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関東地区完乗、落ち穂拾いの旅

1984.3.15〜3.18

■[東に向かって]今回は、関東地区の未乗線区を一気に片づけようと思う。今回も「青春18きっぷ」を使った汽車旅だ。

大垣20:50発東京行夜行340Mに乗るため、大阪16:02発米原行きで出発。食糧を入手しようと途中の近江八幡で途中下車。駅前の平和堂に行ったら定休日だった。仕方がないのでその裏手にあった食料品店でパンを購入して先に進む。

米原で乗り換え、大垣19:33到着。東京行の発車まで、まだ1時間以上あるので駅前を歩いてみる。この時刻、すでに商店街はみな閉まっており、寂しい限り。早々に駅に戻り、久々に大垣駅の立ち喰いそばをすすって東京行夜行を待つ。20:35頃入線。まだ、学校の春休みにはいってないし、下りに比べ上り340Mはさほど混まないので、楽々席を占めることができる。

定刻20:50に大垣を発車。最初は、ぱらぱらと空席がある程度だったけれども、名古屋から岡崎、豊橋あたりまでは、いっぱい機嫌の勤め帰りの人たちで混む。豊橋を過ぎると車内はすき、座席に横になることができた。座席に横になっても寝られないが、電車は東へ、東へ。静岡では深夜にもかかわらず駅弁を売っている。

■[横須賀線]東京4:40到着。地下5階の総武・横須賀線ホームに降りて、4:54発久里浜行の電車に乗り、今回の最初の目的地横須賀線の完乗へと向かう。品川で地上に出てもまだ真っ暗。品川から新幹線のそばを走る新川崎経由の路線を走る。この路線は昨年(1983年)8月に初乗りを果たしたが、そのときも夜で、今だに昼間通ったことがない。横浜を過ぎ大船あたりで、ようやく明るくなってきた。寝足りないので車内では居眠り。6:18久里浜到着のアナウンスで目を覚ます。

いったん駅の改札を抜け、久里浜まで来た記念に入場券を購入する。ほんとは、硬券の入場券がほしいのだが、まだ窓口が開いてない。開くまで待てないので、仕方なく自動券売機で買う。券売機の印字は時間が経つと薄くなり消えてしまうから、記念にならないかもしれない。天気は雪混じりの雨だったので、駅舎から外に出る気にもなれず、次の6:37発の電車で引き返す。

帰りは沿線の眺めを楽しむ。横須賀線の歴史は古く、明治22(1889)年、大船と軍港横須賀を結ぶ路線として開業している。そして、昭和19(1944)年に久里浜まで開業した。衣笠あたりからは海上自衛隊の護衛艦が見える。このあたりは山が海岸まで迫りトンネルが多い。途中には古都鎌倉といった観光地もある。

■[鶴見線]7:34横浜で下車。京浜東北線の電車に乗り換え鶴見へ。鶴見線のホームは東海道線ホームより一段高いところにある。駅構内にもかかわらず改札口があって、国鉄から私鉄に乗り換えるような感じ。もともと鶴見線は、大正15(1926)年、京浜工業地帯の貨物輸送を目的にした鶴見臨港鉄道による浜川崎−弁天橋間の開業に始まるが、昭和18(1933)年に国に買収されている。私鉄買収路線ということからそういう構造なのかもしれないが、初めて乗りに来たので戸惑ってしまった。

鶴見7:54発海芝浦行に乗る。3両編成は、沿線の工場などに向かう通勤客でいっぱい。浅野で本線と分かれて枝線にはいり、10分ほどで終点海芝浦に到着。駅のそばに東芝の工場があり、一面一線のホームに吐き出された通勤客はそのまま守衛のいる門から工場に入っていく。ほかに出口はなく、ふつうの人はどこにも行けない。来た電車ですぐ引き返す。雪が激しい。

浅野で乗り換えて武蔵白石まで乗って、また枝線に乗り換え武蔵大川に向かう。大川支線には今主流の国電に比べ短い旧型電車が走っている。ここも通勤客でいっぱいだ。雪は相変わらず降り続く。ほんの2分ほどで終点に着く。

武蔵大川でひと電車遅らせたものの、雪が激しく降り、駅舎から外に出られない。同じ電車で武蔵白石に戻り先に進む。やってきた電車は浜川崎行で、浜川崎で次の扇町行を待つ。数分乗っては降り、乗り降りの繰り返し。次の扇町行に乗って鶴見線完乗。1時間ほどかけて鶴見線とその枝線、9.7kmを片づけた。もう始業時刻が過ぎたのか、乗客はまばらになった。こんどは、夜勤明けと見られる人たちが乗ってくる。

