このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

文字通り英仏が角を突き合わせていたアフリカの角

シェイクサイド

旧フランス領


現在の地図
バブ・エル・マンデブ海峡の衛星写真  ペリム島の右側の半島がシャークサイド
シェイクサイドの衛星写真  (google map)

1930年代に出版された『世界時局地図』に載っていたのが上の図。仏領ソマリランド(現在のジプチ)の対岸に、「仏領シェイク・サイド」なるアヤシイ飛び地が・・・。

1931年に黒龍会が発行した『最新亜細亜大観』によれば、こんな場所だったとか。

亜刺比亜の西南端バベルマンデブ海峡に臨んだ面積一千六百平方粁の猫額大の地で、人口約一千に過ぎない。一八七〇年頃仏国が占領して、土耳古との条約により獲得した地であるが、英国が右の仏土条約を承認せぬため、仏国は事実上の占有により仏領たることを主張して今日に及んでいる。
シェイクサイドは1868年にマルセイユのRabaud-Bazinという会社が、アリ・タバト・ドーレインと言う地元の土侯(首長)から5万フランで購入した入り江だった。1868年といえば、スエズ運河が完成する前年のこと。スエズ運河はフランスとエジプトが協力して建設したものだが、開通すると紅海はヨーロッパとアジア、アフリカ東岸をつなぐ重要ルートになったわけで、フランスはこの時期、紅海出口に船の燃料を補充する給炭港や貿易拠点を確保しようとしていた。しかし肝心のスエズ運河は間もなく こんな経緯で イギリスの手に半分渡ってしまう。

シェイクサイドに最初に目を付けたのは、英領アデンのフランス領事をしていたマスという人で、彼はソマリア海岸の首長たちと関係を結びながら、フランスの拠点となり得る場所を探していたが、シェイクサイドの入り江は淡水が豊富でうってつけだと、スエズ運河会社の社員だったポイライというフランス人に、「シェイクサイドは掘り出し物だよ!」と買収するように持ちかけた。ポイライは武器商人で当時イギリスと戦っていたエチオピアの皇帝テオドロス2世に武器を供給して稼いでいたが、1968年にテオドロス2世が自殺してしまったために大損害を蒙り、そこでマルセイユのBazin家に投資を仰いだのだった。

フランス商人のシェイクサイド買収にさっそく異議を唱えたのがトルコとイギリスだ。トルコは当時イエメンの宗主権を持ち、シェイクサイド北方の港町・ホテイダに総督を派遣していた。一方でイギリスは1839年にアデン港を占領して植民地とした後、周辺の各部族と保護条約を結び、毎年補助金を与えて支配下に置いていた。つまりシェイクサイド一帯の土地はトルコが、住民はイギリスが「俺のものだ」と主張して、フランスの進出に抗議してきたのだった。

フランスはトルコに、シェイクサイドはあくまで会社の所有地でフランスの公式な植民地ではないと釈明した。一方でイギリスは勝手にシェイクサイドをフランスへ売るとはけしからん!と、アデン周辺の部族をけしかけて、アリ・タバト・ドーレインの部族を討伐させた。驚いたアリ・タバト・ドーレインはシェイクサイド売却のキャンセルを申し出るが、後の祭り。1870年にフランスとトルコは条約を結び、シェイクサイドはRabaud-Bazin社のものになったが、イギリスはあくまでこれを認めなかった。

しかし実際にはシェイクサイドの入り江は浅く、大型船が入れなかったので拠点としては使いづらいシロモノだった。またフランスは海峡を挟んだ対岸のアフリカ側にも植民地を築き、1862年にオボック地方を獲得して仏領ソマリ海岸としたのを皮切りに、1884年には仏領ソマリランド(現在のジブチ)を成立させて、ここを紅海出口の拠点とした。Rabaud-Bazin社はジブチの発展に対抗するために、フランス政府にシェイクサイドを公式の植民地として宣言するように求めたが、反発したトルコがイギリスと手を結ぶことを恐れたフランス政府は曖昧にし続けたため、シェイクサイドの開発はまったく進まず、ほとんど見捨てられた状態になってしまった。

シェイクサイド購入に投じた資金が水の泡となりかねないRabaud-Bazin社は、1883年にスペインに共同開発を持ちかけた。Rabaud-Bazin社の狙いは、入り江がスペインに渡ることをフランス政府に懸念させて、シェイクサイドの領有宣言をしてもらうことだったが、フランスが考えあぐねている間の85年にトルコがシェイクサイドを占領してしまい、翌年Rabaud-Bazin社は所有権をフランス政府へ譲渡するはめになった(※)。

※フランスがきちんと領有宣言してくれなかったおかげでシェイクサイド購入の金がパーになったと、Bazin家とその相続人は1950年頃までフランス政府に補償を求め続けていたらしい。
その後もフランスは、シェイクサイドに軍隊を駐屯させても駐軍費用がかさむだけで採算が取れないし、イギリスやトルコの反発を招くだけだと、本格的な領有は行わず、フランスの商館がコーヒー豆の輸出を細々と続けるくらいだった。第一次世界大戦でトルコが敗れると、フランスは戦勝国としてシェイクサイドを正式にトルコから割譲させることも検討したが、戦時中にシェイクサイドを再占領したトルコ軍を追い払ったのは実はアデンのイギリス軍だったので、またもやうやむやに。1918年にトルコから 北イエメン が独立した後も、シェイクサイドはフランスが小さな貿易拠点として実質的に支配し続け、フランスが北イエメンの主権を認めたのは1939年になってからだった。

  

