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能登・金沢漫歩 1991.8.13.〜8.16. [能登に向かって]能登半島へ前回行ったのは1978年春のことですでに13年経つ。能登線が第三セクター化され「のと鉄道」となり、金沢の近代建築めぐりを兼ねて出かけてみようと思う。七尾線の津幡−和倉温泉間が電化されることは鉄道雑誌で読んで知っていたのだが、これにあわせて電化されない和倉温泉−輪島間がのと鉄道に移管されることを『時刻表』7月号で知った。電化されるのは9月1日からで移管前に七尾線に乗るにはこの機会しかない。 東京からの東海道本線下り大垣行は込むのがわかっているので、ここ数年利用したことがない。2年ほど前から「青春18きっぷ」が利用できる時期を主に臨時の大垣行が運転されるようになっているけれど。 当初の予定では、昼間の普通電車を乗り継いで東海道を下り、小牧に開業した桃花台新交通の初乗りを兼ねて名古屋付近に一泊、そして高山線を北上して行こうかと考えていたのだが、桃花台新交通は7月に乗る機会があったので、昼間、中央本線から大糸線経由でもいいなとも思えてきた。しかし、久しく高山本線にも足を印してないのでこれにも乗ってみたくなった。 けっきょく、臨時大垣行に乗るつもりで駅に行き、席にありつけないほどの込み方なら翌朝出なおすことにして東京駅に向かった。臨時大垣行は東京23:43発で川崎で日が変わる。東京−川崎間の運賃 290円別払いにすれば「青春18きっぷ」を一日分使う必要がなく、かりに旅行を取り止めても損害は小さい。 どのくらい前に行けばいいか見当がつかないまま、とりあえず午後七時過ぎにホームへ上ると、すでに電車を待つ人の列はできていたものの、各列数人程度で、これなら楽に座れると旅行を開始する。しかし、電車の発車まで、まだ四時間半ほどホームで待たなければならなかった。 東海道本線を下る寝台列車「瀬戸」「出雲」「銀河」を見送る。特急電車を使った「湘南ライナー」も出ていく。約二時間前くらいでも席にありつけたような感じだった。 午後11時半過ぎ、やっと電車が入線。定期列車の大垣行は11両編成なのにこちらはグリーン車なしの6両編成。立ち客が少々出たくらいの込み方だった。 定期列車の大垣行が23:40に発車すると、それを追いかけるように臨時は23:43に発車。定期列車が長時間停車する浜松で追い付き、そこで追い越す。追い抜いたといっても、大きな差は生じるわけでなく、名古屋で3分、岐阜で7分、終点大垣で8分ちがうだけである。 [高山本線]岐阜6:35到着。高山本線美濃太田行に乗り換える。キハ11、2両編成のワンマン運転。夜行電車では少々込んでいたせいか、車掌が検札に来ず、切符に本日の日付がはいってない。ワンマン運転だと運転手にも頼みにくいのでそのまま乗り続ける。約30分で美濃太田に到着。ここでキハ48編成の列車に乗り換えると車掌が乗務しており、日付をいれてもらうことができた。ここのキハ48にも冷房装置が取り付けられていた。 中川辺を過ぎたあたりから飛騨川渓谷の美しい眺めが始まる。鮎釣りをやっているらしい釣り人が多い。下油井で特急「ひだ2号」と行き違うのかと思ったら、その手前の信号場で交換した。一時間半で温泉街下呂に着いた。高山見物に行くらしい人がけっこう乗ってくる。禅昌寺、渚で特急「ひだ」と行き違い、久々野トンネルを抜けて10:30高山到着。 [高山]次の富山行まで約三時間あるので、市街地を散策する。高山の街を歩くのは1978年春以来。 高山駅舎は高山本線が開業した昭和9年の建物。宮川に向かって歩いて行くと、川沿いではまだ朝市をやっていた。観光客の人出がすごい。商店街はアーケードになっていて、古い建物もありそうだが、一階の店舗部分は改装され、古いかどうかよくわからない。 高山市役所に立ち寄る。大正14年に建てられた木造の小学校校舎を市庁舎に転用している。役所といえば、建物が手狭、老朽化すると、すぐに味気ない建物に建て替えられてしまうのに高山市は立派である。また、旧高山町役場(明28)が憲政資料館として公開されている。歴代の町長などの肖像が掲げられている。二階の広いスペースは議場だったようだ。 すこし町外れにある大倉商店は昔の製糸所を転用した明治21年に建てられた和風の蔵造りの建物。角部に漆喰で隅石のような細工が施されている。現在は飲料関係の倉庫に使われているようだ。 [飛騨古川]高山駅に戻ると飛騨古川行の臨時列車があったので、先に進む。古川も高山同様古い町並みが残っている。しかし、高山ほど観光客は多くない。 まず古川駅前の食堂で昼食を取ることにする。外に置いてあるロウ細工見本の値段と店内のメニューの値段が違っている、そんな駅前食堂だ。女将さんが一手に注文の料理をさばき、親父が頼りなげに注文を取ったり、料理を運んでいる。女将さんがひとりで調理しているせいか、たいていの料理に対して「それは時間がかかるよ」といっている。早く昼食を済ませて街を歩きたいし、時間を取られて列車に間に合わなくなっても困る。すぐにできるものは、と訊ねると「牛丼だ」というので、それを頼むとすぐに出てきた。 駅から5分ほど歩いたところに大高医院(昭5)が残っていた。ほかにも木造三階建ての建物や表面だけをモルタルで洋風に細工した建物があった。 [神岡鉄道]富山−高山間を行き来しているディーゼルカーはJR西日本の所属が多いらしいが、JR東海の車両のように冷房改造もされておらず、外装がかつての標準色オレンジから渋いグリーンに白帯というのに塗り替えられている。JR西日本の色のセンスは最低。それに車両はぼろである。今だにキハ23とかキハ53が使用されている。 高山盆地を北に抜けると宮川に沿った渓谷を走る。こちらの川でも釣り人が多い。 約50分で猪谷に到着。すぐの接続で神岡鉄道奥飛騨温泉口行のレールバスがある。神岡鉄道は神岡線から転換された第三セクター鉄道で、ここを訪れるのは三度目だが、転換されてからは今回が初めて。車内に「いろり」が設けられていることで有名なレールバスが走る。国鉄時代に神岡といっていた終点奥飛騨温泉口まで30分。ここは街外れで、街の中心はかつては船津といっていた飛騨神岡である。 帰りは一本遅らせて、神岡の街を歩く。神岡は火災が多かったらしく、それほど目を引かれる建物はなかった。神岡鉱山前(旧神岡口)駅まで歩く。神岡鉱山関係のタンク車が構内にたくさん留置されている。ここでは切符を売っていた。しかし、猪谷で下車するとき切符を渡して証明書を運転手からもらって下車したりJRに乗り継いだりするうシステムになっているらしく、手元に残らないと思えここでは買わず、車内で精算する。 この駅のホームから対岸を眺めると神岡精錬所がある。初めて訪れたとき感じた荒涼とした禿げ山もいくぶん草木が繁ってきたようだ。 猪谷で再び高山本線に乗り換えて富山に向かう。神通川に沿った渓谷を抜けると富山平野が広がる。稲穂がだいぶ垂れ下っている。千里や速星の駅周辺に新しい家々が見られる。富山市のベッドタウン化しているのだろう。西富山付近もかつては鄙びた感じだったが、住宅などが立ち並んでいる。 富山で北陸本線の電車に乗り換え今夜は高岡に泊まる。 [高岡]翌朝の食料調達に駅南側のダイエーに立ち寄り、ステーションビル地下で夕食を取ったのち予約をいれたBHへ。駅前にあるBHなのだったが、メインストリート沿いにそのホテルの表示がなく、まごつく。ビルの一部フロアをBHに使っているところで、入口が横道にはいったところにあったのでなおさらだ。 翌朝は6時にBHを抜け出し、高岡市内を散策する。高岡は富山ほどひどい戦災を受けてないので古い建物が残っている。本丸会館は昭和6年竣工の建物。加越能鉄道の軌道線沿いにある建物で、かつて路面電車の写真を撮るためにこのあたりをうろうろしたことがあるが、そんな古い建物だとは最近まで知らなかった。 電車通りから西側は全く足を踏み入れたことがない。この界隈には土蔵造りの商家がいくつか見られる。また、東京神田界隈に多数残る看板建築がここにもある。高岡は銅器の町として有名で、そのせいか、銅板張りの家も見られる。細工は東京ほど手が込んでない。富山銀行本店は辰野金吾の設計。立派な辰野式銀行建築だ。大正4年に竣工。 北陸本線の南側に戦前に設けられた配水塔もある。 [能登]高岡市内の主な近代建築を見て、高岡8:01発の電車で津幡に向かう。津幡では6分の待ち合わせで穴水行が接続。七尾線の和倉温泉まで9月1日から電化されるので、その試運転電車と行き違ったりする。沿線では、急行を除いて電車化されるので、記録にディーゼルカーの写真などを撮っている人も見かける。 七尾で15分停車。この間に一部の車両の切り離しと季節運行である穴水−輪島間の列車の連結が行なわれる。『時刻表』では、穴水始発の輪島行のような記載のされかたをしているが、七尾から繋がれていく。七尾機関区の片隅に9月から運行を任せられるのと鉄道の車両が留置してある。 