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[ 汝、つなぐなかれ 〜前編〜 ]
私は今回のギリシャ旅行にノートパソコンを持っていった。新婚旅行にも関わらず旅先からインターネットを試みようと思ってのことだ。
しかしながら予想通りモジュール(電話線の接続プラグ)があわない場合が多い。最初の宿泊地アムステルダムでは、電話線が本体と一体化していてはずすことさえできなかった。次の宿泊地アテネでも同じく一体化していてはずせなかった。ようやく使える電話に出会えたのは旅行5日めのクレタ島でのことである。
ただ私の場合契約しているプロバイダーがローカルなため、ギリシャにはアクセスポイントがない(まあ普通の人はないだろう)。このため「契約している香港のプロバイダーに国際電話をかけてアクセスする」などということをやらねばならない。当然ながら料金の高さは覚悟の上、少々高くてもそれなりに楽しめるだろう。
私は中国に出張した際よくこの方法でアクセスしている。要領も心得ているのでいつもの調子でアクセスすると、はるか彼方の香港だがなんとかつなぐことができた。
と、ここまでは良かった。ところがここから先がいただけない。
とにかく接続がとてつもなく遅いのだ。まあ何万キロも離れている上にアナログ回線なのだから多少遅いのはわかるが、それにしてもこれはあまりに遅すぎる。不思議に思い接続速度の表示(画面右下隅にあるやつ)を見てみると、なんと驚き4,800bpsしかないではないか。こんな数字初めて見たぞ。今時の標準速度のわずか1/10しかない。どうりで遅いはずだ。しかも遅すぎてホームページの書きかえができない。回線はすぐに切れるし。うわっ、メールも取りこめん。
中国から香港にアクセスするというのはわりと簡単だが、さすがにヨーロッパでは厳しいものがあるようだ。しかも回線があまりによく切れるため、結局接続を20回ぐらいやってできたことといえばこのHPの掲示板に書き込みを数行入れることだけだった。わざわざ重いノートを持ってきてこれだけか・・・情けないことおびただしい。
そんなこんなを繰り返した挙句あまりの動きの悪さにとうとう諦め、寂しくノートをしまい込んだのだった。
だが不幸はまだ終わらないのである。
〜続く〜
[ 汝、つなぐなかれ 〜後編〜 ]
ホテルのチェックアウトの段になり、更なる驚異が私を待っていた。
レセプションで清算を頼み支払いの準備をしていると、プリンターから打ち出された電話料金を見てカウンター譲がえらく驚いている。そしておずおずと申し分けなさそうに私に尋ねるのだ。
「電話料金がすごい金額になっているのですが、本当におかけになりました?」
クレタ島から香港まで国際電話でインターネットをしていたのだ、多少高いのはわかっているがそれにしては彼女の驚き方が尋常でない。
「ええ、使いましたけど・・・いくらですか?」
「約28万ドラクマです」 (ドラクマってギリシャの貨幣単位)
私は聞き違えたと思った。
28万ってそんなムチャクチャな・・・2万8千じゃないの?
28万ドラクマは日本円にして10万円になる。このホテルの部屋代が1泊3万6千ドラクマ、しこたま出した洗濯物のクリーニング代が2万ドラクマ、一日の二人分の食費が1万ドラクマ。なのに電話代が28万ドラクマなのか!
