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四国・九州・山陰ひとめぐり

1988.8.12.〜8.15.

[西の旅]今年(1988年)4月10日に本四備讃線が開業、高松付近の未乗のケーブル二ヶ所の訪問も兼ねて乗りにいこうと思いながら8月まできてしまった。この時期になると「青春18きっぷ」の利用が割安なのだが、「瀬戸大橋往復割引きっぷ」という企画きっぷが発売されていたのでこれを使ってみることにした。

大阪市内からの料金は9500円で、岡山−倉敷間、宇野線、本四備讃線、高松−琴平間のフリー区間があり、新幹線の往復とフリー区間の特急・急行の自由席が乗り放題という4日間有効の切符だ。金額だけでいうと、大阪−岡山間新幹線自由席往復で 10200円かかるのだが、これだけでも7%くらい安い。

朝一番の下り新幹線に乗るつもりで午前5時半過ぎに新大阪駅に行ってみると、すでに新幹線乗り場は帰省客で混みだしていた。「下り一番6:00発の『ひかり』自由席はいっぱいです」の駅員の案内にホームを移動する親子連れでなど階段付近はホームに昇る人、下りる人でかなりの混雑。この時期に新幹線に乗るのは初めてだが、遠く九州方面へ帰省する人たちはたいへんだろうなと思える。

この下り一番は「ウエストひかり」という短い6両編成の「ひかり」なのだが、この時期混むことがわかっているのだから、長い編成をあててほしいものだ。
わずか55分なので、座れないのを承知で岡山に向かう。その日の夕刊によれば、乗車率は 200%だったそうだ。

[本四備讃線]茶屋町−宇多津間31.0kmは今年(1988年)4月10日に開業。3月13日に開業した青函トンネルとあわせ、これで日本列島がレールで結ばれたのだ。

新幹線の人込みを掻き分けるようにして下車して瀬戸大橋線ホームにかけつけると「マリンライナー5号」はまだ十分な空席があった。まずは、進行方向左手に席を取る。

茶屋町までは宇野線。分岐駅となった駅付近は高架になっている。ここで宇野線と分かれ本四備讃線にはいっていく。かつて茶屋町から下津井電鉄が鷲羽山に連なる丘陵の谷筋をくねくねと走っていたらしいが、こちらは高架、トンネル、掘割で突っ切る。児島までの途中に植松、木見、上の町の3駅がある。児島駅のあるあたりは昔は塩田だったところで、今はその駅前が瀬戸大橋博覧会会場になっている。本来の町の中心は下津井電鉄が走っているあたりだから、1kmほど南に位置する。

児島ボート付近で道路が合流してきて、鷲羽山を抜けると下津井瀬戸大橋へとかかる。つり橋の上部が自動車道で、下部のトラス内を電車が走るわれだが、トラス越しに瀬戸内海の素晴らしい眺めが展開する。

進行方向左手に座を取ると、櫃石島で緩くカーブしている関係からこれから渡る櫃石島橋、岩黒島橋の斜張橋の美しい姿が見られる。与島を過ぎると北備讃、南備讃のふたつの瀬戸大橋でそれらをほんの数分でわたり終えると四国に達する。坂出臨海工業地帯を高架から見下ろしながら進んでいくと、道路部分がまず分かれ、そして、宇多津、坂出への分岐にかかる。この付近はレールが高架で輻湊している。宇多津駅は瀬戸大橋線の開通により1kmほど西へ移転、高架駅になった。番の州の一角では瀬戸大橋博香川会場が設けられ、イベントが行われている。

よくもこんな巨大な橋を作ったものだと感心しているうちに高松に着いた。岡山−高松間宇高連絡船だと1時間40分くらいかかっていたのが、1時間で行けるようになったのだ。

[八栗ケーブル]高松駅のコインロッカーに荷物を預け、向かいの琴電高松築港駅より志度行電車に乗る。八栗、屋島のケーブル2線は1986年3月内子経由の予讃新線を乗りにきたとき乗る予定をしていたのだが、当日朝から雪に見舞われダイヤは混乱、帰れなくなってはいけないと思い残念したといういわくのあるケーブル線だ。

