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漫歩通信
第16号 2004年1月15日発行

美山−「かやぶきの里」を訪ねて


京都府北桑田郡美山町、京都の市街地から北へ60kmほど行ったところにあって、山を越えればもう福井県という丹波高地にある町である。京都から福井県の小浜に抜ける国道162号線からそれた北という50戸ほどの集落、そこの民家の大半が、かやぶき屋根ということで「かやぶきの里」として知られる。そんな山村集落の姿を残すことから1993年には国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

今回は美山町の「かやぶきの里」を訪ねることにしよう。京都市街から60㎞といえばたいした距離でないように思えるのだが、公共の交通機関、つまりバスで訪れるとなるとけっこうたいへんなのだ。ふつう京都から美山に行くには、京都駅前からJRバスで周山に向かい、周山から美山町営バスに乗り換えて美山町へ至るのが一般的だ。ほかにJR山陰線で和知へ行き、そこから町営バスを乗り継いではいるルートもあるようだ。だだ、「かやぶきの里」までバスで行くには、平日と休日とで町営バスの時刻が違っているようなので、あらかじめよく調べてから行くことをお薦めする。

さて、漫歩記者が訪れたのは、秋が深まり紅葉のシーズン真っ盛り、ただ夏場の天候不順のためか、発色がいまいち、ともいわれていた11月中旬の土曜日のこと。京都駅前のJRバス乗り場は、紅葉の名所高雄に向かう観光客が列をなし、高雄行の臨時バスが走るという盛況さ。高雄行の臨時便があらかたの観光客を運んでしまったので、周山行JRバスは座席がさらっとうまる程度の込み方で京都駅前を出発。

京都市街地の町並みを抜け、仁和寺の前を通って国道162号線にはいると山が迫り、バスは山間に分け入る、という感じ。御経坂峠を越えて清滝川水系に下って行くと高雄である。道路沿いに設けられた狭い駐車場には、いまが稼ぎどきとばかりに、ぎっしりクルマが止められている。

高雄を過ぎれば北山杉の産地、険しい山々には手入れされた杉がすっくと立っている。清滝川沿いには、磨き丸太を並べる製材所が並ぶ。

笠トンネルを抜けると京都市から京北町にはいる。京北町の中心周山へはもうひとつ栗尾峠を越える。峠を過ぎると遥か周山の町並みが見下ろせるのだが、町に至るまでカーブが続く険しい道路であった。京都駅前から1時間半ほどかかって、ようやく周山に着いた。

周山のバスターミナルには、JRバスがさらに末端のローカル線を受け持っていたなごりか、バスが4台並べられる上屋がかけられている。いまは、それを肩代わりした京北町営やこれから乗り継ぐ美山町営のバスが停まっている。この国道162号線、古くは日本海側の海産物を京都に運ぶ街道だったわけだが、かつては国鉄バスが京都から小浜まで走っていた時代がある。

周山から美山町営バスに乗り継ぎ、美山町をめざす。乗客は数人、乗り降りも少ないから軽快に走る。山に囲まれた京北町の農地が広がる地域を出はずれると、また山間にはいり深見トンネルを抜けて美山町にはいる。

日曜日だと周山から「かやぶきの里」方面に直接向かうバスの便があるのだが、平日は安掛バス停で乗り換えとなる。道路反対側のバス停に立つとすぐに知見口行バスがやってきた。接続がすこぶるよい。由良川に沿った山間の道を10分ほど行くと「かやぶきの里」に着いた。 広い駐車場が設けられている。土産物屋、食堂も建つ。観光バスが数台、クルマもたくさん停まっていて、バスを乗り継いで訪れる人は少ないけれど、ここは多くの人が訪れる観光地なのだった。

北の集落には、かやぶきの入母屋屋根をもつ農家が緩い傾斜地に並んでいる。軒並みやぶきという、まとまりのある集落に重伝建地区に指定されるだけのことはあるなと感じる。修復に手をかけたというような、作り物くささがあまりなくて、しぜんなたたずまいでもある。そんな集落のなかの小道を観光客が行き交っている。

集落の中心に美山民俗資料館がある。数年前火災で焼失したかやぶき民家を復元して資料館にしたもの。他の家々はふつうに住まわれているから見学はできないが、この資料館では、建物の内部の様子も見ることができる。狭い集落なので歩き廻ってもすぐ見終わってしまうが、この資料館のいろり端で、ほっこりした時間を過ごすのもいいかもしれない。



建物を訪ねて(10)
保津川観光ホテル楽々荘(田中源太郎邸)
亀岡駅前の通りをまっすぐ行くと、亀山城の堀端に出る。亀岡という地名、もとは亀山といい、伊勢の亀山と紛らわしいので改名されたのだそうだ。現在、亀山城跡には大本教の施設がある。

駅から西へ10分ほど行ったところにあるのが保津川観光ホテルだ。山陰本線の前身にあたる京都鉄道の創設、経営に尽くした田中源太郎の自邸として建てられたもので、煉瓦造りの洋館と木造の和館からなる。明治32年頃に建てられたそうで、洋館に使われている煉瓦は鉄道建設に使用された余材とも伝えられる。建物の裏手には庭園がしつらえてあって、京都の無鄰菴などの作庭で知られる植治こと小川治兵衛の作。

今でこそ、亀岡駅前にはサティに西友といったスーパーや商店が並んでいて、駅前の賑わいをみせるが、城跡の南側には、旅篭町、呉服町といった町名が残っている。かつてはここらあたりが城下の中心だったのだろう。古い町屋もいくつか残っている。

横町には洋館の菱田邸をはじめ、一間だけ洋風にした住宅が見られる。 「H商店街」という街灯があったけれど、何が「H」なのだろう?



城のある町−園部
京都から山陰に向かう山陰本線にも電車が走るようになって、電車基地のある園部駅も橋上駅化された。かつてホームとホームを結んでいた跨線橋の柱が記念としていくつか残されている。

町の中心は駅から1kmあまり離れている。園部は元和5(1619)年出石より移封となった小出氏の城下町である。最初は、陣屋が設けられていたようだ。それが戊辰戦争があって世情不安なご時世に、明治新政府から堅固な城に改築する許可を得て、今の園部公園のあるあたりに、三層の櫓などが築かれたそうだ(1869)。しかし、明治5(1872)年には取り壊されてしまう。その遺構として府立園部高校の一角に城門や櫓の一部が残っている。

取り壊された城を再現したのかどうか知らないけれど、園部公園には立派な城が建っている。「園部国際交流センター」というイベントホール、研修室などをもつ町の施設だ。隣には博物館がある。

そういえば、中央公民館とか町外れにある学校も城を意識した意匠が施されている。

近代建築としては、町の中心部に京都銀行園部支店が残っていて昭和初期頃の銀行建築らしい建物である。






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