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北九州乗り歩きの旅

1987.4.30.〜5.4.

[出発]夜行急行「雲仙・西海」「阿蘇・くにさき」が1980年10月ダイヤ改正で廃止になって以来、九州に向かう場合は、新幹線か在来線の電車乗り継ぎによっている。時間に余裕のある場合は、在来線電車乗り継ぎもいいが、最近は新幹線利用が多い。というのは、寝台特急の場合、寝台+特急料金=9000円かかるが、新幹線の自由席特急料金は4900円と寝台利用に比べかなり安いのだ。だから、まだ寝台列車には乗ったことがない。

最近、『時刻表』を見ていて、寝台特急「あかつき」に座席指定車を一両つないでいるのに気がついた。これだと、座席指定特急料金3700円で九州にはいることができる。

指定の入手は最初からあきらめていた。4月からみどりの窓口で「ワイド・ミニ周遊券」を発売するとの案内掲示があった駅で、翌朝出発するつもりで「北九州ワイド周遊券」を購入する。ついでに、なかばあきらめてきたが、当日の「あかつき」の指定席があるか訊ねてみると、まだ、十分な余席があったのだ。結果、急遽、夜行列車での出発となった。

ところで、みどりの窓口で発売された「北九州ワイド周遊券」は、従来からある水色紋様地に印刷されたものではなく、みどりの窓口発券機がそのまま利用され、緑色紋様地に往路用と周遊区間の地図などを印字した二枚一組切符。従来裏面に記載されていた注意書きや乗車経路については、各周遊券についてまとめられた小冊子を別にくれた。

新大阪から寝台特急「あかつき」に乗る。といっても座席車だが。編成はゴールデンウィークということもあり、増結2両を含めて14両編成の客車を電気機関車が引っ張る。肥前山口で長崎行と佐世保行に分割されるが、座席車は佐世保編成に繋がれている。14系座席車は40%程度の乗車率。思ったほどの混み方でなく、前の座席を回転させて足を伸ばすこともできた。

姫路を過ぎると車内放送も終了し、車内は減灯された。かつては夜行急行でも減灯していたが、最近は盗難防止か、減灯されなくなっているので、車内減灯されるのは久々のことと思える。三原まで駅に停まるごとに目をあけていたが、次に気がつくと下関に停車していた。

鳥栖から長崎本線に入り、車内放送が再開された。
「…関門トンネル内で貨物列車の機関車が故障したため列車が遅れまして、たいへんご迷惑をおかけしております。ただいま、鳥栖を23分遅れで運転しております…」

九州に向かうにあたって、『時刻表』は九州で販売されている九州版を入手するつもりだったので、まだ、手元にはなかった。だから、23分の遅れがあとの行程にどう影響するか、どう乗継ぐのがよいか、判断がつかなかった。

天気は雨が降りそうな空模様。肥前山口で長崎行と佐世保行を分割。佐世保行はここで15分停車。遅れているからすぐ発車してもよさそうなのに、対向列車との関係か動かない。「あかつき」のあとに発車する普通も停車したまま。

肥前山口から佐世保線を進む。定刻なら有田で「あかつき」に接続する伊万里行があるが、乗継ぐ人がいなかったのか、約30分で次の列車があるせいか、有田では遅れの配慮はされてなかった。

[大村線]大村線分岐駅の早岐で下車。約20分の遅れ。大村線の快速長崎行は8:32発で、20分の遅れのおかげで数分の待ち合わせで乗継げることがわかった。しかし、後続の普通電車の接続待ちをしたので、約13分遅れて発車した。大村線はこの快速のあと1時間半列車がないから接続待ちもとうぜんのことだ。

大村線に乗ったのは1983年3月以来であるが、そのときは夜行「ながさき」で通過したにすぎず、昼間乗ったのは1979年3月以来ということになる。天気がよければ、大村湾の美しい眺めが展開するのだけれど、どんよりした曇り空ではさえない車窓風景だった。
快速ということで遅れを少しずつ取り戻し終点長崎には5分の遅れで到着した。

