このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



東北近代建築めぐり

1990.11.9.〜11.12.

[北に向かって]きょうは上野発青森行急行「八甲田」で出発する。かつて、東北新幹線が開業する前、東北ワイド周遊券を使っての旅行では、この列車を宿替わりに東北本線を上り、下りしたものだった。当時のダイヤは、周遊区間南限の郡山から夜乗れば、翌朝青森に着き、青森から夜乗れば、翌朝仙台あたりを走っていた。一泊の宿代が浮き、一日の行動開始にもってこいの列車だったのだ。その頃がなつかしい。

さて、どの程度の込み方をするのか見当が付かないので、上野駅には発車の約二時間前にやってきた。二時間前にホームに立つと、まだ誰も並んでないに等しかった。隣のホームから発車する「能登」は座席がほぼ埋まった感じ。もともと座席車が少ないせいもある。札幌行「エルム」が発車したあと、21:30頃「八甲田」がホームに入線。乗客は座席に一人程度。こんにな早く来る必要もなかったようだ。定刻21:45発車。

上野を発車して、車内検札が終わったあと、寝にはいる。宇都宮を過ぎたあたりから意識がなく、気が付くと福島だった。仙台を気付かぬまま通り過ぎ、もう盛岡に近かった。徐々に明るくなってくる。曇り空だが、まだ雨は降っていない。盛岡から八戸に抜ける途中の十三峠付近は紅葉の盛り、天気がよければもっと見栄えがよかったにちがいない。八戸を過ぎたあたりで再び居眠りを始め、気がつくと野辺地だった。定刻9:06青森到着。

[青森]乗り継ぐ新潟行「いなほ」を待つ間、青森駅西口を出て、青森市立森林博物館の建物を見にいく。明治41年に建てられたルネサンス様式の木造二階建の建物で、もとは営林署だった。

青函連絡船がトンネルの開通で廃止になり二年半。かつての桟橋付近が再開発され、新しい道路が作られたり、駅の東西を結ぶ連絡橋が建設中であったりする。連絡船の「八甲田丸」が桟橋に保存されることになり、その整備工事も行なわれている。

[弘前]青森から「いなほ」で30分、弘前に到着。天気は小雨まじりのうっとうしい空模様。駅から弘前城址に向かって歩く。『近代建築ガイドブック』から予め近代建築の所在を確認しておいたので、それに基づき順々にまわる。

弘前城址の東側にある翠明荘(昭9)という旅館がある。玄関まわりは和風であるが、洋館部分はライト風。その東には弘前カトリック教会(明43)が、南のほうには、日本キリスト教団弘前教会(明40)もある。青森銀行津軽支店は、明治16年に建てられた「角三」宮本呉服店がもとになったいる。当時は擬洋風の建物だったらしい。

弘前城址の南側に新しい文化施設などが建てられているが、その一角に、東奥義塾外人教師館(明34)、日露戦捷記念弘前市立図書館(明39)が、かつての姿に復元整備され公開されている。その隣にある市役所の裏手に市長公舎(大6 旧第八師団長官舎)がある。さらに西に行くと、みちのく銀行クラブ(大10 藤田邸)もある。このあたり公園として整備されつつあるようだ。

昼食を取ったあと、弘南鉄道弘前中央駅から電車に乗って西弘前駅に向かう。この駅のそばには弘前学院があり、校内に重文に指定されている外人宣教師館(明39)がある。勝手に校内にはいって建物を見たあと、適当に歩いて行くと弘前大学にたどりついた。大学の建物はすべて新しいようであった。そこから弘前女子厚生学院に向かう。このあたりにいくつか木造の洋館が残っていた。この学校は女子校だが、門番がいないのを幸いに校内にはいり記念館を見る。旧第八師団弘前偕行社(明40)の建物。

当初の予定では、このあと弘前駅から弘南鉄道で黒石方面の建物を見てまわるつもりだったが、天気もすっきりしないので、このまま盛岡に向かうことを考えた。弘前−盛岡間には東北自動車道経由の特急バス「エーデル」が一時間に一本程の割りで走っていて大変便利。今回、あえて「東北ワイド周遊券」にしたのもこれらのJRバスに自由に乗り降りできるからである。窓口で他社のバスにも共通乗車できることを確認して、岩手県交通のバスで盛岡に向かう。JR東北バスの便はもう一時間あとだったので、共通乗車できることはありがたい。

当初、弘前に泊まることを考えていたが、この日のうちに盛岡に抜けて正解であった。山越えの東北自動車道を走るうちに、小雨が雪に変わった。翌日朝のニュースによれば、東北道は雪で通行止めになっていた。

