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教科書採択制度の改革を
〜平成13年度教科書採択を終わって〜

中島 健

1、はじめに
 報道によると、来年春から小中学校で使用される教科書の採択が15日、全国で終了した。
 今回、中学校の「歴史」と「公民」にはじめて参入した扶桑社の『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』は、東京都と愛媛県の養護学校の一部の他私立中学校でも採択され、更に栃木県下都賀地区採択協議会でも一旦は採択されかかったが、結局一般の公立中学校及び国立中学校では採用されなかった。一方、これまで採択に関して現場教員に与えられていた大幅な裁量権を教育委員会の監督の下に置いた結果、歴史教科書を発行する7社の採択比率も変化し、例えば東京都ではほぼ独占状態にあった日本書籍(同社の教科書は、先の大戦の侵略の側面を強調した記述で知られている)の採択率が大幅に低下した。採択終了を受けて扶桑社版を執筆した「新しい歴史教科書をつくる会」(西尾幹二・会長)は記者会見を開き、「教育委員会への組織的圧力やつくる会本部への放火テロなどによって、採択関係者がトラブルを避けようとしたが、各地で善戦した」として4年後の検定でも申請を行う他、小学校社会科教科書への参入方針を表明した。一方、扶桑社版教科書に対する反対運動を主導してきた「子どもと教科書全国ネット21」(俵 義文・代表)は同日声明を発表。「「つくる会」教科書が公立中学校で一地区も採択・・・されなかったのは、この教科書を「子どもに渡してはならない」「教室に持ち込ませてはならない」という、保護者、市民、教師、学者・研究者をはじめとした日本に住む多くの人びとの活動によって、全国的にも地域的にも「つくる会」教科書に反対する大きな世論がつくられたからです。この採択結果はこうした人びとの良識の勝利、民主主義の勝利だといえます。」と主張した。

2、教科書問題で明かになったもの
 今回の扶桑社による歴史・公民教科書参入は国内外で様々な議論を呼び起こし、中国・韓国からは「歴史を歪曲している」等としてこれを検定不合格にするよう要求があったりもして、国民が教科書と外交について考える一つのきっかけとなった。日韓の文化交流が進んだ今日に至ってもまだ、韓国国内には我が国で軍国主義が蔓延しているかの如く捉える論者が居るというのは悲しい事実だが、ただ、中韓両国からの圧力に対して今回我が国政府が正論(事実誤認の部分のみ修正を受け入れる)を述べて対応したことは不幸中の幸いであった。また、これまで教科書採択の権限が法律上の根拠無く現場教師に大幅に委譲され(公権は原則として一身専属的であり、簡単に委譲できないはずである)、何等民主的正当性を持たない一地方公務員である教員が大幅な「裁量行政」「官僚主導採択」を行っていたが、扶桑社の参入に伴ってこうした状態は改善され、民主的正当性と専門性を有する各地の教育委員会が主体的に採択を行うようになった。
 その一方で、今回の教科書問題では、実物を閲読したり他社版との比較検討をした上での健全な議論は隅に追いやられ、左翼過激派も混じった扶桑社版教科書の激烈な採択反対運動が展開されたり、「つくる会」本部に放火が行われたり、あるいは独占禁止法の規定を使って扶桑社版の市販を差し止めようとしたりと、なお暴力で言論を封殺せんとする風土が我が国に存在していることが浮き掘りになった。その副産物として、元外務省幹部で教科書検定審議会委員の野田英二郎・元駐インド大使が、外務省の意向に沿う形で扶桑社版教科書を検定不合格にしようとした、という「不祥事」も明るみに出た。こうした暴力や圧力は、まっとうな言論では論理的に相手を説得できない者が往々にして頼るものであり、結局は自身の議論が非論理的・非説得的であることを告白するに等しい。どの時代、どの国でもサイレントマジョリティーよりノイジーマイノリティーの意見のほうが通るという傾向が見られるが、果たしてこの状況が我が国の言論空間、民主的政治制度にとって有益かどうか。「民主主義」を口にする全ての者が、教科書問題における立場を超えて真剣に考慮すべきであろう。
 また、かつて教科書検定制度の廃止と自由採択制度を求めていた一部識者が今回の問題では逆に検定制度を使って扶桑社版教科書を不合格にせよと主張したことは、教科書問題を論ずる「専門家」の多くが自らの言論の誠実性を放擲し、「二枚舌」「二重基準的」であることを改めて明らかにした。全ての言論人は、扶桑社版に賛成であろうと反対であろうと、「誠実な言論」に真正面から反対するこうした試みを断乎として批判すべきである(無論私も、扶桑社版の採択に反対する言論は、賛同はしないが全力でこれを擁護するものである)。自らの主張に適合する場合は「表現の自由」を主張し、そうでない場合は検定制度を擁護する等という振る舞いは正義概念に反するものであり、「法の支配」に対する挑戦と言えよう。
 更に、いくつかの教育委員会では、「つくる会」が指摘するように、教育委員その他関係者に対する、「デモンストレーション」の枠を越えた脅迫まがいの行為や圧力が見られ、結局「事勿れ主義」に陥った教育委員らによって扶桑社版が意識的に排除されたケースもあった。教育委員会という制度の趣旨からすれば、教育委員は正にこうした圧力に屈することなく、政治的正統性と専門性を発揮して最適な教科書選択をすべきであるのに、それが「事勿れ主義」に陥っては、公正な教育行政は期待できない。裁判官や検察官に対する身分保障の例も参考にしながら制度を改正し、教育委員の独立性を担保するとともに、各教育委員にも、「脅迫には屈しない」という強い職業倫理の確立が求められよう。