瓦町で進行方向を逆転させ、東へ進むと屋島が近付いてくる。屋島を過ぎ、約25分で八栗に着いた。
八栗駅からケーブル乗り場まで約2kmある。高松からバスもあるらしいが、もちろん最初から歩くつもり。道路が次第しだいに登りになってくると汗がどっと流れてくる。ケーブル駅に近付くにつれ、石材屋がたくさん軒を並べている。地図を見れば、五剣山(八栗山)に連なる女体山山麓は採石場の記号が読み取れる。

いつもの例に倣って、登りはそのまま歩く。汗はますます流れ出る。ようようのこと、駅から45分くらいで五剣山を背にした八栗寺にたどり着いた。ここは四国霊場85番札所である。
お寺にお参りして下りはケーブルカーで下りる。八栗ケーブルの開業は昭和6年、八栗登山鉄道によって開業した。戦時中の昭和19年休止に追い込まれ、そのまま昭和35年にいったん廃止された。その後、昭和39年に八栗ケーブルが復活させ、昭和45年に八栗箸蔵ケーブルと改称、さらに最近、四国ケーブルになったらしい。

この四国ケーブルという会社は、八栗ケーブルのほか、箸蔵ロープウェイ(戦前はケーブルカーだった)、雲辺寺ロープウェイを経営している。
八栗ケーブルは、距離 660m、高低差 167mを所要時間4分で結ぶ。運賃は往復 700円、上り 500円、下り 350円だ。上り下りで運賃に差があるケーブルははじめて。

[屋島登山鉄道]八栗ケーブルから来た道を引き返し屋島に向かう。琴電八栗と屋島のなかほどにJR屋島駅がある。以前下車したことがあるのだが、真新しい駅舎に建て替えられていた。駅員は配置されてないが職員が駅売店の売り子を兼ねて切符も売っている。

琴電屋島駅はJR駅から1kmほど離れている。駅舎は洋風意匠の残る古い建物。志度線の前身東讃電気軌道は四国水力電気と合併しているがその時代の建物らしい。
屋島登山鉄道はそこから 300mほど坂を登ったところから出ている。開業は昭和4年で、戦時中の昭和19年から24年まで休止していた。

屋島山上まではケーブルのほかドライブウェイが通じている。屋島は溶岩台地で、かなり急な登り、山頂は比較的平坦で、そこには第84番札所の屋島寺がある。1978年3月に四国をまわったときも屋島寺まで登っているが、このときは往復とも徒歩だった。

汗をどっと流し山頂にたどり着くと、ここは眺めのいいところで、西側は高松市街が、東側はさきほど登った八栗寺や女体山の山並みが見渡せる。平坦な山頂には屋島寺のほか旅館、ホテル、土産物屋が並ぶ。かわらけ投げをするところもあった。
山頂をかるく一巡し、屋島登山鉄道に乗る。山上の駅舎には洋風意匠が施され、開業当時からのものだろう。登山口駅まで5分で下りる。
そのあと、琴電屋島駅を通り越してJR屋島駅まで歩く。

屋島駅から高松に向かう。屋島の次は木太町という駅。昔からあった駅ではなさそうで、時刻表を見ると高松−志度間には、昭和町、栗林公園北口、木太町、古高松南、讃岐牟礼の各駅が設けられている。昔は、栗林、屋島、八栗口だけしかなかったから、3倍に増えたわけで、これは琴電に対抗したものだろう。

[琴平へ]高松に着く前に乗り換えの車内放送をやったようだが、全く聞き取れず、このあと特に先を急ぐ必要もなかったので、乗り換えに関して気に留めないでいたところ、同じホーム反対側に停車していた琴平行が2分の接続で発車してしまった。

高松駅は頭端式ホームなので、改札口よりホームの頭上に行先案内が掲げられているのだが、横の乗り換えはしっかりやってもらわないと、乗り過ごしてしまう。車内放送の音量もはっきりしていれば聞き逃さなかったかもしれないが、最初からすぐの乗り換えを想定していなかったことも問題かもしれない。

