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完乗列車出発進行−レールは続くよどこまでも− 1985.8.12〜8.16 ■[北に向かって]昨年(1984年)9月阿仁合線、角館線を乗り終えた。一時旅客営業をやめていた鹿島線鹿島神宮−北鹿島間が今年3月に鹿島臨海鉄道の一部として復活、この区間も7月に乗り終えた。代行バスによって乗った区間もあわせると国鉄全線、残るは東北本線岩切−利府間 4.2kmだけとなった。 国鉄全線完乗−宮脇俊三著『時刻表2万キロ』が1978年7月に出版されて、国鉄完乗という粋狂な行いにスポットをあてることになり、この本がきっかけとなり1980年3月から国鉄が全面的にバックアップした「チャレンジ2万キロ」という企画がスタートした。各線区の起点と終点の駅名を入れた人物写真を事務局に送ることで、その路線を乗ったと認定し、乗ったと認定された路線が十線区とかまとまると記念品がもらえるという仕組み。 このイベントが行われるようになって、枝線の終着駅にはたいていチャレンジャーを見かけるようになった。今まで観光地もないような終着駅にはあまり利用者を見かけなかっただけに、国鉄の増収に寄与しているのは確かだろう。 いっぽう、このイベントとは別に個人的にルールを決めて乗り歩いている人も多いはずだ。かくいう筆者もそのひとり。記録を整理し始めた1977年7月の東北旅行以来、とにかくあと、 4.2kmのところまできたわけだ。 大垣発東京行夜行快速電車に接続するように大阪を出発。7月に利用したとき、夏休み期間中でも10分の乗り継ぎでも座席が確保できることを確認しておいた。やはり、この電車を利用するのは、「青春18きっぷ」活用の中高生や大学生が多く、社会人の利用はまだ少ない。 いつもだと、名古屋から岡崎、豊橋あたりまで勤め帰りの人たちで込むのだが、お盆休みのせいか、そういう人たちも少なかった。 午前4時すぎくらいから車内放送が再開され、まだ、少し薄暗いなか、横浜、川崎、品川と停車していく。このあと乗り継ぐ京浜東北線の電車を追い抜いて東京4:39到着。時刻表では2分の接続と慌ただしいが、乗り継げることを7月に確認している。 京浜東北線の電車内、ドアのところに掲げられた国鉄の案内広告によると、赤羽−大宮間の埼京線が今年(1985年)9月30日に開業するようだ。この路線は東北新幹線の高架といっしょに工事が進められていた路線で、この開業にあわせて川越線が電化され、赤羽線を経て池袋と結ばれる。さらに、この先、山手貨物線を改良して新宿まで直通電車を走らせる計画だ。 上野で常磐線の電車に乗り換える。電車は、つくば科学万博への足「エキスポライナー」に使われている白地に青帯のボディカラーの交直両用車両。この色が今後の常磐線のカラーになるのだろう。 最近、各地域で今までの電車の標準色から独自の色に変えたり、ヘッドマークを新たに付けたりするようになっている。たとえば、広島地区の「広島シティ電車」、 115系3000番台の投入にあわせて、東海道・山陽線の標準色からクリーム色に青帯になっている。寝台特急 583系電車から交流区間専用 715系普通電車に改造された車両は白地に緑帯(長崎本線や仙台地区)、交直両用 419系普通電車に改造された車両は赤地に白帯(北陸線)など、ヘッドマークを付けて走っているのは、北九州地区の「マイタウン電車」、静岡地区の「するがシャトル」など。 185系特急電車の斬新な塗色の登場以来、電車カラーの多様化、地域化が進んだようだ。 同じボックスの向かいの席に、「青春18きっぷ」で旅行しているらしい男子高校生がひとり座っていた。この高校生、電車が動きだすや、ひっきりなしにメモを取っている。