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死刑廃止に反対する
〜形式的正義論からの死刑制度の再評価について〜

中島 健

1、はじめに
 このところ、少年による残虐な犯罪が相次いでいる。精神病院退院直後に高速バスを目的無く襲い、人質1人を殺害した九州の17歳。「人殺しが経験してみたかった」という愛知県の17歳。白昼堂々、同級生や教師を刺殺した中学生。下級生に笑われたことを根に持って殴打した上母親を殺害し逃亡した高校生。殺人ではないが、5500万円の恐喝と度重なる傷害を行った名古屋の中学生。山口県光市では、何等の罪もない母子を強姦殺人した19歳の少年が、一審判決で無期懲役刑を宣告され助命された。その他、成人の事件としても、宝石店店員5人を殺害放火した上貴金属類を強奪した事件、東京・池袋の路上で通行人を無差別に殺害した事件、そして世界犯罪史上も類を見ない東京地下鉄サリン事件があった。そして、こうした重大凶悪な事件の犯人が最終的に課されるであろう刑罰の中で、「死刑」は最も重い刑罰であり、応報的色彩の強いものである。
 現在、我が国の刑法(刑罰法規)にはこの極刑「死刑」を適用される可能性のある犯罪が20以上規定されているが(※注1)、最近の死刑執行数は毎年1ケタ台で推移している。そして、死刑制度は、我が国が先進国ではアメリカと並んで数少ない存置国であることもあって、我が国世論でもしばしば死刑廃止が主張されている。
 しかしながら、死刑にまつわる議論は、ともすれば議論の地平を違い、感情的な主張が繰り返され、結局平行線のままになることがしばしばある。また、これまでの議論では、死刑反対論についてはそれなりに積極的な主張が為されてきたが、こと死刑賛成論については、これを積極的に意義づける形の主張は少なかったように思われる(それは、せいぜい「死刑は止むを得ない」といった消極的な論調であった)。
 そこで本稿では、既存の死刑反対論(あるいは賛成論)の問題点を指摘した上で、私が死刑制度を支持し、そこにむしろ積極的な意義が存在すること、即ち、死刑を廃止することこそが正義に反する、ということを主張していきたい(※注2)

※注釈
1:
現在、死刑が課される可能性のある主な犯罪は以下の通りである。

法  律罪 名
刑 法
(明治40法律第45号)
内乱罪 第77条①1号
外患誘致罪 第81条
外患援助罪 第82条
現住建造物等放火罪(第108条)
激発物破裂罪(第117条)
現住建造物等浸害罪(第119条)
汽車転覆等致死罪(第126条③)
往来危険汽車転覆等致死罪(第127条)
水道毒物等混入同致死罪(第146条)
殺人罪 第199条
強盗致死罪(第240条)
強盗強姦致死罪(第241条)
爆発物取締罰則
(明治17年太政官布告第32号)
爆発物使用罪(第1条)
 航空の危険を生じさせる行為 
の処罰に関する法律

(昭和49年法律第87号)
航空機墜落等致死罪(第2条③)
航空機の強取等
の処罰に関する法律

(昭和45年法律第68号) 
航空機強取等致死罪(第2条)
人質による強要行為等
の処罰に関する法律
(昭和53年法律第48号)
人質殺害罪(第4条)
決闘罪ニ関スル件
(明治22年法律第34号)
決闘殺人罪 第3条

2:なお、本稿において、「終身刑」(仮出獄を認めず、自然死するまで監獄に拘置する刑罰)は、不作為による消極的な死刑(生命刑)の一種であると考える。

2、議論の地平
 前述したように、死刑問題を混乱させている一つの要素として、この問題を論じるにあたっていくつかの地平が存在していることが挙げられる。具体的には、以下の5つの地平が存在しているといえよう。

憲法学的地平
刑事政策的地平
犯罪者処遇法的地平 
被害者学的地平
倫理的地平
死刑制度は憲法上許されるのか。
死刑制度に一般予防効果(抑止力)はあるのか。
死刑犯人は更正可能か。
死刑執行は被害者感情を慰撫するか。
理由を持ち出して死刑=殺人は許容されるのか。