[長崎電気軌道]長崎には過去何度か訪れているが、まだ、路面電車に乗ったことがない。今回の目的は、この路面電車全区間に乗ることにある。路線は5系統あって、運賃は一回乗車 100円、乗換え駅では乗継券がもらえる。一日乗車券は 500円で、今回はこれでまわることにする。

まず、長崎駅前から赤迫(あかさこ)に向かう。国道 206号線を北上、独立軌道の部分もある。浦上を経て終点赤迫、長崎本線の西浦上駅に近いところだ。列車があれば、それで長崎に向かっていいのだが、この時間帯に列車はなかった。

次に折返し3系統螢茶屋行に乗った。長崎駅前までは先ほど通ったところで、そこから公会堂前などを通って螢茶屋に向かう。雨がぽつぽつ降りだした。

終点螢茶屋からこんどは5系統石橋行に乗継いだ。繁華街に近い西浜町などを通り海岸通りを石橋まで行く。終点石橋の近くには大浦天主堂やグラバー園がある。石橋から歩いて派手な色彩の孔子廟を横目にオランダ坂から異人館の立ち並ぶ山手の界隈を少し散策しながら新地に下った。

築町電停から正覚寺下行の1系統に乗るつもりだったのだが、やって来た電車に乗ったところ螢茶屋行だった。慌てて賑橋電停で下車、反対方向から石橋行電車がきたので、それで西浜町まで戻り、次の正覚寺下行を待つ。一日乗車券を持っているからこそできることだ。終点正覚寺下まで行き長崎電気軌道全線完乗。折返し赤迫行に乗り、長崎駅前で下車する。

[島原鉄道]長崎13:24発「かもめ14号」で諌早に向かう。島原鉄道の未乗区間は島原−加津佐間だ。新幹線で九州入りした場合、先に北九州・福岡地区をまわり、長崎から熊本に抜ける案だった。しかし、夜行で長崎まで来てしまったので、予定を変更して島原半島を一周することにした。

まず、駅前のバスターミナルから島原半島の西海岸を走る長崎県交通バス口之津行に乗車。愛野までは島原鉄道と平行、国道57号線を進み、島原半島の付け根のところを南下、標高 200mくらいの高台に橘湾展望台が設けられている。

千々石( ちちわ)町で道路は内陸に入っていってから西海岸に下る。海岸沿いに見える狭い道はカーブの具合から小浜鉄道のあとではないかと思える。

湯の町小浜で下車してみたいなと思いながら先に進む。橘湾に沿った国道 251号線はなかなか乗りごたえのあるバス路線だ。諌早駅前から約1時間半で加津佐駅前に着いた。運賃は1200円。

島原鉄道の車両の色は旧国鉄のディーゼル急行に似ていたが、新しい塗色にした車両もある。クリームの下地に赤いラインが斜めにはいったもの。シートも新しく、煤けた日除けの代わりにカーテンが取り付けられている。でも、旧国鉄色の車両も動いているようだ。

加津佐から島原半島東海岸をまわる。天気は曇り。遥か天草がかすかに見える海岸線を進む。約2時間20分で諌早に戻ってきた。運賃は1460円。約4時間、2660円かけて島原半島を一周してきたわけだ。この日は諌早駅前で泊まる。

[博多へ]翌朝諌早6:41発、ゴールデンウィーク中運転の臨時「かもめ82号」で博多に向かう。早朝ということもあり、自由席はガラガラ。今日もどんよりした天気のなか有明海を右手に見ながら走る。

長崎までレールが伸びたのは明治31年11月のこと。現在の佐世保線、大村線を経由していた。有明海沿いの現ルートが開業したのはずっと遅れて昭和9年12月である。多良岳の山裾が海岸べりまで達し、平坦な土地が少なく難工事だったらしい。線路もカーブが多く、トンネルも続く。特急もスピードをセーブして走っている感じがする。

鹿島を出ると佐賀平野にかかる。田園地帯で麦畑が青々と広がっている。肥前山口から複線になる。佐賀を出ると「あかつき」とすれちがった。最初は臨時の「あかつき81号」かと思ったが、座席車を繋いでいた。しかも、数分遅れて臨時ともすれちがった。今日も遅れているようだ。1時間ほどの遅れになっている。昨日の遅れは実害はなかったけれど…と思いめぐらす。あとで新聞で知ったところによると、門司付近の信号機故障によるものだそうで、夜行寝台が軒並み遅れたとあった。