■[南武線]扇町から浜川崎に戻り、南武線に乗り換える。この駅、鶴見線と南武線の駅舎が別々の位置にあって、乗り換えるにはいったん改札を抜けなければならない。もともと、南武線は、昭和2(1927)年、砂利運搬を目的にした南武鉄道の手により、川崎−登戸間、矢向−川崎河岸間(のちに廃止)の開業に始まり、それが立川へと延長され、また尻手から浜川崎へと延長されていった。昭和19(1944)年には、国に戦時買収され、南武線となった。鶴見線、南武線とも別々の民鉄がもとになっているためか、乗り換えに関しては利用者に不便を強いているわけだ。それが、初めて訪れたものにとっては、おもしろい体験ではあるが。

南武線は、先に述べたように川崎−立川間と尻手−浜川崎間の支線がある。浜川崎から立川に向かってしまうと川崎−尻手間を乗り残すことになる。それで、いったん尻手から川崎行電車に乗り換えて川崎まで乗ることにする。川崎では到着したホームの反対側に停車している立川行電車が1分後に出るので、それにすばやく乗り換える。電車の接続がいいから、乗り降りの手間はかかるが、確実に未乗区間を消化している。
立川への沿線は、都心から伸びる私鉄との接続駅を中心に住宅が広がっている。川崎から40分あまり、立川10:18到着。

■[五日市線・青梅線]立川で青梅線に乗り換える。雪の影響のせいか中央線が乱れている。東京からの青梅線快速に乗り継ぐ。8分ほど遅れてやってきた。

青梅線の歴史は古く、青梅鉄道が明治27(1894)年立川−青梅間を開業させたことに始まる。昭和4(1929)年には御獄まで開通し、青梅電気鉄道と改称している。御獄−氷川(現奥多摩)間は、奥多摩電気鉄道の免許線であったが、昭和19(1944)年、青梅電気鉄道と同時に国に買収され、同年氷川まで開業している。

いっぽう、拝島から別れる五日市線は大正14(1925)年、拝島−武蔵五日市間を開業させた五日市鉄道に始まり、昭和5(1930)年には、今の青梅線の南側を迂回するように、拝島−立川間を開業させた。昭和15(1940)年には南武鉄道と合併し、そして昭和19(1944)年に国に買収され、五日市線となった。なお、買収後、拝島−立川間の路線は休止になっている。

青梅線も五日市線も戦前から石灰石輸送と大きな関わりがあった。青梅線には今も石灰石専用の貨物列車が走る。いっぽう、五日市線は、武蔵五日市からさらに武蔵岩井へレールが伸びていたが、昭和46(1971)年に旅客運輸が廃止され、貨物運輸も昭和57(1982)年に廃止されている。

拝島で五日市線に接続していたので、まず五日市線を往復する。拝島周辺は住宅が広がっいてるものの、次第に山がせまってくる。拝島から20分で終点武蔵五日市に到着。雪が降っていることもあり、先のことも考えるとゆっくりもできず、数分いただけで、折り返しの電車で拝島に戻る。

拝島では接続よく奥多摩行が連絡していて、奥多摩に向かう。青梅あたりまでは東京のベッドタウンとして住宅がつきない。しかし、青梅を出ると山間に分け入り多摩川上流のなかなか険しいところを走る。雪が降りやまずすでに5cmくらい積もっている。貨物列車用の広いヤードも雪で真っ白。拝島から約1時間かかって終点奥多摩にたどり着いた。この雪では駅から外に出る気になれない。20分ほどいただけで、次の電車で立川に戻ることにした。立川13:55到着。

■[相模線]八王子に行くには、拝島で八高線に乗り換えてもいいのだが、接続がなかったので立川まで行き、中央線に乗り換えて八王子に向かう。立川から約10分で八王子に到着。

次は横浜線から相模線に向かうのだが、あとの接続の都合で30分ほど時間ができたので駅前のダイエーで食糧の調達をはかる。

八王子14:48発横浜線の電車で橋本まで行き、相模線に乗り継ぐ。相模線はディーゼルカーが走っている。橋本15:03発茅ヶ崎行にしたのは、寒川で西寒川支線への接続がいいからだ。相模線は1980年8月に乗っているのだが、西寒川支線は乗り残していたのだ。

相模線の歴史は、大正10(1921)年、相模川で採取した砂利運搬を目的に茅ヶ崎−西寒川間を開業した相模鉄道に始まり、昭和6(1931)年に橋本まで全通した。戦時中の昭和19(1944)年、国に買収されている。 橋本を出外れると、田園地帯をとことこ走る感じた。小田急の海老名検車区のそばを通り、小田急に接続している厚木。厚木といっても街の中心は相模川の対岸、小田急の本厚木駅のほうにあって、こちらの駅は小田急の急行も止まらない小さな駅だ。

