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21世紀日本の課題
〜年頭雑感〜

中島 健

1、はじめに
 遂に、21世紀がやってきた。
 たしかに、21世紀(西暦2001年)というものは、たかだかキリスト教歴の2001年目ということに過ぎず、元号、皇紀、イスラム暦、仏暦等で見れば、今年は区切りの年でも何でもないかもしれない。
 しかし、その一方で、この100年は、明治維新からはじまった我が国の近代化と敗戦による挫折、そして戦後の復興を含んだ激動の100年だったのであり、なおかつ、最近の10年は特にモダンを超えたポスト・モダンの時代を予感させる時代でもある。
 そこで、この新たな世紀を迎えるにあたり、我が国が抱えるいくつかの問題について、雑感を記したい。

2、外交・安全保障
 2つの世界大戦及び1つの冷戦を経験した20世紀は、「戦争の世紀」であったとよく言われる。そして、その「反省」として、「21世紀は戦争の無い世紀であるように」とよく祈念される。
 しかし、現実を見れば、100年たって世紀が変わっても、「戦争」そのものが無くなるということは容易には想像し難い。無論、その性格や規模は、20世紀の大戦争と比べれば格段に小さなものではあるが、しかし依然として「戦争」が国際社会の不安定要因であり続けることはまず間違い無い。特に、相互依存関係の進んだ先進諸国としては、およそ世界のどこで武力紛争が発生しようとも、それを放置することは出来なくなるであろう。それ故、21世紀における「安全保障」とは、「安全」自体が、国家と国家の直接的な対立による全面戦争ではなくなった分、自国のみを軍事力で防護していればそれで安全保障が達成されるということではなくなり、世界全体の平和と安定を意識せざるを得なくなるであろう。そしてそれは、先進国と発展途上国との間で、IT技術によって更に加速されるであろう政治的、経済的格差が存在する限り、解消されないであろう。21世紀にあっても、人類は主権国家を、そして戦争を廃絶など決してできないし、そうしようなどと思って出来るほど生易しいものではないのである。

 

▲経済外交は成功したが・・・(写真左は外務省、右は防衛庁)

 こうした中で、世界第2位の経済大国である我が国が、世界の平和と安定のために、その地位に相応しい国際貢献をしなければならないのは、論を待たなない。その貢献とは、無論、非軍事的なものから軍事的なものまで様々であるが、現在我が国が行っているのはほとんどが非軍事的なそれであり、非軍事面に偏りすぎている。一般に、軍事的貢献は、非軍事的なそれだけを行った場合と比較して、紛争当事国のより強い信頼を得やすい。それは、ある地域のトータルな平和と安定を考えるとき、軍事・経済・文化の各側面のうち軍事だけ切り離しても無意味なのであり、軍事的処理が終わってはじめて経済的復興を語り出すことが出来るものだからである。経済的復興は、資金調達先を変えればいくらでも選択の余地があるが、こと軍事的な紛争処理については、それが人の生死、住民の生活に直接関わるだけに、「余国を以って換え難い」大きな信頼を生むのである。我が国がこうした軍事的貢献を為すことは、「20世紀型国家間戦争」を禁止した(に過ぎない)現行 日本国憲法 の理念と些かも乖離するものではなく、むしろそれが積極的に要請しているとすら言える。「 平和憲法 」があるからこそ、軍事的貢献が、従ってその一事象としての集団的自衛権・集団安全保障上の海外における武力行使が容認されるべきなのである(このIT時代に、誰も領土的野心を持って侵略行為を好んでする者など、少なくとも我が国にはいない)。「 平和憲法 」との抵触や近隣諸国の対日感情悪化を恐れるあまり、「我が国は非軍事的な貢献に撤するべきだ」等という見解を主張する識者もいるが、それではいつまでたっても「ODA大国」のまま、「気前のよい富豪」のままで、真の友好、真の信頼を勝ち取ることは出来ない。金で友人を買うことは出来ないのである。

