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漫歩通信
第17号 2004年4月15日発行

「明治維新発祥地」碑のある町−五條


奈良県五條市を訪ねた。ここには「明治維新発祥地」という記念碑がある。今年(2004年)のNHKの大河ドラマは<新撰組>の志士たちを主人公としたものである。

ドラマの舞台、幕末は、開国、攘夷、尊王、佐幕といった主張・思想が入り乱れていたわけで、幕府側の<新撰組>に対して、尊攘倒幕派志士たち「天誅組」が代官所を襲撃するというの起きた場所が五條なのだ(1863年8月17日)。


いっぽうの「新撰組」、江戸から下ってきた当初、京都で「壬生浪士組」として活動していたのが「8月18日の政変」の功績によって「新撰組」の隊名を授かったというから、両者、それなりに関係しているわけですね。昨年は「天誅組の変」から140年というので、イベントが行われたそうだ。

この「明治維新発祥地」碑のある五條史跡公園は、襲撃されたのち代官所を移転したところだそうで(襲撃された代官所跡は、今の五條市役所)、今は代官所の長屋門が「天誅組」関係の資料館となっている。

和歌山と京都・奈良を結ぶ国道24号線と国道168・310号線の交差点は「本陣」という。代官所を襲撃した天誅組が本陣とした櫻井寺が近くにあることにちなむのだろうか。この寺には「天誅組本陣跡碑」がある。

この交差点を南に少し行くと、栗山家がある。通りから引っ込んだところにデンとある建物は、建築年代明らかな民家として最古だという。

その先の新町通りは、二見のほうに向かって古い町並みが続く。(写真は、山本本家/清酒「松の友」醸造元)市では町並み整備事業を積極的に進めているようで、新しい建物にも古い町並みにマッチしたかたちに修景されたりしている例が見られる。

新町通りをしばらく行くと、町を横切るコンクリート製の高架がある。五条駅のほうからカーブしながら延びてきて吉野川の手前で途切れている。これは、五条と新宮を結ぶ五新線として建設が進められた鉄道工事の残骸なのである。アーチが連続する高架は戦前に作られたらしい。邪魔な構造物ではあるが、取り壊すのにも費用がかかるのでそのまま放置されているのだろう。

かつて、城戸まで完成していた路盤を専用道路に使って国鉄バス(のちJRバス)が走っていたが、今は廃止されている。五新線のことについては『鉄道未成線を歩く 国鉄編』(森口誠之 JTBキャンブック 2002)に詳しい。





市立五條文化博物館

五条駅から金剛山のほうへ5kmほどはいったところに市立五條文化博物館がある。設計は安藤忠雄で、1995年に竣工した博物館だ。
山の中腹にあって五條市街が一望にできる、とはいえ、それにしても不便なところに博物館を作ったものだ。駅北側のバス停から南大和ネオポリス方面へのバスが出ているのだが、最寄りの田園1丁目バス停からさらに1.5km歩かなければならないのだ。

道路からはいると建物はもう一段高いところにある。左手に入口に至るエレベータ塔がすっと立っていて、階段はジグザグに登っていく。隣接して別館があって、一本の木立を生かした擁壁がこだわりを感じさせる。

建物は地中に埋めこまれたような感じなのだが、入口は三階にある。円を基調にした建物で、外に出ている部分がリング状の4分の3を使っているような形になっている。その欠けている部分が屋外広場になっていて、見晴らしがよい。展示空間は、4分の2くらいの部分を占めていて、一階から三階まで吹き抜けにで、フロアが階段状に配されている。下から見上げると大きな空間だ。

展示内容は五條を中心とした歴史的事項の紹介である。限られたスペースのなかで、整った展示をしていると思われる。





高野口から九度山へ
JR和歌山線は、今はワンマン運転の電車がゴトゴト走るローカル線だが、歴史は古く王寺から延びてきた大阪鉄道、南和鉄道の路線と和歌山から延びてきた紀和鉄道の路線が繋がったのは明治35年のこと。
高野口駅は、いまは無人駅だが、古い木造の建物で、開業した当時のものではなかろうか。田舎の駅としては広い待合室を持っている。

駅前には木造三階建ての旅館がある。いまの高野口という駅名は、開業当初は名倉といっていたが、霊峰高野山への入口として賑わったなごりなのだろう。しかし、大正時代になって南海高野線が高野下まで延びるとその賑わいも失われたようだ。

高野口駅の近くに元庄屋だった民家が「双松舎ギャラリー」として使われている。通りかかったときは閉まっていたが、立派な建物である。

高野山口駅から九度山町のほうに町並みが続いている。ところどころに古い町屋があったりする町並みだ。工場のあとらしいレンガ造の建物があったりもする。このあたり古くから織物製造業が盛んなところのようだ。

家並みが尽きると紀ノ川である。対岸が九度山町で、石垣で補強した河岸段丘の上に家屋が並んでいる。

九度山橋を渡る。今の県道の橋の上手に昔の橋の橋台が残っている。今の県道はは家並みをそれるように走っているが、昔の橋がかかっていたところからみると町並みのなかを通って高野山のほうに伸びていたようだ。それでそちらのほうに歩を取る。

河岸段丘の上に町並みがつながっている。高野口駅からこうやって歩いてくると、家並みが途切れていない。それだけ、高野山詣で人たちで賑わったことで町並みが形成されてきたということなのかもしれない。真田通りという通りを行くと、南海九度山駅の下に出た。

真田通りというのは、真田幸村にちなむものだろう。県道を高野口町のほうに500mほど戻ったところに真田庵(善名称院)というお寺がある。関ヶ原の合戦で豊臣側に加わった真田昌幸・幸村父子が、合戦後、高野山に蟄居させられ、隠遁していたところである。当時の建物の痕跡はなく、井戸があるくらい。真田幸村ゆかりの地として県の史跡となっているらしい。
 九度山駅に行く。開業当時の建物なのだう、瀟洒な駅舎だ。
この駅のひとつ難波寄り学文路駅は、駅名に「学」の字があることから、入場券を5枚セットにして、「御(5)入学」という語呂合わせの入学試験お守りとして昔から発売していることで有名。






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