 そこで、この章では、①から④までの地平について、一つずつ検討してゆく。  

1、憲法学的地平
 憲法学的地平とは、死刑制度が生命を含む基本的人権の保障とどう関係づけられるのかを議論するものである。現行 憲法第11条 は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と規定して基本的人権の不可侵を謳っており、また 第13条 は、「すべての国民は、個人として尊重される。生命自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」として、個としての尊重を規定する、更に、「法定適正手続(Due Process of Law)の保障」を定めた 第31条 は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。」としており、これらの規定から、死刑反対派は、憲法上、国民の「不可侵の権利」である生命権は奪えない、と主張する(※注1)。また、死刑反対派は、 第36条 に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」と規定されていることを以って、死刑は「残虐な刑罰」であり、 第36条 の観点からも禁止されている、と主張している。
 こうした反対論に対しては、最高裁判所が、昭和23年の大法廷判決の中で、憲法論としての反論を表明し、判例として定着している。それによると、まず、「残虐な刑罰」とは「不必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰」であるとし、現行の絞首刑による刑罰は(火あぶり等とは異なり)「残虐な刑罰に該当しない」としている。また、上記条文との関連で最高裁は、国民の基本的人権といえども、 第13条 に規定されるように「公共の福祉」によって制約を受けるのであり、また 第31条 については、これを反対解釈して、「法律の定める正当な手続によれば、生命若しくは自由を奪われることもあり得る(※注2)との見解を示し、憲法違反にはあたらないとした。なお、この時の最高裁判決は、死刑の存在理由として、「死刑の威嚇力によって一般予防をなし、死刑の執行によって特殊な社会悪の根源を絶ち、これをもって社会を防衛せんとしたもの」であるとして、後述するような刑事政策的地平からの説明を試みている。
 このように、現在の判例の法律構成によれば、現行憲法は死刑を禁止していないとしている。 憲法第31条 の反対解釈を基礎とする最高裁判決が、法律論としては一歩リードしているものと言えよう。しかし、いみじくも最高裁が判決中に刑事政策的地平に言及しなければならなかったように、この解釈では死刑を「やむを得ないもの」として消極的に承認するに留まり、これを憲法上積極的に位置付けること(つまり、「死刑を廃止することが逆に憲法違反だ」と言える程度にまで積極的に肯定すること)には失敗している(死刑廃止は立法裁量で可能だとしている)。そして、現在、刑事政策的には死刑制度の一般予防効果については(後述するように)必ずしも明らかになっていないので、この最高裁判決は、死刑反対派から厳しく批判されているのが現状である。

2、刑事政策的地平
 刑事政策的地平とは、そもそも死刑制度に一般予防効果(※注3)はあるのか、という論点である。つまり、本来、刑罰には犯罪者自身を再教育して二度と犯罪をさせない、という「特別予防」的効果と、犯罪者を処罰することで広く社会一般に対する予防効果を期待する「一般予防」的効果があるとされるが、犯罪者を「社会復帰不能」として処刑してしまう以上、死刑に前者の効果は無い。すると、残りは死刑に一般予防的効果があるかどうかが問題となる。仮に、死刑にそれなりの犯罪抑止効果があると証明されれば、死刑制度はこの観点から積極的意義を見出せようが、逆にそうした効果が無ければ、死刑も又無駄だということになる。そして、現状では、死刑制度にこうした明確な一般予防効果があることを実証した研究は存在しない(一部、予防効果なしと証明した研究もあるが)と言われている。
 もっとも、死刑反対派のこうした「教育刑論」の考え方に対しては、「犯罪行為に対する応報の側面を軽視すべきでない」として、「応報刑論」の立場からなお死刑の意義を見出すことは出来る。また、実際に、現在の統計学的調査では、死刑に一般予防効果があるや否やは科学的には立証されていないため、この点については議論を深めることは出来ない。但し、死刑を倫理的に否定する立場からは、如何に科学的な証明や刑事政策的意義が見出されたとしても、なお死刑反対論に対する有効な反論ではないと見なされるであろう。
 なお、この地平に多少関係する問題として、刑事訴訟上の「誤審の可能性」が考えられるが、現在、毎年死刑を宣告されているのは1ケタ台の被告人で、罪責も強盗殺人罪(法定刑は死刑又は無期懲役で未遂も処罰)と重大であり、科学捜査技術も発達して現在では「誤審の可能性」は限りなく0に近いと言えよう(※注4)