信じられない請求額だった。香港にアクセスした時間はトータルしても1時間ぐらいのはずだ。だいたいあれほど接続の悪いものをそうそう長い時間できるはずがない。仮に100分だったとしても1分あたり日本円にしてなんと1,000円になる。
1分1,000円の電話代って、何これ。30年前のアメリカ通話料ってたしかこんな感じだったような・・・などと悠長なことをやっている場合ではないぞ。
私はその請求書の明細をマジマジと見ていた。ギリシャ語で書いてあるのでいまいちよくわからないが、接続先はたしかに香港だ。それにコンピューターから打ち出されたものである以上正当なものと考えていいだろう。このホテルはクレタ島の中でもそこそこ評価されている。そのホテルがまさかボッタクリをするとは考えにくい。ボッタクリにしてもこれはあまりに度が過ぎる。
調べなおしてもらったが結果はやはり同じだった。正当な請求額であることは間違いないようだ。こうなるとさすがに値切り交渉というのもかなりツライものがある。
”なんだかよくわからん東洋人が電話代に28万ドラクマも使いよった”
というだけでも充分語り草になるだろうに、この上レセプションのオネエサン相手にディスカウントでねばるというのも到底美しい姿のようには思えん。だいたいオネエサンが一存でディスカウントに応じてくれるはずもない。ここは飲み屋ではないのだ。
結局使いたくもないカードで支払いをせざるをえなかった。ホームページの掲示板に書いたわずか数行の書き込み代が10万円になろうとは。海外でムチャなアクセスをすると思わぬ落とし穴があるということなのだろうな。 ”汝、つなぐなかれ” いい教訓であった。
[ 悲しき旅人 ]
その男に出会ったのは新婚旅行を終え、夫婦連れだって香港へと戻ってきたその空港でのことだった。
ターンテーブルで荷物を待っていると、その怪しげな男が私の隣にいた日本人男性に近づきなにやら話しかけている。無精ひげだらけでバックパッカー風のその男は隣の日本人に頼み事をしていたようだが、どうやらつれなく断られたようだ。
そして今度は隣にいた私に話しかけてきた。
「あの〜、日本のかたですね。無理を承知でお願いがあるのですが・・・。」
その男は日本人だった。しかもひげだらけだがよく見ればまだ若い。20代前半だろう。
「なんですか?」
「申しわけありませんが・・・、一万円ほど貸していただけませんでしょうか」
聞けばフィリピンのマニラでお金を盗られ、航空券とパスポートだけでようやく香港までたどり着いたのだそうだ。本当にお金を盗られたのかどうかは定かではないが、その風体は確かにお金を持っていそうにはなかった。
海外でお金がないというのは本当に不安なことだ。実際に経験しなくてもそのぐらいのことは充分わかる。そんな彼に同情した私は
「やだっ!断る」
と気持ち良く言い放ち、優しく彼を見捨ててさしあげたのだった。わっはっは。
海外を甘く見てもらっては困るな、お若いの。今流行の貧乏旅行とやらを気取ってきたのかもしれんが、海外は日本ではないのだぞ。不測の事態は起こるのだ。
事態への対処法をろくに考えもせず、あまつさえ何のあてもなしに香港に来て金を貸してくれとは甘すぎる!努力が足りん!加えて言うなら思慮が浅すぎる。もう少し考えろよな。
わずか一万円で私の生活が崩壊するわけではないのだが、私はあえて彼を助けなかった。これが女性や子供、御老体というなら私も無条件で助けただろう。だが相手はひげだらけのムサ苦しいヤツ。若者はもっと苦労しろ!と、たいして年老いてもいない私はそう思うのだった。
その後彼の様子をしばらく見ていたが、他の人からも軒並み断られ寂しそうにどこかへと消えていった。悲しき旅人、果たして彼は日本に帰れたのだろうか・・・。
まっ、いいや。
[ 摩訶不思議 ・香港人]
先日うちの会社にお客さんがあり、私もその席に出て話を聞くことにあいなった。
客は二人で、そのうち一人は30歳そこそこの女性。香港女性特有の雰囲気をかもし出して話す彼女は颯爽としていてカッコイイ。
さて一通り営業上の話を終え雑談に入ったところでのこと、突然彼女が妙なことを言うのである。
「ここまで来たのは初めてなんです。」
私は最初その言葉の意味がわからなかった。いったい彼女は何を言っているのだろう?
よくよく聞いてみるとなんと彼女、生まれも育ちも香港なのだがこれまで新界中部のシャーティンまでしか来たことがなく、それより北側は未知の世界だったのだそうだ。
うちの会社は香港内でもけっこう北にあり中国境界線にも近い。まあはっきり言って田舎ではある。しかしだな、香港島からでもわずか30キロしかないのだぞ。日本人から見れば近場の通勤圏ではないか。
香港の全面積は淡路島1個半、東京都の半分でしかない。そのせまいせま〜い香港の更に北側半分に来たことがないとは、これはもはや驚異としか言いようがない。これまでの30年間、彼女はそんな狭い土地でしか生活していないというのだ。
淡路島より狭い土地で30年・・・、東京都の1/4しかない土地で30年・・・、普通暮らせるかぁ?
神戸の住人が大阪や京都に行ったことがないというのと同じだぞ。いかに生活に不自由のない大都会香港とはいえ、たったそれだけの小さな土地で暮らし続けて・・・楽しい?電車に乗ったらそんな範囲すぐに抜けてしまうのではないのか?
まあ香港という土地柄や生い立ちを考えれば、こういう人は探すとけっこういるのかもしれない。そういえば同僚の35歳の女性はラマ島に行ったことがないと言っていた。ラマ島なんぞ香港島から見えてるのに。そこへ35年もの間行ったことがないというのは一体何故のことなのだろう?それを許さぬポリシーのようなものでもあるのだろうか?
