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ポルトガル最後の悪あがき
返還直前のマカオをゆく之1
香港の返還に続いてマカオが中国へ返還されたのは1999年12月20日でしたかね?戦後アジア・アフリカの植民地が次々と独立していくなかで、ポルトガルだけは絶対に植民地の独立を認めず、「海洋植民地帝国」の栄光にすがり付いていました。植民地解放ゲリラの弾圧に疲れた軍が74年にクーデターを起こすと、一転して全ての植民地を放棄することにしましたが、マカオだけは こんな経緯 で唯一の植民地として残っていました。そんなわけでポルトガルには統治意欲がなく、香港人相手のカジノと風俗産業でどうにか経済を支えている状況で、イギリス植民地の香港のそのまた植民地みたいな感じでした。カジノと風俗産業となれば当然ヤクザがはびこるわけで、90年代後半にはカジノの利権をめぐって暴力団の抗争がエスカレート。 マカオ政庁の高官が暗殺される事件 が起きて、住民の間からは「とっとと中国に返還されて、人民解放軍に駐屯してもらいたい」という意見が出るほどでした。さて、そんなマカオへ返還の10日ほど前に行ってきました。返還当日に行くとホテルとか混んでますからね。
マカオは半日もあれば歩いて一回りできてしまうほど小さな植民地です。これはマカオ随一の繁華街になっている広場。広場を囲む建物はいかにもコロニアルって雰囲気ですね。おそらく100年くらい前の香港の中心街もこんな感じだったと思います。景観保存のために古い街並みを残したわけでなく、単にマカオが経済的に発展しなかったから残っていたわけで、ビルはどれもボロボロでしたが、数年前から観光客誘致のために建物に厚化粧をさせて見栄えをよくしました。この広場にある「牛のマークの牛乳プリン」の店は、とってもおいしいです。
広場に面したマカオ政庁の建物は2階建てでした。マカオは人口40万、30年ほど前までは20万でしたから、この程度で十分なわけですね。この建物もボロボロでしたが数年前にきれいに厚化粧されました。マカオの市議会は1583年設立で、アジアで最初に出来た議会なわけですが、有権者は長い間ポルトガル人だけ。中国人に選挙権が与えられたのは1980年代になってからです。
海岸通りの雰囲気はなんとなく東ティモールの首都・ディリの海岸にも似ています。洒落たカフェなんかもあるのですが、数年前から埋め立て工事が始まってしまい、景観はだいぶ悪くなってしまいました。
これは総督府、つまりマカオ総督の官邸です。これとそっくり同じ建物がディリの海岸通りにもあって、そちらは華僑会館でした。
マカオは東アジアにおけるカトリックの総本山。ポルトガルはマカオで学校教育に不熱心なくせに(義務教育という制度は最後までなかった)、布教だけはやたらと熱心でしたからね。マカオには古い教会がたくさん残っています。
そんな教会の1つに入ってみました。でも、教会の名前は忘れました。
教会の壁には英語、ポルトガル語、中国語に加えて日本語でも何やら書いてあります。え〜と、「主の名は聖」・・・??
マカオにはポルトガル人と中国人の他に、約1万人のマカオ人(マカニーズ)と呼ばれる独自の民族が住んでいて、彼らはポルトガルとインド、マレー、中国、そして日本人との混血です。なぜ日本人がというと、江戸時代の初期に弾圧されたキリシタンの一部が難民となってマカオへやって来たから。当時のマカオには日本人用の神学校があって、正面の大きな壁だけが残っているセントポール寺院も日本人キリシタンたちが建てたものでした。現在のマカニーズはポルトガル人としてのアイデンティティを持ち、ポルトガル語と広東語を話しています。大航海時代のポルトガルは女性を船に乗せることを禁止して、各地へ派遣した兵士に現地女性との結婚を奨励したので、旧ポルトガル植民地にはマカニーズのほか、マラッカのユーラシアン、東ティモールのトパッセ、インドのゴアンなどポルトガル系混血住民が住んでいます。
「利瑪竇」とはマテオ・リッチの中国名。17世紀の初めに西洋の学問を中国にもたらしたイタリア人宣教師だったっけ? 世界史で習った記憶があったけど・・・。
マカオは地元の広東語では澳門(オウムン)と言いますが、それがなぜポルトガル語でマカオになったかというと、媽閣(マーコッ)という海の守り神を祭った廟があったからです。マカオへ最初に上陸したポルトガル人が、地元の漁師に「ココハ何ト言ウ場所デスカ?」と尋ねたところ、漁師は廟のことを聞かれたのかと思って「媽閣だよ」と言ったんでしょうね、たぶん。媽閣に祭られてるのは媽祖という女性の神様で、台湾にも馬祖島があります。ちなみに戦国時代の日本では、マカオのことを天河(あまかわ)と呼んでいたらしい。
媽閣自体は小さな廟ですが、その前には最近「海事博物館」が建てられて、大航海時代のポルトガルの偉業をこれでもかと称えています。中国に返還される前にポルトガルの業績を後世に残すための博物館をあたふたと建てたみたいな感じですね。中国本土からの観光客がたくさん来ていて記念撮影をしていましたが、その人たちを記念撮影しました(笑)
対岸は中国領で100メートルほどの距離しかありません。中国側には近年、工場が相次いで進出し経済的にはマカオよりずっと活気があります。マカオを海から眺める遊覧船も出ていて、中国各地から出稼ぎに来た女工たちで満員でした。
中国の工作船? じゃなくて中国のテレビ局の船ですね。たぶん返還特別番組の撮影をしているんでしょう。それにしても、マカオ側ぎりぎりの位置で航行していて、明らかに領海侵犯じゃないの? って感じがしますが、マカオは1966年の暴動以来、中国政府が実質的にコントロールしているので、ポルトガルも厳しく文句を言えないんでしょうね。
これまたアヤシイ工作車? 何でしょう? 返還式典に出席する中国政府の要人が乗る車なんですかね?中国とマカオと両方のナンバープレートを付けていました。
海岸通りには100メートルおきぐらいに歩哨の詰所がありました。マカオと中国本土は簡単に泳いで渡れる距離なので、かつては少しでも豊かな暮らしがしたい難民が大量にやって来て、マカオの人口の数十%が不法入境者でした。マカオ政庁も数年後とに特赦を行って不法入境者に居住権を与えていましたが、最近では中国の方が経済的に栄えているので不法入境者の数もだいぶ減ったようです。海岸も埋め立てが進んで詰所も放棄されていました。
マカオの街ではお祝いの飾り付けがやたらと目に付きましたが、ほとんどがクリスマスを祝うもので、中国返還の飾り付けはほとんどありませんでした。それにしてもこのハリボテ・・・・愉快(笑)
と思ったら、埋め立て地の片隅に中国返還までのカウントダウン時計と龍のデコレーションがありました。でも、なんだか寂しげですね。
PART2ではマカオの下町を紹介します。
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