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裁判官に政治活動の自由を認めるべきか(第2回)
〜法的紛争処理の本質に迫る〜

中島 健

目次

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■第1章 はじめに
    第1節 寺西和史判事補事件
    第2節 高まる処分反対論
    第3節 問題意識

■第2章 処分反対論の根拠
    第1節 憲法上の政治活動の自由
    第2節 国民の司法に対する信頼
    第3節 諸外国との比較

■第3章 「裁判」の機能と政治活動
    第1節 司法裁判の特色
       1、司法裁判の特色
       2、司法裁判の限界
       3、裁判以外の紛争処理手段
       4、司法裁判のアイデンティティ
       5、司法裁判の不完全性
       6、法的紛争処理システムの存在意義 
           
(以上、前回)

           
    第2節 公平性維持の必要性
       1、フィクションを演じる必要性
       2、裁判実務に反映されている「フィクション性」
       3、価値観の多様化と手続的正義の重要性
       4、総合知、実践知としての法学
    第3節 比較法学的立場の難点

■第4章 寺西判事補の行動について

■第5章 おわりに

第3章 「裁判」の機能と政治活動(続)

●第2節 公平性維持の必要性
▲1、フィクションを演じる必要性
 さて、以上見てきたように、紛争の法的処理(裁判)は、つまるところ一種の「見せかけ」「擬制」であり、複雑な問題が入り混じる紛争そのものを端的に「解決」するものではない。つまり、「紛争解決」という観点からすれば、「法」は一つの「フィクション」なのであり、従ってそれを司る「司法官」は、その「フィクション」を「演じる」役割を負わされているのである。
 ここに、裁判官が「外見上も中立・公正を害さないよう」注意すべき義務の根拠がある。無論、裁判官といえども「人の子」であり、各々の政治的立場や価値観を持っており、「裁判官の公平性」といっても、それは間主観性=主観の共通部分に過ぎず、客観的に公平であることなどあり得ないことは確かである。しかし、こうした公的立場にある者は、例えその「公平性」が真実に反していたとしても、いや反しているからこそ、「公平性」という「フィクション」「擬制」を「演じる」必要がある。「公平性」が「神話」であるからこそ、その「神話」を維持する必要がある。何故ならば、再三書いているように、「それが法というもの」=「法というフィクションだから」であり、そうしなければ、紛争の法的側面だけ処理してあたかも紛争処理が終わったかのように見せる「法的紛争処理のフィクション性」「法の神話性」を維持できないからなのである。「法」は「正義」の代替物などという大それた役割を負わされているのであり(※注1)、従って裁判官「正義の代理人」「神の代理人」としての役割を負わされているのである(※注2)。換言すれば、「裁判官は人間宣言をしてはならない」のであり、ましてや、手続的正義が求められる現代の裁判においては、「裁判官の中立性」がいよいよ重要いになってくるのである。

▲東京地方裁判所・東京高等裁判所(東京都千代田区)

 このような「信頼される司法」を実践することは、しかし、実際には本質的にかなり難しいものであり、歴史的には、むしろ不公平な裁判官によって司法そのものに対する信頼を失った例があまりにも多いことに気づかされる。例えば、中世フランスの作家フランソワ・ラブレーは、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』という物語の中で、ブリドワという裁判官を登場させている。彼は、訴訟当事者が提出した証拠書類の重さを天秤で量り、重かった方に有利な判決を下すという設定であった。しかし、ここでラブレーは、そうした裁判を行ったブリドワ(それは当然誤判だらけになったであろう)を非難したのではなく、公平を失っていた当時のフランスの裁判官達を、「不公平な裁判よりも、公平な誤判のほうが、まだしも救いがある」と言って皮肉った。即ち、結果が妥当だけれども手続に恣意が入った裁判よりも、結果は不当だけれども手続が公平な裁判のほうが、遥かに信頼に足るというのである。ここに、裁判官に対する社会の見る目がよく現れている(※注3)。「双方に耳を貸すaudi et alteram partem)」「相手側からも聴くべし」「何人も、自己の事件について裁判官となるなかれ」「訴訟はまっぴら、和解にしくはなし」「神の前では真実を、裁判官の前では銭を」「悪しき調停も良き訴訟に優る」「法律は神聖なり、裁判官は敵かたき」といった西洋の諺も、同じ思想に立っていると言えよう(※注4)

※注釈
1:
前章注16参照。
 
そして、裁判官は一人の国民であるとともに独任制の官職であり、その法制度における重要性を考えると、その人権は大幅に制限されても致し方が無いと言えよう。一人の裁判官の市民的自由のために、法システムそのものを犠牲にするわけにはいかないからである。
 
