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アルバニア人にとってもセルビア人にとっても「民族の聖地」

コソボ共和国
 
首都:プリシュティナ 人口:209万人(2002年)


「消滅したコソボ共和国」の旗はアルバニアの国旗と同じ。現在のコソボの国旗は こちら

1990年7月2日 コソボ自治州議会のアルバニア系 議員らが、コソボ共和国の成立を宣言。セルビア政府はこれを認めず、3日後に議会を解散
1991年10月19日 アルバニア系住民による住民投票の 結果に基づき、コソボ共和国の樹立とユーゴスラビアからの独立を宣言
1999年6月12日 コソボから新ユーゴ連邦軍(セルビア 軍)や治安部隊が撤退し、国連の暫定統治下に置かれる。コソボ共和国も消滅
2008年2月17日 コソボ共和国が独立を宣言

コソボの地図  
コソボに駐留するNATO軍の各国別兵力と警備担当地区図  

「セルビアであってセルビアでない」とされていた当時 の地図

旧ユーゴスラビアの紛争って、「一難去ってまた一難」という感じでしたね。スロベニアやクロアチアに続いて、ボスニアの紛 争も収まったかと思ったら、代わって泥沼の戦闘になったのがセルビア南部のコソボ自治州。一体なにを揉めているのかというと、人口多数派のアルバニア人が高度な自治権、さらに独立を要求しているのに対して、セルビア側は自治権を剥奪して独立も 認めない、さらにアメリカやロシア、西欧諸国が介入して、セルビアを叩きながら独立も承認せず、結局コソボは形式的にはセルビアの自治州のままなのに、実質的にはセルビアの支配から切り離されて国連軍が占領し ており、国連コソボ暫定行政機構(UNMIK)が統治しています。

コソボ一帯で歴史的に古くから住んでいたのはアルバニア人の先祖といわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系のセルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗するとともに、1168年には コソボのプリズレンを首都にしてセルビア王国を建国した。セルビア王国は1389年の「コソボの戦い」でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配 下に入り、コソボに居たセルビア人の多くはクロアチアなど西へ移住して、代わってイスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。

こうして現在ではコソボの人口の約9割はアルバニア人だが、セルビア人にとってコソボは 「セルビア王国の発祥の地」であり、コソボの戦いという「聖戦の地」であるとともに、セルビア正教会の中心地(ペチ)もあって、民族の歴 史・文化にとってかけがえのない聖地だから、セルビアから独立することには拒否感が根強い。とりわけセルビアが主導していたユーゴスラビアが解体して各共 和国が独立していった後に、コソボまでセルビアから離れるとは到底容認できないというわけ。

一方で、アルバニア人にとってのコソボも19世紀末から起きた「アルメニア独立運動」の 発祥の地だ。オスマントルコに支配されていたアルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、「イスラム教徒=トル コ人」として扱われてセルビア領内から追放されることを危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には現在のアルバニアとコソボ、マケ ドニアやギリシャの一部も加えたアルバニア王国を建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や列強の介入で、たちまち領 土をむしり取られてしまう。その結果、現在はアルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50万人のアルバニア人が住 む。「アルバニア人が住む土地はアルバニアとして統一されるべき」という大アルバニア主義は、 彼らの民族的悲願でもある。

そういうわけで、セルビア人にとってもアルバニア人にとっても、コソボの地への思い入れは強い。

こうしてコソボはセルビアの一部になったが、チトーが率いるユーゴスラビア連邦の下でコソボは自治州となり、大きな自治権が与えられて いた(※)。1974年のユーゴスラビア憲法では、2つの自治州は連邦を構成していた6つの共和国と同等の権利を与えられるに至った。いわばコソボのアル バニア人は「名より実を与えられた」形だが、アルバニア人はそれには満足せず、81年にはコソボの共和国への昇格を求めて暴動を起こすなど、さらなる権利 拡大への運動は続いた。