和倉温泉を出ると海岸に沿って走る。 津幡から二時間半ほどかかって穴水に到着。列車切り離し作業があって15分停車。輪島行の車両に移動する。ここから輪島にかけて山越えの険しい路線で、ようよう11:56輪島に到着した。輪島駅で硬券の入場券を求めようとしたところ品切れだった。残念。(注:のと鉄道穴水−輪島間は、2001年3月31日限りで廃止された。) 輪島でバスに乗り換える。バスの発車が12:05だったので、バスターミナルが駅から離れているとやばいな、と思ったけれど、バスターミナルは駅前にあった。 バスは能登半島外浦の国道249号線を走る。日本海の眺めがよい。波は荒らそうな感じ。途中に千枚田という小さな面積の田んぼが段々に連なるところがある。能登の風景のひとつとして観光用に稲作されているらしい。 約30分で曽々木口バス停に着いた。ここで飯田方面のバスに乗り換える。このあたりは曽々木海岸の入口で、観光客が多い。8分の待ち合わせなのだが、ふつうのバス停なのでどこで待てばいいか、きょろきょろする。バスは向かい側で待てばよかった。定刻になってもバスがやってこないので不安になっていると、5分遅れでやってきた。曽々木口車庫からのバスだ。 再び外浦に沿って走る。大谷で山側に折れて峠を越える。かなり険しい道だった。約50分で飯田の町並みにはいった。のと鉄道の珠洲駅には飯田車庫前バス停が近いとのことなので、そこで下車する。線路沿いにバスの車庫があって、駅は歩いて5分ほどのところだった。念のため5万分の1地形図を持ってきたが、迷うほどのところではなかった。 珠洲発14:08発の列車でいったん終点の蛸島まで行ってみる。わずか4分で折り返さなければならないが、先の区間だけ乗り残すより、のと鉄道全線乗り終えたほうが、区切りがいい。穴水までの運賃は、珠洲も蛸島も同額だから、珠洲−蛸島間の片道分の出費だけだ。 列車は二両編成のディーゼルカーでワンマン運転。車両前方の行先表示が「珠洲」、後方の表示が「穴水」になっていた。蛸島に行くのに、これでいいのか、運転手に確認してから乗り込んだ。行先表示をあまり変えないらしい。この編成は、蛸島から珠洲に戻ると車庫にはいるそうだから、手抜きをしているのか、行先表示はめちゃくちゃなのだ。しっかりしてほしいものである。 蛸島から同じ車両で珠洲に戻ってきて、穴水行に乗り継ぐ。編成は先程と同じだが、車掌が乗務する。ワンマンのときは車両後よりのドアは全く開かないが、車掌が乗務すると前後両方の車両のドアが開く。しかし、車両後よりのドアが入口で前よりが出口になっているらしい。 のと鉄道線は海岸べりを走るところは少ない。少し眺められる海岸風景を見ると、先ほどバスで眺めた外浦の荒々しい様子と違い、内浦の穏やかな感じがする。遠くに見付島が見える。地元の人が多いが、観光客もそこそこ乗車している。穴水16:05到着。 穴水で金沢行の列車を待つ間に、金沢のBHへ電話してみるが、どこもかしこも満員と断られる。金沢で泊まることを諦め、とりあえず前に進む。 金沢行が発車するまぎわにのと鉄道の特別車両「のと恋路号」がやってきた。この列車は二両編成の展望車で七尾まで乗り入れている。 穴水から乗った列車は七尾から急行となって金沢に向かうので、「青春18きっぷ」ではそのまま乗れず、次の普通列車に乗り換えるため七尾で下車する。七尾駅は改築中で駅業務は仮駅舎で行なっていた。ここならBHくらいあるだろうが、かりに泊まれたとしても翌日金沢に出るのに一時間半くらいかかるので、分岐駅の津幡まで行くことにする。駅前旅館くらいあるだろうという考え。津幡でだめなら、富山方面に行こう。電車の本数も多いからなんとかなるだろうと思った。 日が暮れていくなか津幡18:49到着。富山方面の電車まですこし時間があったので、駅前にある旅館を訪ねる。ひとり客なので、宿の主人に敬遠されかけたが、その家のおばあさんのとりなしで、辛うじて泊めてもらえることになった。やれやれ。素泊まり4500円。いったん、夕食を食べに外に出たが、津幡駅前付近は寂しく、食堂らしい食堂がない。ホルモン焼屋があったので、そこでラーメンをすする。あまりわびしいのでコンビニでおにぎりを買って帰った。 旅館の部屋は隣の話し声が筒抜け、というような部屋だったが、布団の上で寝られることを感謝して早々に寝てしまう。 [金沢]翌朝、残り物のパンを朝食に津幡6:24発七尾線からの金沢行ディーゼルカーで出発する。 金沢駅が高架になって下車するのは初めて。