例えば、1954年当時の田中最高裁長官は、その年頭の辞において、「裁判官は現実政治によって影響されず又これに影響してはならない。政治的超然性は裁判官の厳守すべき徳である。」と述べているという(:斉藤秀夫 『裁判官論』(改訂三版) 一粒社、1985年 192ページ)。
 
無論、現在の国内裁判は、その「判決の法的説得性」よりもむしろ、判決によって得られた債務名義(権原)によって強制執行をするという「威嚇」によって運用されているのが事実であろう。しかし、そうした「威嚇」に依拠しすぎることは、司法制度の存在意義そのものを失わしめる危険性がある。
2:
もっとも、彼ら裁判官は、「神の代理人」ではあっても、「神」そのものではない。裁判官が自らの行為を「神の代理行為」として正当化し、個々の判決の結果についてその責任を直接負わずに済む(「本人」である「神」、即ち立法府によって示された国民の法規範意識が負う)のは、彼らがそれを大前提たる実定法規範によって正当化するからである(六本前掲書、358ページ〜)。
 なお、本題とはずれるが、おそらく同じ理由から、最高裁は九条問題について「統治行為論」をもって議論を避けているのではないだろうか。それは、自衛隊違憲判決(法的解決)を下せば、それが守られないこと(法的紛争処理システム上無効であること)が明らかであり、最高裁を頂点とした法的神話は一挙に崩れ去るからである。
3:小島前掲書、12〜13ページ。
4:大木雅夫 『比較法講義』 東京大学出版会、1992年 235〜236ページ。また、田中『法の考え方と用い方』、131ページ〜。
 我が国中世においても、例えば鎌倉幕府の担当した所領裁判(所務沙汰)では、公平を期すため当事者は評定衆の担当裁判官の名前を知らされず、更に「裁判官の不公平」を理由とした評定批判を禁じていた(御成敗式目)。

▲2、裁判実務に反映されている「フィクション性」
 それ故、裁判実務の現場でも、こうした法文化的な「フィクション性」に対する配慮が今でも為されている。
 例えば、今だ「法」や「道徳」「宗教」が区分されていなかった古代社会においては、「裁判」は宗教的な権威を以って行われ、「神のお告げ」「神託」「預言」として正当化されていた。古代ローマにおいて、皇帝ユスティニアヌスが編纂した『ローマ法大全』「学説い纂」第1巻第1章第10法文で、法学者ウルピアヌスは、「正義は、各人に各人の権利を分配する恒常不断の意思である。法の掟は、誠実に生きること、他人を害しないこと、各人に各人のものを分配すること、これらである。法学は、神事および人事の知識であり、正と不正の識別である」と述べている(※注1)。我が国でも、熱湯に入れた手の火傷具合で正邪を判断した「盟神探湯(くかたち)」なる儀式があったし、世界中ではこの他、「ワニ裁判」(アフリカ部族等で行なわれた方法で、ワニに食べられた方を邪悪と判断する)、ヒヨコの内蔵の動きによって判決を下す方法等、現代からすれば摩訶不思議な裁判方法が罷り通っていた(※注2)。また、中世社会では、村の慣習に精通した古老が「法を語る」という形で正当性を付与したり、我が国鎌倉幕府(御成敗式目)においては「武家の慣習」=「道理」を一つの正当化根拠としていた。いずれも、実在しない観念上の法理を正当化原因としている点で共通するものであろう。
 また、21世紀を迎えた今日でも、我が国の裁判官は「法服」なる衣装(制服)を着て法廷に出席し、「法壇」と呼ばれる一段高い場所から法廷を見渡し、自分の官職氏名を名乗ることなく裁判を進めている。これらの裁判の様式は、いずれも裁判官の個性を抹消するため=「公平性の神話」を維持するための「舞台装置」であるといわれている。特に、「法服」は、それを着ているとその裁判官の個性を消すことが出来るし、しかもその「法服」は「黒色」であり、この「黒」という色は(1)極めて没個性的、かつ(2)何物にも染まらない色、であって、裁判官の公平性を如実に演出している(※注3)
 以上は裁判官個人に着目したものであったが、そもそも「法廷」という空間それ自体が、一つの「舞台装置」である(※注4)。例えば、裁判官は、原告・被告双方よりも一段高い裁判官席に着席しており、両者を見下ろす位置にある(※注5)。逆に、「裁判」ではなく「行政処分」の一つであるとされる「少年審判」の審判廷は、裁判官席と少年が同じ床の上に置かれ、ここでの裁判官は「第三者的立場」ではなく「当事者的立場」に置かれている。
 最近のその他の特徴的な例としては、現在我が国に滞在中のアルベルト・フジモリ前ペルー大統領が在任中の1992年5月から、テロリストの裁判で覆面の判事によって裁判を実施している(覆面法廷(※注6)。これは、テロ組織からの報復を恐れた裁判官が萎縮して不当な無罪判決を出すのを防ぎ、適正な司法裁判を維持するためで、国際社会からは批判も浴びたが、裁判の本質をよく表わしているといえる。即ち、裁判官は、その個性人間性つまり世俗的側面が顕わになった瞬間世俗の圧力に晒されるのであり、これを防ぐためには、その裁判官の人間性を覆面で完全に消去し、その存在自体を抽象的・観念的なものであるかのように舞台装置を設定する必要があったのである。「裁判官の独立」は、我が国でも憲法上保障され(日本国憲法第76条③、第78条)、また司法裁判の中立・公正を守るために裁判所職員の除斥・忌避・回避の制度が定められている(民事訴訟法第23条・第24条民事訴訟規則第12条(※注7)が、これも結局、そうして裁判官の独立を維持しなければ「公平性の神話」を維持することが出来ないからではないだろうか。