橋本から約1時間で寒川到着。すぐの接続で乗り継いだ西寒川行はかなりの乗客がいる。カメラをもったり人ばかり。多いはず、実はこの西寒川支線が今月末で廃止されることになっていたのだ。この事実、西寒川駅の改札口、といっても無人駅で駅舎はなく、上屋があるだけなのだが、そこに廃止云々という案内がなされていて初めて知った。廃止される前に乗り終えることができてよかった。廃止されるせいなのか、もう駅名標がなかった。西寒川で10分ほどいただけで、折り返し茅ケ崎行で茅ケ崎に向かう。

■[横浜線]茅ヶ崎からこのあと横浜線に向かうつもりで東海道本線に乗り換えた。根岸線には、相模線と同じく、1980年8月に乗っているのだが、昼間に乗っていないことに気がつき、時間もあるので大船で下車し、根岸線経由で東神奈川に向かうことにした。

大船16:57発大宮行の京浜東北線の電車に乗車、横浜の繁華な石川町、関内などを経て約30分で東神奈川に到着。ここで八王子行にすぐの接続。

根岸線をまわったために、横浜線のほうは夕暮れが迫ってきた。横浜線は横浜と八王子を結ぶ路線で、その間、新横浜では新幹線と、菊名、長津田では東急、町田では小田急と接続している。そういった民鉄との接続駅を中心に住宅街が広がっている感じなのだが、その中間あたりにはまだまだ空地も目につく。

横浜線の歴史は、明治41(1908)年、八王子と横浜を短絡する路線として横浜鉄道の手により開業、大正6(1917)に国に買収されて横浜線になった。
とっぷり日も暮れた18:27八王子到着。

■[夜の東京]八王子から中央線に乗り換え新宿に向かう。まだ、泊まるところが決まっていない。とりあえず腹ごしらえに新宿構内のカレーショップにはいる。昼間、かじるつもりで八王子のダイエーで買ったコロッケがあったので、羞かしげもなく注文したビーフカレーにつっこんで食べた。

宿を紹介してもらうべく新宿駅構内の日観連の旅館案内所に行ってみたがすでに閉まっていた。仕方なく、新宿から中央線の電車で東京に向かう。東京駅八重洲口にある旅館案内所はひらいていたので、一泊3500円の安宿を紹介してもらう。東京のビジネスホテルの相場は一泊6000円以上するから相当安い。ここで紹介されたのは御徒町にある「丸谷荘旅館」。御徒町と上野のなかほどにある。すでに午後8時を過ぎ、東京から山手線の電車で御徒町へ早々に向かう。

案内所でもらった地図をたよりに旅館を探し当て投宿。素泊まり3500円だけのことはある、と思いながらも、足を伸ばして寝られるだけよしとしよう。風呂にはいって早々に寝た。

■[営団地下鉄]翌日、昨日の雪模様の天気とは打って変わって晴天の上天気。きょうは、武蔵野線を経て、吾妻線に乗り、そして、東京発大垣行きの夜行で大阪に戻る予定なのだが、吾妻線の接続にあわせればいいだけなので、時間的には、余裕がある。それで、営団地下鉄に少し乗ってみようと、午前7時過ぎ宿を出て上野駅まで歩く。

営団地下鉄に乗るのは初めてである。国鉄線を全線乗り終えれば、将来的には民鉄線の全線乗りつぶしに進むことは明らかだが、今回は、それをあまり意識せず、上野から中央線と連絡している中野までの切符を買って改札を抜ける。

まず乗ったのは、銀座線渋谷行だった。銀座線は日本最初の地下鉄で、東京地下鉄道が昭和2(1927)年に上野−浅草間を開業させたことに始まる。上野から順次延長され、昭和9(1934)年新橋まで開業した。いっぽう、新橋−渋谷間は、東京高速鉄道が昭和13(1938)年に開業させた区間である。昭和16(1941)年、帝都高速度交通営団が設立されたとき、ともに営団に譲渡された。

地下鉄だから車窓風景を楽しむというわけにはいかないが、駅の様子などを見ていると、同じ戦前に開業した大阪地下鉄御堂筋線と違い、天井も低く、せせこましい感じがする。大阪地下鉄が立派過ぎるのかもしれない。

東京の地下鉄は路線が複雑でわかりにくい。どこを乗るという予定も特にないまま銀座まで行ってしまった。で、今度は日比谷線中目黒行に乗り換えてみた。このまま乗ってしまうと、東西線から離れてしまうので、次の日比谷で下車して、千代田線に乗り換えて、大手町で下車した。こんな乗り方をして一時的に、乗りつぶした距離が増えても、どうせまた同じ区間を乗ることになるだろうな、なんて考えながら、千代田線から東西線への乗り換え通路を歩いた。
東西線の電車に乗り、中野に向かった。小一時間の営団地下鉄初体験であった。

