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茨城民鉄2社と御殿場、水郡、塩嶺ルートの旅

1983.8.13.〜8.15.

■[とくとくキップの旅]この夏(1983年)国鉄では「とくとくキップ」との愛称で周遊券(:ワイド、ミニ、ルート、普通周遊券があった。しかし、周遊券制度は1998年4月に廃止され、それに替わって「周遊きっぷ」という企画切符が作られた。)や割引企画キップを大々的に宣伝している。今回利用した「青春18きっぷ」は1982年春から発売され始めた、普通列車(快速含む)乗り放題という期間限定の企画きっぷのひとつ。普通しか乗れないという制約はあるが、周遊券でカバーできない地域をまわるのには最適な切符だ。

今回は未乗の区間で最長の水郡線上菅谷−安積永盛間をはじめ御殿場線、横須賀線の電車が走る東海道本線の別線品川−新川崎−鶴見間と今年7月5日に開業した中央本線岡谷−みどり湖−塩尻間の初乗りをめざす。ついでにローカル民鉄の茨城交通湊線と日立電鉄にも乗ってみようと思う。

■[東に向かって]大阪7:14発米原行で東海道本線を東に向かう。東海道本線の各停で東に向かうのはこの春以来。京都を過ぎ、はるか比良の山々を眺め、約2時間、9:11米原に到着。

米原では24分の待ち合わせで豊橋行に連絡。やってきた豊橋行 113系6両編成は米原寄り5両が冷房、豊橋寄り先頭1両が非冷房という編成だった。関ヶ原を越え、岐阜、名古屋を過ぎ、三河平野を快走して約3時間、12:19豊橋に到着。昼食は車内でパンを囓る。
豊橋では8分の待ち合わせで浜松行に接続。この電車は大垣始発の快速「東海ライナー」が豊橋から各停となって浜松まで行く電車で、かなりの混雑。けっきょく座れなかった。こんなことなら、先の電車を豊橋まで乗り通すのではなく、大垣で乗り換えるんだった、と後悔した。浜名湖を左に、約40分ほど、13:05浜松に到着。

浜松では12分の待ち合わせで三島行に接続。同じホーム反対側に停車している電車に乗り換えればいいのだが、東京寄り先頭車から向かいの先頭車に乗り換えると非冷房車だった。非冷房車両のせいか、比較的すいており、この混雑では座れただけでよしとするしかない。

掛川、静岡、富士と過ぎ、2時間あまり、15:31沼津到着。これから御殿場線の初乗りにかかるのだが、予定より大阪を1時間早く出発したので約1時間の待ち合わせとなる。沼津駅前にはスーパーや西武、富士急の百貨店が立ち並んでいる。

■[御殿場線]御殿場線国府津−沼津間60.2km。明治22(1889)年2月に東海道本線の一区間として開業。しかし、昭和9(1934)年丹那トンネルの開通により格下げされ御殿場線となった。幹線時代の面影は、複線分の線路敷きからうかがえる。

沼津16:38発国府津行。乗った車両は 115系8両編成、沼津寄り3両の電車の色は身延線用のぶどう色に白帯のはいった車両だった。沼津を出ると西に富士、東に箱根の山々、その裾野を行く。

御殿場駅には小田急のロマンスカーを使った急行「あさぎり」が停まっていた。小田急が御殿場まで車両を乗り入れるようになったのは、昭和30(1955)年からで、当初は御殿場線が非電化だった関係から気動車だった。当初2往復、のち4往復となった列車の愛称は「銀嶺」「芙蓉」「あさぎり」「長尾」とそれぞれ別々の名がつけられていたが、御殿場線が電化され、ロマンスカーが乗り入れるにおよんで「あさぎり」に一本化された。

御殿場をすぎると次第に山間に分け入るような沿線となり、駿河小山を出ると静岡県から神奈川県にはいる。なかなか険しいところを走る。松田で小田急線にはいる線が分かれる。次第に平坦部になると国府津運転所が広がり、相模湾が近付いてくると終点国府津。沼津からやら約3時間、18:29到着。

東京行にすぐに連絡していて、東海道本線の電車に乗り継いで東京に向かう。

■[東京から勝田へ]暗くなってきたが、せっかくだからと大船で途中下車。横須賀線の電車が走る品川−新川崎−鶴見間の東海道本線別線(17.8km)の初乗りを行うことにした。

この路線はもともと、通称品鶴線という貨物線で、昭和4(1929)年に開業していた路線である。横須賀線電車と総武線電車を直通させるため、昭和47(1972)年には錦糸町から東京をへて品川まで地下線が開通していて、昭和55(1980)年、品鶴線を旅客対応させることで、ようやく横須賀線と総武線電車の直通運転ができるようになったのだ。

大船で20分ほど待って横須賀線電車に乗る。暗いのでどこを走っているかよくわからないまま品鶴線区間を乗り終え、品川の手前で東海道本線をオーバークロスして品川駅に着いた。いちおう初乗りではある。そして、地下にもぐる。

東京駅地下5階の横須賀・総武線ホームで下車、山手線ホームに上がる。東京に来たのは今年3月以来。上野で下車して、構内食堂で夕食、そして常磐線に乗り換える。

常磐線21:23発勝田行は帰宅する勤め人でけっこう混んでいた。けっきょく土浦まで座れなかった。外も暗いし文庫本読んで過ごす。上野から2時間あまり、23:36終点勝田到着。

ホテルなどに泊まることは最初から考えておらず、閉め出されないのをいいことに、待合室で横になる。しかし、蚊が多くて寝てられない。寝袋を出して潜り込んだが、今度は暑くて寝られない。そうこうしているうちに午前4時半頃となり、一番電車が動きだす。

■[茨城交通湊線]きょうは、茨城交通湊線の初乗りからスタート。この路線は、勝田から那珂湊を経て阿字ヶ浦までの鉄道で、電化されておらずディーゼルカーが走る。勝田駅は国鉄と共用している。前身は大正2(1913)年に勝田−那珂湊間を開業させた湊鉄道で、昭和3(1928)に海水浴場で有名な阿字ヶ浦まで延長された。戦時中の昭和19(1944)年に交通統合されて茨城交通湊線となった路線である。

湊線の始発は5:58で、チョコレート色に白帯という車両1両だけの列車だった。キハ22という形式の車両で、これは、昭和46(1971)年、北海道の羽幌炭砿鉄道より譲り受けたものだ。窓も耐寒仕様の二重窓だ。

勝田を出ると遠く那珂川と平行に走り河口の町那珂湊市をかすめて少し北に向かって阿字ヶ浦に至る。所要30分。次の折返し列車まで30分ほど、あたりを散策した。

勝田から来た今度の車両は、キハ2000形、クリーム色に青帯の車両2両編成の列車だった。こちらは昭和45(1970)年、留萌鉄道から譲り受けたものだ。

勝田行の列車は途中駅での行き違いで対向列車が少し遅れ、勝田での国鉄との接続が危ぶまれたが辛くも間に合った。

■[日立電鉄]勝田から陸常多賀に向かう。日立電鉄は常磐線とは大甕駅で接続しているが、次の多賀で下車して鮎川駅まで歩くことにした。このあたりは日立製作所の工場が並んでいる。

日立電鉄の前身は、昭和3(1928)年大甕−久慈浜間を開業させた常北電気鉄道で、翌年には常北太田まで開業させている。戦時中の昭和19(1944)年日立電鉄と改称している。大甕から鮎川まで延長されたのは戦後の昭和22(1947)年のこと。日立市までの免許を取得していたが、戦後の混乱期に鮎川まで開業させたところで力尽きたようだ。鮎川駅が多賀駅と日立駅のほぼ中間の変なところに終点があるのも、延長し得なかった結果なのだ。

