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東北 桜の花咲くころ

1986.4.30〜5.4

[北に向かって]今年(1986年)のゴールデンウィークには未乗の津軽鉄道と三陸鉄道をセットにしたプランを実行に移すことにした。計画段階では日本海縦貫線の利用も考えたがゴールデンウィーク中とはいえ、出発は平日であることから東海道夜行を名古屋で捕まえて東京に向かうことにした。「青春18きっぷ」だと特急に乗る場合は、特急券とは別に乗車券も必要だが、今回は「青森・十和田ミニ周遊券」を利用しての旅行だから、名古屋まで新幹線を使用しても特急券だけ別に買えばよい。

名古屋には予定より約1時間早く着いたので、万一、名古屋から乗ると座れないと困ると思い、東京行夜行340Mを迎えに行くことにした。いったん改札を抜けて名古屋鉄道で尾張一宮まで戻ることにする。

ちょうど時間帯が帰宅のラッシュで新名古屋駅は物凄い混雑。名鉄の路線は新名古屋を中心に四方に伸びており、本線以外に向かう路線はその末端がローカル線ということで、車両編成が短いことが多い。そのため、新名古屋を中心にしばらくの区間がまさに殺人的ラッシュを呈する。この日乗った新岐阜行急行はパノラマカー6両編成だったが、新名古屋では乗り切れないほどの超満員。次の停車駅の新清洲まで身動きもできない込み方であったが、国府宮まで来ると立ち客はぐっと減った。

一時はどうなることかと思ったが、やっとのことで新一宮にたどり着いた。たまたまホームにある特急券販売ボックスで『名鉄時刻表』が販売されていたので、荷物になるが購入する。

名鉄新一宮駅と国鉄尾張一宮駅は跨線橋で繋がっている。一宮で340Mを捕まえて東京に向かう。名古屋でも乗客は少し増えた程度で、ボックスを独り占めし、くの字になって寝ることができた。

横浜あたりまで来ると少し明るくなってきた。大森付近で京浜東北線のみず色の電車を追い抜いたので品川で下車。日によって違うのだろうが、大森あたりで電車を追い抜くと品川で乗り換えることができる。もちろん、乗った車両と跨線橋の位置関係も重要だが。

上野からは5:06発常磐線の始発に乗り継いだ。このプランは昨年(1985年)夏、国鉄完乗をめざしたプランと同じ。平で乗り換え仙台12:15到着。昨年は未乗の利府枝線を往復、その当時営業していた路線で、代行バス区間を含めて国鉄全線を完乗したのだった。

接続の一ノ関行には約45分の待ち合わせとなったので、駅前のダイエーへ食糧調達に出かけた。

[栗原電鉄]寝台特急からの改造車 715系で東北本線を北上。昨年完乗プランでは北海道をめざしたが、今回は石越で下車した。

栗原電鉄の石越駅は国鉄駅のすぐ前にある。路線は石越から細倉鉱山まで伸びているが旅客営業はひとつ手前の細倉まで。栗駒山麓の温泉地へ向かう経路であるが観光色は薄い。沿線は田園地帯をたんたんと走る。

鴬沢を出ると山間に分け入る感じで、終点細倉からは鉱山のなごりの荒涼とした山肌が見える。時間を十分にとれれば、ここからバスで1時間ほど行った山間の温泉温湯に行ってみたいところだが、すぐに引き返す。(:栗原鉄道は、1990年6月16日、終点を細倉から0.2km移転し細倉マインパーク前とした。1995年4月1日からは第三セクターの「くりはら田園鉄道」となった。)

[大船渡線]一ノ関から大船渡線にはいる。大きな荷物を持った人が多い。連休になり帰省してきた人たちのようだ。

大船渡線に乗ったのは1979年7月以来。そのときは、気仙沼線で気仙沼に出て、碁石海岸などをまわり、盛線を往復、一ノ関に抜けたのだった。

沿線は山間の農村地帯、桜が満開である。
気仙沼あたりで日が暮れ、終点盛に到着したのは19:49だった。きょうは盛駅前の旅館に泊まる。

[岩手開発鉄道]翌朝は小雨が降っていた。岩手開発鉄道の盛駅は国鉄駅とは少し離れたところにある。7年前にも駅には立ち寄ったけれど、乗る時間がなかった。その当時ホームにあった薄汚い待合室は小綺麗に建て替えられたようだ。

盛6:57発岩手石橋行に乗る。1両だけのディーゼルカーに乗客はひとりだけだった。石橋まで 9.5kmあり、運賃は90円。
列車は盛川に沿って山間に分け入る。この鉄道は石橋の鉱山から盛まで石灰石を運ぶのが主で、旅客営業はおまけみたいなものである。軌道もローカル線のわりにしっかりした造りで揺れも少ない。約20分あまりで岩手石橋に到着。ホームに停車するのにスイッチバックする。スイッチバックの終着駅としては今はなき赤谷線の東赤谷駅を思い出す。駅の付近は石灰石の石切り場が迫っている。折り返し盛に向かう列車には小学生が十人あまり乗り込んだ。