[盛岡]翌朝、起きてびっくり、雪が積もっていた。道路の雪は融けてなかったが、停まっていた自動車などに数cmの積雪。天気予報では昨夜の積雪を8cmと報じている。

市内の近代建築めぐり。まず、旧宣教師館(大9)を見る。市が管理する建物で、保存指定されている旨の案内がしてあった。その通りを東に向かうと橋のそばに木造二階建、下見板張り、白ペンキ塗りの洋館が建っていた。医院のようだ。橋を渡ってしばらく行ったところに遠山准看護学院が残っていた。明治19年頃建てられたという古い建物。もとは県令石井省一郎の私邸で、市指定の文化財になっている。

北東に向かう通りにはいくつか建物が残っている。富士屋印刷所(大12)、岩手リースデータサービス(旧第九十銀行 明43)、辰野金吾の設計になる岩手銀行(旧盛岡銀行本店 明44)、盛岡信用金庫本店(旧盛岡貯蓄銀行 昭2)、紺屋町番屋(大2)といった建物。みな市の保存対象となっている。

番屋の通りをこんどは西に折れ、ふたたび川を渡ると岩手県公会堂(昭2)がある。盛岡地方裁判所はすでに建て替えられていたが、前庭には「石割り桜」という天然記念物がある。大きな岩の割れ目に生えた桜の古木。

この近くには岩手医科大学一号館(昭元)、佐藤写真館(昭3)がある。
市街地に残る主な近代建築を見て盛岡駅に戻るとまだ9時。昨日のうちに盛岡まで移動して正解であった。

[田沢湖線]盛岡から特急「たざわ」で大曲に向かう。朝のうち曇っていた天気も9時頃になるとすこし晴れ間も広がってきた。ところが次第に奥羽山脈に近付くにつれ、ふたたび曇ってきて、ついには雪まで降りだした。天気がよければ、秋の木々の色付いた車窓が楽しめるはずなのだが、この天気ではいまひとつだ。

トンネルを抜けて小京都角館を過ぎ、約一時間で大曲に到着。雪のせいなのかわからないが、到着が6分ほど遅れた。奥羽本線の上り列車に乗り換えて横手に向かう。

[横手]駅前の雰囲気から横手は再開発されてしまった町のように思われた。横手からこんどは北上線で奥羽山脈を横断しようと考えたのだが、次の列車まで1時間20分ほどの待ち時間があり、しばらく街を歩いてみることにした。

あまり面白みのない街だと駅から歩き始めたが、しばらく行くと駅前とはちがったすこし古びた商店街などが並んでいた。もともと鉄道の駅が設けられたのが町外れで、旧来の町並みはすこし離れたところにあったらしい。かなり建て替えられているものの昔の商家や洋風意匠をほどこした商店が残っていた。いまどき珍しい木造校舎の小学校もあった。旅館「平源本店」は洋風建築の旅館で大正15年の建物らしい。

駅から離れるにつれ面白そうな建物が現われ、時間のことを思い出しあわてて駅に戻る有様。駅前スーパーの食堂で昼食を取ろうとしたのだが、注文して15分くらい経ってもまだ出てこない。列車の時刻は迫るし、もういらない、と飛び出した。食料品売場でパンを買って昼食としておく。

[北上線]この線区に乗るのは11年ぶり。天気がいまいちなのが残念であるが、時期的には紅葉のシーズン。車両は新しい。昔の標準サイズのディーゼルカーより少し短いようだ。北上に向かうのは一両だけの編成。車内は座席がほぼ埋まるくらいの込み方だった。

この線の途中に陸中川尻という駅があって、駅舎が「ホット湯田」という温泉施設になっている。列車本数が多ければ途中下車したいところなのだが、今回は残念する。

[水沢]北上からの接続列車は下りはすぐにあったのに、上りはすぐになく、せっかくだから下り列車で花巻まで迎えに行くことにした。当初、花巻温泉付近で泊まってもいいなと考えていたのだが、雪に降られたこともあり、山に分け入るより南に向かうのが賢明に思えた。

花巻で上り列車を捕まえ、水沢で下車する。まず、水沢市公民館(昭16)を見にいく。そのあと、高橋萬右衞門邸(明14)の前を通って水沢緯度観測所に行く。途中には高野長英の旧宅が残っていたりする。

水沢緯度観測所は国立天文台の施設である。所内には木村記念館(明33)、旧本館(大10)がある。門があいていたので勝手に所内にはいって建物の写真を撮っていると、所員が通りかかり、なんの御用ですか、ときかれたが、写真を撮っているだけです、というとそれ以上追求されることなく、写真を撮ることを許してもらえた。

[一関]水沢から一ノ関に向かう。秋の日は短く、一ノ関に着いたときにはとっぷり暮れてしまった。駅構内の食堂で夕食。どこかで同名の店に入ったなと思ったら、駅そば・駅弁屋の伯陽軒がやっているチェーン店で、今年(1990年)9月に会津若松駅で入ったのだった。

今夜は駅前のBHに泊まる。今まで各地にある同名のビジネスホテルに泊まったが、ここは最低だった。こんなホテルでもビジネスホテル協会に加盟していて、『時刻表』に載っているのだから恐れ入る。こんなホテルだとわかっていたら、千円くらい余分に払っても「サンルート」に予約をいれるべきだった。