3、犯罪者処遇法的地平
 犯罪者処遇法的地平とは、死刑囚の更正・社会復帰の可能性についての議論である。これは、上記の刑事政策的地平とも関係するが、死刑支持派は、所詮凶悪な罪を犯した行為者は凶悪な性格が定着してしまっており、社会復帰は不可能であるから、強暴な犯罪者から社会を防衛するために死刑を執行すべきであるとする。これに対して死刑反対派からは、更正の可能性はそう簡単に形式的に決定されるものではないとの反論がある。
 実際に、実証主義的立場からこの問題を検証するには医学・統計学の知識が必要であろう。

4、被害者学的地平
 被害者学的地平とは、死刑執行と遺族感情の問題を議論するものであり、死刑反対派は、死刑が執行されたからといって遺族の精神的苦痛は避けられるものではなく、むしろ生きたまま罪を認め、一生かけて償ったほうがよいと主張している(※注5)。一方、死刑支持派は、死刑執行こそ遺族の感情を緩和する効果を発揮するのであり、また死刑囚自身も、死刑という威嚇力があるからこそ、はじめて真摯に反省するようになる、と主張する。支持派は又、国民感情の観点(現在、我が国においては、多くの国民が死刑に賛成している)からも、我が国が民主主義国家である以上は、死刑は存置されるべきだと主張している(※注6)
 もっとも、この議論については、反対派・賛成派とも論じる意義が薄い。何故ならば、一般にその遺族にとって死刑執行がどのような意味を持つのかを特定するのは困難だからであり、執行が被害者の「溜飲を下げる」かどうかは個々の被害者によって異なるからである。ちなみに、筆者としては、「赦し」とは刑の執行を終わってケジメをつけてからはじめて当られるべきものである、と考えることからも、死刑に賛成する。

※注釈
1:
憲法というものはそもそも国民が制定したものであるから、その憲法によって生命を奪われるというのは矛盾している、と主張する。
2:「法律の定める手続によらなければ、その生命を奪われない」と規定されているのだから、「法律の定める手続によれば、その生命を奪われる」と読めるわけである。
3:社会に対する犯罪抑止力。

4:逆に、自由刑を以って処断する場合であっても、「失われた時間」は戻ってこない以上、司法当局が誤審の無いように捜査を進めることは重要であり、死刑と自由刑についてその義務に差は無いというべきである。
5:もっとも、厳格な
死刑廃止論者からすれば、被害者感情を慰撫するかどうかに関わらず、違憲なものは違憲である(被害者感情を以って死刑を正当化できない)と主張しているのだが。
6:これについて
死刑反対派は、死刑存置の世論を抑えて廃止を断行したフランスを例に出して、こうした国民世論は「政治のリーダーシップ」によって無視されるべきだと主張している。

■3、倫理的地平と形式的正義論
 以上、死刑制度を論じる地平を1〜4まで見てきたが、これらの所説はいずれも技術論的な観点から死刑を論じている。そして、いずれの地平においても、これまでのところ死刑廃止派が一応優位に立っているものと思われる。
 しかし、法制度の一つとしての死刑を論じるにあたって最も重要なのは、それを倫理的(正義論的)にいかに正当化できるのかということである。何故ならば、如何に技術論的には死刑が肯定されたとしても「倫理的に悪」な制度は批判の対象となるであろうし、逆に如何に技術論的には積極的意義が見出せなくても、「倫理的に善」(行わないことが悪)な制度は実施されるべきであるからである。