博多8:46到着。この電車が折返し「かもめ3号」になるようで、ホームでは長い列ができていた。

[福岡市交通局]福岡地下鉄に以前乗ったのは、1号線博多(仮)−中洲川端、室見−姪浜間が開通して国鉄筑肥線の電化、地下鉄相互乗り入れを始めた日(1983年3月22日)のことだった。中洲川端から東へ伸びる2号線は、その後少しずつ路線を伸ばし、昨年(1986年)11月ついに貝塚まで全通した。そこで、2号線と博多仮駅から本駅まで伸びた区間( 300m)も含めて一気に片付けてしまおう。ただし、博多から福岡空港まで延長されることが決まっているから、今日完乗したといってもそれまでのことだ。(:1993年3月3日福岡空港まで開業)

博多を出ると4分で中洲川端駅。ホームは2層構造になっていて、1号線ホームから階段を登ると2号線ホームなのだが、同じ地下鉄ホームなので、ちよっと変な感覚にとらわれる。地下鉄内は車内はいうに及ばずホーム上でも全面禁煙になっている。いいことだ。 箱崎九大前を出ると地上に出る。中洲川端から11分で終点貝塚。地下鉄だから面白みはない。

[西鉄宮地岳線]貝塚−津屋崎間21.0kmの路線。貝塚、津屋崎とも国鉄の駅から離れた位置にある関係から今まで立ち寄る機会がなかった線区である。

博多湾鉄道汽船が大正13年5月新博多(千鳥橋)−和白間を開業したことに始まる。翌年7月宮地岳まで延びている。戦時中の昭和17年9月交通統合により西日本鉄道が誕生、宮地岳線となる。

津屋崎まで延長されたのは昭和26年7月。昭和29年3月路面電車が走る福岡市内線の競輪場前(貝塚)乗入れにともない新博多−競輪場前間のレールの幅が1067mmから1435mmに軌間変更され、その後、昭和54年2月市内線廃止にともない、その区間も廃止されてしまった。そのため、貝塚は地下鉄が延長されるまで都心とは接続のない線区だったわけである。

地下鉄の自動改札を抜けると、すぐ宮地岳線の改札口がある。地下鉄線内から連絡切符も発売されている。宮地岳線は2両編成の電車をワンマンで走らせている。各駅には駅員や駅売店と兼業で集改札する女性がおり、運転手は運転とドアの開閉だけに専念している。

香椎宮前あたりまでは鹿児島本線と並走、和白では香椎線に接続している。香椎花園は遊園地、新宮浜の松林を左手に、宮地嶽神社最寄りの宮地岳を過ぎ終点津屋崎に到着。歩いて数分で海岸に出られる。「恋の浦 彫刻の森」という大きな看板、そこへ向かうらしい若者のグループも見られる。戦前には鹿児島本線の福間−津屋崎間には馬車軌道があったらしい。

宮地岳線と鹿児島本線の駅でいちばん接近しているのは古賀だと地図から読めたが、福間でもせいぜい 1.2km、古賀まで戻る時間を考えると時間的に大差がなく、津屋崎から西鉄福間まで戻ることにした。

西鉄福間駅からJR福間駅まで15分で歩くことができ、予定していた電車に乗り継ぐことができた。JR福間駅は宮地嶽神社最寄駅で、かつては参拝客であふれたのだろうと思える3面4線の構内。跨線橋には「明治44年鉄道院」「浦賀渠船株式会社製造」とあった。

[帆柱ケーブル]福間から八幡に向かう。津屋崎では曇っていた空から薄日が差しかけたので、晴れてくるのかなと思ったら、赤間付近では小雨がぱらついていた。

八幡に下車するのは二度目、1983年3月以来で、そのときは帆柱山麓にある北九州YHに泊まるのが目的であった。YHはケーブル駅のすぐそばにあったものの、当時は国鉄全線に乗る意識はあったが、民鉄、さらにケーブル線となると全く気が向いていなかった。
帆柱ケーブルへは駅前からバスの便があるらしいが、かつてYHまで歩いたこともあり15分ほどで山麓駅にたどり着いた。いつもの例により、登りは歩く。