3、憲法
 東西冷戦が終結して保革による国内冷戦も終わりを告げ、本来は「議会政擁護」であるはずの「護憲」を「 9条 擁護」と意図的に読み替え、意識としては「議会政」を軽視しつつも頑なに憲法を「守ろう」としていた革新勢力が衰退するに至った今日、憲法改正、ことに9条改正はもはや必然である。
 よく、「21世紀には 日本国憲法 の平和主義の理念が世界中に広がって、戦争が廃絶されるかもしれないから、理念としての平和主義は堅持すべきである」といった理由で 9条 改正に反対する議論が聞かれる。しかし、繰り返しになるが、21世紀にも人類は武器を手放さないであろうし、戦争はなくならないであろうし、ましてや9条の理念なるものが広まることもまた望み薄である。ここで「 9条 の理念が広まる」というのは、単にそれを人々が口ずさむようになるということではない。口ずさむだけの 9条 は無価値であり、単なる暗記行為、ないしは宗教的な自己満足的行為である。昨今、いわゆる20世紀的な国家間戦争が少なくなってきたのは、「 9条 の理念」ではなく「アメリカ型経済体制」と「アメリカ型民主主義」の2つが世界中に広まったからに他ならない。しかも、それを広めるにあたってアメリカは、場合によっては軍事力の行使をも辞さないという覚悟でことに臨み、実際にいくつかの地域紛争に関与した。無論、そこには戦争に巻き込まれた人々の幾多の悲劇や矛盾も存在したが、しかしそうしてアメリカが、その国民の生命をかけて主張してきたことはそれだけ真剣に受け止められ、今や全世界にそれが広まっている。アメリカほど嫌われる国もないが、逆にアメリカほど称賛される国も珍しいのである。翻って、我が国はどうか。「 9条 の理念」を伝えるために、自国民の生死をかけたりしたことがあったのか。折角アメリカ国民がその命を張って「アメリカニズム」を世界に広め、相互依存関係を深め、20世紀型国家間紛争を減らしたというのに、横から自閉症気味の日本人が出てきて、「戦争が減ったのは 9条 のおかげ」等とのたまうのは、アメリカにしてみれば笑止千万であろう。昨今の一部保守論壇ではこの「アメリカニズム」批判が盛んだが、それに代る世界的に通用する理念を打ち立て、「核兵器で脅してでも」それを他国に主張しようとする気概がなければ、それも所詮はちっぽけな反抗に終わってしまうであろう。

 

▲国会には憲法調査会が設置された
(写真左は国会議事堂、右は参議院憲法調査会)

 理念の継承は結構。誰だって、何か希望するときには夢を語るし、いくらそれで学力が身につくわけではないにせよ、大学受験生は湯島天神に御参りするものである。しかし、その理念の「宗教的御利益」は、実のところ「湯島天神の御守り」に等しいものに過ぎず(残念なことに、戦後半世紀の間「 日米安保条約 」という「新興宗教」によってその御利益があたかも実在するかの如く演出されていたため、戦後日本人は、麻原彰晃の空中浮揚を目撃してすっかりダマされてしまったオウム信者のように、その効力を迷信しているのだが)、世界平和に対してはローマ教皇以上の役割を果たすことはできないのが現実である。それでもよいならそれで結構。しかし、バチカン市国はとりあえずイタリアが平和でありさえすればよいが、日本国はそれでは済まされないのである。

4、法と社会
 政治の存在意義が「多数の民意の集約」にあるのに対して、司法の存在意義は「正と不正の識別」にある。従って、政治は人間の動物的存在の側面、主観的な利益を反映するのに対して、司法はその理性的側面、客観的・社会的な正義を反映する。換言すれば、司法は、その見解が多数によって支持されているかどうかにかかわりなく、あくまで「正」を追及するのがその任務なのであり、否、むしろ時には毅然として「民意」を裏切ることもしなければならないのである。
 ところが、戦後の我が国では、司法もまた主観的な正義の問題として語られる傾向が見られる。「我々の手本・アメリカ人は、権利をトコトン主張する」「欧米人の如く『権利のための闘争』をしなければならない」ということで、日本人に「権利意識」を求める主張をよく耳にする。そして、何を勘違いしたのだか、それが「法廷で自己の権利を最大限主張することはよいことだ」という誤解へとつながり、麻原裁判では、死刑廃止を目論む弁護団が検察側の立証に瑣末な反論を続けている始末である。だが、こうした主張や行動は結局、欧米人の法的行為の表層的な部分だけに着目したものなのではないだろうか。なぜならば、法廷で主張されるべきは「私の利益(主観的正義)」ではなくて「私の考える客観的正義とはこうであり、よって私の主張する主観的正義は客観的正義と一致している」ということなのであって、単なる個人的なワガママを述べることではないからである。英米法に「クリーン・ハンズの原則」という法理論があるが、これは「自己のこれまでの主張に反する主張をしてはならない」というものである。では、何故この原則があるのかといえば、それは法廷における主張というものが、単なる主観的正義以上の意味を持つものだからであろう(それが主観的利益に過ぎないのであれば、別に前の法廷で述べたことと違う正義を主張しても、何も問題は無いはずである)。つまり、「前の法廷ではAということを客観的正義=法であると主張していたのに、そうした主張が自分に不利に働くようになると、別の法廷ではBを客観的正義=法である等と言い出すことは身勝手であり、許されない」のである。自分が不利なときには適用されないルールなどというものは、そもそも「法」ではない。