仕方なく土讃線にはいる急行「土佐3号」まで待ってもよかったが、その前にあった「マリンライナー20号」で坂出まで先行することにする。隣のホームにはすぐあとに出る臨時「マリンライナー90号」が停車している。車両は 117系で「本ミハ」の所属であるところをみると大阪から出稼ぎにきているらしい。

坂出は瀬戸大橋博香川会場最寄駅で、駅前から会場までバスが連絡している。駅から宇多津方向に5分ほど歩いたところに坂出市公民館(鎌田共済会社会教育会館 昭2)、鎌田共済会郷土博物館(大13)、坂出市立図書館(昭14)が並んでいる。地元のカマタ醤油と関係深い建物のようで、電車からでも見ることができる。

坂出から次に「いしづち11号」に乗車した。もともと予讃線の特急は「しおかぜ」を名乗っていたが、瀬戸大橋線の開業で、岡山発着が「しおかぜ」、高松発着が「いしづち」と特急が2本立てになっている。同様に土讃線も岡山発着の「南風」に対して「しまんと」が高松発着ということになっている。

混んでいるのは承知、多度津までの10分たらずだから立ってもどってことなかったが、そばに座っている子供連れが子供分の席をあけてくれたので、ありがたく掛けさせていただく。多客時には子供をひとりで座らせないで、などと案内する車掌もいるが、席をあけてくれないのがふつうで、めずらしいことだ。

多度津付近にさしかかると激しい雷雨に見舞われた。多度津駅ホームの上屋は短く、上屋めがけてホームをかける。
次に「土佐3号」に乗り継ぐ。こちらも混んでいたが琴平まで10分ほどだから気にならない。雨があがるかどうかのほうが気掛かり。

[琴平]琴平駅は大正11年に建てられた建物で、背の高い寄せ棟、正面に三角切り妻、半円形窓と感じのよい駅舎だ。金比羅宮の最寄駅の雰囲気が漂っている。 17:27発岡山行「南風」に乗ることにして、金比羅さんへお参りすることにした。1978年3月に来て以来。激しい雷雨は峠を越したものの、小雨が残っていたが歩きだす。傘をロッカーにいれず持ってきたのが正解だった。

JR琴平駅を真っすぐ進むと右手に琴電琴平駅がある。1986年3月に琴電を乗りにきたときは乗り継ぐ電車の都合で駅舎の姿を見る間もなくJR琴平駅に向かったのだが、当時の駅舎は洋風の洒落た建物だったらしい。今年(1988年)の5月下旬に新しい駅舎に建て替えられてしまった。

土産物屋や旅館、食堂などが並ぶ通りを抜けて石段にかかる。本殿のあるところまで約七百数十段、さらに奥社までいけば約千三百段あるという。きょうはケーブル2線の乗り歩きで標高 300m近い山をふたつこなしてきたが、まだまだ足は衰えていない。本殿に詣で、さらに奥社に向かいかけたが途中で時間切れで駅に戻ることにした。

[岡山]やってきた「南風」はちょうど座席がすべてうまっているという感じで空席がなかったが、丸亀でうまい具合に進行方向左窓側の席につくことができた。

宇多津を発車すると高架を大橋へと進んでいく。しばらくすると坂出方面からの高架と合流、宇多津を経由したことによって、ほんとに本四備讃線に乗り終えたわけだ。

夕方の瀬戸大橋線の雰囲気を味わう。琴平から約1時間で岡山。岡山からの乗り換え案内では、新幹線は駅の案内でお確かめ下さい、といっていた。乱れているらしい。
岡山で夕食を取る。夕刊を見て、新幹線の乱れは豪雨と地震のせいだとわかる。岡山19:00発「南風」が15分ほど遅れて発車していった。

時刻表では19:14発(この日は新幹線の乱れで10分ほど遅れた)の臨時電車は児島行とあるのに、駅の案内などでは高松行となっている。時刻表が間違っているのか、駅の案内が間違っているのか、急ぐ必要もないので、そのあとの明確な「マリンライナー」で高松に向かう。夜の瀬戸大橋は、さほどおもしろいものではなかった。