見るとはなしに、そのメモを見ると、線路のカーブがどうの、何時何分○○駅を発車、上り電車にすれ違った、太陽が顔を見せた・・・、という細かい記述を終点の平駅まで続けていた。 鉄道趣味にもいろいろあるが、電車に乗って始終メモしまくるという人に出会ったのは初めて。主婦と生活社刊『特急デジタル時刻表』という本があるが、まさに個人的にを作っているという感じ。 平8:36到着。次の列車まで24分の待ち合わせ。いったん改札を抜けて駅前に出てみる。平に下車したのは、1979年7月から8月にかけての東北旅行のとき、青森から急行「十和田6号」で南下、「東北ワイド周遊券」南限の平駅で下車したとき以来。このときは、そのあと磐越東線で郡山に向かったのだった。 さて、平で勝田電車区の 421系電車から仙台運転所の 451系電車に乗り換え仙台に向かう。かつては急行として使われていた電車もそうとうガタがきている。ボディカラーのローズとクリーム色も日に焼けた感じだ。 常磐線に初めて乗ったのは、1977年7月のことであるが、夜行急行「十和田」で通り過ぎたので、このあたりを昼間乗るのは初めて。平までは複線で上野に向かう特急「ひたち」の本数も多いが、平から北は一部単線の区間も残る。 乗り込んだ車両には小名浜あたりで仕入れてきたらしい大きな荷物を担いだ行商のおばあさんたちが数人、訛りのきつい会話を交わしている。得意先のある駅で順々に下車していった。 原ノ町で26分停車。改札を抜けて駅前をぶらつく。 相馬を経て東北本線が近付いてくると岩沼、そして仙台12:15到着。 ■[利府]東北本線利府支線に向かう電車は12:23発で、すこぶる接続がよい。 利府支線は最初から枝線として存在したのではなく、日本鉄道によって現在の東北本線が敷設されたときは仙台から利府を経て品井沼に至っていたのだが、勾配のきつい区間があるため、第二次大戦中に海側に別線が敷設され、昭和37(1962)年まで両方使われていたのだが、海側の路線を複線化する時点で岩切−利府間を残して廃止され、枝線になったのだ。 車両は 451系。岩切から西方に分かれて利府に向かう。新幹線の仙台車両基地が左手に広がり、そこに臨時駅新利府がある。そして、12:39利府に到着した。 これで代行バス区間を含めて国鉄鉄道の全線を完乗した。 折り返し電車まで20分ほどあったので駅前を歩く。駅前に酒屋があったので缶ビールを購入、完乗の祝杯とした。 ■[盛岡へ]岩切で下車、7分の待ち合わせで一関行に接続。やってきた電車は 715系、寝台特急 583系電車から改造された電車だった。車内は満員で乗り込むのがやっと。しばらく乗降口のところにいたが、人の出入りにつれて車内中央部へ。 この改造電車は、乗降口と客室との仕切りドアを取っ払い、両端2ボックス分の区画がロングシートになっているほかは元のシートを使用、窓はロングシートのところを一部昇降式の窓に交換してあるが、特急時代の二重ガラス窓の間に巻き上げ式のブラインドが残されている。荷物棚は、ロングシートの部分は寝台収納スペースを取っ払い、窓の上部に取り付けられているが、従来のシートのところは寝台が残り、通路に張り出しままである。そのため、立っていると、よけい窮屈に感じられる。混んでいるときは、あまり乗りたくない車両だ。 小牛田で席に座ることができた。すいてくるにつれ、やっと車内が冷房されている感じが伝わってきた。 一関14:43到着。9分の待ち合わせで盛岡行に接続。この旅行初めての客車列車、50系レッドトレインである。この車両、冷房はなく、扇風機が天井でまわっている。窓を思いっきりあけることもできる。 各駅に丹念に停まりながら岩手県を縦断、水沢、北上、花巻と過ぎ、盛岡16:31到着。 盛岡から11分の待ち合わせで青森行に接続していたが、このまま乗り継いで行っても、あとの接続がよくない。