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東京落ち穂拾いと草津温泉を訪ねて

1987.7.22.〜7.25.

[東の旅]今年(1987年)になって3度目、 340M、大垣発東京行に乗り継いで東に向かう。夏休みに入って間なしのせいか、若い人がそれほど多いわけでないが、たいていの人が「青春18きっぷ」を持っている。大垣14分の接続で席にありつけて幸い。

名古屋から勤め帰りの人たちで車内はほぼ満員になるが、蒲郡、岡崎と徐々に空いて行き豊橋を過ぎると座席に横になれるくらいに人が減る。
東の空が次第次第に明るくなり、車窓を過ぎる家々の輪郭がはっきりしだすと横浜が近い。車内放送が再開される。しかし、町はひっそり、多摩川を渡り数分で品川に到着。きょうの乗り歩きが始まる。

[都営地下鉄]今年4月に都営地下鉄をまわったとき、時間切れで乗れなかった三田線の神保町以南と新宿線神保町以西に乗るため、品川で京浜東北線の電車に乗り換え田町に向かう。ダイヤ改正前は 340Mから駆け込めた上野方面行の一番電車も、 340Mが『時刻表』の表記で1分遅くなった関係から乗り継げず、二番電車まで約15分待つことになる。

田町駅に下車するのは初めて。早朝のことで、集札口に駅員はまだ立っていない。JR田町駅から都営新宿線の三田駅まで 100mくらいしか離れてないが、そこにあるのは浅草線の乗場で、三田線に乗るためには、さらに 200mほど地下道を歩くことになる。人は全くといってよいほど見えず、ひょっと人に出くわすと、一瞬身構えてしまう。

三田駅5:03発三田線の一番電車で神保町へ。所要11分。神保町では新宿線への乗り継ぎ悪く15分の待ち合わせ。地下鉄に乗ると10分で新宿。地下鉄だから面白みに欠けるが、これで都営地下鉄完乗。

[営団地下鉄]都営新宿線はそのまま京王電鉄に乗り入れているが、駅の位置はJR新宿駅の南端にある。一方これから乗ろうとする営団地下鉄丸ノ内線は北端にあるので、新宿駅構内を案内矢印にしたがって 300m近く歩くことになる。

新宿から次の中野坂上で方南町行に乗り換え。ホームはコの字形になっていて、方南町行には上り下り両方の電車から乗換えやすいよう真ん中に停まっている。この丸ノ内線の枝線は3両編成の電車が往復しているらしい。地下なので本線とどう分かれたのかよくわからないまま7分で終点方南町に到着。

駅から地上に出ると環七通り。トラックなど大型車両がびゅんびゅんとばす交通量の多い道路。その通りに沿って南へ 1.5km下ると首都高速4号線の高架があって、すぐ京王線の築堤が見えてくる。予定通り20分ほどで代田橋駅にたどり着いた。

[東急世田谷線・大井町線]代田橋駅から八王子方面へ、次は井の頭線乗り換え駅の明大前、その次が東急世田谷線乗換え駅の下高井戸。世田谷線は他の東急線とは独立していて、運賃は一乗車 110円の乗り切り制。乗車時に料金箱に入れる。駅員のいる駅では駅員に渡す。独立軌道を走るが路面電車である。

沿線は世田谷区の住宅街を走る。終点三軒茶屋まで15分。ビルとビルの間に乗場がある。駅を出ると首都高速3号線の高架があり、地下には新玉川線が走る。新玉川線へ通じる出入口のところに「大山道」と彫られた昔の道標が建っていた。

新玉川線で二子玉川園に向かい、次に大井町線に乗換える。二子玉川園駅着くと同じホーム反対側に大井町行電車が停車していた。それに乗り込むと、お急ぎの人は隣のホームの電車が先に発車するとの案内。この駅は2面4線のホーム構成でホーム内側の2線が新玉川線の上下方向、両ホーム外側2線が大井町線の折返しに使われているようだ。ホームに掲げてある時刻表を見ると、赤と黒で発車ホームの違いが区別されているのであった。

時刻も午前7時台となり、乗り込んだときには、さほどの混み方ではないと思われたのに、発車まぎわになると乗換え客がどっと乗り込んできて、身動きもままならない状態になった。

