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庄内・山形近代建築めぐり

1989.11.3.〜11.5.

[北に向かって]今年(1989年)のゴールデンウィーク、北海道からの帰り、酒田で宿を取ろうとしたところ、どこもかしこもいっぱいで、しかも夕食も取れないまま、缶ビールを抱えて上野行夜行に揺られるはめになってから、今年中に必ず庄内地方を訪れてやろうと思っていた。

当初、「鶴岡・酒田ミニ周遊券」(15,660円)を考えていたが、東京→(上越、信越、羽越、陸羽西、奥羽、東北)→大宮、大宮→東京の連続切符にしたほうが大幅に安くなり、奥羽本線から仙山線を経由してもまだ安く、常磐線経由にすると東京→東京という一枚切符になる。ところが、こうすると、旅行の記念となる切符が手元に残らないので、仙台を経由する連続切符を購入することにした。運賃を計算すると11,960円だった。

[東京駅]東京駅地下出札口午前5時半。ここには「みどりの窓口」とそうでない遠距離切符などの窓口あったのだが、まだ列ができてないのを幸いに「みどりの窓口」でないほうの窓口に、乗車経路をメモした紙切れを渡して切符を作ってもらうことにした。

複雑な切符を頼むのに、指定券を買いに来た人に悪いと思い、「みどりの窓口」でないほうの窓口に並んだのだが、これがいけなかったらしい。「みどりの窓口」に設置されている端末は高級で、ボードの操作により、経由地を入力することで自動的に運賃が計算されるのだが、そうでない窓口にある機械は旧式で、登録されてない駅、経路以外の運賃は、手書き、手計算になるそうなのだ。

もちろん、これから旅行しようという経路のきっぷは手で計算するほかなく、窓口氏はメモを見るなり二十分くらいかかるよといった。
すでに「みどりの窓口」のほうには数人の列が伸び、今さら並び替わる気にもなれず、いいからやって下さい、というほかない。こちらの列にも人が並び、電車の発車時刻にすこし焦るし、列の後から文句のひとつでも飛んでくるのでないかと、なにかと気をもみながら、けっきょく、十五分ほどで切符ができた。

窓口氏の計算では、合計金額は12,270円で、当方の計算より 310円高いぞ、と思ったけれど、ここで、さらに時間をかけるのは気が引けるので、そのまま支払い、改札口へと駆け出した。(この旅行で、羽前千歳−山形間を無賃で往復したので、この分ということにしておこう)

[新潟へ]想定していた時刻より数分早い電車に乗ることができて、東京駅から上野に移動。新幹線乗り換え口のところで、高崎までの自由席特急券(2160円)を買って地下新幹線ホームへ急いで下る。新潟行「あさひ」一番電車、発車10分ほど前で自由席への列は20人ほど。これなら充分座ることができ、少しほっとする。発車数分前にドアがあき車内へ。45分ほどしか乗らないこともあり、3列シートの通路側、出入口にやや近いあたりに腰を落ち着けた。

上野6:16に発車。地下から地上に出て高架へ。まだ十分に明けきってない朝のもやもやした空気の中を突っ走るうちにすっきり晴れ渡り、白く雪をかぶった富士山がくっきり見えていた。
大宮から上越新幹線に分かれて高崎7:03到着。9分の待ち合わせで長岡行に接続。トンネルばかりの新幹線よりも沿線の紅葉でも見られるのでは、という思いから在来線に乗り換えた。上越線を鈍行で下るのは初めて。

この電車には谷川岳などの山々に向かうらしい登山装備をした人たちが多い。また、めずらしい列車でも走るのか、銀箱をさげた鉄道ファンも多く、彼らは渋川−水上間でおもいおもいに下車していった。
渋川を過ぎ次第しだいに山間にはいって行く。紅葉はすでに鮮明な発色を終えてしまった色合いだったけれど、秋を旅する雰囲気が沿線にあふれていた。

新清水トンネル内に駅がある土合で登山装備した人たちはどっと下車する。
清水トンネルを抜けると新潟県。越後湯沢付近はリゾートマンションなどがたくさんできている。
長岡で3分の待ち合わせで新潟行に接続。もうとっくに稲刈りの終わった新潟平野を各駅に停まりながら走り、11:23新潟に到着した。

[新潟]新潟に来るのは1985年5月以来。

万代橋を渡って、まず新潟県議会旧議事堂に向かう。明治16年に建てられた木造の建物で国指定重文になっている。残念ながら祝日のため、休館で内部は見学できなかった。

その隣に白山神社があって七五三詣での子供を伴った家族連れが多い。北側には新潟交通の白山前駅がある。建物は昭和初期に建てられたスクラッチタイル貼りの渋い外観をしている。かつては近くに戦前に建てられた県庁舎があって、駅名も「県庁前」といっていたが、県庁舎を建て替え移転したので、「白山前」に改称された。県庁の跡地には新潟市役所の新館が建っている。