昨日から22時間列車に乗り詰めで、体中が汗でべとべとした感じ。着替えをしてさっぱりしたいと銭湯に行くことにした。駅を出て左手に中央温泉というサウナがあったが、料金が 900円と高く、サウナより普通の銭湯にはいりたい。さいわい、開運橋を渡り、ダイエーの近くに「清水湯」を発見、料金は 250円だった。 さっぱりしたあと、ダイエーに寄り食糧などを購入、駅に戻り盛岡18:04発青森行でさらに北上する。 ■[北海道へ]盛岡を出ると薄暗くなってきた。進むにつれ人家が少なくなってくる。 十三本峠付近は高原地帯を走っている感じで、薄明かりの中を山並みのシルエットが浮かびあがる。人家の明かりはほとんど見えない。 北福岡で6両編成の客車のうち3両を切り離して青森に向かう。青森県にはいると日はとっぷりと暮れ、文庫本を読みながら過ごす。 終点青森22:28到着。これに接続する青函連絡船は0:06出航の桧山丸、約1時間半の待ち合わせ。早めに乗船口の列につく。 桧山丸は季節運用の連絡船で、グリーン船室、寝台、食堂の設備はなく、ほかの連絡船に比べて少し小ぶり。夏休みのこの時期、夜行便は、このあと、0:30発と臨時の2:30発がある。0時台の2便は大阪からの特急「白鳥」と盛岡からの特急「はつかり」を受けるので混み方もひどい。急がない人は2:30発の連絡船にして下さい、すいています、と駅案内放送で繰り返している。 出航20分前から乗船開始。早めに並んでいたから楽々、座敷の一角を確保。座敷にゴロ寝して行こうと考えていたのだが、多客時のため、まだ寝転ばないで下さい、と船内放送が流される。これは見込みちがい。多客時だと、領域がはっきりしない座敷だと十分なスペースを確保するのがむつかしいことを知る。それでも、落ち着いてくれば、徐々にスペースを確保して辛うじて横になって津軽海峡を渡ることができた。 函館到着30分くらい前になると、降船口のところに集まり始める。この連絡船に接続する特急「北斗」の自由席を確保したい人たち。これに乗り継ぐわけでないのであわてない。函館4:00到着。 ■[函館]1978年7月、初めて北海道を訪れたさい、函館市電に乗って五稜郭へ行ったが全線乗ったわけでない。函館まで来たので、今回、未乗の区間に乗ってみようと考えた。 市電が動きだすのは午前6時半頃からで、それまでまだ2時間あまりある。駅からいちばん離れた湯の川まで歩いて行くと、あとの乗り継ぎに都合がよいと思われた。距離は6㎞ほど。 もう明るくなった午前5時前の静まりかえった駅前を歩いていると、どこからともなく、ひとりの青年が近寄って来て、「ねえ、今日の宿、決まってる?」 と話かけてきた。決まってないけど、決まっている、とつきまとわれなくない表情で答えておく。歩きながら、 「どこへ行くの?」「どっからきたの?」「内地の人?」などと質問をくりかえすが、適当に返答をしておく。すると、 「ねえ、仕事探してるんじゃない?いい仕事あるんだ。やばい仕事じゃないんだから、世話してやろうか?」 と、この男の本来の目的をもちかけてきた。無視して歩き続けると、その男はどこへともなく消えた。 まだ、人通りの全くない町中、タクシー以外自動車も走ってない時間帯にを大きな荷物を持って歩いていると、仕事にあぶれた無宿人に思われたらしい。 カラスが飛びかう箱館の街を国道 278号線に沿って湯の川温泉に向かうと、途中に石川啄木像が建つ公園があった。 湯の川温泉電停の近くに共同浴場があった。午前6時前だというのに、もう営業しているようだった。時間があればつかりたいところだが、余裕がなく残念する。さらに行くと終点湯の川電停に到着。 夏の期間中、青函連絡船函館発7:20の便に間に合うようにふだんの始発より早い6:23発が増発されているので、これからスタート。