▲日本人と法はどのような関係になるのか
(写真は東京地裁・東京高裁庁舎)

 だから、「司法は少数者の権利を守るところだ」という言い方は、誤りである(完全に誤りではないしても、誤解を招く)。何故ならば、司法にとって、それが少数者であろうと多数者であろうと、その主張する権利(主観的正義)が客観的正義に合致していればそれを救うし、そうでなければそれを退けるに過ぎないからである。少数者だからといって裁判所が常に味方をするわけでもないし、また多数者だからといって裁判所が常に優遇するわけではない。
 あるテレビ討論番組で、野党のある国会議員が、「戦後の日本の最高裁判所判事はずっと自民党政権が任命しており、それゆえ『消極司法』に陥っている。だから、我が党が政権を奪取したあかつきには、我が党の党派色の強い判事を任命するつもりだ。アメリカもそうやっている」と述べていた。また、最近では、「司法の民主化」ということがよく言われ、「司法制度改革」の一環として陪審制や参審制の導入も検討されていると聞く。だが、これらは「司法」制度というものの本質を誤解したものであり、ある意味では我が国司法制度を揺るがしかねない危険な思想である。何故ならば、既に述べてきたように、裁判所とは法原理機関であり、その判決が立法府の如く多数決で決まるようになったとき、その独自の存在意義は失われるからである。何でも「民主化」しさえすればよいというものではあるまい。

5、地方分権
 20世紀の日本の統治機構は、全体として概ね「中央集権」から「地方分権」へと変化していったと言える。最近では、北海道ニセコ町で「自治体憲法」とでもいうべき「町づくり基本条例」が制定され、「地方公共団体から地方自治体へ」の流れを先導している。
 しかし「地方分権を推進し、地方の多様性を生み出す」ということは、即ち「地方間の格差を助長し、全国一律でなくなる」ということでもある。例えば、地方交付税交付金というのは即ち地方公共団体間の「所得再分配」の制度であり、それが廃止されれば「貧富の差」が拡大して国土の全体的な発展に支障を来すのは明かであろう。即ち、「地方分権」論それ自体が諸刃の剣なのであり、今後の分権の進展がいいことずくめとは、一概には言えないのである。

▲省庁再編後の総務省は中央省庁として地方自治を担当する
(写真は総務省庁舎)

 もっとも、地方分権が進展して確実にいいことが一つだけある。それは、国政選挙における国民の投票行動に変化が期待できるということである。即ち、地方分権が進展し中央政府の任務が外交・国防等の基本的な国家的任務に限定される結果、国政選挙では今まで「票にならない」とされてきた外交・国防がきちんと争点として意識され、投票行動の判断材料となるということである。これは、外交・国防に良くも悪くも無関心(「民主外交」は、戦間期の失敗と第2次大戦の勃発でも明かなように、常に「秘密外交」より優れているとは限らない)な日本人に「国家」を意識させるよい機会となるのではないだろうか。

6、教育
 大学生という職業をやっていると、近頃の大学というものは実に戦後日本的であると思えてくる。といっても、それは肯定的な意味においてではない。他産業と同じく、大学も又ひとつの「産業」となり、経済成長原理の中に埋没してしまったということである。
 大学と中学の違いは、そこで教育を受ける人間の立場の違いに現れている。中学生(生徒)は、教師からほぼ一方的に学ぶ受動的な立場にあり、授業といっても知識のインプットが中心である(無論、徳育・体育はあるし、最近の教育改革論議では、小中学校段階から「自ら考える」能力の育成に力を入れつつあるが)。これに対して大学生(学生)は、知識習得と並んで、「自ら調べ、自ら考える」ことが要求されている。だから、試験評価もレポートによる場合が多いし、大学の授業といっても、学問生活の全てのメニューを用意してくれるわけではない。それは、図書館で自ら発見すべきものなのである。
 しかしながら、現在の我が国の大学は、今や「高等中等教育」の場になっている。即ち、教室に座り、教員の講義を受け、それを試験で書くという中学校的な「ノリ」が、そのまま大学にも持ちこまれているということである。そして、そうした雰囲気を謳歌し自由な時間をモラトリアムとして過ごす学生がいる一方で、他方では「大学の授業は就職に役立たない」として大学の授業を放棄し、ダブルスクールと称して予備校通いをする学生もまた多い(しかし、大学は本来、直接「金」になる技能を教える場ではない以上、就職に直接役立たないのは当然である)。即ち、現在の多くの大学生は、「アカデミズム」ということを一度も顧慮しないままに4年間を過ごし、卒業・就職していくというのが事実なのではないだろうか。
 だが、いくら「高等教育の復権」を唱えてもなかなか現実は動かない。それは、前述したように、大学教育自体がビジネスと化し、内容よりも資格として重宝されているからだ。そこでは、言わば大学版「売位売官」が行われているのである。これをなんとかしない限り、いかにAO入試やら総合学習の時間やらを取り入れて見ても、真の教育改革にはなるまい。