3、教科書採択は教育委員会の権限と責任で
 ところで、教科書採択の問題に関して8月18日付け『朝日新聞』は、「教科書制度ー抜本的見直しを急げ」と題する社説を掲載した。この中で同社は、「検定で教科書としての合否を決める採点方法への疑問である。「つくる会」の歴史教科書には137項目もの検定意見がついた・・・が、書き直して合格した。その一方、小学校の理科では二つの教科書がいきなり不合格になった。なぜ片方が合格で、他方は不合格か。・・・文部科学省は何も明らかにしない。」、「検定の不透明さも指摘したい。・・・よりよい教科書にするには、審査の過程で多様な意見を聴くのが望ましい。教科書原本や検定意見を中間発表し、広く意見を求めてはどうか。」等とし、佐藤 学・東京大学教授が提案する「教科書に『マル適印』を出す認定制度」を支持し、「子どもに近く、実際に教科書を使う教師を中心に、父母らの意見も聴いて選ぶのが本来の方法ではないか」と主張した。
 だが、この社説には意図的な事実の歪曲や誤認が含まれている他、論説の内容に矛盾点も見られ、到底賛同し得るものではない。
 例えば、同社社説は扶桑社版教科書を「137項目もの検定意見がついた。ページ単位で書き直しを求められるほど問題の多いものだった」としているが、新規参入の会社であればこの程度の検定意見は通常つけられるものであるし、例え項目数が多いとしても扶桑社側がこの検定意見を受け入れれば、その質は検定意見数が10程度の教科書と何等変わらず何も問題はないことになる。小学校理科の教科書と中学校歴史・公民のそれとを単純に比べるのも困難であろう。また、同社社説は「歴史学者らは合格本をみて『記述の誤りがある』と指摘した。」と言うが、この「歴史学者ら」は自らの政治信条や歴史観と扶桑社版教科書との間に相違があることを以って『記述の誤り』と指摘したのであり、検定制度上の問題ではありえない。韓国政府が「事実誤認」であるとして要求した訂正も結局は事実の評価を巡るものであり、韓国中心主義を我が国に押し付けるものでしかなかった(この問題については、既に本誌2001年8月号「 歴史教科書問題を考える 」で論じた)。
 同社社説はまた、「民主主義を守る公教育の役割を考えるなら、憲法の諸原則を尊重せず、人権を踏みにじり、排外主義をあおるような教科書を認めるわけにはいくまい。」等として自由採択制に明確に反対する意思を表示したが、もし同社が検定合格した扶桑社版教科書を「憲法の諸原則を尊重せず、人権を踏みにじり、排外主義をあおるようなもの」であると考えているのであれば、それは現物を閲読していないという他無いが故の謬論という他ない。この種の言明は今回の問題で数多く見られたが、いずれも現物を読んでいない、あるいは現物を読んでいても少しでも気に入らない記述があると不当な一般化を行い、「軍国主義を復活させるトンデモ教科書」等といったレッテルを貼るものでしかなかった。そのような表現を『朝日新聞』のような全国紙の社説が採用するのであれば、同社は言論によって問題を正面から扱うことを避けた、知的で論理的な説得を諦めて瑣末なレトリックに走った、ととられても文句は言えまい。