函館市電の運賃は一乗車 160円で、乗り換え電停で乗り換えもできる。一日乗車券は 800円で、市バスにも乗れる。この8月から車内でも一日乗車券が買えるようになったらしいので、車内でこれを購入する。たぶん、 800円分乗るとは思えないが、一日乗車券は手元に残るので記念にもなる。 湯の川から乗った電車は、五稜郭公園前から松風町、函館駅前、十字街を経て谷地頭に向かう系統で、1979年7月にはこれの逆向きを五稜郭公園前まで乗った。 宝来町電停で下車して未乗の松風町方面行の電車を待つが、とうぶんなくて、歩いて十字街に引き返し、先に函館ドック前に向かうことにする。やってきたのは末広町行だったが、かまわず乗って、次の末広町電停で下車。次の函館ドック前行に乗り継ぐ。一日乗車券だから気にせず乗り降りできる。 十字街から函館ドッグにかけてこの界隈は昔ながらの洋館、倉庫などが並び、函館山山麓の元町の坂など観光名所になっている。坂の上にある公会堂は朝日をあびて黄金色に輝いていた。 函館ドック前から折り返し電車で十字街まで戻り、谷地頭行が来たので乗り継いで宝来町で下車する。しばらくすると松風町方面の電車がやって来たので、それで松風町へ。これで、79年7月に乗った分とあわせ、函館市電を完乗した。 松風町電停で函館駅前方面行の電車に乗り換え、駅前へ。予定していた函館8:10発長万部行には十分余裕があった。 ■[函館本線]長万部行は50系客車列車。函館を出たときは雲が多かったものの、大沼あたりまで来ると晴れ間も広がってきた。駒ケ岳はまだ雲に覆われていたが、赤井川から駒ケ岳に進むと駒ケ岳西側の山容がくっくり現われた。 森で砂原回りの接続列車を待って、内浦湾に沿って走る。この列車には1981年8月のときにも乗っており、そのときは国縫から瀬棚へ向かっている。長万部11:39到着。次の列車に1時間ほどの待ち合わせ。 函館本線は明治38(1905)年8月1日函館−旭川間が全通し、今年で80周年にあたる。それを記念して8月1日から10月14日まで沿線で各種のイベントが催されるらしい。主な催しとして、イベント列車の運転、写真コンテスト、フリーきっぷの発売などなど。 イベントのひとつに「アタック 423.1キロ」という企画がある。函館本線の営業キロ数が 423.1キロなのだが、チャレンジ2万キロの函館本線版で、写真は起点函館、終点旭川のほかに13駅が求められている。 これはいいとして、けっさくなのが「アタック 423.1キロクイズ」だ。写真を求められている全15駅にちなむ問題が出題されている。問題を読んだだけで答えがわかるものもあるが、その駅に行って、ホームなり待合室で確かめないとわからないのもある。時間があったので、その問題を書き写してみた。 函館 函館本線 423.1キロの起点は青函連絡船の発着する〇〇駅です 大沼公園 大沼には大小の島がいくつあるでしょうか 森 森駅には「〇まちの〇〇」の壁画があります 八雲 八雲町は〇〇熊の発祥の地です 長万部 長万部には世界に二つしかない〇〇〇〇温泉があります 黒松内 上りホーム函館方にある建物は赤レンガ造りでしょうか木造りでしょうか ニセコ 全国でカタカナの駅名はニセコ駅と湖西線マキノ駅、両駅が姉妹駅を結んだ日は 倶知安 町の南東にある別名えぞ富士と呼ばれる標高1893mの美しい山の名は 余市 2番ホーム倶知安方の駅名標の横にある木は〇〇〇の木です 小樽 駅前広場にある「希望の像」には何人のこどもがいますか 札幌 札幌駅の地上待合室には待合せ場所として人気のある〇〇〇の鐘がある 岩見沢 ホームにある「ばんえい競馬」の模型は〇年〇月〇日から展示しています 滝川 正面入口の時計の下にある白樺作りの看板には何んと書かれていますか 深川 深川駅が開業したのは明治〇年〇月〇日です 旭川 旭川の駅名は「アサヒガワ」「アサヒカワ」のどちらでしょう ■[札幌へ]長万部から東室蘭行の列車に乗り継ぐ。