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九州漫歩通信
第1号 1992年6月1日発行

長崎(その1)
◎出島 長崎には路面電車が走っている。長崎駅前から1系統の正覚寺行に乗ると三つ目、歩いても1㎞くらいで「出島」電停に着く。

長崎が開港したのが1570年、翌年にはポルトガル船が来航。出島はポルトガル商人の市内雑居を禁じ、移住させるために造られた人工島で、1634年に築造が始まり二年ほどで完成している。いわば、ポートアイランドのはしりである。

ポルトガルとの通商が禁止されたあと(1639年)、幕末までオランダ商館が置かれ、江戸時代の鎖国政策のもとで唯一、海外に開かれた窓であった。

明治の中頃には付近の海岸の埋め立てが進み、出島は陸続きになり、出島の原形が失われてしまっているが、扇形の輪郭の雰囲気は中島川沿いにとどめている。

オランダ商館跡が史跡になっており、公園の中に1700年頃を再現した「ミニ出島」(復元模型)がある。また、幕末頃に造られた石造り倉庫が残っている。現在、出島と市街を結んでいた門の復元工事が行われている。

この付近には、長崎市出島資料館(旧内外クラブ:外国人と日本人との親交の場として利用された施設 明治30年)、長崎市歴史民俗資料館(旧出島神学校 明治10年)がある。どちらも木造二階建ての建物で、ポルトガル、オランダ関係の資料や長崎の民俗が展示されている。

◎大浦海岸 1854年に日本が開国すると長崎八景のひとつ「雄浦(大浦)」の埋め立てが行われ、海岸通り(Bund)が造成されていく。海岸通りに残る近代建築としては、旧英国領事館(明40)の煉瓦造りの建物がある。最近まで長崎児童科学館として使用されていたようだが、現在は空き家。ベランダの石柱や丸窓などが赤煉瓦とコントラストをなし、立派な建物だけに資科館などに活用されることを期待したい。(その後、長崎市立野口彌太郎記念美術館として整備された)

海岸通りには「鉄道発祥の地」の石碑がある。1865年、英国商人グラバーが大浦海岸で、日本最初の汽車(人が乗れる程度の模型)を走らせたことにちなむ。

松ケ枝橋を渡ると旧長崎税関下り松派出所(明31)がある。長崎市歴史民俗資料館の分館として、税関関係などの資料が展示されている。そのとなりにあるのが旧香港上海銀行(明36〜38)であるが、現在、改修工事中で建物全体が工事用ネットで覆われている。

小曽根町の海岸に建つ高島炭坑社は昭和60年頃に取り壊されたそうだ。明治中頃に建てられた一階、二階にベランダを配した木造二階建ての洋館だったようだ。近くに宝製網の煉瓦造りの建物(明35)が残っている。

◎南山手 海岸通りから南へ山手に登ると南山手の住宅街である。明治中期に建てられた洋風住宅もいくつか残っている。中腹にあるマリア園(明31)は煉瓦造り三階建ての立派なロマネスク様式の修道院建築である。マリア会修道士センネツの設計だ。その近くにある杠葉邸、杠葉病院別館も明治中期の木造二階建ての洋風建築である。

◎グラバー園 長崎観光名所のひとつ。南山手の中腹にもともとあった旧グラバー邸、旧リンガー邸、旧オルト邸を中心に9棟の幕末から明治の建物が集められている。入口をはいると斜面を登る動く歩道があって、園内の高みに通じている。長崎湾の眺めが素晴らしい。池に面して旧三菱第二ドックハウス(明29)がある。館内では三菱長崎造船所で建造された戦前の客船のことが紹介され、写真などが展示されている。

そこから下っていくと、旧長崎高商表門衛所(明38)、長崎地方裁判所長官舎(明16)、旧ウォーカー邸(明治中期)がある。旧自由亭(明11)は、当時長崎でも珍しかった西洋科理屋だったところで、廃業後は検事正官舎に使用されていた。現在は、園内の喫茶店となっている。

さらに下ると、園の名称にも使われている旧グラバー邸(文久3 1863年 重文)。正面玄関にあたる出入り口はなく、多角錐の寄棟屋根がクローバーの葉のような平面構成木造の建物である。グラバーは幕末の尊王攘夷の時代から活躍した貿易商だ。グラバー邸の隣に旧リンガー邸(明治初期 重文)、少し離れて旧オルト邸(元治元年 1864年 重文)がある。ともに、グラバーにあい前後して活躍した貿易商である。当時の外国商人たちは、港を見下ろせる見晴らしよいところに居を構えていたわけである。

旧スチール記念学校(明20)は園の外れにある。館内には、グラバー氏関係の写真や資料、失われてしまった長崎の洋館の写真などが展示されている。

出口にあたるのが長崎伝統芸能館で洋館とは全く関係のない「長崎くんち」などが紹介されている。
出口を出たところにあるのが、十六番館(明治初期)だ。東山手にある活水学院の一部が移築されたもの。キリシタン関係などの資科が展示されているらしいのだが、別館が観光客目当ての呼び込みが立つ食堂になっているので立ち寄る気になれない。そこからグラバー園の入口、大浦天主堂の方へ下る道には土産物屋やタレントショップがずらりと並ぶ。

◎大浦夫主堂(元治元年 1864) グラバー園の隣にある国内最古の教会堂建築。並んで、羅典神学校(明8)、長崎教区大司教館(大3)がある。

大浦天主堂の前は道路の両側に土産物屋や団体客相手の食堂が並び、観光客で賑わっている。それを避けるように、天主堂に沿って左の方へ登っていく小道をたどると、途中に「この礎石は居留地当時の境界を示すものです」という注意書された石(注意書がなければそれとわからない)があった。
(92.3.14.)



有田陶器市(4/29〜5/5)
有田の陶器市は明治29年から始められた行事で今年(92年)は第89回を数える。この期間中に訪れる人は90万人にのぼるという。有田には約150の窯元があり、近在の窯元や陶器商社などが上有田から有田にかけて延々6㎞のメインストリートに約650店が並ぶ。

ふだんから観光客相手に陶器を販売している商店から露店まで、大小の食器類から高価な壷など様々な階器が並ぶ。ふだんよりは安くなっているらしい。訪れたのは、最終日(5/5)の午後三時過ぎ。露店では初日の定価が3割引から5割引にして、品物をさばこうとしている。片付けるのが面倒なのか、なかには無料(小皿などの半端品など)というものもある。安く食器を手に入れるには、最終日の午後、終わりまぎわがよいようだ。

五島教会堂めぐり
五島列島は長崎の西方100キロの東シナ海にあり、約140の島々が散在している。
フランシスコ・ザビエルが日本にやってきたのが1549(天文18)年、五島にキリスト教が伝えられたのは1566(永禄9)年。しかし、1587(天正15)年、秀吉がキリシタン禁教令を発令、キリシタンは弾圧され始めた。人々は表向きには、仏教徒を装いながら隠れキリシタンとなって、1873(明治6)の明治政府による信仰の自由が認められるまで潜伏していた。1877(明治10)年、外国人宜教師達が五島にやってきて布教を再開、教会堂も建てられはじめた。
日本全国には約1000棟の教会があり長崎県には131棟が存在し、五島地方には県全体の約半数に及ぶ(注)そうである。

長崎からジェットフォイルで一時間半ほどで福江市に着く。五島藩1万2600石の城下町で五島最大の街である。市内にある石田城は、幕末1849(嘉永2)年、黒船来航に備えて着工され、1863(文久3)年に竣工、城としては新しい部類にはいる。
現在は石垣だけが残っている。城跡の南側には武家屋敷の家々を囲ってた石垣が見られる。こぼれ石という拳大の丸石を石垣の上部に積んでいるのが特徴。

さて、最初に見学にいったのは、福江市内のバスターミナルからバスで20分、堂崎入口バス停で下車し10分ほど歩いたところにある堂崎教会。堂崎の入江に面して建っている棟瓦造りの教会堂はバス停からも眺められる。明治41年に建てられ、五島では煉瓦造りの教会堂としては最古のものである(県指定文化財)。現在、キリシタン関係の資科を展示する資料館になっている。

翌日、福江からバスで一時間あまりかかって島の西端玉之浦に向かう。井持ノ浦に井持浦教会がある。明治28年に竣工した煉瓦造りの教会堂は昭和62年の台風の被害にあい、翌年建て替えられた。教会堂のそばに長い歴史を有するルルドの聖母が安置されている。

教会の近くの大瀬崎は、過ぎし日露の戦いで、バルチック艦隊発見の第一報を送ったことで知られる。外海に20㎞ほど続く海蝕崖の突端に白亜の灯台がある。

つぎに、島を縦断して岐宿町にある教会を二ケ所訪ねた。東楠原にある煉瓦造りの楠原教会(明43〜45)と水ノ浦にある白亜の木造建築水ノ浦教会(昭13)である。どちらの教会堂も五島出身の棟梁建築家鉄川与助(1879〜1976)の設計施工によるものだ。