多賀駅から30分ほど歩いて鮎川駅にたどり着いた。国鉄常磐線の線路ぎわに駅がある。常北太田行電車に乗車。モハ10型の単行の電車だ。戦時中に製造された車両だ。

電車は、常磐線の東側、日立製作所の工場が並ぶ沿線を南に向かい、水木を出たところでいったん国鉄常磐線をオーバークロスして国鉄と接続している大甕駅に到着。大甕を出るとまた国鉄線をオーバークロスして久慈浜に下る。ここを出ると今度は国鉄の下をトンネルで抜けて西のほうに向かう。

陸常太田市付近は田園地帯を走る。里川鉄橋を渡り、鮎川から50分ほどで常北太田に到着。駅は国鉄水郡線の陸常太田駅と道路をはさんで向かいあっている。

■[水郡線]常陸太田までは3年前(1980年)の夏に一度きたことがある。このときは水戸と常陸太田を往復しただけだった。今回は常陸太田10:08発水戸行に乗車、上菅谷で郡山行に乗り換えた。

郡山行は4両編成のディーゼルカーで、キハ28、58の急行用車両なので冷房付なのがありがたかった。しかし、車内は満員。大きな荷物を持った見るからに帰省客とわかる人たちが多い。停まる駅ごとに人を降ろしていくから30分ほどたって、ようやく座ることができた。

水郡線の歴史は、明治30(1897)年、太田鉄道の手により水戸−久慈川(現上菅谷)間の開業に始まり、明治32(1899)年に常陸太田まで達する。明治34(1901)年に水戸鉄道に譲渡され、水戸鉄道の手により、久慈川より順次延長されていき、昭和2(1927)年には常陸大子に達する。そして、水戸−郡山間の鉄道敷設計画に基づき同年、国に買収される。いっぽう、北側からも建設が順次進められ、昭和9(1934)年磐城棚倉−川東間の開通により水郡線全線が開通したのであった。

水戸側から乗り進むと、水郡線は阿武隈山地と八溝山地の間を流れる久慈川に沿って走る。途中の大子、袋田には温泉がある。だいぶすいてきたなと思ったら、大子で乗っている車両でもある前2両を切り離すと車内放送。せっかく席にありつけたのに、これでまた立つことになってしまった。

茨城県と福島県の県境あたりが山間の人気のないところだが、福島県にはいると少し開けてきて田園が広がる。棚倉あたりが水郡線のサミットになるようだが、坦々としたところで、いつのまにか久慈川水系から阿武隈川水系にかわっていた。

ふだんに増して乗降客が多く、乗り降りに手間取るためか、対向列車が20分ほど遅れ、この列車も遅れ気味。安積永盛で東北本線に合流し、郡山14:53の定刻をすこし過ぎて到着した。

東北本線上り方面の列車までかなり待ち時間があったので、いったん改札を出て、駅前のダイエー郡山店へ食糧の調達にでかけた。

■[東京へ]郡山16:44発黒磯行は赤い電気機関車ED75が牽引する客車列車である。東北本線は仙台近郊区間などでは、電車も走るが、各停はたいてい電気機関車が牽引する客車列車だ。比較的すいており、のんびりした情緒が味わえる。

白河を過ぎ栃木県にはいる。客車列車に揺られ、1時間半ほどで黒磯に到着。黒磯からは直流電化区間となって上野行電車にすぐの連絡。乗り継いだ上野行はかなり混んでいたが、辛うじて席にありつけた。

夕食替わりにパンを囓りながら、暮れていく車窓をながめる。宇都宮、小山、大宮と都心に近づいて行く。赤羽、20:57到着。ここで下車して赤羽線に乗り換え、池袋で山手線に乗り継いで新宿に向かう。

新宿発夜行快速長野行に乗るにははアルプス広場で待たなければならないのだ。午後9時半頃、待つ人の列に加わる。

■[中央本線]午後10時過ぎ鉄道公安官に連れられて列が動きホームへ。

「業務連絡、441M、扉開放」
というホーム駅員のアナウンスと同時に電車のドアが開き、行列を作っていた人たちは、さっと乗り込む。今年(1983年)4月にも、この電車に乗ったのだが、タイミングが狂って危うく座り損ねるところだった。2度目なので、心得たもので、なんなく席を占める。電車に乗り込んだものの発車まで2時間近くあって、それまで文庫本を読んで過ごす。

