世界の国からこんにちは
今年は愛知で万博が開かれている。連日賑わっていることだろう。それとは直接関係ないけれど、今回は、高度成長まっただ中の1970年大阪千里丘陵で開かれた大阪万博の跡地を訪ねることにした。
大阪モノレールに乗って万博記念公園駅に近づくと、岡本太郎による「太陽の塔」がすっくと立っている。広大な跡地は公園として整備され、エキスポランドともども休みの日ともなると行楽客で賑わっている。
<人類の進歩と調和>というテーマを掲げて、期間中6,400万人ほどの人が訪れ、お祭り広場では連日のように「お祭り」が繰り広げられた。とりわけ、アメリカ館では、その前年に人類初の月面着陸を果たした成果として、「月の石」が展示されたり、それに対抗した「ソ連館」とか、見物客が長蛇の列をなしていたものだ。
そんな、世界各国、地域、企業グループのパビリオンが並んだ跡地は、35年経つ今、緑豊かな森や芝生広場になって、春の桜をはじめとして、季節ごとの花々の咲く公園として多くの人が訪れる。
木立を抜ける散策路のかたわらなどにはパビリオン跡地を示す石板が置かれていて、当時を知らない人でも石板めぐりをオリエンテーリングのように楽しめるようだ。
当時の建物として残っていた国立国際美術館は、昨年大阪・中之島に移転したため取り壊されたけれど、鉄鋼館などが残っている。
日本庭園の中央休憩所では万博開催35周年記念企画として「思いでの70年大阪万博記録映像」上映コーナーが設けられ、当時の様子を紹介していた。
気になるたてもの−万博公園付近から
万博公園の外周道路から北に1kmほどのところ、住宅街のまんなかにあるのが「光の教会」。ご存じ安藤さんの代表作のひとつ。規則正しく並んだ型枠やセパレーターの打設痕がとてもきれいです。道路から見たとき、コンクリート壁で囲われた建物は、すごく閉鎖的な感じを受けるが、建物内部へのアプローチから一歩うちにはいったとき、そのことによって十字のスリットからはいる光が劇的な効果を生むんでしょうね。
JR茨木駅の東側にある四角いコンクリートの箱にドームが載っかっている建物がある。2つあるドームのひとつは、コンクリートの箱ともども半分は切断された格好になっている。これは、1974年に竣工した渡辺豊和先生設計になる建物での建物で「 」という作品。
イギリスの建築雑誌『AD』誌上で評論家のチャールズ・ジェンクスがポスト・モダニズム建築であると紹介解説した建物なのだそうである。ドームはローマの「パンテオン」を引用したもの。
◇西国街道を歩く 〜郡山宿(茨木市)から瀬川宿(箕面市)へ〜
京都から西国に通じる山陽道、西国街道とも呼ばれ、江戸時代には西国の大名が参勤交代に利用したという。そのひとつの宿場が郡山宿で、いまも史跡として本陣が残る。椿の木があるところから「椿の本陣」と呼ばれたそうで、西国の大名らの名が記された宿帳など貴重な史料が残されているらしい。
国道171号線が整備されて、クルマはそっちに移った。旧街道は農村集落を結びながら伸びている。かつては農地だったはずの集落と集落も間も新興住宅が進出してきて、あまりおもしろくないが、むかしからの集落には、常夜灯や道標が残っていたり、社寺があったりする。
農村集落の町並みは生け垣があったりもし、落ち着いた雰囲気で、家々のなかには建て替わったところもあるが、土蔵があったり、漆喰塗りの古い建物も多い。
萱野の集落には、萱野三平旧邸が残されている。萓野三平は、この地で生まれ、播州赤穂浅野家に仕官、元禄の赤穂事件にさいして、松の廊下の刃傷を赤穂に知らせるべく早駆けをした人で、赤穂城開城後は、大石内蔵助を中心とした仇討ち一党に名を連ねた。しかし、父の許しが得られず、忠義と孝行の板挟みから、討ち入りに加わることなく、長屋門の自室で自刃したのでした。 四十七士のひとり萱野三平は、『假名手本忠臣蔵』では早野勘平のモデルとされる。
国道の南側を伸びていた旧街道は牧落で国道北側にうつる。この界隈は住宅街になっているのだが、ところどころ旧街道時代のなごりをとどめるような古びた民家も見られる。
阪急箕面線の踏切の東側、百楽荘という地区がある。ここは1924(大正13)年関西土地が土地開発を行った分譲地で「百楽荘」と彫られた戦前に建てられた石柱が残っている。いまも、手入れの行き届いた生け垣がある邸宅もあって、閑静な郊外住宅地の雰囲気を残している。
街道は阪急箕面線に沿って、桜井駅前を過ぎ半町、瀬川へと進む。もともと瀬川が宿場だったのが、半町のほうへも広がり、半町にも本陣が置かれたようだ。現在、箕面自動車教習所の前に箕面市教育委員会が立てた案内板が設置されていて、かつては宿場町だったとわかるのだが、ふつうの住宅が密集していて、宿場町の雰囲気は残っていない。
桜ヶ丘住宅改造博覧会 阪急桜井駅前から北に伸びる道路を行くと箕面川を渡り桜ヶ丘。この一角は1911(大正11)年に「桜ヶ丘住宅改造博覧会」が行われたところだ。25戸の住宅作品が建てられ、そのほか、当時の住宅設備などが紹介された。博覧会終了後、建てられた住宅は販売され、その一部が今も住まわれ続けている。一角に箕面市教育委員会が立てた案内板があって、これらの住宅は文化財として認知されているようだ。
いまでいえば、ハウスメーカーの住宅展示場のような感じで、モダンな住宅が並んでいたのわけだ。当時は、住宅改良運動がいろいろ行われていた時期で、もちろん、博覧会としても商売気もあっただろけど、住宅改良という思いがあったから、今も住まい続けられている住宅なのだろう。今の住宅展示場のように、来訪者に自社の建物をカッコよく見せて、なにがなんでも売らんかな的な雰囲気とは根本的に考えが違うのでしょうね。
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