その翌日、福江からフェリーで中通島の奈良尾に渡る。港から3㎞ほどのところに煉瓦造りの福見教会(大2)があるが、バスの時間の関係でパス。バスで島の中央部青方に向かう。途中、中ノ浦にある中ノ浦教会(大14 木造)のそばを通過する。

青方から西へ2㎞ほどいったところに煉瓦造りの大曽教会がある。大正5年の竣工で、鉄川与助の設計施工である。
青方から北に向かって、奈摩湾に面して矢堅崎の方の冷水に冷水教会(明40)、それに向き合うように、対岸の青砂ケ浦に青砂ケ浦教会(明43)がある。ともに鉄川与助の設計施工である。冷水教会は木造のあっさりした建物であるが、与助の最初の木造教会堂にあたるものだそうである。一方、青砂ケ浦教会は煉瓦造りで与助の代表作といわれているものである。

青方と有川のなかほどから南へ下った中野に鯛ノ浦教会がある。新しい建物の裏手に木造の建物が残されている。明治36年の竣工で、戦後に正面が拡張煉瓦造り方形の塔が造られたそうである。
(92.5.2.〜5.5.)

(注)松葉一清他:近代建築ガイドブック 西日本編 鹿島出版会(1984)P126



佐賀
佐賀県というのは、福岡と長崎に挟まれた小さい県であるせいか、九州七県のうちでも地味な県である気がする。明治の廃藩置県では、佐賀県が設けられたものの、一時、伊万里県と改称されたり、今の福岡県南部地方にあたる三瀦(みずま)県に編入されたり、長崎県に編入されたりした時期をへて、再度、佐賀県が独立したのは明治16年だった。

佐賀県の県庁所在地佐賀市は、戦国時代に肥前を統一した龍造寺氏の居城のひとつだった村中城を鍋島藩の藩祖鍋島直茂が改築、佐賀城として発展した城下町である。有名な「鍋島猫化け騒動」は、龍造寺家の家臣だった直茂の政権交代を背景として起こった騒動である。

佐賀城は1874(明治7)年に起こった佐賀の乱で焼失、わずかに鯱の門・続櫓が現存するほか石垣が残っているだけである。城跡には県立博物館・美術館や県庁などが建っている。

佐賀市内の近代建築を眺めてみると、立派な建物はあまりない。『近代建築総覧』に取り上げられた建物を中心に見ていく。

官公庁の建物としては、城址に県庁舎、議事堂などがあるが、すでに建て替えられている。城址内に明治19年に建てられた木造の建物が残っている。現在、県教育庁社会教育課分室として使われているが、下見板張りの外壁が改修されており、窓周りが古い洋館を感じさせるだけである。

『九州案内記 九州篇』(昭和10年発行)に載せられている佐賀案内によると、城址の北側に市役所、商工奨励館、徴古館などが並んでいたようだが、現在、徴古館(昭2)だけが残っている。当時、この建物には郷土資料などが展示されていた博物館だったらしいが、今は空き家のようである。

先に挙げた明治の木造下見板張りの建物のほか松尾写真館(明28)、薮内写真館(明45)、中元邸(明治)が残っている。下見板張りでないが知事官舎(明治末)もある。

城下を通っていた長崎街道は、鎖国をしていた江戸時代、門戸を開いていた長崎と江戸を結ぶ街道であった。城下外れには白壁や土蔵造りの家並みが一直線に並ぶのではなく、意図的にずらしてある町並み(といえるほどまとまっているわけでないが)が残っている。のこぎり型家並みといわれ、見通しを悪くし、外敵の侵攻のさいには応戦する身を隠せるようにしたものだ。

この街道筋だけでなく佐賀市内のいたるところに「エベスさん」の石像がある。初めて街歩きをしているとき、地蔵さんにしては座っている姿だし、魚のようなものを抱えているので、なぜ「エベスさん」の石像が佐賀にあるのか不思議な気がしたものだ。石像だけでなく、「西宮」と書かれたものも街角にある。

朝日新聞佐賀版に連載されいた「エベスさん」という記事(昭和60.1〜62.5 117回)を一冊にまとめた冊子を見つけた。この本による佐賀市内には約370体あるそうだ。鯛を背負ったエベス、踊っているようなしぐさのエベスさんなどがある。その表情も楽しい。これらのエベス像は江戸時代後半に多く造られたそうで、それ以後、明治、大正だけでなく戦後になってからも造られているらしい。鬼門よけと商売繁盛というふたつの意味合いがあるようだ。



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