渋谷、目黒、五反田といったJR山手線に向かう路線の接続駅となる自由が丘、大岡山、旗の台では乗り降りの人が錯綜、いくぶん混み方もましになってきたが、学校が休みでない時期だったらもっと混雑していただろう。約25分で大井町に着いた。

[京浜東北線]JR東日本では、旧国電区間を「E電」と呼ぶようにしたと、大々的に新聞で報じられていたのに、今回小刻みに利用した旧国電区間の案内放送では一度も「E電」という言葉を聞けなかった。たいがい「JR線」といっていた。

神戸のポートライナーが全国で初めて、車内冷房の強さを車両により強弱をつけて、「弱冷車」という冷房を弱めた車両を設けた。それが利用者に好評で、JR西日本などでも同様のことを始めている。JR東日本では、それを意図してやっているのかしらないが、1編成の電車のなかで、なかほどの2、3両分散して非冷房車を組み込んでいるのを見かけた。冷房車は立ち客がでるくらい乗っているのに、非冷房車はがらがら。

大井町から京浜東北線の横浜方面行の電車に乗る。多摩川を渡り、11分で川崎に到着。駅の改良工事をやっていた。

[京浜急行大師線・空港線]今まで「京浜○○」といっていた川崎などの駅名をこの7月から「京急○○」と変更されたようで、とりあえずの処置として、変更箇所に修正ステッカーが貼られ、「京急○○」になっている。

川崎付近の京浜急行線は高架になっているが、大師線は高架下から出ていた。通勤時間帯である午前7〜8時台は4分間隔の運転。途中には川崎大師があり、大きなお堂などが車内からでも見える。約10分で終点小島新田。駅はJR貨物の塩浜操車場のすぐそばにある。駅間距離が短いので、帰りは、隣の産業道路駅まで歩いてみた。工業地帯である。

大師線を往復して、今度は京浜急行線で多摩川を渡り、京急蒲田から羽田空港に向かう。
蒲田から7分で終点羽田空港。駅は「空港」とついているが、線路は海老取川のところで打ち切られており、空港ビルまでバスで5分かかるという位置。線路止めの先に海老取川には古びた鉄橋がかかっている。かつて、この先 0.8kmのところに穴守という駅があったらしい。昭和20年に休止したまま、その駅の場所が滑走路になるなどして、鉄橋だけが残されたわけだ。

今は不便な空港線であるが、京浜急行は都営地下鉄浅草線を経由して京成電鉄と繋がっている。羽田の空港ビルと成田空港が結ばれれば、空港連絡鉄道として価値が高まると思われる。((:1998年11月京浜急行空港線が延長され、新羽田空港ビルへ乗り入れた。京成成田空港とを結ぶ電車の運行を開始した)

[東京モノレール]京浜急行の羽田空港駅から空港ビルに向かうミニバスは、大きな荷物を持った人たちでいっぱい。バスで5分だから歩いても15分くらい、と歩いて空港ビルに向かうことにした。

空港ビルのなかは国内航空会社のカウンターが並んでおり、鉄道の駅とはちがった雰囲気がある。東京モノレールの乗り場に向かう。
東京モノレール羽田駅は空港ビルの地下にある。モノレールの開業は昭和39年9月で、東京五輪にあわせて営業を始めた。滑走路の下を抜けると地上に出て、海岸に近い工場群や倉庫群を眺めながら進んでいく。田町付近で東海道本線に沿い、浜松町の手前で新幹線などJR線をオーバークロスして、約15分で終点浜松町駅に到着。

浜松町からふたたびJR京浜東北線上野方面行に乗り換え、秋葉原で下車。総武線に乗り継ぐ。きょう25日は隅田川の花火大会らしい。

[東武亀戸線]JR総武線亀戸駅で下車。地味な線区である。住宅、工場、団地と雑然とした沿線風景。6分で伊勢崎線との乗り換え駅曳舟に到着。

この付近は東武伊勢崎線と京成押上線とが並走している。曳舟で下車して、押上まで歩くことにする。地図はもってきてなかったが、隅田川花火大会の交通規制の立て看板に描かれた地図を頼りに、見当をつけて歩いていくと、迷うことなく押上駅にたどり着いた。

[京成押上線・金町線]押上には今年(1987年)4月に都営浅草線に乗ったとき来ている。青砥行がはいってきたので、それに乗る。押上駅を出るとすぐに地上に出て、先ほど歩いた東武、京成の並走区間から東武亀戸線をオーバークロスし、荒川を渡って葛飾区に入る。青砥は高架駅、すぐに千葉行があったので、それに乗り継ぐ。

中川を渡って京成高砂まで進む。しかし、ここから分岐する金町行は15分ほどの待ち時間があり、これなら押上で待っていてもよかったなと思う。
京成高砂から金町に向かう金町線、その途中に柴又がある。映画「男はつらいよ」、寅さん所縁の地だ。5分で終点金町。

[高崎へ]金町でJR常磐線に乗り換える。常磐線を走る電車は、快速と普通で行先が違う。快速は上野行だが、普通は北千住から営団地下鉄千代田線に乗り入れる。金町は普通しか停まらない駅で、北千住で上野行に乗り換える。

北千住駅はJR常磐線、営団地下鉄千代田線、日比谷線、東武伊勢崎線が集まるターミナルである。常磐線の普通電車は千代田線に乗り入れるため、地下のホームに停車する。地下から上がって乗り換えようとすると、乗換え通路に中間改札が設けられていた。地下から地上に出るほうに駅員は立ってなかったが、地下に向かうほうには立っていた。JR線内の運賃をきっちり頂戴しようという考えなのだろう。地上にあるJR線ホームは多くのホームが並んでいるが、改修工事が進められている。東側には東武線と日比谷線の地上ホームと高架ホームがある。改修工事が進めばすっきりするのだろうが、ややこしい駅である。

北千住から上野に出て、駅構内食堂で昼食、そのあと高崎行に乗車。
高崎線に乗るのも久しぶり。篭原で「あさま17号」に追い抜かれ、高崎14:24到着。20分の接続待ち合わせ時間を利用して、駅前のスーパーに明日の食糧を買い出しに行く。昨年(1986年)訪れたときは「ニチイ」だったが、「SATY」と名前が替わっていた。

[吾妻線]高崎から万座・鹿沢口行に乗車。右手に赤城山、左手に榛名山、夏空に映える。渋川から吾妻線にはいる。3年ぶりのことだ。吾妻川に沿って次第次第に山間に分け入り、吾妻峡を過ぎ、1時間半ほどで、草津温泉方面などのバスターミナルになっている長野原に到着。

[草津温泉]長野原からJRバスで30分。草津温泉駅は「みどりの窓口」があるバスターミナルだ。ただし、現在、駅は改築中で、プレハブの仮待合室がある。草津温泉といえば名前の通った温泉だが、巨大なホテル旅館がない。町の中心に湯畑という温泉の湧き出ているところがある。旅館案内所に立ち寄ってほどほどの宿を世話してもらう。

翌朝、西の河原とミニ殺生河原を見にいく。その道中には土産物屋が並んでいて、商売熱心。通りかかると、出来たての温泉饅頭を賞味させてくれたり、別の店では 500円のところ 450円にまけるという。足早に通り過ぎ、西の河原へ。そこは、温泉が湧きだしているだけで、それほどおもしろいところでもない。バスターミナルに引き返すのに、先の土産物屋の並びを避けて別の道をたどった。

[志賀草津高原線]草津温泉付近はJRバスだけでなく、西武バス、草軽交通、長野電鉄のバスが行き来している。普通乗車券を持っていると、どの会社のバスでも乗れる共通乗車制度をとっている。当初、一部区間を歩くことを考えており、別々に払おうかと思っていたが、湯田中まで行くことにかわりなく、草津温泉から湯田中までの通し切符を買うことにした。2日間有効で運賃は2400円。草津温泉から湯田中までの間には途中下車できるバス停が決まっていて、切符はそのバス停区間ごとにミシン目が入れられている。途中下車するときに、切符の該当区間を切り取り、料金箱に入れるようになっている。JRバス以外のバスに乗車した場合、会社間の清算をするためにも用いられるのだろう。


まず、最初に乗車したのは草軽交通の湯田中行。草津温泉の町並みを出外れるとスキー場が広がる。シーズン中には賑わうことだろう。右に左にカーブをきってバスは高度をかせいでいく。途中にある殺生河原は硫黄臭が鼻を突き、草木も生えない荒涼としたところ。有毒の硫化水素の発生地帯があって、そこは自動車駐車禁止の標識がある。