[窪川・松山・宇和島行]高松に戻ってコインロッカーから荷物を取り出したあと、高松発0:10発の夜行列車の列に並ぶ。「瀬戸大橋往復割引きっぷ」はひとまず置いておいて、これから「青春18きっぷ」を使って旅行を始める。

夜行列車の発車まで、まだ3時間半もあるとあって各列は数人。まだ時刻が早いせいもあったが、夜行列車の案内がなされないまま列に並んでいると、発車1時間くらい前になって、7両編成の列車は、前2両が宇和島市行、次の2両が松山止まり、あとの3両が窪川行ということがわかった。それで、並んだところは松山止まりの車両だった。

この夜行列車、かつては窪川行だったので、今回もそのつもりであとの計画を立てていた。窪川から予土線を経由して宇和島に抜け、八幡浜から九州に渡ることを考えていた。いまさら並び替わるわけにもいかず、それよりも、八幡浜に早く着ける分、もっと早い時刻のフェリーに乗れるのではないかと、時刻表を調べた。その結果、松山でひと列車遅らせても、同じフェリーになることがわかり、いま並んでいる車両でとりあえず松山まで行くことにした。この車両は松山止まりのせいか、1ボックス2人くらいで、ほかの車両よりすいていたかも知れない。

定刻に高松を発車。日付が変わってからの発車なので「青春18きっぷ」を有効に使える。多度津で分割されたのも知らないまま、いつしか眠りこけ気がついたのは松山手前の案内放送であった。とはいえ、まだ、夜明け前の暗い午前4時前で、寝た感じがしない。
松山に停車し、松山止まりの車両から宇和島行へ乗り移る人で立つ人もおり、次の列車をおとなしく待つことにした。乗れるフェリーは同じなのだから、急ぐ必要はない。

[松山]いったん改札を抜けて待合室に行く。次の列車は6:00発で2時間の待ち合わせ。待合室にいる何人かは椅子などに横になっていて、それに倣って横になってみたが、どうも眠れるものでなかった。

外が白みだした午前5時頃、駅前通りを城址のほうへ歩いてみる。松山の市電を全線乗ったことがあるとはいえ、城址付近を歩くのは初めて。運動公園のあたりは、お盆時期の夏祭りとみえ、露店が並んでいた。といってもシートがかけられた状態で、早朝のこんな時刻にには誰もいない。昼間から夜にかけて賑わうのだろう。
とりたてて面白い発見もなく駅に戻り、6:00発八幡浜行に乗車。

[八幡浜から臼杵へ]列車が発車するなり、寝不足から居眠り。この列車は内子線経由であったが、あらかた寝ていた感じて八幡浜に着いた。

八幡浜付近は急峻な山に囲まれたところで、斜面にはミカン畑が広がっている。駅から港まで徒歩で20分あまり。山が迫っているせいもあり広い市街地には見えないが港に向かう道路沿いには数階建てのデパート風の大型店舗やビルがあり、そこそこ大きな町であることがわかる。

臼杵行フェリーは9:20発、1時間ほど待ち時間があったので、ターミナルビル内の食堂で朝食を取る。
臼杵行フェリーは1000tくらいの大きさ、所要は2時間40分かかる。さほど混んでなくて、車は8割くらいか。大部屋で楽々横になれるほどがら空きであったが、窓の外ばかり眺めていた。

フェリーの北側、九州のほうに伸びているのは佐田岬半島。港を出るといくつかの島の南側をかすめて西へ、西へ。軽快に進んでいく。1時間あまりで半島の先端を過ぎ、豊後水道にかかると少し揺れが大きくなった気がしたが、たいしたことではなく、次第に九州が近付いてくる。

臼杵港に着岸したのが正午で、扉が開くのに手間取って(と思えた)下船したのが、12:05頃、臼杵発大分行の列車の時刻は12:16なので駅まで走った走った。なかにはタクシーに大急ぎで乗り込む人もいたが、『時刻表』の乗場案内によれば駅まで徒歩10分とあるのでそれほどの距離ではない。しかし、これに乗り遅れると次の列車まで1時間半ほども待たねばならないので、それを避けるため大汗かいて駅に向かったのだ。