 更に同社社説は、「採択制度も揺れた。「採択の権限は教委にある」と強調、現場に疎い教育委員らだけで決めようとする動きが広がった。だが、子どもに近く、実際に教科書を使う教師を中心に、父母らの意見も聴いて選ぶのが本来の方法ではないか。」と相変わらず教師中心の採択を要求しているが、これはつまるところ教科書行政における官僚主導主義、裁量行政主義、民主的統制の否定を意味している。一体、この行政改革、政治主導のご時世に、このような広汎な裁量行政を認める制度が、どうして「広い支持が得られる透明性の高い制度」等と呼びうるのであろうか。教科書採択が非民主的(無論、ここでいう「民主的」とは、市民団体の陳情や圧力を受容することではなく、しかるべき手続に従って任命された教育委員の判断を尊重するということである)な手法をとっていて、どうして「民主主義を守る公教育の役割」なるものが期待できるのであろうか。この点、同社社説は完全に矛盾しているという他ない。教育委員はその自治体の首長が議会の同意を得て任命する政治的かつ民主的な官職であり、教育委員と現場教員との関係は国務大臣と国家公務員のそれと同じなのであって、教育委員中心の採択こそ最も民主的な手法である。「現場教師には、使いやすい教科書を選ばせるべきである」という一見耳障りのよい主張もあるが、検定合格した教科書であれば一応「使いやすい」ことが認定されていると考えるべきであろう。「使いやすさ」といった抽象的概念に拘りすぎると却って恣意的な採択が行われる可能性があるのであって、それは同社社説が言う「広い支持が得られる透明性の高い制度」と正面から衝突する。もし同社が行政における現場主義を民主主義に優先する価値として認めるのであれば、同社は中央省庁における国務大臣の「事務方」に対する優位や自衛隊に対するシビリアン・コントロールの概念を「現場主義に反するもの」として否定し、裁量行政や官僚主導政治を強く擁護すべきである。
 また、これは同社社説内では述べられていなかったが、別の識者の意見として「教育委員会には、全ての教科書を比較・検討するだけの能力・余裕が無いから、現場教員を調査員として使うことには意味がある」というものがある。しかし、義務教育を卒業した国民であるところの教育委員に教科書を選ぶほどの知能も無いのであればその委員は直ちに罷免されるべきだし、4年に1度の教科書採択作業すら「余裕が無い」等というのであれば、一旦何のために教育委員会制度を置き税金で給与を支給しているのかわからなくなる。同社社説が支持する佐藤教授の案も結局検定制度を都道府県レベルで再構成するものに過ぎず、検定作業にあたる専門家の数に限りがある(47都道府県でそれぞれ検定作業を行うとすれば、歴史だけで1県数名の学者が必要になり、全国で150〜200名の歴史学者がこの作業に借り出されることになる。)ことを考えても、「検討に値する案」とは到底思われない。それに、例えそうした制度を導入しても、その制度の下で扶桑社版教科書が採択されようものなら、扶桑社版に何が何でも反対するような識者や報道機関は「認定委員会」の人選や決定を論難するであろう。

4、おわりに
 よく知られているように、教科書の検定と採択は4年に一度行われており、2005年(平成17年)には次回の検定・採択作業が予定されている。その時、我が国の外交当局はどこまで諸外国からの外交的圧力を緩和することができるのか。また、各自治体の教育委員会は、どこまでその本旨の通り任務を遂行できるのか。戦後半世紀以上が経って、民主主義が一応「根付いた」とされる我が国の実力が試されることになろう。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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