キハ40の一両編成。今回の旅行で初めてのディーゼルカーだ。 長万部を出ると山が海岸まで迫り出しトンネルが連続。有珠に近付くと有珠山の茶色っぽい岩肌が見えてくる。 石油基地など大きな工場が見えてくると東室蘭。長万部から約2時間。ここで 711系電車に乗り換える。 登別温泉最寄りの登別をすぎ、左手に樽前山などの山並みを見ながら進むと、大きな製紙工場がある苫小牧。そこを出ると勇払原野、この風景を見ると北海道へきたなあ、という広々とした心地にさせる。 千歳をすぎると駅ごとに町並みが大きくなっていく感じ。新札幌17:01到着。今回はここで下車する。 ■[札幌]札幌地下鉄は1981年8月に当時の全線に乗り終えているが、82年3月に東西線白石−新さっぽろ間が開業している。今回はこの区間を乗る。 札幌地下鉄東西線の電車の内装化粧板には市内の名所である時計台や道庁などがあしらわれている。地下鉄だから車窓の変化が乏しくおもしろみはない。大通駅で南北線に乗り換えさっぽろで下車する。 札幌駅の食堂街で夕食。地下街を少しぶらついたあと、札幌19:18発の電車で苫小牧に向かう。 ■[苫小牧]苫小牧20:35到着。海の方から霧が流れてくる。遠くで盆踊りの音頭が聞こえたので、そちらのほうに向かうと町の駐車場か何かの広場に櫓が組まれ、そこから放射状に提灯が張りめぐらされている。踊っている人はわずか。もう終わりなのかも知れなかったが、とても寂しげな盆踊りだった。 きょうは駅前のBHに泊まる。 ■[占冠へ]予定では、石勝線で占冠に向かい、そこから日高に抜けるバスに乗る。このバスは日高町営である。ローカル路線は学校が休みのときなど運休することがあるから毎日運行しているのかどうかすこし不安な気がした。『時刻表』に注記されてないからだいじょうぶだろう。 苫小牧6:17発岩見沢行で出発。追分6:55到着。4分の待ち合わせで夕張行に接続。 石勝線新夕張−新得間は特急、急行しか走らない区間で、「青春18きっぷ」でもこの区間に限り特急、急行に乗ってかまわないとされている。この区間を越えると乗車券と特急券などが必要になる。乗る予定の「おおぞら1号」は新夕張9:10発なのだが、このあたりは運転本数が少ないのでこれに乗ろうとすると追分6:59発に乗らないと接続しないのだ。 石勝線が開通するまで、追分から分岐する路線は夕張線と称され、新夕張は紅葉山といっていた。81年8月夕張線に乗ったさい、すでにこのあたりは石勝線との接続のため路線や駅の位置が変更されて、旧駅より一段高いところにホームが設けられていた。旧駅ホームにはまだ跨線橋や駅名標などが残っていた。 現在、もとの駅があったあたりには町民プールが設けられていた。ひとつだけ駅名標が残されていたが、かつてここに「紅葉山」という駅があったことを記念するものだろう。 このまま新夕張で特急を待ってもいいのだが、清水沢まで行くと三菱石炭鉱業の車両に出会えることが『時刻表』を見ていてわかった。南大夕張まで往復する時間がないのは残念だが、そのまま清水沢まで行くことにした。 三菱石炭鉱業大夕張線は、夕張炭鉱の貨物線として明治44(1911)年に開業、昭和14(1939)年一般運輸も始められた。線路はさらに夕張炭山まで延びていたが、炭鉱の閉鎖で昭和48(1973)年に廃止されている。現在、清水沢−南大夕張間7.6km、途中に一駅遠幌があるだけのミニ私鉄である。DLが2両の客車を牽引して走る。この路線には78年訪れたときに往復している。(1987年7月廃止) 南大夕張行の三菱石炭鉱業の列車を見送って、清水沢8:52発の列車で新夕張に戻り特急「おおぞら1号」に乗り継ぐ。 