[門司港へ]急いだかいあり、どうにかこうにか予定の列車に間に合った。「青春18きっぷ」を持っているので切符を買う手間がいらず助かる。

臼杵から幸崎にかけては佐田岬以東から続く構造線の延長に位置し、山はかなり険しい感じ。

13:09大分到着。すぐに接続する列車に乗り継いでも中途半端なところまでしか行けないので、いったん改札を抜けて、次の門司港行までの1時間を利用して少し遅めの昼食を取る。
大分を出ると別府湾に沿う海岸べりを走る。国東半島の付け根を横切り、門司港をめざす。普通列車だから特急に追い抜かれたりしながら約3時間かかる。

しかし、普通列車に乗っていると、違った発見もある。新しい駅が増えていることだ。西小倉駅は日豊本線だけの駅(鹿児島本線もすぐそばを走っている)だったのが、鹿児島本線側にもホームが設けられ、乗り換え駅になったこととか、門司−門司港間に新しい駅が設けられたことなど。これらはJRになってからのこののようだ。

[関門海峡]門司港駅前から向かいの下関・唐戸へ渡る連絡船が出ている。関門橋も近いところで、この連絡船で本州に渡ることにした。所要はわずか5分。貨物船など往来の盛んな関門海峡を実感、関門橋を眺めながら潮風を受けるのもいいものだ。

下関駅前で泊まる。その日は海峡花火大会があって、せっかくだからと、夕食後、人でごった返すなか、花火見物と洒落こんだ。下関側、門司側双方からドンパンドンパンと夜空に花火の競演を見せてくれる。

[出雲へ]下関から山陰本線を上って行くことにする。今年(1988年)のお盆は、日本近海に熱帯低気圧がうろうろして天気がいまひとつ。小雨が降ったのか、路面が濡れており曇り空。

まずは長門市行のディーゼルカーからスタート。海が見えてきても、すっきりしない天気ではいまひとつさえない車窓風景だ。

長門市駅に夏期臨時快速「ブルーライナー」が停車している。2両編成の洋風豪華ディーゼルカーという触れ込みの車両で、長門市−津和野間を往復している。団体貸切りとかに使用するため造ったジョイフルトレインのひとつ、「フェスタ」という愛称をもつこの車両、車両前面の口が動くという。はたしてグリーン料金を払ってまで乗るというひとが、どのくらいいるのだろう。

長門市−仙崎1駅間はディーゼルカー1両編成によるワンマン運転が行われているようだ。JRでワンマン運転はまだ珍しい。
次は益田行。1両編成。まるで北海道のローカル線のようだ。しかし、この時期、1両では立つ人が多くでるのは確か。東萩駅までかなり混んだ。

益田駅の手前で「連理の松」という珍しい松が見える。幹の途中から伸びる枝で二本の松が繋がっている松なのだが、今は幹だけが残されているだけのようで、H字型の木は痛々しく見える。
益田ではお昼どきになったので、次の列車までの間にスーパーへ買い出しに行く。

益田からは出雲市行快速。2両編成。キハ28・58の組合せにすれば冷房が使えるはずだが、乗った編成はキハ47・58の組合せで、冷房装置の付いてるキハ58も使えない状態。組合せを考えてほしいものだ。

下関を出て約8時間半(うち乗継ぎ待合わせは約2時間)、久しぶりに山陰本線の海岸風景を堪能する。
出雲市からそのまま乗継いでもよかったのが、せっかくだから大社へ行ってみることにした。

[出雲大社]出雲大社に詣でるのはこれで4回目。出雲市から大社線に乗り換えて大社に向かう。大社線は第三次特定地方交通線に指定されている。第三セクターで存続されるかどうかよくわからないが、かりに廃止されることになったとしても大社駅は有効利用してもらいたいものだ。出雲大社最寄駅として立派な建物である。(:大社線は、1990年3月31日限りで廃止された。)

大社駅から出雲大社まで約2kmほど離れている。また雨が降りだした。
早々に詣でて駅に戻る。「青春18きっぷ」を利用しているので、別に乗車券を買う必要がないが、せっかくだから出雲市までの乗車券を購入して売り上げに協力する。