帆柱山は標高 600mくらいの山塊の総称らしく、5万分の1地形図によると、ケーブルの通じている山は皿倉山で、標高 617.4mの三角点のある山は権現山となっており、帆柱山は一段活字が小さく記されているにすぎない。頂上付近には電波塔がたくさん立っていて、自動車道も通じている。ところが、登山道はあるものの地図に記載されていないため、正確な位置をつかみにくかった。

山麓のケーブル駅から汗をふきふき40分ほど登ると皿倉山と権現山の鞍部にたどり着いた。視界がよければ八幡製鉄所など北九州工業地帯を見渡せる場所なのだろうけど、雨こそ降ってないもののあいにくの曇天。山上駅13:00発のケーブルで下山、途中で突然激しい雨に見舞われた。約7分で山麓駅に到着。雨は小降りになった。

昼食を取りたいなと思いながらも、あとの行程がきわどい乗り継ぎをすることになっており、少しでも早く進もうと、ぽつぽつ雨の落ちる空模様のなか八幡駅までの道を小走りで下った。
そのかいあって予定より一本早い八幡13:19発で小倉に向かうことができた。ケーブル山麓駅から八幡駅まで、10分ほどで到達したわけだ。

[北九州高速鉄道]小倉13:35到着。モノレールは10分おきの発車だから、13:40発と見当をつけて改札を抜けた。ところが、駅前にはモノレール乗り場はない。あれ、どこから出るのだろう、とあたりを見回しているいると、女高生たちが小雨の降るなかを「…あと何分…」といいあいながら駈けていく。モノレールにちがいないと直感、信号無視して走っていく彼女らのあとに従った。

モノレールの小倉駅はJR小倉駅前祇園太鼓の銅像を横目に 400mほど南に下った、電車通りの交差点上に設けられていた。駅前でもたついていれば5分で乗り継ぐことは不可能だった。女高生に従って走ったかいあり、13:40発のモノレールに乗れた。(:1998年4月1日JR小倉駅まで400m延長され、旧小倉駅は平和通駅と改称された。)

モノレールは、残念ながら乗ることはできなかったけれど、西鉄の北九州市内を走る路面電車北方線が1980年11月2日に廃止されたあと、その路線に沿う形でモノレールの高架が設けられたものだ。1985年1月に開業したモノレールであるが、この路線にはJR線と同一駅名が小倉のほかあと城野と志井のふたつある。しかし、接続しているわけではないようで、乗り換えの案内もない。

モノレール線は、日豊本線とは片野−城野間でオーバークロスした。JR城野駅へは両駅から 500mくらい離れていそうだ。志井駅の場合は3km以上離れていると思われる。終点企救丘(くきがおか)まで18分。場所は日田彦山線石田と志井の中間あたり。近くに市立交通科学館がある。(その後、企救丘駅近くの日田彦山線に志井公園駅が設けられた)

[志井]このあとの乗り継ぎプランとして、当初は単純に折返し、筑豊本線を経由して熊本へ抜けることを考えていたのだが、日田彦山線経由もいいなと思えた。ただ、判断に迷うのは、企救丘14:05発で折り返すと小倉14:23到着。JR駅まで歩くとなると14:30以降の列車に乗るのがやっと。城野で下車しても、JR城野駅へ難なくたどり着けるかどうかわからない。

そこで、一か八かJR志井駅に向かって歩くことにした。企救丘駅から志井駅までの正確な距離はつかめないけれど、日田彦山線石田−志井間のキロ数 3.5kmの中間に位置しているとすれば、道路では2kmあまりと想定できる。40分あれば志井14:40発の列車に間に合うだろうと思えた。雨が降り止んでいるを幸い20万分の1の地図を頼りに歩くこと30分たらずで志井にたどり着いた。

志井駅は無人駅で、近くに食べ物を売っているような店ひとつない。飲み物の自販機が道路に並んでいるだけだった。列車の到着数分前になると、どこからともなく高校生が集まってきた。

