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九州漫歩通信
第2号 1992年8月1日発行

全国町並みゼミ吉井大会
92年5月30日から6月1日まで福岡県浮羽郡吉井町で第15回全国町並みゼミが開かれたので、二日間だけだが様子を覗きに行ってきた。

吉井町は豊後街道の宿場町で農産物とその加工品(酒、醤油など)の集散地として栄えたところで、現在、町の中心部に幕末から明治初期にかけて建てられた白壁土蔵造りの建物が70軒ほど残り、歴史的な町並みを見ることができる。

初日は、オリエンテーションのあと、記念講演。中国の建築家の張錦秋さんの「伝統的空間をいかに現代建築にいかすか」ということについて、西安市に建てられたホテルの設計を手掛けた例をもとに話された。(中国語からの同時通訳)続いて「環境運動のなかの町並み保存」をテーマにシンポジウム。千葉大木原啓吉氏の司会で、環境法学者、環境庁審議官、環境経済学者などが各専門の立場から意見が述べられた。

二日目の午前中は、町並み見学会。吉井町町並みゼミ実行委員会の役員の案内のもと15軒ピックアップされた家々をまわる。元の酒蔵(現在、吉井には造り酒屋はない)や醤油屋、商家、土地の名士の邸宅などで白壁土蔵造りの規模の大きな建物が残っている。幕末から明治初期にかけてかなり裕福な町だったことがうかがえる。

外から眺めるだけでなく、室内に上げてもらえたりしたところもある。住人が都会に引っ越して現在空き家になっている建物もあり、有効利用してほしいとところだ。

そのあと午後からは三ケ所に分かれて分科会が行われ、「町並み運動と行政の役割」というテーマの分科会に参加する。司会は「港まち神戸を愛する会」の武田則明氏と明石高専助教授八木雅夫氏。三重県関市、京都市、地元吉井町の行政側からの事例発表がなされ、角館町長などが助言者として意見を述べ、会場の参加者との活発な意見交換が行われた。

この町並みゼミの参加者は、町並み保存連盟に加盟する団体関係者をはじめ、台湾、マレーシア等の海外からの参加者も含め約450名にのぼり、関西からは「港まち神戸を愛する会」をはじめ、「富田林寺内町を守る会」「宿場町枚方を考える会」「和歌浦を考える会」など多数の団体関係者が参加している。

レジュメには町並み保存連盟に加盟している60団体の活動報告が寄せられている。これを見ると、近代建築に目を向けているのは「港まち神戸を愛する会」などわずかで、観光ガイドブックに取り上げられるような伝統的建造物群保存地区(角館、妻籠など)的町並みを対象とした団体がほとんどである。また、一方では、歴史的環境の保存(「和歌浦を考える会」)、地域に根ざした出版活動を行ってるところ(「東京谷根千工房」)などもある。ひとくちに「町並み保存」ということだけで捉えきれない広がりをもつ組織であることがうかがえる。


天領日田から城下町中津へ
日田の駅前も再開発されて、幅広く取られた歩道に彫刻が立っていたりする都会的な町並みに見えるが、それも五分ほど歩くと道幅も狭まり旧来の町並みになる。そんな町並みの角地に浜田耳鼻科医院がある。当初は銀行として建てられた鉄筋コンクリート造二階建の建物である(昭7)。

日田には近代建築はあまりないようだが、江戸時代から明治の町並みが残っている。駅から北へ二十分ほど行った豆田町である。その途中には江戸時代の儒学者広瀬淡窓が開いた私塾「咸宜園」(史跡)があって、藁葺きの建物が残っている。

日田は江戸時代は天領だったところで、代官所が設けられていた。その南にあたる豆田町付近に商人などの町並みが形成された。建て替えられた建物もなくはないが、駅から少し離れたせいか、町並みとして残っており、現在は、観光資源として活かそうとしている。天領日田資科館があり、広瀬家などでも江戸時代からの伝来品を展示している。

