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「新たな傀儡国家作り」と言われるのを恐れたオランダが、兵士を連 れ去って消滅

南マルク共和国
 

首都:アンボン

1950年4月25日 東インドネシア国から独立を宣 言
1952年10月 インドネシア軍の鎮圧により消滅

インドネシアの地図  
アンボン島とセーラム島の地図   大きいのがセーラム島、左下にアンボン島
アンボン島の地図  

マルク諸島と言ってもピンと来ない人が多いかも知れませんが、モルッカ諸島といえば「かつて香料諸島と呼ばれた島々」とし て世界史の教科書に出てきますね。で、モルッカ諸島=マルク諸島。モルッカというのはかつての植民地時代の名称で、現地での呼称はマルクなので、現在では 主に「マルク諸島」と呼ばれるようになりました。

さて1949年12月、ハーグ協定によってインドネシアはオランダから独立するが、当初は インドネシア連邦共和国 としての独立で、オランダは各地にたくさんの傀儡国家を作って連邦に加盟 させた。マルク諸島は「東インドネシア国」の一部とされたが、翌年、傀儡諸国が続々とスカルノ大統領率いるインドネシア共和国へ合流していた時、これに抵 抗したのがアンボン島を中心としたマルク諸島南部の住民たち。インドネシアはイスラム教徒が大部分だが、これらの地域はキリスト教徒が多く、「連邦制が廃 止されて共和国へ編入されれば、イスラム教徒のジャワ人に支配されてしまう」という恐れたのだ。

特にアンボン人は、歴史的にオランダによるインドネシア支配を支える尖兵の役割を 果たしていた。植民地式分割統治の常套手段として、インドネシア駐留のオランダ軍(蘭印軍)の現地人兵士にはキリスト教徒のアンボン人が多く、かつては各 地のイスラム王朝を滅ぼすために戦い、戦後はオランダ軍の一員として共和国軍と戦っていた。ハーグ協定によれば彼らはオランダ軍の段階的な撤退に伴って、 共和国軍へ再編されることになっていたが、昨日までの敵のもとでどういう処遇に置かれるかアンボン人兵士の間では不安が広がっていた。

当時アンボン島には3つの政党があった。共和国への編入を主張するインドネシア独立党(PIM)と、王侯など旧来からの支配層を中心と した保守的なGSS、それと共和国への編入は否定しないが南マルク諸島の自治を求める南マルク民主運動(GDMS)で、東インドネシア国のマヌサマ上院副 議長が率いていた。1950年1月に蘭印軍のアンボン人兵士がPIMと衝突して死者を出す事件が起きると、共和国軍が介入して来るという噂が広がり、アン ボン島は不穏な状況になった。

南マルク共和国で初めての国旗掲揚式(1950年5月 2日 アンボン)

そこで東インドネシア国では、マルク諸島出身のソウモキル法相やマヌサマ上院副議長が共和国のスカルノ大統領に「共和国編 入にあたっての南マルク諸島の特別扱い」を求めたが断られた。4月には東インドネシアの首都・マカッサル(スラウェシ島)で元蘭印軍兵士によるクーデター が発生し、共和国軍の上陸で鎮圧され、東インドネシア国は共和国への編入交渉を始めたが、アンボン島やブル島、セラム島などでは南マルク共和国(RMS)の独立を宣言した。オランダ統治時代1つの行政区域だった南マルク諸島は、協 定を結んで東インドネシア国やインドネシア連邦共和国の一部になった経緯があるので、その2つが消滅するなら独立する権利がある・・・という主張だ (※)。
※独立支持者=キリスト教徒というわけではない。当時アンボン島の住民のうちキリ スト教徒は65%でそのほとんどは南マルクの独立を支持したが、イスラム教徒も3分の1はジャワ人による支配に反発して独立支持だったという。
南マルク共和国ではとりあえず王侯出身のマヌフトゥを大統領代理に選んだが、8日後にソウモキルが大統領、マヌサマが国防相に就任して、国際社会へのア ピールを始めた(※)。これに対してインドネシア側は人口が集中しているアンボン島を兵糧攻めにしようと海上封鎖を実施したが、目と鼻の先のセラム島との 間の輸送を断つのは難しく断念。7月にブル島やセラム島に軍を上陸させ、9月にはアンボン島を空襲し、11月末までにアンボン島を占領した。
※南マルク共和国は国連に繰り返し提訴を行ったほか、6月に朝鮮戦争が勃発すると マッカーサー将軍と接触して、「もしアメリカ政府が南マルク共和国を承認してくれるなら、2000人のアンポン人義勇兵を朝鮮へ送る」と申し出たが、相手 にされなかったらしい。
  
左から、初代大統領(代理)のマヌフトゥ、2代目大統領ソウ モキル、3代目大統領マヌサマ

その後、51年1月にハルク島、3月にサパルア島を占領したが、RMSは日本の四国ほどの面積があるセラム島の山岳地帯に立て篭もって ゲリラ戦を続けた。RMSには南マルク諸島に駐屯していたアンボン人兵士が加わっていたため、インドネシア軍は掃討に悩まされ、セラム島に上陸した 1000人の部隊が60人のゲリラに全滅させられる事件も起きていた。