※第二次世界大戦中、セルビア人に反発するアルバニア人たちはナチス・ドイツに協 力していたが、対独パルチザンを率いていたチトーはアルバニア人の支持を得るために、コソボの独立を約束したという。戦後、この約束は反故にされたが、チ トーはコソボに高度な自治権を与えて報いたつもり・・・ということらしい。
しかし1980年代末、ユーゴスラビアが解体の危機に瀕すると、セルビアでは民族主義が台頭して、コソボの自治権縮小の動きが強まる。これに対抗して、 90年7月にはコソボ自治州のアルバニア系議員らが共和国への昇格と、セルビアからの分離を宣言す るが、セルビアはこれを認めず、自治州の政府と議会を解散して、コソボの自治権を剥奪してしまう。

ルコバ
91年6月以降、ユーゴスラ ビア連邦を構成 していた6つの共和国のうち、セルビアとモンテネグロを除いた4共和国(スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)は相次いでユー ゴから独立するが、コソボでも91年9月にアルバニア系住民が住民投票を実施して、99%の賛成により翌月ユー ゴからの独立を宣言。92年5月には大統領選挙を実施し、コソボ民主連盟(LDK)を率いた文学者のルコバが大統領に選出されている。しか しこの時期のコソボは、他の共和国と違って血みどろの独立戦争や民族紛争は起きなかった。ルコバは非暴力による独立運動を唱え、セルビア人が掌握するコソ ボ政府に対して、「影の政府」を組織して対抗し続けた。しかしコソボ共和国は国際社会では認められず、アル バニアだけが承認した。

そんなコソボの非暴力独立運動も、隣国ボスニアでの紛争激化によって変わっていく。ボスニアでは、セルビア人がアルバニア人と同じイス ラム教徒であるムスリム人を虐殺し、国土の49%を支配するスルブスカ共和国を作って国際社会に認めさせた。そんなセルビア人を相手に独立を達成するな ら、やはり暴力に訴えるほかないというわけで、96年頃から武力によるコソボ独立を目指すコソボ解放軍 (KLA)が台頭し、ゲリラ戦により一時はコソボの40%を占領。非暴力派のルコバ大統領の影響力は低下した。

コソボ解放軍はアルバニアの支援を受けたほか、セルビアの台頭を警戒するアメリカやドイツからの援助もあったと言われる(※)。KLA はセルビア人やその協力者へのテロを繰り返し、クロアチアやボスニアでの戦闘を終えたセルビア側も、98年に入ると新ユーゴ連邦軍(=セルビア軍)を投入 して武力鎮圧を本格化させた。こうして「ゲリラの拠点」と目された村が襲撃され、56万人のアルバニア人が難民となり、その過程で「セルビアによるアルバ ニア人の大量虐殺が起きた」「新ユーゴ連邦軍が民族浄化に乗り出した」という情報が世界を駆け巡り、「セルビアに制裁を!」という国際世論が形成されて いった。

※アルバニアでは1990年代にネズミ講が大流行していたが、97年にネズミ講の 元締めが破綻。国中に破産者が続出して大規模な暴動となり、アルバニア政府の行政が麻痺する事態となった。この時に発生した難民や出回った武器がKLAに 流れ込んだとも。
こうして99年3月、アメリカを中心とするNATO軍はユーゴ(セルビア)に対する空爆を開 始。さらにユーゴ連邦軍の軍事施設を破壊するという理由で、プリシュティナはじめコソボの各都市にも激しい 空爆が行われた。中国とロシアは国連安保理で空爆の即時停止を要求したが、5月7日にはベオグラードの中国大使館も「誤爆」される始末。ルコバはセルビア によって軟禁され、イタリアへ追放された。空爆は6月に新ユーゴ連邦のミロシェビッチ大統領が、コソボからの連邦軍とセルビア治安部隊の撤退を受け入れて 「降伏」したことで中止され、7月にルコバは帰国が許されたが、空爆でコソボのライフラインは分断され、10万人のアルバニア人が新たな難民となったほ か、連邦軍によるアルバニア人への報復も激化して、実際には空爆前より多数のアルバニア人が殺害されたという。