[米子へ]出雲市駅前でも泊まるところはあるが、30分待って米子行に乗継ぐ。少しでも前に進むことにする。

夕暮どきの宍道湖や中海はなかなか趣がある。もっと天気がよければ夕焼けが映えたにちがいない。
松江に前回来たのは1986年6月だが、そのときより駅前にホテルがたくさん並んだように思える。

米子19:38到着。米子駅構内も食堂などいろいろ並び、だいぶ変わったような感じ。1982年8月にはこの駅の待合室で寝たことがある。

[鳥取へ]今回ほど初めに考えていた予定を大幅に変更し続けている旅行も珍しい。

当初は伯備線で岡山に向かうつもりでいたが、時間があるので、鳥取から因美線を経由することにした。津山から姫新線で新見をまわって岡山に出ることも調べてみたが、接続がよくなかく、津山線で岡山に出ることにした。

米子7:10発城崎行に乗る。この先の山陰本線は出雲市以西ほど海が見えない。これといった発見もなく、9:20に鳥取に到着。

[鳥取温泉]鳥取駅の東側一帯は鳥取温泉という温泉街。県庁所在地駅の駅前に温泉街があるというのは珍しい。

駅の近くに「日乃丸温泉」という温泉浴場があるのでつかりに行く。町の銭湯といった感じだが、湯は44℃、含食塩芒硝泉という温泉なのだ。料金は 210円。
30分ほど温泉につかり、そのあと駅前のダイエーに買い出しに出かける。

[岡山へ]因美線に乗るのは1981年3月以来。そのときは鳥取から京都行夜行「山陰」に乗る予定で岡山を夕方出たので、因美線内はとっぷり日が暮れてしまっていた。その後、1982年8月には、若桜線を往復しているが、郡家−東津山間を昼間に乗るのは初めてである。

因美線はまだタブレット交換をやっている。郡家を過ぎると山深くなる感じで、斜面に植えてある果樹は20世紀梨だろうか。智頭を出てしばらくすると東のほうへカーブしてトンネルに続く築堤が見られる。これが将来智頭急行線として日の目をみることになった。(:1994年12月3日智頭急行上郡−智頭間開業)

登り勾配が続くのかエンジンは唸りっぱなし。那岐を過ぎると長いトンネルに入る。これが因幡と美作を分けるトンネルで、ローカル線にしてはかなり長いトンネルだ。トンネルを出ると下り勾配になり、駅名の頭に付く旧国名も因幡から美作に変わる。

東津山で姫新線に合流、そして津山。ここで20分ほど停車する。津山へは昨夏(1987年)来ているが、ゆっくり歩いてみたい城下町である。津山から津山線を下って岡山15:36到着。鳥取を出て、4時間20分ほどかかっている。

[吉備線]岡山に着くと同じホーム反対側に2分の待ち合わせで備中高松行が停まっていたので乗ることにする。新幹線ホームを見上げるとたくさんの人が列車待ちしているのが見える。

吉備線も本数が増えたと見え、総社行は1時間おきで、その間に備中高松行がある。

備中高松駅北側には大きな鳥居がある。ここは最上稲荷の最寄駅なのだ。また、水攻めで有名な高松城址は駅から歩いて10分くらいのところにある。次の総社行を待つ間に行ってみることにした。
高松城址といってもあたりは水田で、城のあったあたりが一部公園になっているだけで、古城の趣は全くない。水攻めをしたときの土塁の一部は線路沿いに残っているのが列車から見られる。

[帰路]備中高松から総社に向かい、伯備線に乗り換えて倉敷へ。ここからふたたび「瀬戸大橋往復きっぷ」の出番だ。岡山まで戻り、新幹線ホームへ。岡山から新大阪まで約1時間。立ったところでしれているが、岡山始発の「ひかり」があるので、それに乗ることにする。発車まで40分ほどの待時間があったが、15分ほどするとその「ひかり」がホームに入線してきたので、長く待ったという気もせず楽々大阪に戻ることができた。在来線だと3時間ほどかかるのだから、新幹線は速い。


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