殺生河原から白根山頂まで町営ロープウェイが通じている。冬場はスキー場のための施設。当初、これに乗ってみようかと考えていたが、地図を見ると、ロープウェイの布設されている場所は谷筋を頂上に向かっており、展望はそれほどよくないのではないかと考え、そのままバスで行くことにした。草津温泉から約35分で白根火山バス停。途中下車する。

バス停そばのレストハウスから10分ほど登ると湯釜、つまり火口湖の展望台がある。山が静まっているときは、すぐ近くまで立ち入ることができたらしいが、今は 500m以内立入禁止、柵がめぐらしてある。標高は2000m、立ち寄る観光客も多い。たいていの人は自動車で訪れているようだ。次の長野電鉄バスで出発。

渋峠から横手山頂へリフトが通じ、のぞきへ下れるような周遊ルートも考えられたが、途中下車せず、そのまま熊の湯まで乗り通す。熊の湯バス停は熊の湯ホテルの前にある。熊の湯から沼めぐりのハイキング道があるので、標識に従って沼めぐりを楽しむ。道を登っていくと石ころがごろごろしたひどい道だった。しばらく登るとリフト山頂駅に出た。今まで登ってきた道はスキー場の保安用の道なのだろう。ハイキング道のスタート地点はリフト山頂駅かららしく、道もよく整備されていた。

リフト山頂駅からしばらく行くと、渋池。素晴らしく静かで綺麗な湖沼の風景を見せてくれる。ハイキング道を行き来する人もほんどない。道標もしっかり整備され、ところどころで植生などに関する案内板が立てられてる。

2kmほど歩くと四十八池という湿地帯。林間学校か修学旅行かしらないけれど、中学生の団体があたりを占拠。静寂を乱す騒々しさに今までの興が削がれてしまった。それを避けるように1kmほど進むと、小川のせせらぎがあったので、道からすこし離れて休憩。昨日入手したパンで昼食、缶飲料を流水に浸たすと、心地よく冷やすことができた。

さらに1kmほど進むと大沼、ここでも中学生の一団があたりを占拠。早々に湖畔の道を蓮池に向かう。池を過ぎ、2kmほど行くと、こんどは女高生の一団、ほどぼと歩いてる行列の後に追い付いてしまい、思うように先に進めなくなってしまった。しばらくとぼとぼあとに従うと、奥志賀林道に出て、女高生たちは停車していた観光バスに乗り込んだ。ひとり残されると、森に静寂が戻ってきた。夏休み初っ端の高原は、こんな団体で賑わうようだ。

奥志賀林道を2kmほど行くと蓮池にたどり着く。全行程約10kmあまり、3時間ほどかけて歩いた。
蓮池からふたたび長野電鉄バスに乗り、湯田中に直行する。熊の湯−蓮池間はバスに乗らなかったわけだが、運賃を比較してみると、草津温泉−熊の湯間1750円、蓮池−湯田中間 640円で、通しの運賃2400円だから、わずか10円高くなっただけ。それほどの損ではない。蓮池から30分ほどで湯田中の町並み、温泉街を抜けて長野電鉄湯田中駅前に到着。

[湯田中]外湯があるらしいので、町内を歩いてみた。確かに何ヵ所かあるにはあったが、すべて鍵がかけられていた。温泉の管理費などを支払っている家々に対して鍵を渡してあって、部外者は入れないようになっているらしい。

草津温泉でも外湯は管理費を払う人だけのものらしいが、旅行者は無料ではいれるようになっていた。無料は無理にしても、誰でも外湯につかれるようにしてほしいものだ。旅館を訪ねて、内湯につかる気にもなれず、湯田中駅に戻り、長野電鉄で長野に向かう。

[長野電鉄]湯田中駅舎は本来北側にあったらしいが、バスターミナルを整備したとき南側に新たに建てられたようだ。車両の長さと駅舎の位置との関係から電車は駅構内でスイッチバックする。

湯田中駅を出ると勾配とカーブが続く。約15分で信州中野、沿線はリンゴ畑が広がる。信州中野から須坂までは1982年10月木島から屋代まで乗ったときに乗車した区間(:2002年3月31日限りで信州中野−木島間は廃止された)。須坂には富士通の工場がある。

須坂から長野線、初乗り区間である。村山を過ぎると千曲川を渡る村山鉄橋がある。この鉄橋はトラス構造の併用橋で、北側に鉄道、南側に道路となっている。名古屋鉄道犬山橋のように軌道が道路上に敷設された併用橋ではなく、それぞれ独立している。(名鉄の犬山橋は横に道路橋が新設され、今は鉄道専用橋になっている)

朝日をすぎると信越本線をオーバークロス、長野の市街地に近付く。本郷を過ぎると地下にもぐる。長野−善光寺下間は、1981年3月に地下に移された。この区間は1978年9月に乗っているのだが、地下にもぐってから乗るのは初めて。この区間、途中にあった錦町という駅が廃止され、代わりに市役所前という駅が地下に設けられた。
湯田中−長野間33.3km、所要約1時間で、運賃は1040円。距離と運賃をJR線と比べると倍くらい高い。

[善光寺]まだ日は高い。しかし、ここから新たに「青春18きっぷ」を一枚使うのはもったいないので、善光寺へお参りに行くことにした。長野駅前から善光寺まで約3km近くある。門前の両側に建ち並ぶ古い建物を眺めながら歩く。門前町として栄えた商家の間に洋風建築が多く見られる。

この日は駅前のBHに泊まる。

[信越本線から北陸本線へ]長野6:24発直江津行で出発。天気はうっとうしく、雨が降りだしそうな空模様。北陸地方はまだ梅雨明け宣言が出されていない(この年、北陸地方の梅雨明けが宣言されたのは、8月8日の立秋頃だった)。長野方面から日本海へ海水浴に向かう人たちも見られたが、信越本線を北上するにつれ、小雨が降ったりやんだりのさえない天気であった。

この区間には二本木、関山の二駅がスイッチバック式の駅であったが、関山は、駅舎の位置を南にずらし、本線上にホームを新設したので、スイッチバック駅でなくなった(1985年10月28日新駅舎開業)。新しい駅舎は、関、燕温泉方面への玄関口として洒落た外観を見せていた。

新井付近になると直江津方面に向かう通勤客が増えてきた。春日山を過ぎると乗り換え案内があって、北陸線へは、わずか3分しかないので、跨線橋が近い先頭車両にお移り下さい、と丁寧な案内。

直江津で3分の接続で高岡行に乗車。 455系の交直両用電車、かつては急行として北陸線を走っていた車両も、北陸本線色に塗られ、普通電車として使用されている。糸魚川−直江津間は、交直切換え箇所がある関係で、ひと昔前は、特急電車以外は、客車列車がのんびり走るという時代もあった。 581・583系の普通電車化改造や急行の廃止で、客車列車が消えてしまった。富山を経て高岡10:57到着。

このあと、どう乗り継いでも、米原まで行くには、どこかで1時間ほどの待ち合わせをしなければならない。そこで、高岡で途中下車した。駅南側のダイエーで食糧の調達。

ちょうど氷見線に海水浴シーズン中、臨時列車が走るので、往復することにする。伏木付近の工場群を抜け、越中国府を過ぎると日本海が広がる。雨晴は海水浴場最寄駅、天気はうっとうしいが、泳いでいる人たちがけっこういる。氷見に近づくと雨が降ってきた。駅前に立って、7分後の折返し、雨晴まで戻ってくると雨が上がった。

高岡のひとつ手前、越中中川で途中下車。この駅にキオスクはなかったが、駅員が出て、店を出している。高校などが近いので、それなりに商売になるのだろう。この駅のそばにかつて富山大学工学部があった。大正時代に建てられた旧制高専の校舎を一部使っていたが、その跡地には高岡高校の新校舎が建設中で、かつてグランドだったところには市民会館が建っていた。
越中中川から裏通りを高岡駅までぶらぶら歩く。

高岡から乗り込んだ福井行電車は 423系で、仙台近郊を走っていたものだ。
福井から 455系の旧急行色の電車。この色の車両もまもなく見られなくなるのだろう。米原から東海道本線に乗り換え、今回の遠征も終了となる。



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