7、男女関係
 女性にとって20世紀は「解放の世紀」であり、1901年には「男の奴隷」だったのが100年かかって一応平等になったと言われている。特に我が国においては、1976年の日本国憲法に「男女平等」が盛りこまれたことで、その後の我が国の女性の地位は格段に改善された。もっとも戦前においても、社会の産業化と軍国化で、男どもが戦地に総動員された結果、国内における女性の地位は(明治初年と比較すれば)それなりに上昇していたと言われるし、家族制度の強化を企図して開始された昭和戦前期の民法改正作業が、結果としてむしろ都市における核家族の容認を余儀なくされたことも興味深い。
 だが、ここへ来て、この「男女」を巡る問題は一つの岐路に立たされている。
 これまで、女性を巡る問題といえば、一にもニにも「男女平等」であり(最近は「男女共同参画」)、「男のすることは何でもやりたい」というわけで、女性の社会進出が著しくなった。医療技術の発達で高齢出産が可能になれば「仕事も育児も両方やれる」等という主張さえ出てきている。即ち、「男」性や「女」性といった「個性」を、「人間」という属性を優先させ、あたかも両者が「中性な人間」であるべきといった議論になってきているのである。

▲政府も「男女共同参画」に取り組んでいる
(写真は男女共同参画を担当する内閣府)