1、倫理的な反対論
 この点、倫理的な反対論は、「地球よりも重い」人間の生命の絶対性という観点からこれに反対している。人間は「我思うゆえに我あり」なのであり、過ちを犯した当の犯罪者はともかく、それを処罰する立場にある我々は、如何なる場合であっても他人の生命を奪ってはならないというのである。もっとも、この主張は、後述するように結果として人々に「生命の不平等」をもたらすことは避けられず、「人命は地球よりも重い」という当初の所説との根本的矛盾は避けられない。
 また、犯罪者の「自由意思」の存在に疑問を呈する立場から、犯罪行為の本人への帰責性を否定する所説もある。つまり、我々は個人として独立し自由意思の下で犯罪行為を選択したように見えて、実はその人が置かれた環境に強い影響を受けているのであり、よって、責任の一旦はその「環境」(外部)に存在する以上、行為者に全ての責任を負わせることは不適当だというのである。もっとも、極端な運命論(あるいは唯物論)的立場を取らない限り、人間の「自由意思」を低く見積もることは、一見犯人の人間性を保護しているようで、その実犯人の人間性を強く否定していることにもなろう。思うに、我々の人類の歴史は、「環境」と「自由意思」のぶつかり合いの中で、僅かにせよ「自由意思」が勝利してきたからこそ続いてきたのであり、これが人間動物との決定的な違いなのではないだろうか。

●2、形式的正義論からの肯定
 では、倫理的な立場から、死刑を積極的に肯定することは出来ないのであろうか。
 そこで私は、以上の如き既存の死刑賛成論に代って、形式的正義論の観点から、衡平equity)を理由とした死刑賛成論を主張したい。それは、実質的正義とは容易には定義し難いものだからであり、膨大な基礎資料から帰納することは可能にしても、それ以外のほうほうでそうした実質的正義を確定することは、もはや価値相対主義、賢慮(phronesisprudentia)によるほかないと考えるからである(※注1)
 さて、形式的正義論に立ち衡平を重視するとはどういうことか。それは、「自己の権利は主張しながら、他者の権利を尊重しない者」を形式的正義論からして「悪である」とすることである。より平易に言えば、他者を理由無く差別的に扱っている「エゴイスト(二重基準の者)」を悪とするということである(※注2)。二つの事例を個体的同一性における相違のみに基づいて差別的に取扱ってはならないのであって、二つの事例の差別的取扱いが許されるのは、両者の間に普遍的特徴における重要な相違が存在する場合に限るのである。
 こうした「普遍主義的要請」「形式的正義理念」は、「等しきものは等しく扱え」「各人に各人の権利を分配せよ」といったかたちでローマ時代から言い伝えられてきている人類の知恵であり(※注3)、現代の我が国においても、という「クリーンハンズの原則(※注4)や「禁反言(エストッペル)の原則(※注5)といった形で根付いているのである。
 なお、死刑反対派からは、犯人が置かれた環境その他の外部的要因は「両者の間に普遍的特徴における重要な相違」として斟酌されるべきである、との反論が為されるかもしれない。しかし、具体的にどの要因が斟酌されるべき「重要な相違」でどの要因がそうではないのかについては、客観的・合理的な基準を定立できない以上常に恣意が入り込み、生命尊重に関する形式的正義を歪める可能性があるのであって、故に年齢・精神疾患・生活環境であっても「重要な相違」を簡単に認めることは出来ないのである(暴行・傷害罪など生命侵害に至らない場合はなお柔軟な対応も可能だろうが、ことが生命だけに、そう簡単に例外を認めるわけにはゆかない)。