※注釈
1:
森 征一・岩谷十郎編『法と正義のイコノロジー』 慶應義塾大学出版会、
1997年 3ページ。
 なお、同書によれば、西欧では「法」をあらわすものとして、両手に剣と天秤とを持った「
正義の女神(ユスティティア)」がよく登場するという。
2:小島前掲書、12ページ。また、小島『現代裁判法』、34ページ。
 こうした「裁判」が行われたのも、前述のブリドワと同じく、「
不公平な判決よりも公平な誤判のほうが、人々を説得しやすい」ということがあったからであろう。
3:大木前掲書、8ページ。『民事訴訟法』、208ページ。市川他前掲書、3ページ。
4:大木前掲書、8ページによれば、法服や法廷等の「演出」について
ベンタムJeremy Bentham)は、法廷を日常空間から断絶した純粋な機能空間、「司法の劇場」を形成するために役立っている、と主張しているという。
5:もっとも、最近では、従来の伝統的な法廷に代って、裁判官・原告・被告が同じテーブルに着席する「ラウンドテーブル法廷」なる方式が登場しているという。こうした方式は、民事訴訟についてはある程度有効であろうが、刑事訴訟にまでこれを取り入れるわけにはゆくまい。
(:『民事訴訟法』、125ページ。)
6:覆面法廷では、被告人はマジックミラー越しに裁判長と向かい合い、裁判長や検察官の声はわざわざ音声変換されて被告人の前のスピーカーに流されている。無論、傍聴も認められない。実際、テロ裁判では、「無罪にしないと殺す」、棺おけを自宅に送りつけられるといった脅迫が相次ぎ、怯んだ裁判官が無罪判決を下したところ、犯人が釈放後に再びテロ行為を起こした事件があった(毛沢東主義過激派「センデロ・ルミノソ」のリーダー、グスマン被告もそうやって一度釈放され、後に軍事法廷で終身刑を言い渡された)。
(:『産経新聞』1997年4月8日号朝刊)
6:『民事訴訟法』、61ページ〜

▲3、価値観の多様化と手続的正義の重要性
 しかも、最近の我が国社会は、「価値観の多様化」が認められているために、実質的正義の同定はいよいよ困難なものとなり、それだけ形式的・手続的正義によって紡ぎ出された実践理性、「賢慮」が重要性を増している(※注1)。そして、その「適正な手続き」を担う司法官の「公平性の神話」はより重要になってくるものと思われる。何故ならば、価値観が多様化した社会においては、「法的満足」とは「自らが正しい手続によって処遇された」という点にこそ求められるのであり、また裁判官が提供できるものはそれだけであって、それ以上の実質的・内容的問題については立法府の問題にこそ帰着するからである。
 その意味では、「司法の民主化」と称して、その時々の時流に流されたり、「市民集会」なるものに出席して「市民」の声を判決に直接反映させる等ということは、司法の権限を逸脱する「司法立法」なのである(※注2)

※注釈
1:
田中成明 『法的思考とはどのようなものか』(有斐閣、1989年)、同『転換期の日本法』(岩波書店、2000年)は全体としてこのようなことを主張している。
2:「司法の民主化」ではなく、「立法の民主化」によって「司法は民主」といい得る状態に持っていくことこそ重要である。

