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予讃新線初乗りと四国民鉄乗り歩き

1986.3.20.〜3.23.

[海を渡る]今年(1986年)3月3日全国ダイヤ改正で京葉線西船橋−千葉港間暫定開業や予讃本線向井原−内子、新谷−伊予大洲間の開業となった。さて、いつものとおり「青春18きっぷ」を利用して西に向かおうか、東に向かおうか、どちら方面にも出発できるような準備をしていた。

けっきょく3連休の前夜、大阪から船で四国に渡ることにした。四国への夜行便は大阪弁天埠頭−高松港、和歌山港−小松島港、深日港−徳島港などのルートがあるが、予約もせずに乗れること、夜明け前に着いて交通機関が動きだすまで長時間待つのも避けたい。こんなことを考慮して、大阪弁天埠頭に向かった。もし、満員で乗れないときには和歌山へまわればよいという考え。加藤汽船の小豆島、高松ルートの連絡船は弁天埠頭を22:00に出航、途中神戸、土庄に寄港して翌朝6:00に高松築港に着岸する。

大阪環状線の弁天町駅に下車する。ここから米子への夜行バスも出ているが、駅にはバス、船の乗り場を示す案内図が掲げられていた。寂しげな夜の街を歩くのは、あまりよい気分ではないが、駅から夜の街を10分ほど歩くと埠頭の待合室にたどり着いた。午後9時過ぎだったが、連休前夜のせいか、かなり混雑していた。2等船室の乗船券は容易に入手することができ、このルートで四国に渡る。

午後9時半頃から乗船開始。6千トンクラスの客船で、2等船室の桟敷席はあっという間にいっぱいになった。横になるスペースもないが、船内が落ち着いてくるにつれ、少しずつスペースを広げていく。しかし、横になれるスペースの確保はむつかしかった。いつの間にか船は動きだし、神戸に寄港して瀬戸内海を西に進む。内海ということで揺れはほとんどない。込みすぎて身動きもままならないのがつらく、ほとんど眠ることができなかった。

土庄を出航した午前5時すぎに、もう眠るのをあきらめ、船内を散策。3月21日の午前4〜5時頃はハレー彗星観測に絶好の日と伝えられ、展望デッキに行って夜空を見上げたが、はたしてどの方角を見ればいいのか、皆目見当がつかない。海上なのでやはり寒く早々に引き上げた。少しずつ夜が明け始め、薄明りのなかに島影が識別できるようになってきた。

午前5時50分頃、船内放送で「高松から6時発の列車にお乗りの方はデッキへきて下さい」と告げられたので、早々に下船口で準備する。数分早着すると、築港から駅まで歩いて2、3分なので6時発の列車に乗り継げるらしい。

[高松から琴平への道]連絡船が着岸するなり桟橋をかけて高松駅に向かい、出札窓口で「青春18きっぷ」に本日の日付を入れてもらう。ぎりぎり6:00発阿波池田行に間に合った。しかし、当初の予定では一日かけて高松琴平電鉄とケーブル2路線を乗り歩くことを考えていたのだが、列車に乗ってみたものの、全く予定外のことで、列車が動きだしてから時刻表を引っ張りだし時刻を調べ始めた。

けっきょく、この列車を乗り通しても阿波池田で接続がなく、2時間近くの待ち合わせになることがわかった。これなら、予定通り高松周辺をまわったほうがよいように思え、行き違いの列車を調べているうちに、その目的にかなう直近の駅だった国分を出てしまい、そのまま乗り続けるほかなかった。

坂出を出ると本四連絡橋を渡る備讃線の工事が進行中で、宇多津付近では高松方向からと丸亀方向から岡山に向かうY字状の高架が伸びている。
琴平7:13到着。このまま乗り通して池田まで行こうと到着したときまで考えていたが、ここで琴電に乗り換えて高松に戻り、高松8:55発の列車で高知に向かってもよいなという考えが閃いた。これだと高知15:09着で、土佐電鉄を明るいうちにまわることができ、再度高松に戻り、夜行列車に乗り継ぐことができる。