摩訶不思議な人々、香港人・・・。もしかしたらこのホームページを読んで
「新界ってこんなところなのね。」
なんて勉強しているお姫様のような人がいるのかもしれんな。(いないってば)
[ さよなら香港-1 ]
それまで私は誰かとの別れをこれほどに悲しんだことはなかった。
本社からの出向という立場で暮らした4年間、かりそめの土地でありながら私はそこに心の多くを残してきたように思う。たぶん人はそれを思い出と呼ぶのだろう。だが私にとってそれは抜け落ちた心のかけらだった。かの地を遠く離れてしまった今、私は抜け落ちた心を埋めるため多くのことに没頭しようとしている。
出向していた会社が閉鎖されるという話を聞いたのは今年に入ってまもない1月下旬のことだった。私ともう一人が上司に呼ばれ、近々閉鎖される旨を伝えられた。5月頃の見通しだがそれまでに従業員を随時解雇し私達も帰国することになる、心しておくようにと。それはこの地で暮らす基盤を失い、多くの友人達とも会えなくなるということだ。私はその話が信じられなかった、いや信じたくなかった。
私が一番心苦しく、そして苦々しく思ったことは、そのことをまだ口外してはならないことだった。この閉鎖措置は本社の都合によるところが大きいというのに、そのことを聞かされなお秘密にしておかねばならないのは、本社の御都合主義に組みしたようで胸が痛んだのだ。
その日から私はスタッフ達の顔を見るのがつらくなった。そしてそのことを考えないようにし、いつもと変わらぬ自分でいようとしていた。だが勤務時間が終わり一人になった時、私は彼らとの別れが悲しくて涙ぐんだ。なにより仲良くしてくれていた人達から「あいつも本社と組んでいた」と思われるだろうことが悲しかった。一緒に働いているおばさん達、私の下でまめに仕事をこなす若いやつ。みんな真面目で一生懸命なのに何故解雇されねばならないのか。私はまだ事情を知らされていない彼らの中で一人苦悩していた。
そして2月中旬、私の異動と工場閉鎖が公にされた。誰もが動揺していた。
[ さよなら香港-2 ]
2月下旬、工場作業員数人が解雇された。
その中で私と仲が良く何かと世話を焼いてくれたおばさんが、私のところへお別れの挨拶に来てくれた。
「私は今日で辞めるけど、あんたは中国に行っても元気でな。」
その言葉に私はただウンウンと頷くことしかできなかった。口を開けば涙が溢れるのがわかっていたから。
それから1ヶ月の間私はつらさや悲しさを忘れようとしゃにむに働いた。実際やるべき仕事は山ほどあった。工場を閉鎖するにあたっての在庫の確認とストック調整、200種に及ぶ原材料の整理に機材の搬出。この4年間でこれほど働いたことがないというぐらいに忙しい毎日だった。
3月18日、出社最後の日。
午前中いっぱいかかって後片付けを終え、私は昼前にやってきた奥さんを連れて最後の挨拶にまわった。この時まだスタッフの半数以上が残っていたが、それも5月には解雇されるとのことだった。そうなればおそらく二度と会うことのない人達。私は涙が溢れそうになるのをこらえながら皆のところをまわった。「お元気で」 そう言うのが精一杯だった。
そして私は帰りのタクシーの中で泣いていた。
午後からは奥さんを連れて乗馬会に顔を出した。香港での最後の乗馬、せめて暗い顔をせずに楽しもう。
その日はいつもと違いゲーム感覚の乗馬だった。乗馬会の人達も私達夫婦がこれで最後になると知っていた。だからいい思い出にと楽しい催しを考えてくれたのだろう。本当に楽しかった。チームを組んでみんなで競い合う、遠乗り以上に私も奥さんも夢中だった。
そして楽しい時間は終わり、皆で写真を撮って別れた。
香港での暮らしを豊かにしてくれた乗馬会の人達、彼らのおかげで私達夫婦の心は本当に豊かになった。心から感謝してやまない。
翌日、私達夫婦は香港を離れた。
機上の人となってもまだいろんな思いが頭をよぎる。やはりここは私にとってかけがえのない思い出の詰まったオモチャ箱のような街なのだ。いつかまたここに戻りたい。そして残してきた心のかけらを拾い集めたい、そう思った。たぶんその時まで私の気持ちの整理はつかないだろうから。
さよなら香港、私の大事なオモチャ箱。
そして私が出会ったすべての人に心をこめて・・・。
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