▲4、総合知、実践知としての法学
 但し、ここで一言断りを入れるとすれば、以上のような「公平性の神話」を維持することと、裁判官に一般常識や広汎な教養が求められることとは別の問題である。換言すれば、「公平性の神話」を維持することと、自室にこもって概念法学的な法解釈学にひたすら専念することとは同義ではないのである。否、むしろ両者は一体であり同じ方向を目指しているというべきであろう。何故ならば、前述したように、裁判官は「正義の代理人」を演じる必要があるが、それを具体的に論じるにあたっては、古今東西の諸事象を適確に理解し、「正義の代理人」として「法の自由な発見」を為すに必要十分な見識と教養とを身につける必要があるからである。
 そもそも「法律」というものが、社会におけるあらゆる事象について適用され、これを(法的に)処理するという使命を負わされている以上、それを司る者としては、凡そ「法」が対象とする諸事情、更にはそれを拡張した人間社会それ自体に対して、深い洞察力を要求される。蓋し、法的三段論法による正当化が「正当である」として許容されるのは、適用されるべき法規範(大前提)の適正な選択と解釈(内容の確定)、複雑な事実関係の正確な理解があってはじめて可能なのである(※注1)
 また、これを学問的に考究する「法学」とは本来、条文と判例とを比較対照する法の解釈行為ではなく、ある法解釈を如何なる根拠を以って正当化するのかという哲学的営為のはずであり、その意味で「法学」とは、経済学・社会学・倫理学・哲学といった人文科学や社会科学を広く理解した上ではじめて論じることが許される「総合学」たるべきであろう(※注2)(※注3)法学は、「神事および人事の知識であり、正と不正の識別」なのである(※注4)

※注釈
1:田中『法理学講義』、307ページ。
 裁判官の政治活動の自由を認める論者は、一方で「社会の中の裁判官像」を提唱しておきながら、他方では社会と隔絶した法的論理でもってのみ「裁判」を語り、それが果たす社会的機能については全く目を向けようとしていない。例えば、川岸令和・早稲田大学助教授は、「(最高裁は)社会から孤立した裁判官像を提示した」と、最高裁決定からは読み取れない事項を読みとった上、「裁判官が公共の関心事について表現したころから生じる司法部への公共の信頼の失墜を示す経験的な証拠は存在しない」ということを、根拠を示さずに述べている。
(川岸前掲書、22ページ。)
2:現在、我が国において「司法制度改革」が議論されているが、その一環として、従来の予備校による暗記偏重型受験教育を払拭するため、従来型の司法試験を廃止して
法科大学院(ロー・スクール)を設置し、この卒業生に法曹資格を与えるべきである、との議論がある。私自身は、この構想に原則的に賛成であるが、新設された法科大学院には、学部4年間における徹底したリベラル・アーツ教育を経た者にのみ入院資格を与えるべきであり(そのかわり、弁護士以外の資格でできる法律業務を拡大する)、また選考方法も、面接・論文を多様し客観テストは避けるべきであると考える。
3:よく、「法律学は教義学的だ」「権力の侍女だ」「パンのための学問だ」とする批判がある。これは、特に法解釈学に対する批判として傾聴に値する本質的批判ではあるが、しかし、本来のあるべき「法学像」からすれば、イメージのズレ(法律実務のイメージに流されている)があるように思われる。
(:田中『法理学講義』、321〜322ページも同旨)
4:注3で引用したウルピアヌスの言葉。