折り返しの列車を見送って日頃市まで小雨の降るなか歩く。次の列車は日頃市折り返しなのである。
日頃市駅で列車を待っていると、到着した列車から二十人あまりの園児が降りてきた。この鉄道の乗客は小学生や園児が主らしい。乗客を降ろすと列車はいったん側線に回送される。しばらくすると貨物列車同士がこの駅で交換した。そのあとで、側線から一両だけのディーゼルカーがホームにまわされ盛行となる。この列車には数人の乗客があった。(:岩手開発鉄道の旅客営業は、1992年3月31日限りで廃止された。)

[三陸鉄道]三陸鉄道は国鉄再建法に基づく赤字ローカル線久慈、宮古、盛の3線と未開業区間の普代−田老、釜石−吉浜間をひとまとめに引受け、1984年4月に開業した第三セクター鉄道である。リアス式海岸で有名な陸中海岸にちなみ、久慈−宮古間の北リアス線と釜石−盛間の南リアス線に分かれている。

沿線には陸中海岸国立公園があり、風光明媚な観光路線である。また、駅ごとにキャッチフレーズを付けたりして、観光客の誘致に努めている。新製された車両36系ディーゼルカーは、クリーム地に赤い帯が斜めにはいったはやりのカラー、営業成績もなかなか好調らしい。

廃止転換3線のうち久慈線には1977年7月に、盛線には1979年7月に乗ったが、宮古線だけは未乗のまま廃止、転換されてしまった。
盛駅は国鉄と同じ駅だが改札は別に設けられ、連絡口にも駅員が立ち乗車券のチェックを行っている。沿線は無人駅も多く、運賃を取りこぼさないようにという考えだろう。

盛から吉浜までが旧盛線で、吉浜から釜石までが南リアス線の新線区間。路線は最近の鉄建公団が建設する線特有のトンネル線といっていい。トンネルとトンネルの間にちらりと美しい景色が見られる。平田を出ると釜石観音が見えてくる。新日鉄釜石を横目に終点釜石到着。国鉄山田線と釜石線はともに釜石港に突っ込む形で駅に着くが、南リアス線は港方向から入線する。国鉄ホームとは別の1線1面の専用ホームがある。国鉄との乗換口には駅員が立ち乗車券をチェックしている。

釜石−宮古間は国鉄山田線。大槌湾、船越湾の眺めが素晴らしい。三陸鉄道に比べて開業が古い分、レールも貧弱で小さなカーブも多いが、トンネルは少なく、海岸などなかなかの車窓風景が楽しめる。

途中に吉里吉里という駅がある。井上ひさしの小説『吉里吉里人』で独立国ブームの先駆けとなった地名で、いちはやく独立国宣言をした。吉里吉里蜘を描いた国旗でもひるがえっているのかと思ったが、昔ながらの静かな漁村に戻ったように見える。わずかに車窓から見えたドライブインに「吉里吉里国」という文字が見えたくらいだった。

宮古からは三陸鉄道北リアス線に乗り換える。旧宮古線を乗りそこなっているので、普代までは初乗り区間というわけだ。しかし、この路線はトンネルの連続で、車窓風景としては最低である。切り立った崖が続くリアス式海岸の近くを走るわりに、地形がそれだけ険しいせいでもあるが、海はほとんど見えない。北山崎などへ行かんとする観光客もたくさん乗っていたが、トンネルの連続する車窓に居眠りし始める始末。

三陸鉄道でいちばん景色がいいと思われるのは旧久慈線の堀内−野田間くらいだろう。見晴らしもよく、堀内大橋付近は列車の走行写真によく取り上げられる。
久慈から国鉄八戸線に乗り換える。朝方の小雨も北に向かうにつれ、快晴になってきた。この線もなかなか眺めのいい線区で、乗るのも1977年7月以来だ。
八戸でやっと本筋に戻る。一ノ関から大船渡線、山田線、八戸線、それに三陸鉄道の経由は別払いで6010円かかった。

[弘前]八戸から「はつかり13号」で青森に向かう。青森からすぐの接続で五能線深浦行に接続、川部で乗り換えて弘前にたどり着いた。弘前はさくら祭のさなか、予約をしてないと泊まるところがない。カプセルホテルがあいていたので、しかたなくそこに泊まる。

翌朝午前5時半頃宿を抜け出し弘前城址に向かう。早朝だというのに桜見物の人がもう来ている。カメラを手に写真を撮っている。前日の花見の宴の残り香、というよりは悪臭が立ちこめている。桜は今を盛りと美しく咲いていたが、宴会の悪臭はひどかった。

[津軽鉄道]弘前6:52発五能線経由東能代行で五所川原に向かう。沿線はりんご畑、花の季節にはまだ早いようだった。

津軽鉄道は五所川原から出る。駅は国鉄と同じで、跨線橋で繋がっているが、改札口は国鉄とは別になっている。東北地方にはこのタイプの改札が多い。

五所川原7:52発津軽中里行はディーゼル機関車牽引の客車列車(DD351+オハ463+オハフ331+ナハフ1201)。冬の間は石炭ストーブが積まれ、ストーブ列車といわれる列車だ。