 しかし、ここまで「平等」が喧しく言われるようになると、逆に「男女」の差異のほうが強く見えてくる。即ち、「女性は子供を産めるのに対して、男性は産めない」ということである。何故そうなっているのかは知らないが(多分、性別があったほうが個体間の遺伝子の「ミックス」が行われ、種として多様な個体を作ることが出来るからであろう)、社会・文化を時間を超えて繁栄させようとすれば、女性に「子供を産む」という役割を担ってもらわなければならないのは自明の理である。
 しかも、「子供を産み育てる」というのは、そんなに生易しいものではない。親の子供に対する影響力は強く、「一個の人格を創る」という作業はそれだけ慎重さと時間とを要求する。それだけ大変な作業でも無償なのは、大抵の親には「愛情」があり、健全に成長した我が子こそが「最大の報酬」になり得るからだが、少なくともそれは何かの仕事の片手間で出来るというものではない。親の「愛情」が足りなければ、その結果は子供にきちんと跳ね返ってくる。無論、理由があってやむなく母子家庭になってしまった場合は致し方ない。何も、母子家庭で育った子供がダメな子供だということを言いたいわけではない。ただ、母子家庭を支えている母親に、「両親が揃っていた頃と現在(母子家庭)と、どちらがより好ましいか?」と問うたら、(夫との性格不一致で離婚した場合はともかく)多くの母親は前者と答えるのではないだろうか、ということである。少なくとも、好き好んで母子家庭を勧める人はおるまい。私は、社会進出に伴う共働き化、「仕事も育児も」と安易に二兎を追おうとする最近の日本女性に、強い危惧を覚える。
 自分で、人生の目標とすべき「やりたいこと」がきちんとある女性は、それでいい。誰も、「女だから」といってそうした自己実現を妨害しようとは思わない。しかし、そうであれば、「それに加えて」子育てをやろう等とは思わないで頂きたい。「子育て」とはそんな生易しい覚悟で行われるべき「事業」ではないし、それは産まれてきた子供にとって不幸かつ失礼である(今日の自分自身があるのは、<大抵の場合>24時間「プロの育児家」として育ててくれた専業主婦の母親がいたからではないのか?)。仕事で疲れて帰宅しても、仕事のグチを一切言わずになお100%の愛情で子供を見つめられるならばいいだろうが、「男並み」に働くのであれば、それが可能かどうかは疑わしい。「家事に対する夫の協力があればやれる」というキャリア・ウーマンもいらっしゃるだろうが(もっとも、最近では、夫さえ切り捨てたシングルマザー<離婚等で母子家庭となった場合を除く>なる家族形態も登場しているが)、夫が夜勤で妻が昼勤ならともかく、父も母も昼間家を留守にしているのであれば、それは「協力」していることにならない。「(親が必要だというのは)3歳児神話に過ぎない」との反論があるかもしれないが、私の見るところ、むしろ「15歳児」だって、あるいは「18歳児」にだって、「親の目」というものは必要なのである。現に、24時間「育児業」をやっている家庭ですらも、子供の非行やいじめに上手く対処できていないではないか。いわんや「兼業主婦」をやである。これは、「過保護」ということでも「子供を甘やかす」ということでもない。中学生・高校生ともなれば、親の御小言は却って反発ばかり招くことになるだろうが、それでもなお、それだからこそ子供を叱れる親にこそ、真の「愛情」がある。
 もっとも、世の中には、(これは老若男女を問わないが)「人生の目標」として何か「やりたいこと」を強く意識している人間など、そう多くは無い。大学生は就職活動の時期になって、企業面接など近づいてくると、途端に今までちっとも見たことの無い「夢」を語りだすが、それも就職活動のマニュアル本を読んでのことである。これだけ「自由」な社会になって、宇宙飛行士から農家までありとあらゆる職業が用意され、「何にでもなれる」理想社会を迎えた今、若者はむしろ「何にかならなければならない」と焦り、「何にかなろうと思った」つもりになる。それを上手く表現できないと、「個性の発露」と称して流行の奇抜なファッション(それは、「個性」と呼ぶにはあまりにも広まっているものである)を身にまとい、自己のアイデンティティを回収しようとする。そして、それにつけこんだ大企業が、そのマーケティング力を駆使して、さも個性を磨き出すような、しかし実際には大量生産されている製品を、まるで御守りのように売りつけようとする(だが、それを非難するつもりはない)。そこで私は、1つの強い「やりたいこと」を見つけた女性に対しては、「がんばってそれを目指して下さい」と言ってそれを尊重することにしているが、そうでない女性、「やりたいこと」がわからない女性(わからないのにわかったフリをしている場合を含む)には、一律に「専業主婦になれ」、と主張したい(そして、「やりたいこと」がわからない男性には、一律に「女のために働け」と言うだろう)。これは、一見極めて時代錯誤的であるが、実はむしろ女性が有利な立場にあることを意味している。何故ならば、「やりたいこと」の見つからない男性は、とりあえず働くか、プータローになるか、さもなくば本当の意味で「透明な存在」になってしまうが、女性の場合は、少なくとも「主婦」にはなれることを意味しているからである。第一、「やりたいこと」が無いというのであれば、とりあえず人間として、生物として「やってもらわねば困る」ことをやってと頼んでも、バチはあたるまい。少なくとも、「やりたいことは無いけれど、主婦は奴隷だからやりたくない」というのは極端な自己中心主義である(主婦は奴隷ではない!)。これを「性的役割分担」等と言って非難するむきもあるが、現代社会において「役割」を得るというのが大事であることも又真実ではないだろうか。少なくとも、子供を産めるか産めないかといった重大な違い、そしてそれ故に存在する社会的な役割のある程度の相違を無視して、「男女は完全に平等だ」等とはとても言えないであろう。
 それに、「主婦」というのは「奴隷」のことではない。家族において「子供の養育」という重大な任務を担当している人間であり、夫はそうした妻の「仕事」に十分敬意を払うべきである(この点は男性側にも意識改革が必要で、子供のいる家庭では、夫の給料の半分は「子育て料」として妻に与えられるべきである。何故ならば、妻が行っているのは「家事労働」以上の「重労働」だからである)。否、むしろ、夫は妻のために働いているのであり、その意味では「夫こそ奴隷」なのである。また、先ほど「母は子育てに全力を注ぐべきだ」と書いたが、それは何も「子育て以外のことはやってはならない」ということではない。「子育てこそ本職である」ということを弁えてさえいれば、あとの部分では、「母」とは大学生なみに自由な存在である。なにしろ、「営利」ということを考えずに、様々な活動が出来るわけだから・・・。
 かつてイギリスは、女性・児童労働力を「安い労働力」として酷使しすぎた結果、社会全体の労働力の再生産、即ち適切な「子育て」が行われなくなってしまったが故に「工場法」を制定し、女性の労働を制限した。ところが我が国では、労働基準法が逆に男女平等に改正され、今や女性に対する保護の基準は男性のそれに近づいている。そのツケは、まだこの世に産まれてきていない、それ故に発言力を持っていない「子供たち」に回されるのであろう。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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