このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
ホームページ powered by いのこう ANNEX トラブル・メーカー…サンフランシスコ エピソード1 あまりのことに、当時の写真は残っていません。文章だけですが、ご了承下さい。 サンフランシスコには、2度行ったことがあります。1991年と1997年です。とても雰囲気の良 い(ちょっとツーリスティック過ぎる感じが鼻をつきますが…)いい感じの街です。ただ、何故か2 度ともトラブルに巻き込まれてしまいました。このページでは、延々3ページにわたってその顛 末についてご報告させていただきます。 ■ 1991年の場合 1991年4〜5月のゴールデン・ウィークに、サンフランシスコを訪れて、初めてアメリカ本土の 地を踏みました。 何故サンフランシスコに行くことになったのかは定かに覚えていません。ただ、ゴールデン・ウ ィークにしては他の都市に比べて比較的安かったのと(当時はとにかく価格重視でした。)、友 人が何気なく、「サンフランシスコなんてどう?」と言ったとかいう気軽な理由だったと思います。 当時私は非常に仕事が忙しく、下調べもほとんど出来なくて、手配も友人に頼みました。当時 一番安値を出していた、いまは亡き「ジェット・ツアー」(いまどうしてるんでしょうね…?)で、4 泊6日で13万円くらいだったと思います。 事件が起きたのは出発一週間ほど前のことでした。覚えていらっしゃる方も多いと思います が、ロサンゼルスで白人警官による黒人への暴行事件があり、いわゆる「ロス黒人暴動」が 発生しました。彼らは日頃の不満が爆発し、事件に関係ない在米韓国人の店(彼らは米国で 勤勉に働いて、結果的に黒人の仕事を奪っていました。)を襲撃したりしていました。 ただ、その時点では、「まあロスのことだからね…。」と、私達は楽観的に考えていました。な んたってロスとシスコです。大阪西成のあいりん地区の暴動を東京で見ているようなものです。 とは言え一応地図上で、危険な地域をチェックしました。 出発当日、成田空港で友人と待ち合わせました。私はなんとか仕事を終わらせて、その足で 空港に駆けつけました。友人が会うなり、「これ見たかよ。」と言って新聞を差し出しました。そ の一面には、「ロス黒人暴動、サンノゼに飛び火」という見出しが踊っていました。 サンノゼといえば、サンフランシスコと100kmも離れていません。「まじかよ〜?」と思いつつ も、まだその時点では、特にサンフランシスコがどうということもなく、ジェットツアーの係員に も、「特に連絡は入っていません。」と言われて送り出されました。 飛行機で8時間。ついに勇躍アメリカ本土進出です。気分はいやがおうにも高鳴ります。ジェ ットツアーの現地の日本人のおばさん係員に誘導され、バスに乗りこむと、おばさんは信じら れないことを話し始めました。 「えー、皆様も出発前にご存じだったかと思いますが、先月ロスで黒人暴動が起きまして、実 はそれが昨日サンフランシスコにも飛び火してきました。お手元の予定表ではこれからホ テルにお送りする予定になっておりましたが、危険を避けるため、夕食前まで団体行動とさせ ていただきます。なお、本日当局から夜間外出禁止令が発令されております。20時以降は ホテルから絶対に出ないでください。」 「えーっ!?」とバスの中で恐怖の声が挙がりました。我々は、再び、「まじかよ〜?」と顔を見合 わせました。 その後我々は、どう見ても暴動が起きそうもない(ということは当然つまらない)フィッシャーマ ンズワーフなどの観光地をぐるぐると回らされました。時差ボケもあり、途中で客の中から、「も うホテルで休みたい。」という声が挙がりました。おばさんは客の「多数決」を取った上で、「今 後は帰国日まで全て自己責任。20時以降は絶対に外出しない。」という約束を取り付けた上 で、やっとホテルで開放してくれました。 我々のホテルは、中心部のユニオン・スクエアから3ブロックほど西にありました。運の悪い ことに、ホテルのブロックがぎりぎり治安の悪い地域にかかっていました。 それでもホテルの部屋から外を見る分には街は平静です。我々は一休みすると、狙いを付 けていた店に夕食を食べに出かけました。 フィッシャマンズワーフの近くのシーフードの店に入り、アンカー・ビールを頼んで、シュリンプ・ カクテルの前菜にサラダ、ロブスターを食べました。シュリンプ・カクテルはそれたけでメインほ どの量があり、サラダはボウルに入って出てきてとても食べ切れませんでしたが、さすがに海 沿いの街だけあって美味でした。我々は酒も入り気が大きくなって、「いやあ、暴動とか言って も問題ないじゃん。」と言いつつ、「さあ引き上げるか…。」と時計を見ました。 時計は20時を差していました。そう外出禁止の時間です。しかし西部の陽はまだ高く、人々も 普通に散歩していました。「まっ、まあ大丈夫だよ…。」とケーブルカーに乗って、ユニオン・スク エアに戻ると21時を回っていました。 さすがに薄暗くなってきて、ちょっと不安になってきました。問題は最後の1ブロック。辺りを伺 いながら進みます。ホテルの3軒くらい手前にタバコ屋があり、見るとショーウィンドウが割られ ていました。「…?」しかし営業していたので、我々はそこで飲み物を仕入れました。 部屋は大通りに面していました。治安も悪い地域です。夜寝ていると、外から奇声や爆竹(と 信じたかった…)の音、パトカーのサイレンなどがひっきりなしに聞こえて、何度も起こされまし た。 翌日からは、特にジェットツアーから注意もなかったので、普通に街を歩き回りました。至る 所に暴動の爪跡が残っていました。日航ホテルの日航の営業所や、バナナ・リパブリック も襲撃されていました。当時日本になかったバナナ・リパブリックに是非行きたかった私はが っかりしました。しかし何故黒人達はバナナリパブリックを襲撃するのに、ブルックス・ブラザー ズは襲撃しないのでしょう?そこには彼らなりの「峻別」があったのでしょうか…? サンフランシスコという街は楽しい街です。観光客向きに出来ています。しかし我々にはただ 一つ誤算がありました。我々は「等高線のない市街図」で街歩きの計画を立てていたのです。 そう、サンフランシスコはケーブルカーが街中を走るほど起伏に富んだ街なのです。我々は当 初の計画をあらゆる場面で変更しなければなりませんでした。 ある日、念願だったゴールデン・ゲート・ブリッジを「歩いて」渡りに行きました。当時我々は、 ガイドブックに「歩いて渡れる」とか「歩いて登れる」とか書いてあると、必ずチャレンジしたもの でした。しかし、我々のガイドブックには唯一かつ最大の欠陥がありました。「歩いて渡った」先 でどうするのか書いてなかったのです。我々は、無事ゴールデン・ゲート・ブリッジを制覇した 後、対岸で「バスの来ないバス停」を見つけて途方に暮れ、さらに3倍の距離を歩いて隣町まで 到達し、そこから船で帰ってきました。 こうして怯えながらも楽しい4日間を過ごし、無事に帰国の日を迎えました。しかし、そこには 魔の手が待っていたのです…。
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