翌朝、一関市街にある近代建築を見て歩く。それほど立派な建物はないが、医院、住宅や一関教会が残っていた。

[JR東北バス]一ノ関から築館町行のJRバスが出ている。朝一番のバスは築館町を経由してさらに東北新幹線くりこま高原駅まで走っている。このバスに乗って、栗原電鉄の沢辺駅まで行くことにする。沢辺近くの金成に旧尋常小学校やハリスト教会があるらしいのだが、駅と物件の位置関係や電車の正確な時刻がよくわからないので、いったん沢辺駅まで行き、電車の時刻を確認、時間があれば探してみようと思う。

一関の市街地を外れると国道を南下、金成に近くなって旧道を走る。それらしい建物が見えないか見回したがバスからはわからなかった。約30分で栗原電鉄の沢辺駅前に着いた。電車の発車時刻まで40分ほどあったので、金成のほうに向かってすこし戻ってみたが、時間切れで建物を発見することはできなかった。

[栗原電鉄]このローカル私鉄に乗りにくるのは4年ぶり二度目である。前回は東北地方に残る民鉄の未乗線区の乗り歩きのときに立ち寄り、石越−細倉間を単純に往復している。

今回再訪したのは、今年(1990年)6月24日に従来の細倉駅から細倉マインパーク前駅まで 0.2km延長されたためだ。かつて細倉は鉱山として栄えたところで、この鉄道も貨物輸送を担っていたのだが、鉱山が廃坑になり、鉱山まで伸びていた路線も廃線となっていた。今年の6月、この廃坑を活用した「細倉マインパーク」という観光施設が設けられ、それにあわせて、廃線を復活、少し延長されたのだ。

沢辺で上り下りの電車が行き違う。下り電車はここまでの乗客を降ろしてしまうと、もう誰も乗っていなかった。途中栗駒駅でふたり乗ってくるまで貸切状態。平野部から次第に山間に分け入り約30分で細倉。従来の駅舎は閉鎖され、その少し先に新設された細倉マインパーク前駅に到着。

片面一線だけの駅ながらホームを上がったところには待合室を兼ねた土産物屋が作られている。しかし、時期が悪いのか、販売店は休業、切符の販売もしていなかった。駅前広場は広々取ってあり、片隅に廃車になった電気機関車が保存されていた。(注:栗原電鉄は1995年4月1日からくりはら田園鉄道に改称)

さて、細倉マインパークは駅前の案内によれば徒歩7分とあるのだが、案内の方向に従って緩い坂道をどんどん登って行ってもなかなかたどり着かない。10分あまりかかってようやく、一番外れの駐車場まで行き着いた。施設入口まで、ふつうの人なら20分くらいかかるだろう。電車で訪れる人より自動車で訪れる人のほうがはるかに多い。

マインパークと鉱山資料館の共通入場券を買ってなかに入る。最初の区画には、閉坑になる前の鉱山事務所が再現されていた。安全標語とか掲示された室内は、これから鉱山の内部に入っていくという気分をわくわくさせる。

今まで何箇所の廃坑観光施設を見学しているが、坑内に展示、紹介されている内容は、江戸時代の採掘の様子を再現する例が多く、さまざまな採掘機器など展示することはあっても、産業遺跡として閉坑前の事務所を再現したのに初めて出会った。いいことだと思う。

細倉鉱山の坑内の上り下りする坑道は当時の様子が窺えて、なかなか興味深いものだったが、後半の展示には全くの興醒めだった。宇宙だの、生命誕生だの、子供騙しの展示より産業遺跡としての鉱山をじっくり見せてほしかった。
時間の都合でここで少し早めに昼食を取っておく。

マインパークから登ってきた道を引き返し、駅を通り越して10分ほどいったところにある鉱山資料館に行く。鉱山は廃坑になったが、大きな精練所が今も操業している。草木のない荒涼とした工場が北側の斜面いっぱいに広がっている。この資料館には、細倉鉱山の坑道が血管のように深く伸びている模型や鉱山で使われていた品々などが展示されている。また、全国各地の鉱山で掘り出された鉱石標本も並んでいる。

[仙台]細倉見物を終え、栗原電鉄で石越に出て、東北本線に乗り換えて仙台に向かう。電車は新しい715系。

仙台駅のホームに上野行「スーパーひたち」が停まっていたので、これに乗って帰ってもいいなと思えたのだが、自由席を見てみるとすでにいっぱいで座れない。新幹線で帰ることにしていったん改札を抜けた。

まず、東北大学へ行ってみる。駅から歩いて15分ほど。校内にはけっこう戦前に建てられた建物が残っている。その隣には東北学院大学がある。こちらには宣教師館などが残っている。午後4時半を過ぎると暗くなり始めるので駅に戻る。十分な時間が取れなかったが、ゆっくり訪ねたいところだ。



・目次に戻る・

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください