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漫歩通信
第23号 2005年10月1日発行

大和は国のまほろば−大和漫歩

☆田原本
奈良盆地のなかほどにある田原本町、ここには、弥生時代を代表する環濠集落遺跡唐古・鍵遺跡がある。国の史跡に指定されている。百年以上前から知られた弥生時代の遺跡らしいが、ここを一躍有名にしたのは、楼閣や大型建物を描いた絵画土器片だろう。


唐古池のそばに絵画土器片をもとに、楼閣が復元されている。高さ12.5mもあって、くるくるっと巻いた屋根飾りが特徴的な建物だ。国道24号線からも見える。土器片の楼閣につけられた波形の模様を「鳥」と解釈して、木製の鳥が楼上の手すりに載っかっている。

各地で遺跡発掘調査が行われているが、貴重な出土品でも発見されると、新聞の一面を飾る記事になり、現地説明会に人がどっとくり出したりするが、調査が終わると、たいてい埋め戻されてしまい、遺跡といっても、現地を訪れてよくわからない。

その点、こういう復元構造物があると、ここには、こんなものがあったんだ、大々的にアピールもでき、素人にも視覚的に理解しやすい。しかし、復元構造物を見たとき、ほんとに、こんなのあったの?という気にもなる。 くるりんとした屋根飾り、中国のほうに見られるらしいのだが、こんな建物が当時ここにあったのかどうかは別にしても、中国との何らかの関係を感じさせる絵画土器片である。

この土器片をはじめ、出土品など、いろいろ集めて紹介しているが、唐古・鍵考古学ミュージアムである。復元楼閣から南へ2㎞ほどのところにあって、弥生の里ホールや町立図書館、公民館などがはいる田原本青垣生涯学習センター(写真)に設けられている。




★安堵(あんど)

いま安堵町は、鉄道と縁は薄いが、むかしは、JR関西本線法隆寺駅に隣接する新法隆寺駅から天理に至る天理軽便鉄道が伸びていた。法隆寺駅近くの木戸池には煉瓦の構造物が残っているらしい。

安堵の集落にある安堵町歴史民俗資料館は、江戸時代に建てられた今村邸を活用した施設である。代々村役を勤めたという今村家の人たちのことや町の伝統産業の「灯心」、それに各種民俗資料などに並んで、天理軽便鉄道のことが紹介されていた。

この資料館の近くに富本憲吉記念館がある。近代陶芸の第一人者として知られる富本憲吉は安堵の出身で生家に設けられた施設だ。母屋は建て替えられているが、離れが残されている。土蔵の内部を改装して、作品の展示室になっている。

自邸に楽焼窯を築いた大正時代から、戦前移り住んだ東京時代、戦後の京都時代という年代ごとに作品などが紹介されている。


安堵の集落から少し離れた窪田に国の重要文化財に指定された中家住宅がある。濠に囲まれた屋敷で、大和棟の母屋などがある。中世武士の居館の様式を伝える建物らしい。屋敷は、現在も、ふつうに住まわれており、屋敷内の見学には、事前予約が必要とのことだ。






☆橿原
國祖神武天皇の橿原宮があったところに橿原神宮が造営されたのは1889(明22)年のことである。明治天皇から京都御所の内侍所(温明殿)と神嘉殿を下賜され、移築して本殿と拝殿としたことにはじまる。(写真は橿原神宮深田池)

本殿は、京都御所の遺構ということで重要文化財に指定されているそうだ。拝殿は、その後、移築されて神楽殿としてされたが、いまの神楽殿は、その後の新築。

木々のうっそうと茂る広い橿原神宮境内には、織田家旧柳本藩御殿が移築され、文華殿となっている。塀の外からしか見られないが、これも重文らしい。ほかにも、休憩所をかねた真新しい施設や宝物館もある。


神武天皇が即位した年を元年とする「皇紀」というのがあって、橿原神宮にも掲げられているけれど、2005年は皇紀2665年にあたる。見方をかえれば、皇紀元年は西暦紀元前660年だから、中国は春秋時代、ヨーロッパのほうではギリシャが栄え、そしてローマの礎ができた時代といっていいのかな。

あまり使われない「皇紀」だけど、戦前は国威発揚のため、とりわけ、皇紀2600年にあたる1940(昭15)年には、大々的な祝典行事が行われた。この年には、日中戦争のため中止になったけれど、東京オリンピック、万国博覧会の開催も計画されていた。

この祝典にあわせ、橿原神宮やその周辺で大がかりな整備拡張工事が行われている。神宮庁舎(社務所)や迎賓館など和風の建物が前年の1939(昭14)年に建てられ、運動場などが造られた。

また、整備拡張工事にあわせ鉄道線路も移設され、いまの近鉄橿原線、南大阪線に別々にあった駅を統合して新しい橿原神宮駅(のちに橿原神宮前駅と改称)が設けられた。駅舎は大和棟を感じさせる立派なもので、畝傍御陵前駅舎も似た外観を見せている。





★今井町
近鉄橿原線八木西口駅から西へ500mほど行ったところにあるのが今井町である。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。伝建制度ができたのは1975年で木曽の妻籠宿などが最初に指定され、その後、各地に残る古い町並みなどが選定されてきた。

今井町には国指定の重要文化財になっている住宅が数棟あって、古い町並みが残る地区であることはむかしから知られていたが、重伝建地区に選定されたのは、1993年と意外と新しい。

たんに古い町並みを観光資源として保存するだけでなく、ふつうの生活が行われている今井の町並みのありようを地域住民ともども考えてきた結果なのだろう。

今井町は称念寺を中心とした寺内町で、町の周囲に濠がめぐらされている。町内の通りは南北に通っているが、少しずらしてあって、見通しがきかない。外敵の侵入に備え、見通しにくくしてあるそうだ。建て替わった住宅もあるけれど、古い町並みがたいへんよく残っている。




今井町環濠に隣接してある今井まちなみ交流センター「華甍」は、1903(明36)年、高市郡教育博物館として建てられた建物。寺院のような瓦屋根の立派な近代和風建築である。



今井町は、JR桜井線畝傍駅からも近い。現在は無人駅だが、この駅、国鉄線として橿原神宮の最寄り駅だった。ローカル線としては立派な駅舎が皇紀2600年の祝典にあわせて建てられた。VIP専用玄関もあったようで、そのなごりも見られる。かつては吉野鉄道というのが出ていて、橿原神宮や吉野への接続駅だった。一部区間廃止されたが、近鉄吉野線の前身だ。






 




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