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酔古ざつがく

沖縄地理雑学

・海の上を走る国道58号線

 
鹿児島市内の58号線
 沖縄本島には北の奥から那覇まで国道58号線が走っている。復帰前は1号線と呼ばれ米軍の軍用道路であった。この58号線、てっきり沖縄県内だけかと思っていたら鹿児島市内も走っていたのである。照国神社付近で国道10号線から別れ鹿児島港までの0.7キロ程の区間である。この後、種子島、奄美大島を経て沖縄本島に上陸している。どうやら58号線は海の上も走っているらしい。

・沖縄に国鉄の駅が

JRが国有鉄道だった頃、駅から荷物を送る事ができた。鉄道を利用する旅客が手荷物を送る制度でチッキと呼ばれていた。現在はどうなっているか定かではないがその当時は沖縄にそのチッキを取り扱う専用の駅が有り那覇港駅と呼ばれていた。鉄道が無くても国鉄の駅は存在していたのである。私自身も沖縄に住所が決まっていない頃、那覇港駅に駅留めで荷物を送った事がある。しかし、駅留めで送ったにも関わらず、念の為に書いた連絡場所の友人の家の住所に配達されてしまった。おまけにしっかりと配達料金まで取られたのである。港からその家までは数百メーターしか離れておらず配達された意味はあまりなかった。そんなこんなで那覇港駅を実際には目で見ていないのである。

・沖縄本島北部にある伊是名、伊平屋は国頭郡ではなく南部と同じ島尻郡である

沖縄の地理に興味が無い人には良く分からないと思われるので説明すると、沖縄本島は北から国頭郡、中頭郡、島尻郡となっている。その他離島では宮古郡、八重山郡などがある。久米島や慶良間などは南部に近いので島尻郡だと言うのは分かるとして問題は伊平屋や伊是名である。地理的に近いのは国頭郡である。本部半島に近い伊江島は国頭郡となっている。伊平屋、伊是名はその北に位置しているのであるからどう考えても国頭郡が妥当であるが現実はそうなっていない。何か意味があるのであろうか。また、南北大東島も島尻郡となっている。この場合は那覇から船が出ているので何とか理由付け出来なくはない。昔は那覇から伊平屋、伊是名に船が出ていてそうなったのであろうか。

・沖縄で海が見えない展望台

沖縄の海沿いの景色の良い見晴らしのきく所には大抵展望台などがある。沖縄での展望台といえば海の景色が定番であるがなぜか海が全く見えない展望台がある。首里王家の別邸である識名園にその展望台がある。識名園は長らく閉鎖されていたが最近修復され、王朝文化を忍ぶ庭園が一般に開放されている。
沖縄本島は細長く高台に登ればどこからでも海が見えるがここ識名園の展望台「観耕台」からは海が見えてこない。南部方向にはどこまでも大地が続き、大陸的風景となっている。この場所は中国の册封使を歓迎した場所で琉球が大きな国であると思わせるよう、ここに展望台を造ったと言われている。小国の悲哀を感じる話である。
 
観耕台から

・え!沖縄に赤道が

 
赤道の道標
 沖縄は最南端の県で亜熱帯に属している。さぞかし暑いと思われるが夏の気候は東京辺りのほうがまだ暑い。日差しは強いが日陰に入れば海風もあり、過ごしやすいとは言えないまでも、東京辺りのうだるような暑さに比べるとましなような気がする。そんな沖縄で赤道を見つけて驚いた事がある。仕事中の友人の車に乗せてもらい、コザの少し北を走っていた。交差点を通過する時、赤道の文字が目に入ってきたのである。いくら沖縄が南国だからと言って赤道がある訳が無い。あるいは赤道と言うほど本島のなかでも暑い地域なのであろうかと深読みしてみる。しかし、この場合の赤道は「あかみち」と読む地名であった。調べてみると具志川市赤道である。その他にも宜野湾市に赤道がある。

・沖縄県の隣は東京都

 沖縄県の隣りに東京都があるとは意外な感があるが東京都と言っても小笠原村の事である。大東島のほぼ真東の所に小笠原諸島は位置する。距離にして一千キロ程離れているのでかなり遠い隣りである。
大東島に行った時に聞いた話であるが、昔沖縄から大東島に行く船が方向を誤って大東島を素通りし小笠原近くまで行ってしまった事が有ったそうである。ちょっと信じられない話であるが大東島の人にとってはすぐそこのお隣という感覚なのかもしれない。