あわてて下車し、改札を抜け、少し離れた琴電琴平駅にまっしぐら。なにしろ、琴電の発車時刻は7:20で全く余裕がない。走ったかいあってどうにか間に合った。

[高松琴平電鉄琴平線]ゆっくり写真を撮る時間もなく、切符を買って高松築港行電車に駆け込む。讃岐平野には讃岐富士をはじめ、こんもりした山(標高 400〜 500m以下)がけっこうあり、沿線もそんな山ぎわを走るせいか、単調な田園風景とすこし違う。溜め池が多いのも讃岐平野の特徴。

円座あたりまでくると高松へ向かう人たちで車内はかなり込んでくる。栗林公園あたりまでくると高松の市街地で住宅などが建ち並んでいる。琴平から約65分で築港到着。これでまず琴平線を完乗。

[土讃本線]またふりだしの高松からスタート。高松8:55発高知行はDE10が牽引するレッドトレインだった。琴平からしだいしだいに山間へと進む。このあたり昼間通るのは初めて。四国は山が険しいと思う。標高は1000〜2000mくらいだが平野部から急傾斜でそびえたっているからだろう。

讃岐山脈を抜ける途中に坪尻というスイッチバック駅がある。ここで特急「南風」を待ち合わせした。坪尻を出ると下り勾配、眼下に遥か池田の街が見える。箸蔵寺のロープウェイを横目に大きなカーブを描いて吉野川を渡ると徳島本線との分岐駅の佃、そして次が阿波池田。この列車はここで55分停車するので駅前のジャスコへ買い出しに出る。

池田を出ると吉野川に沿う。険しい渓谷を行く。人家が急傾斜の斜面に点在している。大歩危、小歩危の景勝地が車窓から眺められる。
大杉−土佐北川間は路線を付け替え新たにトンネルを設けたようだ。土佐北川駅は鉄橋のうえにある。 吉野川水系から山越えして物部川水系に移る。地図で見るとS字を描いて登っている。途中に新改というスイッチバック駅がある。下りにかかると高知平野が見えてくる。

[土佐電鉄]1978年春に高知を訪れたときは、面河渓から高知・松山急行線の国鉄バスで高知入り、五台山竹林寺に詣でたあと、山を下ってぶつかった土佐電鉄の電停西高須から東の終点ごめん町まで乗った。考えてみれば中途半端な乗り方をしたものだが、その当時は全線乗ってやろうという意識があまりなかったのだから仕方がない。

今回は土佐大津駅で下車した。土讃本線と土電が比較的接近している駅なのである。地図を頼りに数分歩くと領石通電停に出た。ほとんど待つこともなく1981年に登場した1000系電車がやってきた。8年前に比べ沿線の建物が増えたような感じ。葛島鉄橋を渡ると道路横の独立軌道から道路中央を走るようになる。

桟橋線とクロスしているはりまや橋電停で乗換券をもらって下車する。いったん高知駅前まで歩き、そこから桟橋線を乗り通す。桟橋通5丁目電停から折り返しの電車ではりまや橋まで戻り乗り換え伊野に向かう。朝倉までは道路中央を走るが、そのあと伊野近くまでは道路沿いの独立軌道になっている。

土電全線を乗り終え、伊野電停から国鉄駅にまわる。20分ほどの待ち合わせで土佐山田行があった。いったん高知で下車して夕食を取る。考えてみれば高知で下車するのは初めて。
高知19:30発高松行で高松に戻る。今晩は高松0:46発高知行で一夜を過ごす。

[予讃新線に向かって]1985年3月ダイヤ改正まで、高松0:46発の列車は中村行だったのだが、この改正で高知止りとなってしまった。これは列車に使われている50系客車の運用の都合によるものだろうが、高知4:32着、その先へ行く人はすぐに接続する列車に乗り換えなければならない。全く利用者の立場を無視したダイヤである。