RMSでは、ジャワ島など他の地域に駐屯していた蘭印軍のアンボン人兵士が、共和国軍への編入を拒否して独立闘争に加わることを期待 し、実際にアンボン人兵士たちもそれを望んでいた。しかし「南マルク共和国の独立は新たな傀儡国家作り」と見られることを恐れたオランダは、共和国軍に参 加せずに除隊するアンボン人兵士を自由に南マルク諸島へ帰らせるわけにはいかなくなり、蘭印 軍兵士として雇い続けて当時まだオランダが統治していた 西イ リアン(ニューギニア島西部) へ移し、インドネシアに睨みを利かせようと試みたが、インドネシア政府の猛反対に遭って断念。結局1万2500人の アンボン人兵士とその家族合わせて3万5000人をオランダ本国へ移すことにした。当初は半年の予定だったアンポン人たちのオランダ滞在は、結局現在まで 続いている。

西イリアンでの南マルク共和国の支援集会。キリスト教 徒とイスラム教徒の共闘をアピール

セラム島の独立ゲリラはインドネシア軍によって1952年までにほぼ鎮圧されたが、ソウモキルはセラム島で潜伏を続け、国 防相のマヌサマは西イリアンに逃れて独立運動を続けた。西イリアンにはインドネシア独立前から駐屯していた蘭印軍のアンボン人兵士やアンボン人の役人、警 官、宣教師などが多く住み、RMSの支援拠点のようになっていた。しかし1962年のニューヨーク協定で西イリアンは同年10月から7ヵ月間の 国 連暫定統治 を経てインドネシアへ引き渡されることになり、西イリアンのアンボン人、特に兵士はオランダへ移住。孤立無援となったソウモキルは62 年12月にインドネシア軍に逮捕され、66年に処刑された。

その後、南マルク共和国の独立運動はマヌサマが亡命政府の大統領となり、 10万人と言われるオランダ在住のアンポン人の間で続けられ、1970年代にはインドネシア領事館の占拠事件や列車乗っ取り事件などを起こしている (※)。マヌサマは95年に死亡したが、現在でもオランダには南マルク共和国の「大統領」が存在している。

※これらのテロ事件は、南マルクの独立よりもオランダ在住のアンボン人の苦境をア ピールする効果をもたらした。植民地時代にはオランダ人の下でインドネシア人を支配していた立場だったアンボン人兵士たちは、オランダ到着とともに解雇さ れ、オランダ社会の最底辺に送り込まれることになっていた。
一方でアンボン島にはジャワ島から移民が送り込まれ、イスラム教徒の人口がキリスト教徒と拮抗するようになっていたが、スハルト体制の崩壊と東ティモール の独立やアチェ、西パプアでの独立運動の再燃に影響されて、1990年代後半からキリスト教徒とイスラム教徒との間で緊張が高まり、1999年1月に双方 の衝突が勃発。アンボンの中心街は相次ぐ焼き討ちで廃墟と化し、数百年間にわたって両教徒が共存して暮らして来た町は、キリスト教徒地区とイスラム教徒地区に分断されてしまった。双方の代表や長老が話し合い何度か和平協定 が結ばれたものの、インドネシア各地からイスラム急進派の民兵が集まって「キリスト教徒に対する聖戦だ」と対立を煽り、軍や警察も扇動者を取り締まろうと しないため、抗争はすぐに再発を繰り返して、5000人の死者と40万人の難民を出している。

一方で、2000年12月にはアンボンで南マルク共和国の独立を掲げたマルク主権戦線 (FKM)が結成された。FKMは毎年4月25日に南マルク共和国の独立記念式典を開催し、イスラム急進派との間で騒乱が繰り返されてい る。宗教対立に加えて独立紛争の再燃で、アンボン島の紛争は解決の目途が立っていない。

  
左:オランダで開かれた南マ ルク亡命政府の独立式典(2010年)、右:南マルク亡命政府の大統領

●関連リンク

じゃかるた新聞—「独立旗」掲揚で揺れる  2002年4月26日の記事です
マルク諸島(インドネシア)宗教抗争の掲載記事  ジャーナリスト綿井健陽氏のサイトです
南マルク共和国  南マルク共和国が発行した郵便切手。実際に使われたかどうかはアヤシイのですが・・・
C. SOUMOKIL  ゲリラ時代のソウモキルと処刑の写真(インドネシア語)
地方騒乱を考える 〜マルク騒乱の背景〜  外務省のレポートです
Warisan Khazanah Riau - Djang Lupa Maluku  オランダ在住のアンポン人たちのサイト(オランダ語)
C. SOUMOKIL  ゲリラ時代のソウモキルと処刑の写真(インドネシア語)
 
 

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(最終更新:2006・8・20)
 
 
 

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