●第3節 比較法学的立場の難点
 最後に、処分反対派が指摘する比較法学的論点について、言及したい。
 処分反対派・自由化推進派がよく引き合いに出すドイツでは、なるほど確かに裁判官に大きな政治的自由が保障されている。しかし、このことは、先に述べた「ナチズムの後遺症」としての性格が強く、単純にこれを引き合いに出して議論するわけにはいかない。つまり、ドイツ人は「ナチズムに対する反省」の一貫として、裁判官に「市民の常識」を与えるべくその市民的自由を認めているのであって、我が国とは歴史的・法文化的経緯が異なるのである(※注1)(※注2)
 また、我が国とドイツとでは、国内における「法」の位置付けが相当異なっていることにも注意を要する。例えば、ドイツにおいては、抽象的違憲審査制の下、一定の要件を充たせば、具体的な権利義務上の争い(法律上の争訟)がなくても憲法裁判所に憲法問題を提訴できるのに対して、我が国は具体的違憲審査制を採用するため、何らかの法律上の争いがあってその中で憲法判断が必要にならない限り、最高裁判所は憲法判断をすることはない(※注3)
 更に、日独両国は、その「法化」の程度においても差異がある。ある社会の法に対する傾向を「法化legalization)」、近代法の欠陥や弊害を是正しようとする「非法化delegalization)」、およそ法的なものを原理的に否定する「反法化anti-legalization)」の3つに分類すると(※注4)、ドイツでは「法化」の過剰から生じた「悪しきリーガリズム」を是正するための「非法化」論議が行われているのに対して、我が国においては、(公害訴訟や医療過誤訴訟を受けた「非法化」論議も当然存在するが)そもそもの法意識自体に制度的・文化的要因(裁判の使いづらさ、国民の受身意識)から「反法化」の傾向が強く、むしろ「反法化と非法化の交錯」「プレモダン法とポストモダン法の交錯」的な状況にあるのであって、ドイツと同程度に「法化」しているとは言えない。また、現在運用されている「法」を、①一般的法準則を定立しそれに準拠する形で、裁判過程で「要件—効果モデル(法的三段論法)」を使って自立的に適用される「普遍主義型法(自立型法)」(従来から言われてきた、典型的な近代西洋法)、②特定の政策目標実現の手段として、行政過程で「目的—手段モデル」によって適用される「管理型法」(法道具主義)、③私人間の非公式的な妥協的調整を行うインフォーマルな「自治型法」の三類型に分類すると(法の三類型モデル(※注5)、明治以前の我が国の法は、律令的な管理型法自治型法の両極に分解しており、近代化以降も、行政官僚主導の管理型法と「義理」「人情」を理由とした「反法化」的な自治型法が強く残存した(※注6)。そして、こうした状況は1960年代以降の高度成長期にも続き、結果として我が国における自生的な普遍主義型「法化」は遅れてしまったのである(※注7)
 これらの諸点からも、比較法学的視点は参考にはなっても主張の根幹にはなり得ないことは明らかである。

※注釈
1:
私個人としては、例え当時の司法がしっかりしていたとしても当時のドイツ裁判所にナチズムを止める力があったとは思えない以上、「ナチズムの反省」を裁判所に求めるのは筋違いのように思える。
2:
付言すれば、ドイツの裁判官たちは、そうして市民的自由を享受している一方で、反民主的な
共産党をきちんと非合法化することも忘れてはいない。これが真の意味での、表裏のない「闘う民主主義」であろう。翻って、我が国で裁判官の自由拡大を主張する弁護士らが、日本共産党の非合法化に積極的であるとは到底思われない。
3:
だから、「ドイツでは500件以上の違憲判決が出たのに日本の裁判所は違憲判決をあまり出さない。これは日本の裁判所の消極的姿勢の現れだ」といった批判は、制度の違いを無視した全く不当なものである。
4:田中『法理学講義』、84ページ〜。
 田中『転換期の日本法』、21ページ。
 田中成明 『法的思考とはどのようなものか』 有斐閣、1989年 16ページ〜。
 田中成明 『法の考え方と用い方』 大蔵省印刷局、1990年 65ページ〜。
5:『法理学講義』、86ページ〜。『転換期の日本法』、12ページ。
 『法理学講義』89ページ、『転換期の日本法』14ページには、以下のような分類表がある。

 基本的特質思考・決定方法法的過程法的関係新領域への対応
管理型法特定の政策目的
の実現手段
目的=手段
モデル
行政
過程
垂直関係法道具主義
普遍主義型法
(自立型法)
一般性、自立性、
形式性
要件=効果
モデル
裁判
過程
三者関係リーガリズム
自治型法非公式性
自生的性質
妥協的調整
モデル
私的交渉
過程
水平関係インフォーマリズム

6:田中『法理学講義』、99〜100ページ。
7:田中『法理学講義』、100ページ。『転換期の日本法』、22ページ。
 そして田中教授は、こうした状況を踏まえて、今後の我が国においては、その逆機能や弊害を自治型法や管理型法で補完しつつも、基本的には普遍主義型法による法化を強力に推進し、普遍主義型法の実践哲学的賢慮を基軸とした「多元的調整フォーラム」としての法システムを構築すべきである、と主張する。具体的には、①司法制度の人的制度的基盤の整備と②一般人の公権力に対する受動的・受益者的な態度の転換、③合理的な交渉(対話的合理性)による合意形成の3つが必要であると述べている。
(:田中『転換期の日本法』、24ページ・119〜123ページ。)