[日田彦山線]やってきたディーゼルカーは2両編成は土曜日の午後、高校生や連休を故郷で過ごすらしい家族連れでいっぱいだった。

石灰石専用貨車が構内に留置されている石原町を過ぎ、金辺峠をトンネルで抜けると、採銅所、香春と続く。石灰石の山 香春岳が近い。

日田彦山線に乗ったのは1979年3月が最初、1983年3月には筑豊のローカル線を乗り歩いた。香春から添田へ延びていた添田線は廃止されて2年経つ。
ぼた山をあとに添田を過ぎると沿線は次第に山深さを増していく。すでに立ち客はなくなったが、ボックスがほぼ埋まった乗り具合。

彦山は沿線唯一の周遊指定地接続駅(1998年3月末で周遊券制度が大幅に改訂され、周遊指定地接続駅といっても意味不明でしょうね)、英彦山詣でに賑わった頃もあったのだろうけど、今は山間の無人駅。

釈迦ヶ岳トンネルを抜けて川の流れる方向が逆になり、16:23夜明に到着。日田まで行く時間はあったけれど、初めて下車する駅なので、ここで降りてみた。無人駅、駅近くの食料品店でパンを購入。慌ただしい乗り継ぎで昼食を取りそこねていた。

久留米行の列車を待っていると、自動車で駅へ乗り付けた数人の男女、みな立派なカメラを手にしていたところをみると大学の写真クラブか何かだろう。駅名につられて立ち寄ったのか、無人駅をいいことに線路まで降りて写真を撮ったりしていた。10分ほどで立ち去るとまた静かな山間の駅に戻った。

[久大本線]やってきた久留米行はディーゼル機関車DE10が牽引する50系客車3両編成。このような列車まで「タウンシャトル」のヘッドマークを付けている。たとえば20分おきくらいに走っている都市部で「タウンシャトル」というマークも粋な感じがするが、1時間に1本も走ってないないような閑散な線区に付けるのはどうかと思う。

水を満々とたたえている夜明ダムにせきとめられ筑後川沿いを列車は走り、ダムを過ぎれば筑紫平野の田園地帯、麦畑が広がっている。
久留米18:00到着。久留米駅ホームに孔雀の檻がある。半端な時間にパンを食べたが、お腹がもたず、駅の立ち食いそばをすする。雨が降りだした。

[有明41号]1986年11月ダイヤ改正によって、特急車両を増備することなく本数を増やそうと考えた結果、3両編成という特急が誕生した。この「有明41号」もそうである。時刻表によれば、ゴールデンウィーク期間中は臨時運用として、ふだんは熊本までなのが、西鹿児島まで行くことになっているので、ひょっとしたら7両編成を使うのでは、と思ったが、考えがあまかった。

久留米から乗り込むと自由席はいっぱい。立ち客も多い。うまい具合に大牟田で座席にありつけたけれど、ますます混んできた。途中で車内を回ってきた車掌に、客が多いのになぜ増結しないんだ、とくってかかる立ち客もいた。車掌は車両がないので…、とかなんとか言い訳をしていたが、ゴールデンウィークのような混雑する時期、もう少し車両運用に考慮があってもいい気がする。

いくぶん混雑がましになると、九州の特急には折畳み式の椅子を用意している、と車内放送。折畳み椅子を載せているなんて、はじめて聞いたが、いくらか配慮はしているようだ。
熊本19:28到着。駅前のBHに泊まる。

[豊肥本線]翌朝、熊本6:23発宮地行で出発。車両は新型のキハ31系、2両編成。座席配置は、片側2列、片側1列の転換シートで、オレンジ色を基調とした明るい感じ。

熊本駅構内外れにクリーム地に赤いラインのはいった電車特急と同じような色に塗られたディーゼル機関車が留置されている。この機関車は、特急電車「有明」が非電化の豊肥本線水前寺駅まで乗り入れるさいに牽引役となることをあとで知ったが、初めて見た目には異様な機関車であった。(:その後、豊肥本線は熊本−肥後大津間が1999年10月1日電化され、電車特急がそのまま乗り入れられるようになった。)