日田から中津行のバスで四十分ほどで守実に着く。中津から山国川に沿って敷かれた耶馬渓鉄道の終点だったところだ。大正2年の開業で、自動車が普及するまでは耶馬渓観光の足になっていたはずである。昭和46年に野路−守実間が廃止され、残りの区間も昭和50年に廃止された。現在、廃線跡はサイクリングロードに整備されている。

旧守実駅近くにある江戸時代の農家神尾家(1771年頃)に立ち寄ったあと、廃線跡を歩き始める。途中には駅のホームの跡が残っていたり、駅舎が民家に転用されているところもある。トンネルや鉄橋もそのまま使われていたりもする。緩くカーブした先の山陰から今にもタイフォンを響かせ気動車がやってきそうな気になる。

山国川沿いの耶馬渓の景観を楽しみながら歩く。山々のところどころに倒木が折り重なっているのが見られるのは、昨年(91年)の台風の被害のようだ。

中津は秀吉の命により九州を平定した黒田孝高(如水)の築城にかかる城下町で、細川、小笠原家を経て奥平家が幕末まで治めた。昭和39年に再建された城がある。高架駅の南側は、新築された市役所、ホテルなど近年建てられた建物が目立つが、北側は寺院の並ぶ寺町や二階建くらいの民家が並ぶ町並みとなっている。

中津には、慶応義塾を創設した福澤諭吉の旧居が史跡として保存されている。論吉の生まれは大阪である。堂島の中津藩蔵屋敷につめていた父の死により3才のとき中津に引き上げてきた。ここでは21才で長崎へ遊学するまで過ごし、旧居に並んで建っている土蔵の二階は勉強部屋だったそうである。隣接して福澤論吉記念館があり、遺品などを展示している。

市内の近代建築としては、中津市歴史民俗資料館(旧小幡図書館 昭12)がある。金谷地区はかつては武家屋敷が並んでいたところで、土塀だけが当時の雰囲気を残している。

そのはずれに「旧中津宜教師館キャラハン邸」がある。キャラハンは明治時代に来日した宜教師で、木造二階建ての建物は明治中頃に建てられた。取り壊されることが決まっていたが、保存運動により、日本文理大キャンバス(大分市)に移築復元されることになった。現在、解体工事が進められている。
(92.6.6.〜6.7.)



資料館を訪ねて
郷土資料館や歴史民俗資料館は各地にあるが、ここで取り上げた資料館は、石炭と関係が深い近代建築を活用したところである。

◎唐津市歴史民俗資料館
唐津港は明治32年の唐津線の開通により唐津炭田の積み出し港として発展した。この建物は石炭の輪出などを手掛けた三菱合資会社唐津出張所として海岸の埋立地に明治41年に建てられた。その後、唐津支店となった。木造二階建てで、海に面しては一、二階ともベランダ付きになっている。建物の設計は三菱の「丸の内建築事務所」が担当。当時、建築顧問として曽禰達蔵がおり、この建物の設計への関与があったとされる。(佐賀県重要文化財)。
展示内容は、石炭、唐津炭田関係、唐津港の今昔などの資料である。二階の一室は調度品など当時の雰囲気を再現している。

唐津は、東京駅などを設計した辰野金吾の出身地であるが、市内には彼の後輩田中実が設計した佐賀銀行唐津支店が残っている。赤煉瓦に白石材のコントラストをもつ辰野式建築である。

◎世知原町歴史民俗資料館
佐世保から北へ山越えのバスで45分ほど行ったところに北松浦郡世知原町がある。佐々川に沿った小さい町である。明治25年頃より石炭の町として発展、大正時代になると佐世保軽便鉄道(のちに佐世保鉄道と改称)が佐々川に沿って敷設され、石炭の輸送が行われた。

資料館は、明治45年頃、松浦炭鉱事務所として建てられた石造平屋建ての建物である(長崎県重要文化財)。女性も男性といっしょに裸に近い格好で働いている当時の写真など炭坑、石炭関係の資料や農耕具などの民俗資料が展示されている。近くに廃坑の一部が保存され見学できるようになっている。また、ボタ山(現在は木々で覆われている)も炭坑町であった記録として残されている。