第4章 寺西判事補の行動について

 以上のことを念頭において寺西判事補懲戒事件を見直してみたとき、彼の行動は、やはりこうした「公平性の神話」を破るものであったと評価できるのではないだろうか。本人は一応、「発言は法案に一切触れず、パネリストとして参加することができない理由を述べただけ」と弁明していたが、実際は、彼は、「つぶせ!盗聴法・組織犯罪対策法 許すな!警察管理社会4/18大集会」なる集会に参加し(※注1)、自らの官職を明らかにした上で、「パネリストとして話すつもりだったが、所長に『処分もありうる』と警告された。仮に法案に反対の立場で発言しても積極的な政治運動には当たるとは思わない」と話している。これは、通常人の国語理解力では、明らかに「盗聴法に反対」のニュアンスが込められていることが理解される上、そもそもかような政治色の強い集会に「来賓」として出席したこと自体が、「公平性の神話」を破る行動だったと見るべきであろう(彼が官職を明らかにした時点で、彼が「一介の市井の若者」として会合に招かれたのではなく、法律専門家としての見識を買われて出場したことが明らかになるのである)(※注1)。少なくとも、これを以って「パネリストを辞退するという程度の内容だった」等として、その「表現」を矮小化する見解には、全く以って賛成し難い。
 また、集会を主催した弁護士らは「政治運動の要素がない発言をとらえ、こうした申し立てを起こす裁判所の常識を疑う」と語っているという。しかし、「つぶせ!盗聴法・組織犯罪対策法 許すな!警察管理社会4/18大集会」と銘打った集会での発言を「政治運動の要素が無い」と評することの不当性はさておくとしても(無論、主催者としては、寺西判事補が沈黙を決め込んでしまったため、当初期待したほどの「成果」は得られなかったであろうが)、この見解は妥当ではない。そもそも、この世のあらゆる事実は、それが社会的な問題に転化すれば必ず政治的要素が付きまとうのであって、ある問題について賛否を講評することはそれだけで「政治運動」である。地域の自治会や「犬猫愛好会」の会合に個人的資格で参加するならともかく(それでも、愛犬家の裁判官が愛猫家と愛犬家が経営するペットショップの訴訟で判決を下したら、愛猫家は少なからざる疑惑を持つであろう)、この問題は与野党・国論を二分した立法政策上の大問題であった以上、その政治性は極めて大きかった、と言わざるを得ないのである(※注2)(※注3)

※注釈
1:
この集会は、最高裁もいうように、組織犯罪対策法について賛否両論の立場から討議するといった性質のものでは到底あり得ないことは明らかである。これをして「憲法上の重大な利益の制限に疑義を持った人々が、市民的権利を擁護しようと集会している」等と見る(前掲川岸助教授)のは、あまりにも牧歌的である。
2:
私としては、裁判所法第52条のいう「積極的な政治活動」を、「
国会又は地方議会での多数決によって決定されるべき事項その他の重大とされる政治的命題について、裁判官たるの地位を利用して賛否を推認し得る発言や行為をし、以っていずれか一方の見解に対する支持を直接又は間接に呼びかけること」と定義したい。
3:なお、弁護士の喜田村洋一氏の論文「制定過程・類例から見た『裁判官の政治運動』」『ジュリスト』1150号(1999年2月15日号)は、裁判所法52条の制定過程、及び裁判官忌避申立て事件における事例を手掛かりに寺西事件を論じている。その論旨は傾聴に値するが、(1)氏の示した制定過程は、むしろ裁判所法が「GHQの指示」という粗雑かつ非民主的な圧力で制定されたことをせいぜい意味するに過ぎず、したがってその立法者意思は(衆議院及び貴族院を通過しているとはいえ)通常の法令におけるそれと同列には扱えないこと、(2)刑事訴訟における忌避申立ての事例(氏の論文によれば、かつて最高裁は、朝鮮戦争について「恐るべき国際的ギャングの侵略を食い止めるために一致団結しつつある」と発言した最高裁長官に対する忌避申立てを却下しているという。しかし、著者としては、朝鮮戦争という事実について北朝鮮を「侵略軍」と指摘するのは(事実だから)中立的だとしても、北朝鮮を以って「国際的ギャング」等と表現するのは、裁判官の中立性を犯すものだと考える。)は説得的だが、著者としては氏の指摘した事例については最高裁とは異なる立場をとる以上、本稿に対する反論にはなり得ないこと、を指摘したい。