須崎付近で太平洋が少し望める。窪川6:28到着。2分の待ち合わせで予土線江川崎行に接続。四万十川水系の蛇行をよそにトンネル、鉄橋でショートカットする。江川崎で11分の待ち合わせで宇和島行に接続。予土線といっても北宇和島−江川崎間の開業は早く、トンネルは少ないが急勾配があったりして、若井−江川崎間と線路状態は大違いだ。

宇和島9:05到着。小雨模様。ここで21分の待ち合わせで内子線経由の松山行があって都合がよい。

宇和島から約1時間40分で伊予大洲、これから新線にはいる。しばらくは従来線を走り分岐しておもむろに高架にかかる。新谷で内子線に合流、新線の開業に合わせて五郎−新谷間は廃止された。喜多山までは従来の内子線で、旧五十崎駅との中間でふたたび新線にはいる。その結果、五十崎駅は西へ2kmくらい移転した。

トンネルを抜けると高架線になって新設された内子駅がある。内子は古い町並みや昔の芝居小屋が残る町だ。
内子からはトンネルが増える。内子から約30分で従来の予讃本線と合流する向井原に到着。

[伊予鉄道]予讃本線伊予市駅で下車する。この駅前には伊予鉄道郡中港駅がある。これから伊予鉄道を乗り歩く。まずここから松山市駅へ。松山平野の平凡な風景。田んぼが広がるが、松山に近付くにつれて宅地化されたところも増えてくる。

松山市駅からさらに横河原へ向かう。伊予鉄道は松山市駅から3方向に伸びているので、どうしても同じ路線を引き返えすほかない。横河原に向かう路線は山のほうに向かう。小雨模様ということもあってすぐ引き返し松山市駅から今度は高浜に向かう。こちらは海に向かう。沿線はどの線も宅地化が進んでいる感じ。

高浜から引き返してきて、大手町駅で下車する。ここは市内軌道線と接続していて、引き続き路面電車を乗り歩く。まず、城北線、松山城の北側を走る路線で、大半は専用軌道になっている。上一万で道後温泉行に乗り換える。

道後温泉まで来たので温泉につかりに行く。ぼっちゃんも通ったという温泉だ。ただつかるだけなら料金は 200円。温泉につかったあと帰路は本町6丁目行に乗り、8年前に乗った松山駅前−松山市駅前間とあわせて松山市内の路線全線乗り終えた。

本町6丁目電停で下車するとき、もらえるのなら乗換券をもらおうとすると、どこから乗ってどこへ行くのかときかれたので、正直に道後温泉から松山駅前へと答えると、その場合は、その系統の電車に乗ってもらわなければ、と乗換券はくれなかった。

本町6丁目電停から松山駅まで歩き、駅ビルでかなり早めの夕食をすませ、松山17:10発の伊予西条行で西条に向かった。この日は西条駅前のBHに泊まる。

[春の嵐]西条駅前のBHで朝目を覚ますと外は雪。10cmくらいは積もっていた。予定では伊予西条6:30発急行「いよ2号」で伊予三島まで行き、そこから普通に乗り換えて高松に向かうつもりだった。 「青春18きっぷ」だと急行に乗れないから三島までの乗車券と急行券を別に買って急行に乗ったものの動きださない。この雪のせいなのはあきらか。やばいなという気がしてくる。車内放送では、いつ動くかわからないという。

けっきょく、急行は46分遅れで発車したものの、予定通り三島で普通に乗り継げるか見当もつかない。次の停車駅は新居浜、ここでは伊予西条5:25発の列車が停まったままだった。

こんなところで雪に降られるとは思いもしなかった。車窓風景も雪のなかを走り、それ自体はおもむきあるあるものだったが、あとの予定を考えると気が気でない。三島あたりまで来ると積雪量も少なくなり、予定していた列車は定刻に発車したのか、駅には見えなかった。仕方ないので、このまま急行に乗って、それを追いかけることにした。