天気は曇天。いまにも雨が降りだしそうな空模様。阿蘇の外輪山に近付くに連れ、山はもやっている。約1時間で立野。ここでいったん下車する。
立野には1983年3月高森線を往復したとき、列車の乗り継ぎで下車している。その頃には線路を渡って、階段を数段上がったところに古めかしい駅舎があったが、今は真新しい駅舎がホームの横に設けられている。側線を整理して建てたのだろう。駅舎を出るとすぐ南阿蘇鉄道(旧高森線)のホームに繋がっている。

1984年11月栃木温泉に泊まったあと、立野に出るべくバスでたどった道の途中に白川鉄橋のそばを通るところがあり、よく写真が撮られているところだと気がついた。駅から歩いて30分ほどのところなので、そこへ行って南阿蘇鉄道の車両を写そうと考えた。あいにく天気が悪いのが残念なのだが。

かつて戸下温泉にあった旅館がきれいさっぱりなくなっていた。このあたりに大規模なダムが建設されることになっており、そのせいなのだろう。
白川鉄橋を眺められるポイントで立野行とその折返し列車の写真を撮ったあと、立野駅に戻り、急行「火の山1号」を待つあいだ、せっかくだから記念写真を撮ろうとすると、カメラの電池が切れてしまった。

「火の山」は熊本−別府を結ぶ急行で、今日から始まる3連休、観光地へ繰り出す人たちで車内は混雑、立野で乗り込んだときには乗降口のところまでひとがいっぱいであった。立野のスイッチバックを行きつ戻りつし、ようよう阿蘇のカルデラ平原に入り赤水、阿蘇、宮地と阿蘇周辺の観光地接続駅に着くたびに人を徐々に下ろしていき、なんとか席にありつくことができた。まだ、大きな荷物を持つ家族連れなども多いから、別府あたりまで行くのだろうか。

阿蘇の外輪山を願政就トンネルで抜け、大分県へと進んで行く。車窓風景は山また山。大分11:40到着。このまま別府まで乗り通してもよかったのだが、大分駅前にダイエーが見えたので下車、カメラの電池を買いに走る。

[ラクテンチ]大分から別府に移動。別府付近は高架になっているのだが、電車から山側にラクテンチのケーブル線が見える。駅から適当に方向を定めて歩いていくと、20分ほどでたどり着いた。

ほんとうは、ケーブル線だけに乗ればいいのだけれど、ここは、ケーブル線往復運賃と入園料がセットになって料金は 800円、高い施設ではない。渡された切符を見るとケーブルの運賃は片道わずか40円ということだ。

ここのケーブルの開業は古く、昭和4年9月21日に別府遊園地索道が営業を始めた。乙原−雲泉寺間 253.5m、平均勾配55.8‰。その後、別府遊園鋼索鉄道、別府鋼索鉄道と変遷、昭和29年別府国際観光が事業主である。なお、昭和19〜24年は休止していた。

山上には、小さな動物園をはじめ、古くさい観覧車などの乗り物、遊戯施設があり、また展望大浴場も設けられている。全般的に古くさくて、今の都会的遊園地のあるスピード、スリルを楽しむ乗り物など皆無。しかし、それでも多くの人たちが手近なレジャー施設として訪れている。動物園など余分な出費にならないところなどを一巡、展望大浴場で温泉につかる。約1時間あまりで下山。
これで、九州地区の鉄道に完乗した。

[東へ]別府から「にちりん22号」に乗車、小倉に向かう。3日目にして、天気もようやく回復傾向。別府湾を沿いの日豊本線はなかなか眺めがよい。約1時間半で小倉に到着。

購入した時刻表は九州内だけのもので、これから山陽本線をたどるには使えない。そこで、いったん改札を抜けてみどりの窓口においてある『時刻表』を調べに行った。

小倉から門司、関門トンネルを抜けて下関へと電車を乗り継ぎ、山陽本線を東へ。宇部付近でとっぷり日が暮れた。明日の行程を考え、徳山で下車。駅前のBH、2軒は満員と断られたが、辛うじて宿を確保。バス、トイレなしの3300円。