新夕張で「おおぞら1号」と「おおぞら2号」が行き違いをする。乗り込んだ自由席は満員。わずかひと駅、25分ほどで降りるから乗降口のところで辛抱する。 新夕張からは山また山、トンネルに次ぐトンネル、人家なんて全くといっていいほど見えない。土地が開け、牧場が見えてくると下車する占冠に到着する。 駅前はからっと明るく、右手に商店があるほか何もなく、遠くに人家がぽつぽつあるくらい。表に金文字で駅名「占冠」とあるから駅舎だとわかるが、どうも場違いな雰囲気を漂わせる白い建物だ。 ■[日高]お目当てのバスは駅前に停まっていた。マイクロバスより少し大きな中型のバスである。占冠から日高町まで約20kmの道程。キャンプ場へ向かう中学生らで座席はうまった。「おおぞら1号」からバスに乗り継いで日高町へ向かうレールファンもふたりくらい見かけた。 駅前から南へ、国道 237号線を走る。日高峠までは舗装道だったが、峠を越えたその先は未舗装で、ものすごい砂埃を立てながらバスは走った。日高町の中心部に近付いてようやく舗装道になった。 占冠から約25分で日高町の中心部に到着。終点は駅前ではなかった。列車は約2時間後の日高町12:24発までない。 4年前、帯広から日勝峠を越えて日高町に来ている。食糧調達をかねて町の中心部を少し歩いている。バスの車窓から見覚えのある商店を見かけた。その記憶をたどって日高町駅に向かう。ところが、どうも駅にたどり着かない。『時刻表』には徒歩10分とあったが、どうもとんでもないところで折れ曲がったようで、約30分かかってようようよたどり着いた。駅は表通りから引っ込んだわかりにくいところにあって、記憶もかなりいい加減だった。時間の余裕があったので少々道に迷って問題はなかったが。 前回訪れたときは、集中豪雨のため、富内線はストップ、代行バスが運行されていた。今回、この区間を乗ることで、現在、バス代行のまま復活の見込みがない士幌線糠平−幌加間を除いて、ほんとに国鉄鉄道線の全線を乗り終えたことになる。 駅の位置を確認してから、まだ時間があるので、ふたたび町の中心部に戻り昼食を取る。 ■[富内線]日高町12:24発の列車はディーゼルカーキハ22一両だけ。車内は日高町でキャンプ村などで過ごした人たちでほぼ満員。列車は国道 237号線と沙流川に沿って走る。 幌毛志からトンネルを抜けて鵡川水系に移る。穂別は海竜の化石が出土することで有名、博物館があるようだ。 約2時間で日高本線との接続駅鵡川に到着。これで、代行バス区間を乗り直し全線完乗となる。ここで、様似からの列車と併結されて苫小牧に向かう。 ■[おおとり]苫小牧15:27到着。このあと、普通列車を乗り継いで今日中に函館まで行くのは不可能で、どこかで特急のお世話にならなければならない。あとのことも考えると、少しでも早く函館に着きたい。そこで、苫小牧からすぐに接続している函館行「おおとり」の苫小牧−長万部間に乗ることにした。「青春18きっぷ」では特急に乗れないから、苫小牧−長万部間の乗車券2000円と自由席特急券1600円は別払い。 1985年3月ダイヤ改正から多くの特急列車から食堂車が外されるようになった。新幹線を別にすれば昼間の特急で食堂車が繋がれているのは北海道の「おおとり」と「オホーツク2号・5号」だけになってしまった。 ここで「おおとり」に乗ることを考えたのは、どうせ自由席に座れる席はないだろうから、食堂車で国鉄全線完乗の祝杯をあげるのも悪くなかろうという思いもあった。 苫小牧16:06発函館行「おおとり」、予想したとおり自由席はいっぱい、食堂車に直行、時間帯が食事時間でないためすいていた。ビールにシュウマイ定食を頼む。午後5時半頃になると夕食を取りに食堂車に来る人たちが増えてきたので、食後のコーヒーを飲み終え席を立った。