セルビアの撤退と入れ替わりに、コソボはNATO軍を中心とする国際安全保障部隊 (KFOR)が占領し、99年6月の国連安保理決議で国連コソボ暫定行政機構(UNMIK)が設立されて統治を行っている。じゃあ東ティモールのように、 国連の暫定統治を経て独立する予定なのかといえば、そうでもない。安保理決議では「ユーゴの枠内におけるコソボの実質的自治の確立」を謳っていたが、コソ ボの将来的な地位については言及を避けた。コソボはセルビアから実質的に切り離されたもの の、コソボ共和国政府も国連統治のスタートとともに消滅した。

アメリカやEU諸国がコソボの独立に否定的だったのは、コソボが近い将来アルバニアと合 併することを恐れたからだ。そうなると既存国家の国境線引き直しに繋がる。ソ連や東欧諸国の崩壊で、数多くの独立国が生まれたが、それらはいずれも連邦体 制下での共和国の分離独立であって、「国境線の引き直し」ではなかった。もしアルバニアが民族統一を大義名分にコソボを併合することになれば、北アイルラ ンドやバスク、 チェ コのスデーテン地方 など、西ヨーロッパ諸国でも国境線引き直しの要求が高まり、紛争の火種が波及す る恐れがある。実質的には2つの国に分かれ、どう考えても分割したほうが良さそうなボスニアを、無理やり1つの国家にまとめさせているのもそのためだ。ま たアルバニアはバルカン半島唯一のイスラム教徒が多数を占める国でもあり、その影響拡大を懸念したこともあるだろう。

かくしてコソボは、「セルビアであってセルビアでない」状態のまま、2002年3月にコソボ暫定自治政府が成立して、ルコバが再び大統領に就 任。UNMIKからの段階的な権限委譲が行われた。この間、アハティサーリ国連特使によってコソボを国際社会による監視下で事実上独立させる仲介案が提案 されたが、セルビア側は「高度な自治」しか認められないと拒否。その後、アメリカとEU、ロシアによる仲介も失敗して硬直状態となった。

ルコバ大統領はKLA元司令官のハラディナイを首相に任命して、コソボ独立に向けた挙国 一致体制を築くとともに、欧米諸国へのロビー活動を続けていたが、06年に病死。07年秋の総選挙で独立急進派のコソボ民主党が政権を握り、08年2月に 暫定自治政府は「コソボ共和国」としての独立を宣言した。

独立宣言では、アハティサーリに基づいた「民主的、世俗的な多民族社会」を掲げ、コソボ は大アルバニア主義に基づいたアルバニアとの統一を否定した(※)。こうして米英仏独や日本などはコソボ共和国を承認したが、セルビアはもちろん、その後 ろ盾のロシアや、国内で独立問題を抱えるスペイン、中国、アルバニア系住民を抱えるギリシャなどは承認に否定的で、国連加盟やEUの承認も当面難しそうな 状態だ。

※コソボ共和国の国旗も、国連暫定 統治前はアルバニアと同じ旗が使われていたが、国内6民族(アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ゴロニ人、ロマ人(ジプシー)、ボスニアク人( ボ スニアのムスリム人 )を象徴する6つの星を描いた旗を改めて制定した。
「多民族社会」を掲げたとはいえ、24万人のセルビア人やロマ人(ジプシー)がアルバニア人か らの報復を恐れて難民となって国外(主にセルビア)へ流出したままで、帰還の目途は立っていない。
 
 

●関連リンク

外務省・コソボ共和国
内 戦 国際紛争 テロリズム  コソボや旧ユーゴの内戦について、紛争後の現地の写真がたくさんあります
 
 


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