駅が金沢の繁華なところから離れて設けられたせいで、今だに駅前付近を見ると賑やかな感じがしない。城下町の町割りが残り、駅を中心にしたメインストリートがないせいなのかも知れない。現在、メインストリートを造る都市計画が進行中で、立退かされた家々の更地が、一時的な駐車場などに使われている。道幅が狭くて歩道がないところが多く、そこに自動車が多いときたら、おちおち歩いていられない。 まず、武蔵ケ辻の北国銀行(昭7)と竹中工務店(旧明治屋 昭3)を見る。そのあと中島商店(昭7)へ。この建物は北国銀行と同じく村野藤吾の設計。当時のモダニズムを感じる。百万石通りに戻ると福井銀行(昭3)、石黒ビル(大15)などがある。土蔵造りの石川県立町民文化館(明40)は旧金沢貯蓄銀行の建物。戦災を受けてないだけに古い建物が残っている。石川銀行(昭2)をあとに、いったん浅野川を渡って東廓を見に行く。江戸時代から続く由緒ある花街で、今は観光地になっている。まだ、朝が早いので観光客がきてないので静かだった。 尾張町界隈の住宅、医院をめぐったあと金沢大学にはいる。兼六園側の石川門には門番がいて入るのに躊躇してしまうが、反対側はフリーパスである。ここには、陸軍第六歩兵旅団司令部(明31)が教育開放センターとして利用されている。教育学部には木造の校舎も残っていた。 石川門から外に出て兼六園へ。このあたりまで来ると観光客が多い。この時期、兼六園は無料開放されていたが、寄らず、小立野通り方面の近代建築に向かう。北陸学院の校内にウィン館(明24)などがある。校門があいていたのをいいことに勝手に入って写真を撮る。コロニアルスタイルの洋館だ。そのそばにすみれ台病院があるはずだったが、すでに建て替わったようだった。その近くには金沢市立民俗資料館(無料)がある。もとの中学校(明32)を利用したものでなかなか立派な木造建築だ。 再び兼六園のほうに戻ると本多美術館などが並ぶ。煉瓦造りの旧陸軍兵器庫(明42、大2、大3)は歴史博物館に利用されている。師団司令部(明31)、偕行社(明42)は県の役所に利用されている。それに石川県庁舎(大13)、旧制第四高等学校(明24)もある。 しかし、『近代建築ガイドブック』に紹介されている繁華街香林坊あたりの物件は軒並み建て替えられていた。最後に尾山神社に寄る。ここの神門は重文に指定されており、明治8年に建てられた。石積み、上層の窓には色ガラスが使われている。 [大阪に向かって]早朝から歩きまわって、11時前に金沢駅に戻ってきた。ちょうど、米原行があったのでこれに乗ることにする。しかし、米原まで乗り通すと昼食を食いそこなうので、途中の福井で下車する。 福井駅前の「だるまや西武」の食堂街に行ってみる。昼食時間帯で超満員。諦めてデパート前の食堂で昼食を取る。 福井始発の米原行に乗る。昔に比べ北陸本線のダイヤは特急主体のせいか、普通電車の乗り継ぎ接続がすこぶる悪くなっている気がする。富山・金沢・福井の北陸三都市相互間は特急が頻発、各都市近郊区間も普通列車が増発になっているものの、普通列車の乗り継ぎには待時間が多かったりする。不親切なダイヤだ。 北陸トンネルを抜け敦賀に到着。ここで30分も停車し、その間に多くの乗客を乗せた特急電車に何本も追い抜かれた。 この電車は、近江塩津で湖西線のディーゼルカーに接続していたので、久しぶりに湖西線を経由してみる。湖西線の永原−近江塩津間に交直流電化のデッドセクションがあるため、この区間を走る普通列車はディーゼルカーが使用され、本数もわずかしかない。 京都方面の電車が入ってくる永原で下車する。電車は向かいのホームに停車しているので、長い階段を上り下りしなければならなかった。永原駅の通路は自転車置場になっていた。電車利用者が階段のそばまで乗りつけるのだろう。 京都方面に電車向かうにつれて、駅ごとに京阪神間に帰る行楽客が乗り込んできて、次第に込んできた。湖西を走る国道 161号線は京都方面に向かう車で大渋滞。近江舞子で新快速に乗り換えたほうが大阪には早く着けるのだが、混んだ車内の人込みかきわけて乗り換えるのも気がひけ、乗り換えを見合わせる。 東海道線に乗り換えるため山科で下車する。快速がすぐにあったが、すごく混んでいたので、近江舞子からの新快速に乗り継ぐ。混んでいたものの京都で席にありつけた。大阪到着18:29。 |
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