けっきょく、1時間半ほど食堂車で座って過ごしていたわけだ。 長万部17:52到着。5分の待ち合わせで、函館行普通列車に接続、また「青春18きっぷ」の旅を再開。 ■[函館へ]長万部から乗り継いだ普通列車はディーゼルカーキハ40の一両編成。 車内に愉快な男性四人連れを見かけた。年令は30〜40代、お互いにどんな関係かは知らないが関西訛りの人もいる。函館本線に「北豊津」という臨時乗降場があるが、 「豊津まで戻ってきた。大阪までもうすぐや」 などといいあっている。入場券を買いに走り、駅のスタンプを押し、記念切符なども買っている様子。「青春18きっぷ」を利用しての旅らしい。 一行のひとりが携帯ラジオの向きを調整しながら熱心に聞き入っている。巨人−阪神戦の実況らしく、経過を説明している。ホームランが盛んに飛びかう打撃戦らしいが、残念ながら最後は阪神が敗れたらしい。 ■[函館]函館まで戻ってきた。いったん改札を抜け、出札口で「青春18きっぷ」に明日の日付を入れてもらう。そのあと「みどりの窓口」にまわる。函館駅では青函連絡船深夜便に接続している「白鳥」「はつかり」の指定券を販売していた(ふつうの駅では前売は19時までしか扱ってない)。もし「白鳥」の指定券が手に入れば、そのまま大阪に向かってもいいなと考えた。 ところが、窓口には先客がいて、その人も「白鳥」希望、これが最後の一席だったらしい。あきらめて窓口から離れようとすると、窓口氏が確か一枚残っている、という。今日のキャンセル分で、まだ機械に戻さず窓口氏の手のなかにあったのが、たまたま「白鳥」の青森−大阪間の指定席特急券だったのだ。 ■[白鳥]函館0:10出港の石狩丸、「白鳥」の指定席券が手に入ったが、特急に乗るには乗車券も必要。青函連絡船内では乗車券も販売しているので船内で購入する。手書き補充券式の切符だったが、発券箇所には「石狩丸」とスタンプが押されている。青森−大阪間の出費は、乗車券11,000円、指定席特急券 3,700円。 青森4:00到着。着岸30分くらい前になると出口に人が集まり出す。特急の自由席をめざす人たち。しかし、座席指定券があると慌てなくてすむ。 後学のために「白鳥」自由席の混み具合を見てみる。青森からだと、指定を取らなくても十分座れたようだった。 朝食に青森の駅弁「ひなどり弁当」を購入(600円) 、鶏肉の照焼きが御飯の上に並べてある。照焼きのたれが御飯についてなかなか美味しい。 大阪行「白鳥」は4:50発車、隣にどんな人が来るかとみていると、青森から秋田までは用務客、秋田から敦賀までは年配の夫人、敦賀から京都までは子連れの若夫人と青森から京都まで入れ代わりで席がうまっていた。 秋田までは自由席の人が指定席車両に入って来ることは、ほとんどなかったが、秋田を過ぎると自由席がいっぱいのせいか、指定席の空席に勝手に座る人がちらほら出てきた。車掌は二、三度通路を通っていたが、検札はまだ実施されていない。 検札が行われたのは新潟県下に入ってからだった。青森−新潟間は新潟車掌区、新潟−大阪間は大阪車掌区が受け持つが、新潟車掌区の車掌はもっとこまめに検札を実施すべきだ。指定席の空席に座っている人から指定席料 700円(今は繁忙期)を早い時期から取っていれば、かなりの増収になったのではなかろうか。ひと駅くらいなら大目にみても、長距離席を占める人は、自由席車両で立っている人と不公平感は免れない。大阪車掌区の車掌に替わってから、こまめに検札を行うようになり、指定席の空席に座っている人から指定席料を取るようになった。 大阪18:12到着、青森から13時間22分、1040㎞を「白鳥」に乗り通した。 |
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