3、形式的正義論の適用
 では、こうした点から殺人犯人を評価すればどうなるであろうか。
 まず、故意の殺人を犯した加害者は、他人の生命権を尊重しようという意思が無いのであるから、その生命も又法的保護を失い、衡平の立場から価値を失う。よって、基本的には、殺人犯はどのような場合であっても原則死刑であり、むしろ死刑としないことのほうが衡平を失する「不正義」である。但し、その犯人の「他人の生命を尊重したいと想う度合い」によっては、情状酌量の余地があるから、無期刑、懲役刑、と減刑することは出来る。例えば、 正当防衛緊急避難 における殺人行為は、「他人の生命を尊重する」という基本的意思はあるので、死刑は当然に免れる。また、家庭内暴力に耐えかねた妻が夫を殺す、といったケースも、正当防衛ほどには正当化されないとしても、なお「他人の生命を尊重する」という姿勢を見出すことは出来るので刑を減軽されよう。
 次に、過失致死罪についてだが、この場合、犯人は基本的には他人の生命を尊重する意思があるのだから、基本は「無罪」である。しかし、それでも何等かの注意義務を怠り重大な結果を招いたわけであるから、実際には「他人の生命尊重が不十分であった」ということで刑罰を受けることになるだろう(※注6)
 このように、形式的正義論は、個人の生命無限大に尊重する一方で、他者のそれを尊重しない者に対しては、こうした保護を剥奪する。いや、むしろ、殺人犯人から生命の保護を剥奪しなければ、社会全体としての生命の尊重を維持できないというのがこの説の核心である。他者の生命を尊重しない者を助命することは、即ち相対的に見て生命を尊重しているその他の国民の生命を尊重しない不正義となるからである。従って、この立場からすれば、政府が死刑を廃止してしまい、国民全体の生命尊重を軽視することこそが、むしろ「個人の尊重」を定めた 憲法第13条 や「法の下の平等」を定めた 第14条違反する行為であると評価される。また、この原則は、(前述したように)加害者が少年であろうと精神病患者・意思無能力者であろうと例外を認めない。何故ならば、意思無能力者とは「生命について尊重・軽視の判断が出来ない」者つまり「積極的に他人の生命を尊重する」という意思が無い者なのであり、よって、実際に殺人行為に出た以上は、自身の生命尊重について保護を失うからである。

※注釈
1:
むしろ、下手な実質的正義の追及は却って衡平を損ねる。
2:この議論は、「被害者学的地平」が言う「被害者の応報感情」とは異なることに注意を要する。即ち、形式的正義論により死刑が執行されるのは、それによって形式的正義が回復されるからであり、例え被害者家族が犯人の生存と謝罪を望んでも、除名を許すものではない。それは、後述するように、そうして殺人犯を除名することは、相対的には社会のその他大勢の生命尊重を蔑ろにすることになるからである。
3:例えば、ラファエロのフレスコ画『正義』(1508年、ローマ・ヴァティカーノ宮殿「署名の間」天井にある)には、正義の女神の周囲に「各人に各人の権利を分配せよ」の文字版を持った天使が描かれている。この文句は、ローマ皇帝ユスティニアヌスの編纂した『ローマ法大全』「学説い纂(
Pandectae)」第1巻第1章第10法文の引用であるが、こうした感覚は、このようにローマ時代から人間社会に存在していたものだということが出来よう。
4:「汚れた手で法廷に入ることは出来ない」=「自ら法を守る者だけが法の尊重を求めることができる」という原則。
 例えば、民法上の債権発生原因の一つに「不当利得」があるが、不法原因給付物(例えば、人身売買で手にした金とか、賭けマージャンで負けた分のお金)については返還請求が出来ないようになっている(賭けマージャンは違法なのであるから、相手がそれで負けた金を払わなくても、裁判所に提訴することは出来ない)。 
5:「自己の行為に矛盾した態度をとることは許されない」という原則。
6:なお、現行法上
内乱罪 外患誘致罪 は死刑になっているが、形式的正義論の観点からもこれらは正当化し得る。何故ならば、内乱とは国内における組織的な武力行使を伴なう戦争であって、戦争が生命を軽視するものである以上、これを実行することを決意した首謀者は形式的正義論で判定しても「悪」と評価されるからである。