沿線は田園地帯、南のほうに岩木山が見える。芦野公園でも桜祭をやっていた。約50分で終点津軽中里に到着。

[十三湖]中里駅前からバスで相内に向かった。バスは国道 339号線を小泊に向かう。途中でほんの少し十三湖のそばを通る。十三湖は岩木川河口に広がる潟湖、塩湖で蜆貝の産地である。

相内でバスを降り、十三に向かう。しばらく林の中を行くと十三湖が見えてきた。その遥かかなたに岩木山がそびえている。湖水は茶色く濁っていて綺麗とはいいがたいが、潟湖の風景を楽しむ。

十三湖と日本海との湖口には十三橋という橋がかかっていて、橋の高さが高い。だから北に小泊岬から南は七里浜、五能線ラインが眺められた。バスにまだ間があったので十三湖を左手に見ながら歩く。深沢バス停でバスを捕まえ、途中富萢バス停で金木行バスに乗り換え金木に向かった。

金木は太宰治ゆかりの「斜陽館」という旅館がある町として有名。五所川原行の列車まで少し時間があったので建物を見にいく。
津軽鉄道の列車で五所川原に出て、国鉄に乗り換え川部に向かう。川部で上野行急行「津軽」を捕まえ上野へ。秋田駅停車中に駅弁「かしわ弁当」とビールで夕食、まだ込み方もましで、座席に横になることができた。
上野6:00到着。

[京成電鉄]上野で途中下車して京成電鉄乗り場へ。京成上野駅は上野山の地下にある。成田空港行急行があったのでそれに乗る。しばらく上野山のトンネルの中を行き日暮里の手前で抜け、国鉄線を越える。建物の密集したなかを高架で進む。

千葉県にはいり、船橋の手前で総武線の南側にまわる。約45分で京成津田沼、千葉線にはすぐの接続で京成千葉に向かう。国鉄線に沿っている。
京成千葉駅は、国鉄の千葉と本千葉両駅のなかほどにある。この駅からさらに千葉急行として小湊鉄道の海士有木の方へ延長される工事が進められている。

[京葉線]今年(1986年)予讃本線の内子経由の短絡線と同時に京葉線西船橋−千葉港(現千葉みなと)間が部分開業した。この路線はもともと貨物線として建設が進められたのだが、京葉臨海部に高層住宅が設けられたりして人口が急増、旅客営業線に変更された。

京成千葉駅から千葉港駅まで小雨の降るなか歩く。駅の位置がよくわからなかったが、適当に臨海部に向かって歩いているうちに京葉線の高架があり、迷うことなく約30分で千葉港駅にたどり着いた。この線は貨物線として蘇我駅と結ばれているはずである。(:京葉線はその後、1988年12月1日新木場−南船橋、市川塩浜−西船橋、千葉港−蘇我間が開業、さらに1990年3月10日には東京−新木場間が開業した。)

電車はみず色の 103系が走っている。千葉港、稲毛海岸、検見川浜あたりは高層住宅が並んでいる。新習志野付近はまだだだっ広い造成地のままだった。南船橋からは臨海部に沿って東京方面に伸びる高架と武蔵野線に向かう高架が交錯している。
西船橋で総武線の各停電車に乗り換え、秋葉原に向かう。

[東海道本線]秋葉原で山手線に乗り換え東京へ。これから東海道本線を乗り継いで大阪に向かう。まずは東京9:10発の電車で出発。午前10時を過ぎた平塚でいったん下車。駅前のスーパー忠実屋へ食糧調達に行く。

平塚からは沼津行を捕まえ、乗り継ぐ電車が三島始発なのでひとつ手前の三島で下車して静岡行に乗り継ぐ。静岡ではすぐに浜松行に連絡していて、東海道本線も接続がいい時間帯を選ぶと、待ち時間が少しで乗り継ぎができる。きょうは掛川でいったん下車する。

[遠州鉄道]掛川からは二俣線にはいった。周遊券の指定ルートから外れるので別払い。1981年12月に乗って以来。赤字ローカル線ということで廃止、第三セクターに移管されるという話もある。(:二俣線は、1987年3月15日天竜浜名湖鉄道に移管された。)

二俣線の野部−遠江二俣間は光明電鉄の廃線跡を利用したものらしい。途中にあるトンネルには架線を支えた金具が残っている、という話だったので、注意していたが、よくわからなかった。

西鹿島で下車して遠州鉄道に乗り換える。1985年12月新浜松付近の高架新線が完成し、馬込駅でスイッチバックしていた区間が廃止され、 700m短縮された。沿線は浜松近郊のベッドタウンのようで、家並みが尽きない。10分ヘッドの運転も頷ける。
浜松からまた本線に戻り、米原行を捕まえた。



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