新潟交通の東関屋−白山前間は道路との併用区間であるが、最近、廃止が決定されたと鉄道雑誌に出ていた。燕−白根間もその方向で話が進んでいるらしい。(注:1992年3月19日限りで白山前−東関屋間が、1993年7月31日限りで月潟−燕間が、そして1999年4月4日限りで東関屋−月潟間廃止され、鉄道線は消滅した。)

東中通りを北東に向かっていくと、西側の高台に洋風建築が見えたのでそれを確認に行くと新津邸(昭13)だった。
西側には新潟大医学部や附属病院が広がっている。そのまま北北東に進むと新潟カトリック教会(昭2)があった。

そのあと、万代橋のほうに戻り、新潟証券取引所に立ち寄ったが、すでに建て替わっていた。本荘証券(昭10)、第四銀行住吉支店(昭2)は残っていた。

[大失敗]ここでフィルムのカウンターが最後を示したので取り出そうと巻き戻したところ、ノブをまわす感触がいつもと違う。すぐに巻き終わって軽くなった。てっきりフィルムが途中で切れたに違いないと思い込んでしまいカメラ屋に飛び込み、暗箱で取り出してもらうことにした。ところが、取り出してもらうと、すでに巻き取られている、という。妙だなと思ったものの、45分で現像ができるというので、そのままプリントに出すことにした。

フィルムを入れ替えて、町並みの写真などを撮るうちに悟った。フィルムの装填ミスだったにちがいないことを。フィルムの装着ミスのため巻き上げレバーを操作してもフィルムは進んでなかったのだ。たぶん、現像しても何も写ってないだろうと思えた。このままフィルムを現像に出したままずらかろうかと思ったけれど、万一、写っていたらと思うとしゃくなので、時間が来たら先ほどのカメラ屋にとって返し、フィルムを受け取りに行った。

気づいた通り、何も写っておらず、けっきょく、現像料 567円だけ取られた。まあ、お騒がせ料というところか。
今まで数々フィルムを装填してきたが、初めての失敗である。新たに装填したフィルムに関しては、巻き上げレバーを操作するたびにノブが動くのを確認、正確にフィルムが装填されていることを確認した。

結果として、この失敗が早めにわかってよかったというほかない。さきほど、撮ったつもりになっていた建物に再度カメラを向けることができた。
この日は、駅前のBHに泊まる。4850円という料金の割に湯ぶねもひとまわり大きく、冷蔵庫などの設備付きで、なかなかよいところだった。

[いなほ1号]翌朝、新潟から羽越本線を北上する普通列車でいい時間帯の列車がないので「いなほ1号」を利用する。飛び石連休ということで混むといけないと思い早めに駅に行ったが、自由席はガラガラだった。このあたりはオフシーズンなのかもしれない。

村上を過ぎると山が海岸べりまで迫ってきて笹川流れの景勝地を通過、約二時間で鶴岡に到着。

[鶴岡]鶴岡に下車するのは1979年7月以来。当時は、洋風建築に目が向いていなかったせいもあるが、駅前からバスで羽黒山に直行したので市内を歩くのは初めてだ。この街には明治時代からの洋風建築がいくつか残されている。

駅前を南に真っすぐ行くと木村屋がある。東京にある木村屋の支店で、建物は昭和初期のはずだが、店舗部分など手が加えられよくわからない。
柳の植わった川べりに下見板張りの二階建ての住宅が残っている。マリア教会の尖塔が目立つ。市役所は建て替えられていた。

城跡には大宝館(旧市立図書館 大4)がある。郷土の名士の紹介がなされており無料の施設。

そのそばに致道博物館があって、ここに近代建築としては、旧西田川郡役所(明14 重文)、旧鶴岡警察署(明17 重文)が移築されている。ほかに多層民家(重文)も移築されており、酒井家書院庭園(名勝)が園内にある。本館では芭蕉展をやっており、全体としてなかなか見応えのある博物館であった。


[酒田]鶴岡から次は酒田に向かう。切符の経路では、余目から陸羽西線に進むことになっているので、余目−酒田間は別払いとなる。酒田13:50到着。

酒田では土門拳記念館に行ってみたかった。土門は日本を代表する写真家で、写真家の記念館として初めて設けられた施設。所在は最上川の南側、駅から5kmほど離れた飯盛山というちっぽけな山の麓にあるらしい。ガイドブックにはタクシーがよい、とあったが、駅前のバス乗り場には土門拳記念館行の案内がなされており、バスがあることがわかる。一日数往復とバスの本数は少なかったが、うまい具合に15分ほどで次のバスがあった。