■4、形式的性議論の特徴
 さて、こうした形式的正義論は、従来の刑法学説と比べて、次の2つの特徴を有する。

●1、刑事手続の視点変化
 第一に、形式的正義論は、刑事手続の基本的哲学を「国家刑罰権の発動とそれを受忍する被告人」という公法的な上下関係から、「加害者と被害者」という私法的な水平関係へと変え、真の意味で諸個人の平等個性尊重を実現する。
 従来の視点では、検察官が国家を代表して刑事裁判権を行使し、刑事手続法は、国家と比較して弱い立場にある、被告人の人権を擁護することを重視してきた。例えば、被疑者・被告人に自己負罪特権や黙秘権が認められたり、国選弁護人がつけられたり、挙証責任(証拠を挙げて裁判官を納得させなければならない責任)を検察側に与えている(被告人は「無罪推定」が働くので「自分が犯人ではない」ことを証明する必要は無く、有罪を立証しようとする検察側の議論を否定すればよい)のは、そのためである。
 しかしながら、その結果、「被害者との衡平」という視点は隅に追いやられ、今日の我が国においては、一人、被害者の生命権だけが蔑ろにされてきた。例えば、最近になってようやく改善されつつあるものの、依然として被害者家族に刑事裁判に積極的に関与する道は無く、少年事件に至っては犯行事実はおろか被疑少年の名前すら知ることが出来ない有様である。山口県光市の母子強姦殺害事件では、被害者の夫が遺影を持参して傍聴席に入ろうとしたところ、裁判長から遺影を隠すよう命じられるという事件すらあった。
 その点、形式的正義論は、従来の刑事行政がもたらしたこの弊害を、根本的に是正するものであると言えるのである。

●2、主観主義と客観主義の止揚
 第ニに、形式的正義論は、従来の犯罪理論における主観主義客観主義の枠組みを超え、妥当な結論を導き出すことが出来る。
 例えば、形式的正義論は、未遂犯を「他人の生命を尊重しない」者として既遂と同列に扱う点や、広義の社会防衛を目指している点で、主観主義と異なる所はないが、その犯人に課す刑罰を「応報刑」とする点で、「教育刑」を課す主観主義とは異なる。何故ならば、そもそも応報刑論と目的刑論の議論は、国家刑罰権を正当化する根拠として論じられてきた対立であり、国民相互間の視点で判断する形式的正義論においては、その対立は止揚されるからである。
 これを具体例を交えて述べると、人形を人間と間違えて射殺した犯人を「不能犯」と呼ぶが、主観主義の立場では、これを「既遂」とし教育刑を、客観主義の内、「行為責任論」では、具体的危険が生じたので「未遂」とし応報刑を、「結果責任論」では、客観的な法益侵害が無かったので「処罰できない」という結論に達っします。しかし、形式的正義論によれば、これは犯人の「他人の生命を尊重しない態度の表れ」であり、よって犯人の生命も又尊重に値しないことになるので、これを「既遂」とし、原則として応報刑たる死刑を課することになるのである。

■5、おわりに
 「」は、フランス語では「客観的権利」と表現される。つまり、各人が持つ「主観的な権利」ではなく、あくまで客観的な、そして誰に対しても平等に有効なもの、これが「法」なのである。故に、我々が「法」に基づいて「権利」を主張する際は、他人が同じく「法」に基づいて主張する「権利」をも擁護する「義務」を伴うのであって、ある場合に自己の「権利」のみを主張し、他者の「権利」を尊重しないというのは、「法」の名を借りた「不正」に他ならない。この点、既存の死刑反対論は、犯罪者を助命しようとしているので一見個人主義的、生命尊重主義的に見えるが、その実は極めて一方的な生命尊重論であり、エゴイスティック不正義との評価を免れ得ないのである。
 無論、自分にとって都合が悪い場合に、自分と同じ「権利」を他者が行使するのを受忍するのは、時として苦痛を伴うものであり、我々はしばしば、これを圧殺したくなる誘惑に駆られる。しかし、そこで、他者を尊重するのか、それとも安易な道を選ぶのか。これこそが、真の意味での「法の支配」「理性の支配」を受け入れるかどうかの、重大な分かれ道なのではないだろうか。

※主要参考文献
芦部信喜  『憲法』新版 岩波書店、
1997
芦部信喜・高橋和之編 『別冊ジュリスト 憲法判例百選Ⅱ』 有斐閣、
1994
井上達夫 「正義論」『現代法哲学 1法理論』(長尾龍一・田中成明編) 東京大学出版会、
1983
田中成明 『法理学講義』 有斐閣、
1994
前田雅英 『刑法総論講義』 東京大学出版会
森 征一 「中世イタリア都市社会における『正義』のイメージ」『法と正義のイコノロジー』 慶應義塾大学出版会、
1997

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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