佐世保鉄道は昭和11年に国鉄松浦線の建設に伴い買収され、肥前吉井一世知原間は世知原線とされた。しかし、石炭の斜陽化とともに旅客輸送も凋落の一途をたどり昭和46年12月に廃止された。現在は、サイクリングロードになっており、途中にあった駅はそのまま民家になって残っていた。

◎直方市石炭資料館
JR筑豊本線直方駅から線路沿いに南へ10分ほど歩いたところにある資料館で、本館は明治43年に筑豊石炭工業組合直方会議所として建てられた木造二階建ての建物である。別館はモダンな外観で、屋外には蒸気機関車などが展示されている。展示内容は、筑豊を中心に石炭、炭鉱関係の資料が豊富で、炭鉱の廃虚(産業考古学的遺物)の写真なども紹介されていた。(いずれは消えて行くことになるのだろう)

直方市内には福岡銀行直方南支店(大6)木造の医院建築などが残る。バスで10分のどの二字町は公認遊廓があったところだ。


旧佐賀線沿線漫歩
佐賀線は鹿児島本線の瀬高から敷設が進められ、柳川、大川を経て佐賀まで全通したのは、筑後川鉄橋が完成した昭和10年である。筑後川鉄橋は船舶の航行を可能にするため、鉄橋の一部が上下する可動橋方式がとられた。しかし、昭和60年の国鉄再建法により第二次特定地方交通線に指定され、けっきょく、昭和62年3月に廃止された。

佐賀から廃線跡をたどると、佐賀駅から南佐賀駅跡にかけては、一部、築堤が残っているところもあるが、更地になったり、道路に転用されてたりしている。その先、諸富駅跡付近まではサイクリングロードになっている。諸富の先で、筑後川を渡るが、鉄橋がそのまま残されている。もちろん、可動部は上げられたままである。

その先、柳川まで確認したところ、レールがそのまま残され、筑後大川駅、筑後柳川駅は廃屋と化した駅舎が無残な姿をさらしていた。
大川市は筑後川沿いの河川港で、家具の町として有名。300年の歴史があるそうで、国道208号線沿いには家具屋が並ぶ。

筑後川のそばに「大川海運物産」の建物がある。かつて三瀦銀行だった建物で明治末頃に建てられたものだ。現在、一階部分が「いちごテレビ」(地元ケーブルテレビ)のショールームになっており、見学は自由だ。昔の写真なども展示され、かつての金庫室も覗くことができる。

市街地から4㎞ほど北に向かった鐘ケ江というところに「清力酒造」という清酒メーカーがある。ここの事務所は明治41年に建てられた木造二階建ての建物である。もともとは事務所として建てられた建物であるが、かつては「清力美術館」というオーナーが収集した絵画などを展示していた私設美術館だった建物である。この美術館は、惜しまれながら昭和61年に閉館している。

大川市出身の作曲家古賀政男の記念館が国道208号線沿いにある。経歴、作品の紹介や遺品などが展示され、隣接して生家が復元されている。

水郷の町柳川は、立花藩十二万石の城下町で、川下り、北原白秋、うなぎで有名な観光地である。明治末頃に建てられた立派な洋館が残る「お花」は、藩主立花家の別邸だったところで、家に伝わる甲冑、刀剣などの展示や庭園「松濤園」観賞とセットにして洋館内部も見学することができる。

◎足をのばせば
柳川から西鉄電車に二十分ほど乗れば久留米である。ブリヂストンを起こした石橋正二郎氏の出身地で、彼の寄贈による石橋文化センターがある。ここにはホール、美術館、図書館などがある。

近代建築としては、石橋迎賓館がJR久留米駅に向かった方にある。ブリヂストン関係者の施設のため門の外側からだけしか見ることができないのが残念。そこから北に向かうと久留米大学がある。

西鉄久留米から甘木線で15分ほどの大城で下車し、北に30分ほど歩いたところに今村教会がある。五島出身の棟梁建築家鉄川与助の作品で、大正2年に建てられた立派な煉瓦造りの教会堂である。






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