しばらく走った箕浦駅を通過するさい、駅に列車が停車していた。よく調べもせず、あれが乗るべき列車だと思い込み、次の停車駅の観音寺で急行を降りた。

10分ほどすれば来るだろうと思っていたのだが、その気配が全くない。おかしいと時刻表を初めて見なおすと、それは下り列車だった。けっきょく、観音寺駅で約50分待ってやっと高松行がやってきた。2時間遅れの列車で、新居浜で追い越した伊予西条5:25発のものだった。
多度津あたりまでくると雪はなかった。予定より約1時間遅れて高松に到着した。

[高松琴平電鉄]まず長尾線に乗るため始発の瓦町へ高松築港から移動する。長尾線の電車は長尾行と平木行があるのだが、ちょうど長尾行が出たあとで、40分近く待つことになってしまった。ただ待つのもいやなので、その前にある平木行で平木まで行くことにした。

市街地を出ると屋島の溶岩台地が目立つ。沿線は田園地帯。平木で後続の長尾行に乗換て終点に向かう。
長尾には四国霊場のひとつ長尾寺がある。長尾から志度に向かうバスを期待したのだが、すぐにバスはなく、小雨の降るなか志度まで歩くことにした。距離は約7km。

本来の予定では、高松では琴電のほか八栗、屋島の両ケーブルに足を印すつもりだったのだが、四国から本州へ瀬戸内海を渡らねばならず、海が荒れて連絡船が欠航するような事態になるとほんとに困るので、今回はケーブルに乗るのを諦めることにした。
志度から真っすぐ高松築港に向かう。築港に14:19到着。高松14:25発の宇高連絡船に急げば間に合うと思え駆け出した。

[帰路]連絡船に乗り込んで一息ついたが出航しない。けっきょく接続列車の遅れから10分遅れて出航した。これなら走る必要はなかった。しかし、船内はすでにいっぱいで、腰を落ち着けるところがない。まあ、乗船時間は1時間だから気にはならない。

瀬戸内海を渡ると児島・坂出ルートの本四連絡橋の工事が見える。鉄道も併設されるので橋の開通が待遠しい。(:本四備讃線は、1988年4月10日開業した。)
宇野に着岸。早めに下船の態勢を取ったので岡山行快速には座れた。

岡山16:07到着。3分の待ち合わせで姫路行に接続。跨線橋を渡って電車に乗り込もうとするとものすごい混雑。すこしの隙間を見つけてなんとか車内に潜り込む。構内放送を聴くとはなしに耳にすると、新幹線が全面ストップしているらしい。その利用者が在来線にまわってきたようだった。車内放送も、ふだん案内されない姫路から先の接続電車による神戸、大阪、京都の到着時刻を告げていた。
けっきょく、姫路までの約1時間半立ちっぱなし。この混雑のなか、先に進む気にならず、ちょうど姫路17:48発飾磨港行があったのでこれに乗ることにした。

播但線の姫路−飾磨港間は一日2往復しかない閑散路線。1982年8月に同じ列車で往復しただけ。今回はひとつ手前の飾磨で下車した。(:播但線飾磨港−姫路間は、1986年10月30日限りで廃止された。)
飾磨駅から山陽電鉄の電鉄飾磨駅まで歩く。せっかくなので、薄暗くなりかけたなか、電鉄網干まで行ってみようと思う。初乗りだ。
広畑あたりまで人家が多いが、網干まで行くとやや田んぼがふえてきたようだ。駅前から国鉄駅前に行くバスでもあればと思ったが、うまい具合になく、折り返しの電車で姫路に戻る。

姫路から乗った電車も新幹線ストップの影響が残っているのか、車内は混雑、席にありつけず、腰をかけられたのは三宮を出てからのことだった。



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