市街地をぐるっとまわったあと最上川を渡り記念館に向かう。所要時間は約15分。 270円。記念館は83年に設けられた。建物の設計は谷口吉生で、1987年に芸術院賞を受けている。館内は大きく引き伸ばされた写真が展示されており、寺院、仏像をテーマにした「古寺巡礼」シリーズ、企画展示としてドキュメンタリーな作品群「昭和の証言」「ヒロシマ」が展示されていた。ドキュメンタリーな作品は臨場感があり、感動的である。
ゆっくりしたいのはやまやまなのだが、酒田市内の物件も見ておきたかったので、記念館を出て歩くことにする。

幅の広い最上川は渡りごたえがあった。市街地のはずれにあるのが山居倉庫(明26)。米倉庫が十棟並んでいる。市街地を適当に歩きまわって日和山公園に登る。ここには、酒田港にあった白灯台(明28)、旧白坂医院(大8)が移築され保存されている。このあと光丘文庫(大14)にまわりたかったが、日が暮れてしまい明朝にまわす。

この日は酒田のBHに泊まる。新潟がよすぎたのか、ここがひどすぎるのか、値段にあってないな、と思いながら早寝する。

[陸羽西線]昨日見残した光丘文庫に立ち寄ったあと、酒田8:04発山形行快速「もがみがわ」で出発。

快速といっても新庄までは各駅停車。この路線に乗るのは1979年7月以来二度目。最上川沿いに走る山々の色付きは、少し盛りをすぎたかなという感じながら秋の風情が残っていた。新庄から奥羽本線にはいって快速になり、山形には10:43到着。

[山形]まず、山形駅から南のほうにある市立第六小学校(昭16)を見に行く。そのあと目抜き通りを北に向かう。商店街のなかほど、引っ込んだところに吉池小児科医院(大元)があった。

北に突き当たったところに旧県庁舎がある。大正5年に建てられた重厚な官庁建築で重文に指定されている。残念ながら改修工事中で、建物全体が工事幕に覆われ、建物自体見ることができなかった。

そこから東に向かうと、これも重文に指定されている山形県立博物館教育資料館(旧山形師範学校本館 明34)がある。日曜日休館で正面の門は閉まっていたが、隣接の山形北高校のほうからはいることができ、全景を眺めることができた。また、高校の構内には旧附属小学校講堂(明19)が残っていた。

ふたたび旧県庁舎の前を通って西に向かうと、市立第七小学校(昭16)がある。インターナショナルといわれる外観をしている。
その南側は山形城址・霞城公園で、園内に重文に指定されている済生館本館(明11)が移築され、郷土館として利用されている。ここも屋根の補修工事とかで、シートがかけられていた。資料館は開いてたので覗いてみる。もともと病院として建てられた建物で、丸く配された小部屋には、医療関係の資料などが展示されていた。

公園を出て東に向かえば矢吹病院(昭8)、その南側に第一小学校(昭2)が向かい合って建っている。

[仙山線]山形駅に戻り仙山線の電車で仙台に向かう。ほんとは、この切符では羽前千歳−山形間は別途乗車になるのだが、出札口の駅員がこの区間のキロ数を計上したため運賃の刻みがあがったらしく、このまま乗ってしまう。

この線に乗るのは昨年(1988年)7月以来。ちょうど紅葉シーズン(少し遅めだが)なので、沿線の名所・山寺、面白山、奥新川といった仙台から手ごろなハイキングコースとなる駅々から家路につく人たちがたくさん乗ってきた。愛子あたりまで仙台のベッドタウンとして住宅地が開発されている。仙台到着15:24。

[仙台]もともと仙台は街歩きの予定にいれてなかったので手元に資料はなかったが、日が暮れるまで一時間ほどあるので、少し歩いてみる。仙台の市街地はほとんど歩いたことがない。

青葉通りの一本南側の通りに農林中央金庫仙台支所(昭11)が残っていた。あたりはほとんど新しいビルばかりで石張りの建物はめずらしい。

そのあと東北大学構内にはいる。ここには昭和初期、大正期の建物がたくさん残っているようだった。仙台をいちどゆっくり歩いてみたいと思いながら、日暮れが迫ってきたので駅に戻る。

[帰路]帰りは東北新幹線、仙台始発の「やまびこ」に乗ることにして、自由席に座るため30分くらい前にホームに上ると、すでに電車を待つ人の列はずらっと伸びていたが、席にはありつけた。やはり飛び石連休最終日でなかなかの混みようだった。

すでに外は暗く、車窓風景も楽しめない。電車が動きだすと約二時間で上野、早いものだ。




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