第5章 おわりに

 以上述べてきた点からすれば、所論の結論は明らかである。即ち、裁判官はその「公平性の神話」を維持するために、政治活動は極力控えるべきであり、またその思想・良心を広く一般公衆に公表するようなことも(政策調査上必要な場合や最高裁が管轄する司法行政上の事項を除いて)なるべく避けるべきである。「政治」については、これを専門に担当する国会議員に任せたほうが民主的であるし、裁判官が立法に影響力を与えたり自ら立法的行為を行うことは非民主的な「司法立法」へと繋がる危険がある(※注1)。否、「国会に専権的に任せる」というのが「三権分立」制度の意図するところである(その意味では、裁判官が国会議員の職分である「政治活動」まで手がける等というのは、逆に「司法の立法権侵害」にあたるとすら評価できるのではないだろうか)。しかも、前述したように、裁判所(裁判官)とは紛争の法的処理を実施する国家機関なのであり、これに政策立案機能や世論喚起機能等の副次的な機能を過度に期待すべきではない。こうした問題を議論するのは、国会こそが最も相応しい場なのであり、その問題点は衆参両院関係の見直しや選挙制度改革等の政治改革によって達成されるべきである。目先の問題を処理するために、「民主主義を擁護するため」と称して裁判所の法原理機関としてのあり方を曲げるような近視眼的なことがあれば、それは長期的に見れば、結果として我が国全体の法秩序に却って悪い影響を与えるであろう。
 むしろ、今の裁判官に求められるのは、「裁判官」の地位を利用した政治活動をすることではなく、本業であるところの裁判そのものの、一層の「品質向上」であろう。というのも、現在の裁判官は、司法試験という受験競争を暗記力を以って勝ち抜いてきた「暗記エリート」によって占められているのが実情であり、(全員が全員とは言わないが)彼らが必ずしも司法官として身につけておくべき基礎教養を持っているとは限らず、このことが却って「公平性の神話」を阻害する要因にすらなり得るからである(※注2)。事実、昨今の司法試験の受験生事情を見れば、彼らはリベラル・アーツを学ぶべき大学生時代に基礎教養科目を「試験に使えない科目」として切り捨て、空いた時間で司法試験予備校に通い、予備校が蓄積したノウハウをバネにして24時間「法律漬」の生活を送り、試験教育(※注3)を経て苦学の末試験合格を果たすというパターンがほとんどで、(無論、これも又全員が全員そうであると言うわけではないが)凡そ基礎教養とは縁遠いものとなっている(※注4)(※注5)。その点から言えば、弁護士や検察官を裁判官に任用して「官僚司法」を打破しようとする「法曹一元」化の試みは、その対象を同じく司法試験合格者に限っている点で、全く無意味(乃至、「弁護士のほうが法曹として健全だ」という弁護士団体の手前味噌的思い込み)であろう。むしろ、最高裁判事のように、その当時の内閣が学者や行政官、外交官を高等裁判所判事に任命し、併せてそうした「素人裁判官」のために高裁の機能を強化する(※注6)ことのほうが有意義ではないだろうか)。こうした点から、今後の「司法制度改革」においては、法科大学院構想も含め「品質の高い」法曹養成が議論されるべきであろうが、それと並んで、裁判官がその職務上必要な教養を常時身につけるために、一定のキャリアアップ制度(例えば、途中で一旦休職した後国内外の大学で学ぶ機会を与える、等)や労働時間の適正化、給与体系の見直し(給与格差の是正等)が必要であろう。そして、一時の政治情勢に流された政治活動に参加する時間を己の価値観の研磨に充て、人々の行動を「裁定」するに値する教養人、知識人としての自己を確立すべきではないだろうか。

