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「名鉄×名古屋市交通局」

(Sorry, only Japanese.)
(名古屋の常識、名古屋4-2-5)[5/18 1998 UP]

先頃(1998年3月31日まで)、名古屋鉄道・名古屋市交通局共作の記念プリペイドカードが発売になった。その名も

「名古屋都市交通100周年記念パノラマカード・リリーカードセット」

名古屋鉄道・名古屋市交通局の歴史はちょっとややこしいが、それだけに興味深いので記してみる。



創業期

平成6年に創業100周年を迎えた名鉄
の歴史は、明治27年6月25日設立の「愛知馬車鉄道株式会社」に始まる。しかし馬車鉄道が走ることはなかった。当時すでに、蒸気による鉄道は東海道線が全通していたが「電気鉄道」の概念がなく監督官庁すら曖昧な始末。そのため当座は馬車鉄道としての免許認可〜開業を目指すこととし、そのための社名を掲げることになった。が、日清開戦や金融不安の折り資金調達がままならず、役員奔走の上、結局免許を電気動力に変更した「名古屋電気鉄道株式会社」として建て直す始末となった。

愛知県内の鉄道としては明治19年、東海道線建設のための物資輸送用として武豊港から熱田までの「武豊線」(現在のJR武豊線、東海道線)が開通している。続いて東海道線も開通し、笹島には「名古屋すてん所(ステーションをもじっている)」が設けられた。名古屋市内の交通は当時、人力車と乗合馬車が台頭しており、電車の開業はそれらの利権にかかわる問題とされた。

営業開始

実際に電車が営業を開始したのは明治31年5月6日のことで、開業時の路線は名古屋市内の「笹島〜柳橋〜御薗町〜七間町〜県庁前(当時)」。当時の広小路通りは、今の栄あたりで西向きに建っていた県庁のところでドン詰まりになっていた。これが当時の名古屋電気鉄道による路面電車の始まりであり、その後の名古屋市交通局との歴史上の関わりに結び付く。

当時、明治20年に改修なった笹島街道の柳橋以西はいかにも新開地の風情をたたえており、「東海道線建設用の土を掘った跡の大池がそのままに残され、夏ともなればかえるが騒々しく、夜はほたるが乱れとび、昼下がりには人力車夫が、のんびりと大池で車を洗う風景もみられて、すすきやあしがところどころにおい茂った」そうである。

電車は7両おり、チョコレート色をした長さ6.5メートル(客室は4.2メートル)の単車。運賃は1区1銭明治39年3月までは右側通行であった。

路線拡張

快調に走る電車の勢いを借りて、南北に走る熱田線を計画したが道路事情等により実現されず、代わって柳橋から北上する押切線が認可され明治34年2月19日「柳橋〜泥江橋〜本社前(那古野)〜菊井町〜押切町」が開通した。その後千種への延長や新・熱田線の開業等、順次「市電」の根幹をなす路線を建設・拡張した。

一方、名古屋近郊への路線も計画され大正元年8月3日に、現在の「名鉄犬山線」と、岩倉から分岐する「一宮線(現在は廃止)」が開業。この郡部線の始発駅は押切町に設けられ、後に市内電車の柳橋まで直通運転を実施して盛況だったそうである。また現在の津島線も大正3年1月23日に開業した。

市内電車 公営化への動き

前述の通り運賃は「1区1銭」であったが、路線が延びるに従って長距離客の負担が顕著になり、不景気も手伝って収入も頭打ちとなってきた。そこで明治37年3月1日、会社は運賃区分を電停の数より大雑把にして3割の値下げを実施した。ところが日露大戦中でもあり、翌明治38年1月、1乗車1銭の通行税が課せられて元の木阿弥となった(モクアミって何?)。会社は非課税の乗換券や割引回数券の導入で乗客の負担軽減に努めた。

日露戦争後数年の戦勝景気により、高水準の運賃に対して格別の批判も露呈しなかったが、明治天皇崩御の後第1次大戦の勃発、経済の混乱、山本内閣総辞職など政治の混乱も加わって不況も深刻化し、民衆の心理は騒然とした世相に揺れ動くこととなった。そんな中で大正3年、身近な問題として電車の運賃がヤリ玉に上がり、新聞の格好のネタとなった。市当局や地元経済界も巻き込んでの一大議論となり、その具体的な実施内容、サービス改善要求まで活発に提示されるに至った。

同年9月6日午後5時より、県・市政記者団大三倶楽部主催のもとに5万人と言われる参加者を集め「電車賃値下問題市民大会」なる演説会が鶴舞公園で開かれた。熱気にあおられた群衆が市内に繰り出し、たまたま進行してきた電車に投石したのを皮切りに、翌々日8日にかけて市内各所において電車を初め、会社の施設、本社社屋、役員宅等が襲撃を受け、その当時世に「電車焼打事件」といわれた不祥事が発生した。

9月6日
午後7時40分ごろ、門前町から新栄町方面へ行く電車(108号車)は群衆の気配に危険を感じ、通過しようとしたところ、数名の壮漢が車掌台に飛び乗り、逃げまどう乗客を尻目に破壊した。
大池町4丁目を東行中の145号車、94号車も丸太や石を投げつけられて動かなくなった。
一部の群衆は上前津交差点に殺到し、消灯徐行中の150号車へ火を付けたワラ束を投げ入れたが、警戒中の巡査によって消し止められた。
上前津と東別院の間に停車した44号、59号、77号の3両は半壊され、44号車は転覆させられた。
広小路方面へ進出した一群は、栄町南東角にあった会社営業所を襲い、屋内を手あたり次第に損壊し、付近に停車中の電車5両を破壊した。
午後8時半ごろ、約2,000人と目される群衆は、那古野町の本社に向かおうとして志摩町付近に差しかかり、郡部線電車(187号車)の退避しようとする乗務員を袋だたきにした上、腰掛けの綿くずやワラに石油を注いで全焼せしめた。
午後10時過ぎ、熱狂した群衆は本社付近に押し寄せ、東側にあった営業部の門やとびら、板べいなどを破壊して室内に闖入し、ガラス窓や什器類を壊したあげく、本社の南東にあった倉庫250平米(75坪)に火を放ち、全焼せしめた。
広小路に蝟集した一部は、郡部線の始発駅であった柳橋停車場に投石して、窓ガラスのほとんどを破壊した。
栄町線の軌道張石を、いたるところはね起こし、鉄砲町にあった富田取締役宅の表格子を破り、かわらや石を投げ込んだ。
各所に発生した暴行を、阻止しようとした警察官に負傷者が生じ、民衆の検束された者70名に達した。市内各警察署は非常態勢を敷き、知事官邸、市長邸、神野社長宅等に警官が配置された。所轄の江川町署、新栄町署は群衆との小ぜりあいが繰り返され、御園町角、本町角、朝日神社横の交番所は破壊された。

9月7日
日中は各線とも運転を行なったが、日没以降はまた各所に群衆が参集し、午後8時ごろには再び危険な状態となった。柳橋停車場を警戒中の笹島署員と、応援の友田西枇杷島所長ら数十名の警官の説得、解散の命令もきかないため、やむなく所属する消防士が消火栓を抜き、群衆に向かって放水したところ、白刃をふるってホースを切る者もあり、一団50余名が北西隅から駅内に突入、揮発油をまいて放火したため、同駅は全焼した。
その他、本社では200メートル手前より警戒にあたり、建物の周囲に電線を巡らして防御したため群衆は退散したが交番所2箇所が破壊された。
全市に渡る異常事態に松井知事は軍隊の出動を要請、各要所で群衆を退散せしめて警戒にあたったので、その後平静となった。

9月8日
市内線は全線運転中止、郡部線も押切町始発とし、午後6時以降の運転を休止した。
夜となって群衆の集合する気配となった。沿道の商家は日暮れと共に店を閉め、この日も軍歩兵1個中隊が派遣されて各所の警備に当たった。午後9時ごろ、玉屋町にある大株主吉田善平氏宅に群衆が押し寄せ、木石を投じ、紙に火をつけ投じようとしたが、大勢の店員が杉丸太の柵を構えて防いだのでことなきを得た。
市内線休止のため、人力車の料金が平日の倍になったと新聞の記事にみえている。

9月9日
市内線全線を運休。軍隊による警戒がいよいよ厳重となって、市民は冷静を取り戻す。夜も平穏となった。

9月10日
平常運転に戻る。

この事件で被った損害は、車両が合計23両を数えこのうち5両が焼けて使用に耐えなくなった。その他、建物・軽微な破損・防御のための設備や人員配置・運休による収入の途絶が痛手となった。

事件の後、新運賃は当初案よりも低い水準に引き下げられて実施された。その後は経営合理化を強いられるも、次第に郡部線も含めて業績が向上した。ただし一層の合理化・能率化のために、市内線の運賃の均一化を導入すべく市当局に申し入れるのだった。

市内線の名古屋市への譲渡

大正9年3月に名古屋市に提出された運賃改正案には市内線の「均一制運賃」化が盛り込まれていた。同年6月7日未明に発生した那古野車庫の全焼による99両の焼失という痛手も加わって、会社側は早期の実現を希望していた。しかし諸事情により回答は留保された。
実は明治41年6月1日、会社と市の間で「報償契約」が結ばれていた。公共性の高い鉄道会社が「儲け過ぎている」という批判に対して市会から議論が出たもので「純利益の3パーセントを市に納付し、満25年後には市の希望により一切の買収に応じること」という条項が含まれていた。またこの契約によって競合他社の電鉄申請を排除できたのである。
しかし一民間企業による市内交通の独占が運賃の高水準につながっている、という批判も先の焼打事件の背景にあり、他の大都市も横浜市を除いて市営に移管されているので(横浜も大正10年4月に実施)世論や世のすう勢を考慮せざるを得ない状況にあった。
市側は交渉の準備を整えていたが、会社側は収入の7割を依存する市内線を切り離して郡部線に活路を見出さねばならない、という楽観を許さない状況があり、また譲渡価格などで紆余曲折があったが、結局大正10年10月7日、譲渡契約が締結された。その「後」開かれた株主総会の紛糾もあったがとにかく譲渡が本決まりとなって、運賃の「均一制」も同年12月1日から、会社原案の通り実施された。
大正11年8月1日、市内線の名古屋市への譲渡が実施された。

その後の名鉄

市内線譲渡が確実な情勢となり、郡部線の経営を考えると税制・免許・会計上の理由により新会社に移行するのが有利と判断され、許可の下った大正10年7月1日をもって「名古屋鉄道株式会社」が創立した。以後、名古屋から北西部の私鉄を買収して一大勢力となり、木曽川以北の多くの路線を保有していた「美濃電気軌道」を合併した後の昭和5年9月5日に、岐阜をもじって「名岐鉄道株式会社」となる。また昭和10年8月1日、名古屋より東で一大勢力だった「愛知電鉄」と合併、社名が再び「名古屋鉄道株式会社」となったが、この合併は名岐が愛電を吸収する形になっていた。実際、愛電の創立は、名岐の母体である愛知馬車鉄道より16年遅い明治43年である。

したがって愛知馬車鉄道〜名岐鉄道が、その後の名鉄の母体と言える訳である。その後昭和16年に新名古屋地下駅が開業、昭和19年に戦時輸送のため突貫で作られた新名古屋〜神宮前の東西連絡線などを経て、名鉄の現在の飛躍がある。

名古屋市交通局

「交通局」に改称したのは昭和20年10月2日。それまでも、バスとの競合〜買収、路線網の拡張などに努めてきたが、第2次大戦末期以降の荒廃も事実だった。昭和32年に名古屋〜栄町間が開通した地下鉄は以後路線が拡充し、昭和49年に市電は全廃。さらに地下鉄が建設され現在に至る。

名鉄豊田線開通

昭和53年に瀬戸線が栄町乗り入れを果たした翌年、昭和54年には豊田線の梅坪〜赤池間が開通。ここに、名古屋市交通局鶴舞線との直通乗り入れが実現した。郊外路線と市内路線のドッキングは戦前の押切町廃止以来である。その間、何十年の両者の関係はハタ目に見てもスムーズではなかった感がある。瀬戸線の栄町乗り入れは名古屋市の高速鉄道(地下鉄)計画に組み込まれていたが、その実施に際しての折衝では、名古屋市が名鉄に対して地下鉄の規格を採用するように譲らなかったと言うし、豊田線の建設にしても利権が絡んで時間が掛かり過ぎている印象がある。

ところで、この2つの事例は深い関係がある。愛電が合併した東海電気鉄道や三河鉄道では名古屋市東部の八事から豊田方面に至る路線の構想を抱いており、その免許を名鉄が保有していた。瀬戸線の栄町乗り入れ交渉では、これの名古屋市内にあたる八事〜赤池間の免許を市側に無償譲渡することの引き換えで協定が調印された経緯がある。ともあれ名鉄豊田線と地下鉄鶴舞線の直通乗入れ以降、基幹バス路線への名鉄バス乗入れ、金山総合駅の実現など両者協調しての、利用者に便利な施策が増えて何よりである。

...という経緯があったが、

とにかく「名鉄の母体」の営業開始は名古屋市内の路面電車の開業であり、すなわち「名古屋市交通局の母体」の営業開始と同じなのである。今日の両者の関係を顧みると、冒頭の「名古屋都市交通100周年」という共同企画も大いに理解できる。
この項、終わり。

オマケ


その「金山総合駅」構想は、戦後から随分な時を経て実現したが、上記2者の他に旧・国鉄〜JRも絡んで、なかなか協議がまとまらなかったらしい。旧・国鉄では駅の新設は現実的に「地元請願駅」のみであり、その費用は全額地元で負担するものとしていた。金山駅もそれに該当し、国鉄としては駅を建設するメリットがないから地元で勝手にやってください、という態度であった。
地元では博覧会の開催が迫っており、これに合わせてとにかく連絡橋を建設し、そこに各社の駅を隣接して設け、滑り込みで総合駅が実現した。

ところが、総合駅が開業するとJRはサッサと快速停車駅を熱田から金山に変更して、(乗換え客には利便が向上したが)オイシイところを持って行った。JRの言い分はともかく、結果から言って私はJR東海に対してとても心象を悪くした。


情報をお寄せください。当方で吟味の上、ご紹介の機会も設けたいと思います。

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