっとも、植民地時代に民族対立を煽ってキプロス紛争の火種をまいたのはイギリスでしたけどね。

最近イギリスはキプロス島の基地を通信拠点とするために巨大アンテナを建設しているが、そこから発射される低周波が健康に悪影響を与えるとして、2001年には建設に抗議する周辺住民が基地になだれ込む事件が起きた。





★イギリス領の中にあるキプロス領の飛び地

それからデケリアのイギリス領内のうち、Ormidhia村Xylothimbou村デケリア発電所キプロス領の飛び地になっている。

デケリアの地図
デケリアの詳細図
デケリア発電所の衛星写真  (google maps)

もっと厳密に言えば、キプロス領になっているデケリア発電所の敷地はイギリス領の道路によって南北に分割されているらしい。独立したのに発電所を旧宗主国に抑えられたままでは困ると当時のキプロス政府が主張したとか、軍事基地として使いたいけど住民の面倒は見たくないので村は除外するとイギリス側が主張したとか・・・ま、たぶんそんな経緯だったんでしょうね。


★イギリス領と「北キプロス領」で切り離されたキプロス領の飛び地 

キプロス島の東南端の地図  「SECTOR4」と書かれた部分がキプロス領の飛び地

デケリアのイギリス領の東側にあるXylophaghou村からキプロス島の東南端にかけての、南北約10km、東西約20kmの地域はキプロス領(南)だが、イギリス領と「北キプロス領」によって「南」の本土とは切り離されている。「南」の住民は「北」への立ち入りは一切不可能だから、本土と飛び地を行き来するには、イギリス軍基地の中を通らなくてはならない。 

キプロス島の地図  Strovilia Borderがあります

デケリアのイギリス領の北部にあるAyios Nikolaosの北側は北キプロス領だが、Strovilia村だけはキプロス領(南)だ。これは1974年の内戦の時に、トルコ軍はStrovilia村をイギリス領だと勘違いして占領しなかったため、そのままキプロス領として残ったもの。

村にはギリシャ系のキプロス人18人が暮らしていたが、2000年7月にデケリアを経由して南北キプロスを行き来できるルートを開設した際に、北キプロス側はStrovilia村を占領して国境検問所を設置したため、現在ではStrovilia村は北キプロスの支配下に置かれている。


★キプロス領に囲まれた「北キプロス領」の飛び地 

Kokkinaを取り囲む国連軍の監視地帯の写真  コッキナのトルコ軍基地の遠景もあります

ギリシャ系住民のキプロス共和国(南=世界公認)とトルコ系住民の北キプロス・トルコ共和国(北=世界非公認)に分断されたキプロスだが、「南」が支配する北西部の海岸の一角に「北」の小さな飛び地・コッキナ(トルコ語名:エレンコイ)がある。コッキナの面積は約7・5平方kmで、周囲の「南」とは国連軍の監視地帯を挟んで隔絶されている。

コッキナは1963年から64年にかけての内戦時に、トルコ系民兵の拠点となって激しい戦闘が行われた場所。その後周囲の村からトルコ系住民が集まって住むようになり、74年の内戦ではトルコ軍の上陸拠点となった。その後は住民はいなくなり、トルコ軍が駐留しているだけだったが、2000年に北キプロスによるStrovilia村占領と引き換えに、放棄したようだ。
 

●関連リンク

外務省—キプロス  
キプロス情勢index  なぜか創価学会のメールマガジン
元老院議員私設資料展示館—ギリシャ近現代史  キプロス紛争についての解説があります
なんでもトルコ  北キプロス共和国とレフコシャ(ニコシアのトルコ語名)の旅行記
British High Commission Nicosia  キプロスのイギリス高等弁務官府のサイト(英語)
UKOTCF  朝鮮半島の軍事境界線にしても香港と中国本土の境界線にしても、住民が入れない所は野鳥の宝庫ですね(英語)
Cyprus Constitution  キプロス独立時に交わされたデケリアとアクロティリ基地に関する条約(英語)
British Islands and Overseas Territories  現在のイギリスの海外領土、つまり植民地について(英語)
Boundaries of Cyprus  キプロス島のさまざまな国境線の写真(英語)
 
 

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