※注釈
1:
もっとも、法的三段論法を行うにあたって、裁判官は、法規範の解釈に際して「法の欠缺」(法が規定していない事項)を埋めるために立法行為を行っているのであり、その点では裁判官は必ずしも「司法立法」を全くしない存在ではない。また、ナポレオン法典の機械的適用に反対して生じた「自由法運動」によって、そうした小規模な司法立法の可能性は今日では肯定されている。しかし、ここで「司法立法」が認められるのは、あくまで実定法規範の解釈に関してのみであって、「法律による司法」「法律の専権的法規創造力の原則(将来にわって国民の権利義務に抽象的な規制を加えるような「法規」を策定できるのは国会制定法のみである、ということ)」「法律の優位の原則(制定法に真正面から反する法解釈は認められない、ということ)」は行政府と同様(以上の原則は行政法上のものを借用している)、存在するのである。
2:宮澤節生 「法科大学院論議の活性化と透明性のためにー再論」 法政策研究会『法政策学の試み・2』 信山社、2000年
3:もっとも、これについては、「予備校が実施しているのは『受験指導』であって『教育』ではない」とする批判が寄せられている。
4:田中『転換期の日本法』、328〜329ページ・332〜334ページ。
5:
こうした批判に対して、大手司法試験予備校
「伊藤真の司法試験塾」は、法科大学院設置構想に対する見解の中で、自らの予備校は「ソクラテス(対話)方式によるゼミ」「合格後にどのような法律家になるかを考える指導(明日の法律家講座、講演会等)」「演習重視」を実践し、受験生のニーズにあった指導を行っておるのであって、「受験指導校は試験合格のためのテクニックしか教えていないというのは必ずしも正しい評価ではございません。そもそも、司法試験は法律の知識を詰め込めば合格するような試験ではございません。」(伊藤 真「法曹養成制度改革についての意見」)と反論している。なるほど、たしかに「伊藤真の司法試験塾」が、同業他社の受験指導講座と比較してそうした「テクニック以外の部分」についての講座が充実させ、またそれが発行する参考書も内容的深みで他社に優るものではある。しかしながら、この伊藤氏らの反論は、現在の法科大学院構想を巡る議論に対するものとしては、やはり説得力に乏しいと言わなければなるまい。何故なら、実際の「伊藤真の司法試験塾」においては、試験科目に対する講義・演習を中心とする授業が大半を占めており、伊藤氏が反論した中で紹介したような「合格後にどのような法律家になるかを考える指導」なるものは、結局試験突破に必要な長期間の勉強のモチベーションを維持するための補充的なものに過ぎないからである。今現在議論されている「法律家としての教養」というものは、そうした試験対策上有意なもの等という矮小なものではなく、法曹実務家として社会的に一定の地位を占めようとする人間に対する基盤的な教養を指しているのであり、そしてそれは、大学におけるリベラルアーツ教育をおいて他にないのである。なお、付言すれば、「論点ブロックカード」やフローチャート方式を多用し「法律の知識を詰め込」みやすくしたのは他ならぬ「伊藤真の司法試験塾」なのである。
 結局、こうした司法試験予備校は、法科大学院が誕生すればその
ビジネスとしての存在意義を100%失ってしまうために、「社会人枠・深夜枠の整備」「経過措置の実施」「学士以外の入学枠設定」を求めているのであろう(しかし、「リベラル・アーツ教育の必要性」からして、学士以外に法科大学院入学資格を付与するのは疑問である。資力で受験が難しくなる者に対しては、奨学金制度の拡充で対処できる)。
6:現在、最高裁判所判事の下には、「調査官」というベテラン級の裁判官がスタッフとして配置されており、行政官・外交官出身判事や専門外の事項についての細かい法理論の組み立ては彼ら調査官が行っている。

※参考文献
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喜田村洋一 「制定過程・類例から見た『裁判官の政治運動』」『ジュリスト』1150号(1999年2月15日号) 有斐閣
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斉藤秀夫 『裁判官論』(改訂三版) 一粒社、1985年
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竹下 賢・角田猛之編著 『マルチ・リーガル・カルチャー』 晃洋書房、1998年
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田中成明 『法理学講義』 有斐閣、1994年
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田畑茂二郎・竹本正幸・松井芳郎 『判例国際法』 東信堂、2000年
長尾龍一 『憲法問題入門』 ちくま新書、1997年
中坊公平 『日本人の法と正義』 日本放送協会、2001年
日弁連法務研究財団 『次世代法曹教育』 商事法務研究会、2000年
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本間康平・田野崎昭夫・光吉利之・塩原 勉編 『社会学概論』新版 有斐閣大学双書、
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宮澤節生 「法科大学院論議の活性化と透明性のためにー再論」 法政策研究会『法政策学の試み・2』 信山社、2000年
棟居快行 「裁判官の独立と市民的自由」『ジュリスト』1150号(1999年2月15日号) 有斐閣
森 征一・岩谷十郎編『法と正義のイコノロジー』 慶應義塾大学出版会、
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山本草ニ 『国際法』新版 有斐閣、1994年
六本佳平 『法社会学』 有斐閣、1986年
我妻 栄他 『新法律学辞典』新版 有斐閣、1967年
和田安弘 『法と紛争の社会学』 社会思想社、1994年
伊藤真の司法試験塾 」ホームページ
日本裁判官ネットワーク 」ホームページ
「毎日新聞」ホームページ
「産経新聞」ホームページ

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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