■[武蔵野線]中野で中央線の電車に乗り換えて立川まで行き途中下車。まだ、午前9時前、朝食を取ってないので、駅南口を出て近くの「NON」という、いかにも女の子好みの雰囲気をもつ喫茶店にはいり朝食を取る。ココアを注文して、手持ちのパンを囓る。

未乗の府中本町−南浦和間に乗るため、立川9:17発川崎行南武線の電車で府中本町まで進み、府中本町9:33発西船橋行の電車に乗る。南浦和−西船橋間1980年7月に乗っており、今回はその残区間を乗るわけだ。

武蔵野線は、府中本町−西船橋間に電車が走っているが、鉄道路線としては、東海道本線の鶴見信号所から分岐して府中本町へと延びている。もともと東京外環状線として山手貨物線から貨物列車を移行するねらいがあり、武蔵野線から中央本線、東北本線や常磐線、さらに京葉線へとレールがつながり、広大な武蔵野操車場や越谷貨物ターミナルが設けられている。府中本町−新松戸間の開業が昭和48(1973)年で、その後、昭和53(1978)年西船橋まで延長された。

府中本町を出るとトンネルで、トンネルを抜けると東芝の工場が広がる。中央線の接続駅西国分寺で中央線をオーバークロス、またトンネルにはいる。次の新小平はトンネルとトンネルの間に駅がある。そして丘陵部を抜けると高架線になる。新秋津で西武池袋線と北朝霞で東武東上線に接続し、荒川を渡れば、埼京線との接続駅武蔵浦和、そして、京浜東北線接続駅の南浦和となる。
府中本町から約40分、これで東京近郊の路線を乗りつくした。

■[吾妻線]南浦和から京浜東北線の電車で大宮まで行き、大宮10:33発の高崎線の電車に乗り換える。約1時間半で高崎。ちょっと途中下車して、駅前のニチイ(現サティ)で食糧の買い出し。昼食の時間にあてる。

さて、これから吾妻線をめざす。高崎12:57発万座・鹿沢口行に乗車。吾妻線の終点大前まで行く電車の本数は少なく、この電車で万座・鹿沢口まで行き、そこから大前まで歩き、大前折返しの電車を待って、乗りつぶすことにする。

高崎から上越線を渋川まで走り、上越線から分かれて吾妻線にはいる。吾妻川に沿って山間にはいっていく。なかなか眺めのいい路線で、雪をかぶった山々が青空に映えて素晴らしい車窓だ。吾妻線には国鉄一短い樽沢トンネル( 7.2m)がある。吾妻峡の景観に配慮したトンネルということだ。

吾妻線の歴史は、当初、長野原線として建設が進められ、戦時中の昭和20(1945)年、鉄鉱石輸送を目的として渋川−長野原間が開通。昭和27(1952)年には長野原−太子間が貨物線として開業、のちに旅客輸送も開始している。この区間は、昭和45(1970)年休止となり、翌年廃止された。いっぽう、長野原−大前間は、昭和46(1971)年に開業し、線名も吾妻線と改称した。

高崎から約2時間、14:51、この電車の終点万座・鹿沢口に到着。万座、鹿沢温泉への玄関駅で、国鉄唯一「・」のつく駅だ。ここから国道145線に沿って大前まで歩く。距離は約3km、大前発の電車まで2時間ほどあるので歩いて行くには十分な時間だ。

道は一本道で迷うこともないのだが、あまり歩きよい道ではなかった。道路は雪融けで泥々、そこへダンプが通るたびに頭から飛沫を浴びる始末。そんな思いをしながら40分ほどで大前駅に到着。片面一線だけの無人駅だ。

この駅のそばに嬬恋館という温泉宿がある。温泉だけはいることもできるので温泉につかる。泉質は重曹泉で、ぬるめの湯であった。

温泉につかってほっこりした心持ちで電車を待つ。大前16:59発の折り返し電車に乗車して吾妻線完乗、これで関東地区の路線をすべて乗り終えた。
新前橋で上野行に乗り換え都心に向かう。

■[帰路]20:54上野到着。駅構内で夕食を取って東京へ。大垣行夜行345Mを待つ列につく。すでに、列が延びているが、これなら座れる。下りは混むので最低でも1時間前には並ばなければ席にありつけないようだ。

午後11時頃入線してきた電車に乗り込むともう座席はいっぱい、座れただけでよしとしよう。23:25電車が東京駅を発車するなり座席に座ったままうとうと。終点大垣で休日姫路行の電車に乗り継いで大阪に向かう。



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