新宿23:55発車。昨晩は勝田駅待合室で過ごしたせいもあって発車するなりすぐ寝てしまった。
目を覚ますと小淵沢だった。午前5時、すでに夜は明けていた。

うつらうつらするうちに、5:57上諏訪到着。ここで下車して快速に乗り換えて塩嶺トンネルルートの初乗りだ。快速といっても途中の広丘を通過して松本から急行になるという電車なのだが。

中央本線が敷設されるとき、伊那谷方面との便をはかるため、岡谷から辰野を経由する線形になった。岡谷から塩尻に行くのに、三角形の2辺を走るような大きな迂回であった。それが、この7月5日に開業した岡谷−塩尻をショートカットする塩嶺トンネルルートによって、従来の辰野経由より16.0kmも短くなった。

電車は岡谷を出るとすぐ塩嶺トンネルにはいる。トンネルを抜けると、みどり湖、高架区間を突っ切って25分ほどで塩尻に到着。

塩尻駅は、昨年(1982年)5月、松本寄りに500m移動した。中央本線東京−名古屋間の路線として、塩尻駅は位置していたのだが、列車の運転は、東京−松本、名古屋−松本・長野となっており、名古屋から来た列車は、塩尻から逆向きに走ることになっていた。それを改めるため、松本寄りに駅の位置を改め、配線を改良して名古屋からの列車をそのまま松本方面へ走れるようにしたのだ。
塩尻で辰野経由の電車に乗り換え岡谷に戻り、飯田線の電車に乗り換える。

■[飯田線]飯田線は、豊川鉄道(豊橋−大海)、鳳来寺鉄道(大海−三河川合)、三信電鉄(三河川合−天竜峡)、伊那電気鉄道(天竜峡−辰野)の4社を戦時中の昭和18(1933)年に買収して誕生した路線だ。私鉄の買収路線なので駅間距離がすこぶる短い。195.8kmの営業キロに94の駅がある。かつてこの線には、大都市圏で使い古された旧型国電が多く走っていることで有名だったのだが、昨年(1982年)から新型 119系電車に置き換えられた。

中央本線塩嶺ルートが開業し、そちらがメインルートになったので、飯田線の電車は岡谷を発着するものが多くなった。岡谷から7:38発天竜峡行に乗り換える。電車は 165系急行用電車で、冷房付なのがありがたい。飯田線に乗るのは1979年の年末以来。

辰野から伊那谷の田園地帯をのんびり走る。天気は曇りがち、ときどき雨がぱらつくうっとうしい空模様。伊那谷の河岸段丘の等高線に沿って走るせいか、線路が馬蹄形くねりながら大まわりして走る。飯田を過ぎ、約3時間ほどで天竜峡に到着。7分の待ち合わせで豊橋行に接続。

今までの田園風景と打って替わって、ここからからは天竜川沿いの険しい路線になってくる。トンネルも多い。長野県を出ていったん静岡県をかすめて愛知県にはいる。山間部では雨が激しく降ってきた。台風の影響らしいのだが、天気予報をきかないので今台風がどうなっているのか、さっぱりわからない。

新城あたりまでくると雨も上がってきた。豊川を過ぎ、名鉄路線と合流し、豊橋14:48到着。飯田線を乗り通すのに約7時間を要した。

■[帰路]豊橋ですぐに接続していた東海ライナーに乗り換え大垣へ。大垣、米原と電車を乗り継いで、大阪には19:39到着。昨晩、新宿を発って、乗り継ぎのためホームで待っていたほかは、延々電車を乗り通していたわけだ。今回の遠征で乗車したキロ数は3日間で約1900キロ、このうち未乗区間を乗りつぶした距離は、217.1キロに達した。




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