・ペリー

 ペリー提督はアメリカの海軍軍人で1853年7月(嘉永6年6月)日本を開国させようと東インド艦隊を率いて浦賀に来航し大統領の親書を幕府に提出した。翌年江戸湾に再び来航し横浜で日米和親条約を結んだ事は良く知られているが浦賀に来る前に実は沖縄にも立ち寄っている。那覇市の小禄にはペリーと言い慣わしている地域が今でも残っている。(具体的にはどの場所を指すのか知らないが)、始めて沖縄に行った時、那覇市内で行き先にペリーと書かれたバスが走っており随分変な地名だと思っていた。地図で小禄の何処を探してもこのペリーの地名は見あたらない。どうも通称名のようである。ただ、山下町にペリーアパートと言う名のアパートが有るのでその近くだと思っている。
その後ペリーのことが分かりましたので追記します。やはり山下町のことをペリーと呼んでいたことが分かりました。戦後、山下の町名が山下奉文中将を連想させることからペリーに改称されたという事で現在は元の山下町に戻っているそうです。ただここはペリーの上陸地という訳ではなく、どういうゆかりでペリーと名付けられたかは今のところ不明です。なお、ペリーの上陸地は泊北岸で現在「泊外人墓地」内に「ペルリ提督上陸の地」の記念碑がある。

「ペルリ提督上陸の地」の記念碑

ペリーアパート

・水上店舗

 
左側が水上店舗
 国際通りと沖映通りがぶつかる三叉路から南側に細長く続く小さな商店が入ったビルがある。幅の狭いビルで途切れ途切れに穏やかなカーブを描きながら500メートルも続いている。平和通りの裏手に当たる所で途中の向かい側には牧志の公設市場もある。小さな食堂や果物屋、原色があふれるアロハシャツの店、エラブやスクガラスを売る食料品屋など雑多な商店が軒を連ねている。那覇でも最もにぎやかで庶民的な一帯である。この細長い建物は水上店舗と呼ばれている。何処にも水上に建てられた形跡はないので不思議であるが実はガーブ川を暗渠化し、その上に建てられた建物である。実際に前後の延長線上を辿れば川に行き当たるのである。沖映通りも道の下は今でも川になっている。
那覇市内の川は複雑で合流したかと思うと直ぐ先では分流し川筋が分かれている。あまりにも入り組んでいるのでどこからどこまでなのか川の名称も色々とあり那覇以外の人にはよく分からないのである。

・ガジャンビラ  沖縄の蚊の始まり がじゃんびら公園

沖縄にはとても変わった名の坂がある。その名はガジャンビラと言う。ガジャンは「蚊」を意味しビラは「坂」を意味する方言である。ガジャン坂、直訳すれば蚊坂である。場所は那覇の小禄から豊見城村に行く坂で小禄のがじゃんびら公園内かその付近の坂と思われる。この坂の名前には言い伝えがある。昔、沖縄から中国へ行った人が中国でブンブンと歌を歌う珍しい虫をみつけた。そのあまりにも珍しさに沖縄にその虫を持ち帰ったのである。沖縄に帰ったその人が那覇の港から垣花の坂まで来ると、箱の中に入れた虫の歌う声が聞こえなくなっていた。不思議に思って箱を開けると、箱の中の歌う虫はすべて飛んで行ってしまったそうである。その人が持ち帰ったのはガジャン(蚊)であった。その時以来、沖縄には蚊が出てくるようになり、その坂をガジャンビラと言うようになったという事である。現在、坂の所在ははっきりしませんが空港通りが那覇と糸満を結ぶ331号線に合流する付近に「がじゃんびら公園」があり、これは実在しています。
  ガジャンビラ(蚊坂)がいったいどこにあるのか興味を持ったがはっきりここであるという資料になかなか出会えなかった。渡地から渡し舟に乗り対岸の垣花に渡る。そこから小禄に向かう坂が私の探しているガジャンビラである。地図で探すと那覇港の南側の高台にガジャンビラ公園がある。どうやらこの近くの坂らしい。左の地図は沖縄歴史地図の明治初年のものである。ここにははっきりと「蚊坂」と書かれている。
現在の渡地(現通堂町) 唐から蚊を持ち込んだ人物は唐から着いた後、この渡地から渡船に乗り対岸の垣花に降り立ち小禄方面に向かったと思われる。
  がじゃんびら公園から撮影
大正8年の2万5千分1の地形図で調べるとそれに該当する坂は空港へ向かう国道(329)と糸満方面に向かう国道(331)が分岐して直ぐの坂がガジャンビラである。現在の坂は緩やかなカーブを描いているが旧道は急なカーブとなっている。
 赤丸内がガジャンビラ
   赤のラインが渡船経路
ガジャンビラ 国道331号線の旧道 道はかなりきついカーブとなっている。現在は通る車も無く駐車場状態となっている。復帰前のこの道は基地内となっており、糸満方面に向かうには遠回りしていた。復帰後通れるようになった。
「南島風土記」によると付近に住む人名、又は屋号をとって「我謝の坂」から転化したのでないかとある。
坂の途中の見晴らしの良い所にはガジャンビラの云われの解説碑が建てられている。
沖縄戦の後、坂一帯は米軍基地となったが1972年の日本復帰後国道331号線として整備された。1984年山下高架道の開通によりガジャンビラの一部は旧道となった。
がじゃんびら公園
 那覇港南岸の高台に在る公園。ガジャンビラの名がある公園に行こうと思い立ち、入口を探したがなかなか見つからず公園の周りを一周してしまった。住宅街の奥まった所に入口があり非常にわかりずらい。
なぜか美空ひばりの歌碑がある。
美空ひばりが歌った「花風の港」は沖縄を題材とした唯一の歌で琉歌の花風をモチーフとしているという。

・人名の付いた道路

 
マクラム通りの道標
 沖縄復帰後の一時期まで新聞紙上をにぎわせた表現でそろばん道路、サロンパス道路なるものがある。これは沖縄の当時の道路事情の悪さを表現した言葉ででこぼこ道のそろばん道路、簡易舗装でつぎはぎだらけのサロンパス道路などである。なかなか面白い表現である。
沖縄の石垣島には人名が付けられた道路がある。それも外国人の名前である。他にそのような例はあまり無いと思われるので紹介すると戦後石垣島の開拓地では道らしい道もなかったと言われる。道路を造ろうにも、当時の琉球政府の財政は乏しかったため米国民政府に要請して資金援助を受け、そしてできたのが今もその名を残す当時の民政府関係者の名前をつけた石垣東部地区のマクラム道路、米原地域と西表古見一帯のオグデン道路、川原地区のリースン道路などである。
同様に宮古島にめ外国人名を冠した道路が有りマクラム通りという。この通りは昭和21年当時米軍政官であったマクラム中佐の名を付けた通りである。

・天の岩戸が沖縄に


クマヤ洞窟
 神話の天孫降臨の地が沖縄北部の離島、伊平屋島であるとの説がある。江戸時代の国学者「藤井貞幹」が唱えた説で伊平屋島にあるクマヤ洞窟(クマヤーガマ)が天の岩戸であるとしている。そして「神武天皇は琉球の恵平屋島(ゑへやしま)に誕生あそばされたり」と述べている。伊平屋島は琉球王家の第一尚氏の発祥の地であり、そのへんのところが関係しているのかも知れない。古い時代の地図を見ると伊平屋島は恵平屋島と表記されている。
天孫降臨の地が伊平屋島であるとはにわかには信じがたいが何かロマンを感じる話である。

・ジョンマンビーチ 大度海岸


ジョンマンビーチ

ジョン万次郎上陸地標柱
 沖縄南部にジョンマンビーチというちょっと毛色の変わった名の海岸がある。手持ちの地図で探してみたがそんな名のビーチはどこにもでていない。インターネットで検索するとダイビングのスポットとして有名らしく沢山出てくる。正式名称は大渡海岸と言うらしい。このジョンマンとは幕末期に漂流者として有名なジョン万次郎の事である。彼が帰国のため上陸した場所が琉球国摩文仁間切小渡浜であった。1851年のことである。最初、豊見城村翁長に置かれ、その後島津藩の鹿児島を経て長崎奉行所へ送られ、厳しく詮議された。ペリー来航時、彼は日本で英語を話せる唯一の人であり、通訳として登用された。ペリーは小禄の地名として沖縄に名を残しているがこのジョン万次郎も沖縄南部の海岸にジョンマンビーチとして名を残しているのである。本当に不思議な因縁である。

・国道390号線

国道58号線は鹿児島市を基点に那覇まで走っていると先に紹介したが宮古や石垣を走る390号線も海を越えて走る国道である。那覇を基点に宮古を通り石垣まで達している。58号線の旭橋から那覇港までのわずか600メートル程が那覇市内を通過している。国道はどうしても他の国道につながっていなければいけないらしい。何か無理が有るような気がするのは私だけだろか。このような例は他にも有り、新潟市から上越市までの350号線は途中、佐渡を通過している。また、対馬から呼子までの382号線は対馬、壱岐を通過して呼子に上陸し、204号線に接続している
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