このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
六甲有馬ロープウェーを訪ねて 六甲有馬ロープウェーは、神戸市都市整備公社が運営するロープウェー路線で、表六甲−天狗岩−六甲山上カンツリー間の表六甲線、六甲山上カンツリー−有馬間の裏六甲線からなる。1970(昭45)年、神戸開港100周年の記念事業として建設されたものだ。この路線のうち、表六甲線が2004年12月18日限りで廃止されるというので、乗り納めに乗りに出かけた。 阪急六甲駅で下車。駅前から六甲山頂行の阪急バスが出ているが、それには乗らないで、少し離れた神戸市バスのバス停から六甲ケーブル下行に乗る。六甲山に向かう人たちでけっこう混んでいる。バスはどんどん坂道を上って行き、10分ほどでケーブル乗り場に着いた。山小屋風の駅舎である。 六甲ケーブルは、六甲越有馬鉄道が1932(昭7)年3月に営業を開始した路線で、戦時中一時休止させられたとはいえ70年からの歴史があるケーブル線だ。1975(昭50)年10月に摩耶ケーブルを運営する摩耶鋼索鉄道を合併し、六甲摩耶鉄道となった。ところが、摩耶ケーブルは、この前の地震で大きな被害を受け長らく休止していたのだが、2000年に神戸市都市整備公社に譲渡され、現在は摩耶ロープウェーと一体的に運営されている。 六甲ケーブル下駅からいくつかトンネルをくぐりながら六甲山上駅まで1.7km、標高差約500mが10分で結ばれている。ケーブルカーは2両編成で、山上側がふつうの箱型で、山下側が屋根までガラス張りとなった展望車である。数年前に車両が更新されたそうで、今のは3代目らしい。 六甲山上駅舎は、ほどこされている装飾などみると創業当時のままのようだ。昭和初期のモダンな雰囲気が感じられる。展望台があって、南側に広がる神戸の町並みや大阪湾が見渡せる。 ケーブル山上駅から一段下がったところからロープウェーが出ている。表六甲駅から5分ほとで天狗岩駅に着き、乗客が乗り換えるとすぐに六甲山頂カンツリー駅行がでるようになっているのだが、廃止される駅など写真に収めたかったので途中下車。 ここから歩いて15分くらいのところに六甲オリエンタルがある。安藤さんに詳しい人ならご存知の「風の教会」があることで知られる。 六甲オリエンタルホテルは1934(昭9)年の創業で、70年の歴史を誇る。このホテルと同様、六甲ホテルも古い。戦前は、今のロープウェーとはまったく別の六甲ロープウェーがあって六甲ホテルの近くに発着していたらしい。1931(昭6)年の開業で「六甲登山架空索道」が運営していた。当時のガイドブック『日本案内記 近畿篇 下』(昭8 鉄道省編纂)によると、六甲山登り口−六甲山上を7〜10分で結んでいたそうだ。 この本に六甲山の地図が載っており、登り口駅があったのは、六甲ケーブル下駅から表六甲道路を1.5kmほど上がったところにあって、前ヶ辻谷の斜面を登って六甲ホテルの近くに達していたようだ。戦時中の昭和19年に休止に追い込まれ、復活することはなかった。 天狗岩駅からふたたびロープウェーに乗ると5分ほどで六甲山頂カンツリー駅に着く。有馬へ下るにはまたゴンドラを乗り換える。この駅周辺には展望を活かしたレストランなどの施設がある。かつて、ここには「回る十国展望台」という展望フロアが回転するという施設があったのだが2002年11月に休止、解体されてしまった。その跡地に灘区が設置した案内板があって、建物のことを紹介していたが、1957(昭32)年に設けられたものらしい。六甲山の名物施設のひとつだったようだ。 箱木千年家と近代土木遺産 神戸市北区山田町衝原にある「箱木千年家」として知られる箱木家住宅は、現存する日本最古の民家ともいわれ、国重要文化財に指定されている。ダム建設で水没するすることなって移築されたのだが、このとき詳しく調査され、室町時代には建っていた民家だとされる。(「大同元年」(806年)に建てられた、という古文書が展示されているけれど・・)移築前にはひとつの大きな建物としてあったのが調査の結果、母屋と江戸時代に建てられた離れとに分かれていたことがわかり、現在は2棟が並んで建っている。 建物の規模は、もらったパンフによると母屋は桁行約11.4m、梁間約8.4mで、広さとしては約100㎡弱の平屋である。 100㎡というと広いように思えるが、その半分は、かまどなどがある土間で、残りは板間。土間の4分の1くらいは厩が占める。 建物のなかはかなり暗い。南側に縁側があっても、わら葺き屋根の軒の出がかなり低いところまできているのであまり光がはいってこない。軒は少し屈まないといけないくらいの高さだ。囲炉裏がある10畳くらいの「おもて」、4畳くらいの「だいどこ」、奥まった6畳くらいの「なんど」の3部屋に分かれている。こんな狭い板間でどんな生活が行われていたのだろう。 箱木家は三木の別所氏に仕えた地侍で、江戸時代は衝原の庄屋だったらしい。そんな歴史を伝える資料が江戸時代に建てられた離れのほうに展示されている。 ダム湖であるつくはら湖の南岸に沿う道路から数百m南の山間に山田池がある。昭和8年に設けられた山田池堰堤でできた溜め池。山を越えて木幡に抜けるハイキング路を30分くらい行ったところにある。けっこうきつい登り下りのある山道だ。堰堤は、けっこう高さがあって、下を覗き込むと足がすくむ。 呑吐(どんど:ダムの案内板によるとここにに堰があったことにちなむ名らしい。堰とか水門によって堰き止められて水のあるところを「どんど」というようなのだが、こんな漢字をあてるとは知らなかった。漢字から酒飲み的な印象を受けるが、<呑>も<吐>も土木のほうではふつうに使う漢字ではある)で、ダムから三木に向かって4kmほど行くと山田(志染)川と淡河川の合流する御坂である。ここに御坂サイフォン橋というのがある。 淡河川上流から加古台地に農業用水を供給する淡河疎水は、1888(明21)年に着工して1891(明24)年に完成したのだが、志染川を越すために作られたのがこの橋だ。工事を指揮したのは、英人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーで、鉄管を用いたサイフォン橋としては日本で最初のものらしい。 淡河疎水は、琵琶湖、安積とならんで日本三大疎水といわれるだそうだが、この2カ所に比べ、すこし知名度が低い。日本初というのをもっと誇るべきだろう。 裏六甲・山田川に沿って 神戸市北区、六甲山系の北側は神戸電鉄の沿線にあっては、斜面を切り開いた住宅地が広がっているが、箕谷から三木に向かう山田川流域は山間にひらけた農村部である。文化財も多い。由緒ある神社や寺院だけでなく「農村舞台」というのもある。 農村舞台は、江戸時代末期には全国的に建てられたものらしくて、回り舞台などの仕掛けをもつものもあるそうだ。箕谷駅から北へ15分ほどのところにある下谷上農村舞台は、山田中学校そばの天彦根神社境内にあって、国有形民俗文化財に指定されている。(ただ、雨戸が閉じられた舞台は、大きな物置小屋のようだ。最近では、地元の小学生らによって、公演が行われるらしい。) 山田小学校はRC造の校舎だが、木造の玄関がある。この小学校の前身である又新小学校の玄関で、明治13年に建てられたものだそうだ。玄関部分だけ保存するのでなく、校舎も残しておれば、貴重な文化財になったことだろう。 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |