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漫歩通信
第13号 2003年4月1日発行

大阪・近代建築痕跡めぐり


今回は、大阪市内を見てみよう。最近の大阪市内を歩いていると、至る所、タワークレーンがそびえ、ビル工事が行われている光景に出くわす。しばらく来ないうちに、ビルが建て替えられおり、そこに、かつて、どのような建物があったか、判然としないことも多い。

そんな大阪市内にあって、過去の痕跡が残されている例を見つけることがある。今回は、そのような痕跡をいくつか紹介してみようと思う。



◎柱頭篇
[写真1]は、みずほ銀行淀屋橋支店のところにあるもので、典型的なコリント式柱頭である。淀屋橋界隈にはみずほ銀行がいくつかあるから、旧日本興業銀行大阪支店がはいっていた興銀ビルといったほうがわかりやすいか。

今の興銀ビルは、昭和36(1961)年の竣工で、設計は山下寿郎建築事務所、いまの山下設計。1階にはピロティがあって、横長の窓などモダニズム建築全盛時代の建物といえるだろう。昭和38(1963)年第四回建築業協会賞を受賞したことを示すプレートが掲げられている。

写真の柱頭は、銀行出入り口の横、ピロティの少し奥まったところに立っている。この柱頭の案内プレートによると、もとの建物は、大正9(1920)年竣工、設計は山本勧之進、とあった。日本興業銀行大阪支店は、長野宇平治設計とされる銀行建築のひとつだが、その下で担当したのかな?

なお、このビルのピロティ部分は、週末になるとシャッターがおろされるので、この柱頭に近づくことができるのは平日だけだ。(最寄り駅:淀屋橋)


[写真2]は、みずほ銀行南船場支店の前にある。柱頭としては、コンポジットというには、渦巻きが小さく、コリント式みたいだが、それにしては、アカンサスの飾りが貧弱というか、簡略されすぎている。[写真1]と比べてみれば、その違いがよくわかる。

この柱頭は、かつて高麗橋にあって、1992年に取り壊された第一勧銀高麗橋支店に使われていたものだ。南船場支店はもとは勧銀の支店だったところで、同じ銀行のよしみでここに飾られたようだ。(最寄り駅:長堀橋)


旧高麗橋支店は、大正15(1926)年の竣工で、設計は西村好時である。京都・西陣支店など旧第一銀行系の銀行建築を手がけている。

右写真は、取り壊し工事が行われる直前に撮った写真である。御堂筋の1本東側にはいったところにあったとはいえ、角地を飾る立派な建物だった。




[写真3]は、大和銀行本店ビルの裏手にあるもので、ドリス式の柱頭である。(この3月から大和銀行の名前は変わったが、旧来のビル名で紹介する)。

今の新しいビルのほうは、安井建築設計事務所と東畑建築事務所の共同設計で1991年に竣工した。旧本店(野村銀行本店)のデザインモチーフを継承しているらしい。

旧本店ビルは、大正13(1924)年に竣工した建物で、設計は、片岡建築事務所であった。(最寄り駅:堺筋本町)



◎壁面、その他いろいろ
今も製薬関係のメーカーや商社などが軒を連ねる道修町は薬の街である。大日本製薬、ここのドライエリアのところにビル壁の一部が残されている。

もとのビルは昭和5(1930)年に建てられたもので、設計は生駒ビルヂングなどで知られる宗建築事務所(宗兵蔵)。人面がユーモラスというか、そんな建物だ。





その近くには、塩野義製薬がある。かつてのビルにはめ込まれていた会社名を記した銘板とその部分を残している。現在のビルは通りからセットバックさせているが、この意匠を再現していることがわかる。




もと建っていたビルは、大正末頃建物らしい。
(左取り壊し前の姿:1989年撮影)






 御堂筋・南御堂の向かいには、旧大谷仏教会館の壁面が保存されている。これは、竹中工務店の設計で1985年に竣工した又一ビルとして建て替えられるとき残されたものだ。

旧大谷仏教会館は、昭和8(1933)年、竹内緑の設計で建てられたもので、残された壁面からもわかるように、建物全体テラコッタで覆われていた。




肥後橋には、大同生命がある。1993年竣工した今の建物は、ヴォーリズの流れをくむ一粒社ヴォーリズ建築事務所と日建設計の設計で建て替えられたもの。もとの建物を上のほうに引き延ばしたような感じ。1階部分は公開空地が設けられ、そこにもとの建物のパラペット部分に用いられたテラコッタが保存されている。

もとの建物はヴォーリズ建築事務所の設計で大正14(1925)年に建てられたものだ。
(右取り壊し前の姿:1989年撮影)
















ほかにも、旧来の建築物の一部を保存したり、復元したりしている例としては、堂島アバンザ(日建設計、1999年竣工)の公開空地に復元された、かつての毎日新聞社の石造玄関部分(左写真)とか、同和火災フェニックスタワー(日建設計・梓設計、1995年竣工)の壁面に保存された「鷲」像(フェニックスという説もあるが)などがある。

平野町の街灯

これは平野町の西外れ、阪神高速の高架下に保存されている物件だ。

平野町、かつては賑やかな通りだったらしく、平野町をブラブラ歩くのを「平ブラ」といったらしい。そんな時代に作られた街灯だ。

頭に飾り付けられた瓢箪、平野町は大阪城の正面にあたることから、太閤さんにちなんでのこと。

街を歩いていると、いろいろな発見がある。





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