[岩徳線]徳山に宿を取ったのは、翌日岩徳線を経由してみようと考えたからだ。岩徳線に乗るのは1979年3月以来だから8年ぶりということになる。

徳山6:22発岩国行に乗車。海岸経由の山陽本線に比べ距離は短いが、ディーゼルカーということで、時間はこちらのほうが余計にかかる。花岡付近は造成され新しい住宅地になっている。徳山を中心に周南地区の工業地帯へのベッドタウンというわけだろう。

岩国7:39到着。3分の待ち合わせで岡山行に接続。広島県にはいる。海岸沿いの美しい眺めを楽しみながら宮島口で下車。広島電鉄の乗り歩きに移る。

[広島電鉄]当初は広島駅前を起点に、一日乗車券を購入して全線を乗り歩くつもりだったが、宮島を往復するのは時間の無駄が多いように思え、また、うまくすれば、宮島でも一日乗車券が入手できるのではないかと考えた。

JR宮島口駅から広電宮島駅にまわってみると、出札口は自販機しかない。待合室を観察していると、定期券はヒロデンガーデン案内所で発売します、の貼紙。宮島への渡船乗場のほうにあるその案内所にいってみると、思ったとおり一日乗車券も売られていた。ただし、営業開始時刻が8:40からと、まだ30分あまりあったが、宮島航路の連絡船などを眺めながらのんびり待つ。

ようやく一日乗車券を入手、まず宮島線からスタート。宮島線は、広電西広島−広電宮島間専用の電車と広島駅前まで乗り入れる路面電車の大きく分けて二種類の電車が走っている。そのため、専用電車用のホームと路面電車用ホームでは、ホームの高さが違い、停車する位置もちがう。広電西広島は路面電車の己斐電停と隣接、乗ったのが広島駅前行だったので、そのまま広島駅前まで乗り通す。

広島は中国地方第一の都会だけあって駅前を行き交う人が多い。駅前から次に乗ったのは比治山経由宇品行(5系統)。宇品には松山、今治方面への連絡船ターミナルがある。かつては国鉄に宇品線というのがあった。

宇品から次は己斐行(3系統)に乗継ぐ。八丁堀、紙屋町付近が広島の繁華街で天満屋、三越、そごうといったデパートが並ぶ。原爆ドーム前電停で下車。原爆ドームを見にいく。道路を隔てて北側に広島市民球場があって、きょうはデーゲームでもあるのか、球場を取り巻くように長蛇の列ができていた。

一電停歩いて、本川町電停から江波行(6系統)に乗車。終点近くには江波皿山公園がある。そこから次に横川行(8系統)に乗り継ぎ、横川に向かう。この路線は運転間隔が他系統よりあいており、しかたないので、他系統との分岐点でもある十日町電停まで歩き、広島駅前行を捕まえた。それを八丁堀電停で下車。白島行(9系統)に乗換えて広電全線完乗。

白島電停から広島城まで歩き、広島城を眺めながら途中で買ったほか弁を開く。優雅な(でもないか)昼食を済ませ、紙屋町電停から広島駅前に戻る。
広島電鉄の路面電車は1乗車 120円(9系統は80円)の乗り切制、宮島線は区間制。一日乗車券 600円に対して、 920円分乗った勘定になる。

[帰路]広島14:24発呉線経由糸崎行に乗車。呉線に乗るのは1977年9月以来。国道31、 185号線と平行し、瀬戸内海の多島海風景がすばらしい路線だ。

三原で下車し、新幹線に乗り換える。「ひかり 242号」は広島始発の「ひかり」で、博多始発より混まないだろうと考え、また、世間ではもう一日休みが残っているから、さほど乗るまいと自由席狙い。ホームの案内では、「ひかり 242号」の自由席は 120%の乗車率で広島を発車しております、と伝えてくれたが、 120%といわれても実際どの程度の混雑を想像すればいいのか。利用者に情報を流す努力は買えるが、はたして役立つ情報かどうか。

立ちんぼうかと、うんざりした面持ちで「ひかり」に乗り込んでみると、三原での下車客も多く、座席にありつけた。確かに、広島発車時点では 120%だったのかもしれないが、ホームで待つ人を不安がらせた情報でしかなかった。

広島から呉線経由で三原まで約2時間を要したのだけれど、三原から新大阪まで同じ時間で移動できるのだから、新幹線は早いものだ。



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