さて、この「シェイクサイド」のページを立ち上げたのは2002年8月24日で、飛び研のHPを作って間もない頃ですが、それから苦節3年以上、「シェイクサイド」が載っている当時の地図はないもののかと捜し続けて、ようやく見つけたのが上の2つ。1891年にドイツで発行された世界地図にScheikh Saidが載っていました!でもフランス領とは書かれていない・・・orz

上の地図ではピンクはイギリス領、紫がフランス領、青がイタリア領、黄色はオスマントルコ領。本当はアデンからシェイクサイドのすぐ横の岬までもイギリス保護領になっていたはずですが、左の地図ではなぜか黄色に塗られています。ただし岬から内陸へ国境線らしき点線は書かれているし、「el-Engris」とあるので、おそらくイギリスが保護領にしたということになっていても実際の支配は及んでいなかったのでしょう。1930年代になっても、この地域は サッバイハ族というオソロシイ人たちの勢力範囲 だったようです。「平気で裏切る気質がある」とは、アリ・タバト・ドーレインのこと?


★ペリム島

ペリムの衛星写真  (google map)

マンデブ海峡の真ん中にあるペリム島は、フランスが1738年の紅海沿岸のモカ攻略(コーヒーの積出港ですね)の際に占領していたが、1799年にナポレオンのエジプト遠征失敗に乗じてイギリスの東インド会社が奪ったもの。スエズ運河の着工を前に、イギリスが1857年に再占領し、運河開通後は給炭港として栄えたが、やがて船が大型化して石炭補充の必要がなくなり、さらに重油焚きの船が主流になって、戦後はすっかり寂れてしまった。

そんなペリム島だったが、1967年にイギリスから南イエメンが独立した際、イギリスがお膳立てをしていた 南アラビア連邦 政府が独立直前に崩壊し、共産ゲリラが南イエメンを支配することになってしまった。慌てたイギリスは、ペリム島を南イエメンから外して国連管理下に置き、イギリスの拠点として残す構想を発表したが、国連からは相手にされず共産ゲリラはペリム島も占領してしまったため断念した。




★北イエメン沖合にあった南イエメンの飛び地:カマラン島

カマラン島の衛星写真  (google map)

北イエメンと南イエメンは1990年に統一して現在のイエメンになりましたが、それ以前の地図を見ると、北イエメン随一の港町・ホテイダの北の沖合いに、カマラン島(Kamaran Island)という南イエメンの飛び地が存在していた。

旧トルコ属領→北イエメン、旧イギリス植民地→南イエメンだから、1967年に南イエメンが独立するまでカマラン島はイギリス領だった。では、ペリム島やシェイクサイドのように、スエズ運河開通の時代に英仏が紅海の拠点を押さえようと争奪戦を繰り広げた結果イギリスが獲得したのかといえば、さにあらず。

カマラン島を最初に支配したのはポルトガルで、大航海時代の16世紀に島に砦を築いたが、間もなく放棄。19世紀に入ってトルコが占領し、島に検疫所を建てた。当時は蒸気船が実用化し始めた時代で、全世界から船でメッカ巡礼にやって来るイスラム教徒が急増したが、トルコ政府はそれらの船をすべてカマラン島に停泊させ、巡礼者と荷物を検査して消毒させた。こうしてメッカの巡礼で伝染病が世界中(のイスラム圏)に拡散することを防ごうとしたというわけ。

第一次世界大戦が勃発すると島はイギリス軍が占領し、1923年のローザンヌ条約では「カマラン島の帰属は将来決定する」と曖昧にされ、トルコから独立した北イエメンは領有権を主張したが、イギリスはそれを無視して占領し続けた。イギリスの支配下で検疫所は拡張され、発電所や海水淡水化工場が建てられ、鉄道も敷かれた。イギリスはカマラン島を押さえることで、メッカへの巡礼者の多くをチェックすることができたのだ。

しかしカマラン島の繁栄は永くは続かなかった。アラビア半島で新たに成立したネジド王国(現在のサウジアラビア)が1924年から26年にかけてヘジャス王国を征服し、メッカを支配下に収めると、自国の港に検疫所を作ったため、カマラン島に寄る船はなくなったのだ。

戦後、カマラン島は帰属がはっきりしないままアデンのイギリス政庁が支配し続け、島には軍事基地として使用された。イギリスから南イエメンが独立すると、島は南イエメン領になったが、1972年に北イエメンが占領して実質的に支配してしまった。当時南イエメンはソ連寄りの社会主義国だったので、紅海へのソ連の進出を警戒したアメリカやイギリスもそれを黙認した。

現在のカマラン島は漁民が暮らすのどかな島で、最近ではダイビングスポットとして売り出し中とか。
 

●関連リンク

モカ(旧市街)@イエメン  すっかり廃墟と化しているモカの港。シェイクサイドもたぶんこんな感じの光景でしょうね
Kamaran Island - Red Sea Yemen  カマラン島の紹介や写真(英語)
British-Yemeni Society  イギリス時代のカマラン島の写真(英語)

参考資料:
『最新亜細亜大観』 (黒龍会 1931)
村川堅固 『世界時局地図』 (宝文館 1936)
『ハドラマウト事情・附アデン植民地事情』 (東亜研究所 1942)
Drapeaux de la Francophonie & de la France http://perso.wanadoo.fr/pierre.gay/PagesFra/BaseFR(仏語)
ISC - CFHM - IHCC http://www.stratisc.org/pub_LabrousseMROC_tdm.html(仏語)
maproom.org http://www.maproom.org/c/index.html
Kamaran Island - Red Sea Yemen http://www.kamaran.net/
 
 

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