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テロ対策特別措置法の成立によせて
〜戦後外交の総決算と憲法改正を〜

中島 健

1、はじめに
 10月29日、「 平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法 」(平成13年法律第113号)、「 海上保安庁法 の一部を改正する法律」(平成13年法律第114号)、「 自衛隊法 の一部を改正する法律」(平成13年法律第115号)のテロ関連三法案が参議院本会議で可決され成立した。同法案は、自衛隊を協力支援活動(武器・弾薬を含む物資の輸送や燃料の補給、野戦病院での医療。但し武器弾薬の輸送は陸上では行わない)、捜索救助活動(戦闘で遭難した米軍などの兵士の捜索や救助)、被災民救援活動(テント、毛布などの輸送や難民キャンプでの医療)等のために海外派遣出来るとしており、地理的には「現に戦闘行為が行われておらず、活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」地域であれば公海・外国領土でも派遣できる(但し、外国領土に派遣する場合はその国の承認を要する)。武器使用基準についても国際基準なみに緩和され、本人や本人と一緒に活動する隊員の他「自己の管理の下に入った者」(自衛隊が保護した傷病兵や難民)を防護するためにも武器を使うことが出来るとしている。 新法 は2年の時限立法で、派遣の基本計画については実施後20日以内に国会承認を要する。関連して成立した 自衛隊法 改正法では、自衛隊が自己の基地や在日米軍基地を守るため警護出動することを可能にした他、防衛秘密の漏洩について対象・罰則を強化した。また、 海上保安庁法 改正法では、不審船の船体射撃の際の危害要件を緩和した。政府は、法案成立を受けて11月中旬までに基本計画を策定し、下旬には自衛艦4〜6隻をインド洋に派遣する意向という。なお、 自衛隊法 改正法の採決にあたり、民主党の大橋巨泉・参議院議員ら5人が造反して欠席した他、 海上保安庁法 改正法の採決では逆に社会民主党の山本正和参議院議員が造反して賛成に回った。

 総数賛成反対
テロ対策特別措置法240140100
自衛隊法改正法23619739
海上保安庁法改正法2332258

▲参議院本会議での採決結果

2、「小国意識」を脱した外交
 本法の成立は、日本有事以外の事態で我が国自衛隊を有事海外派遣するもので、我が国の戦後外交・安全保障史上、画期的なものである。
 これまでの我が国戦後外交は、大局的に見れば1945年の敗戦の衝撃から復興し、国際社会に復帰することを最大の目的としていた。おりしも世界は米ソ冷戦時代を迎え、東西両陣営が二極をなして対立するという国際秩序の中で、如何に自国を位置付け組みこむのか。そうした問題意識に基づいて、終戦連絡中央事務局の時代から、外交当局において全ての外交案件は対米関係との関連性の中で語られ、アメリカの国力の消長に従って日本の役割が規定される時代が長く続いた(旧日米ガイドライン制定、1000マイルシーレーン防衛、思いやり予算等)。1945年の敗戦のインパクトは、日本国民をして「自己の生存を確保するための自衛権の行使すらエゴイスティックな行為である」といった極端な議論を生み、それを法的に表現した 日本国憲法 を国民は嬉々として受け入れたため、「平和を愛する諸国民」の秩序を受容することはあっても自らがその「諸国民」となり秩序を形成するという発想は消えた。その結果、確かに我が国の国際的な地位は向上し、政府開発援助(ODA)供与額ではアメリカを抜き世界第一位となり、世界第2位の経済大国になりはしたが、世界情勢を与件と捉え、その中で受動的に自国を位置付けるといった「敗戦国の外交姿勢」は手付かずのまま残る結果となった。そして、東西冷戦の終結という事態を迎えて新たな国際秩序を模索すべき時代に、我が国は1991年の湾岸戦争や94年の朝鮮半島危機で見るべき対応をとることが出来なかったことは記憶に新しい。自らの命運を切り開くことが出来ず、国際社会の潮流に身を任せるしかないという「小国意識」の外交姿勢(及びその法的表現である憲法平和主義)と、経済大国である現実とのギャップは、もはや無視できないところまで広がったのである(その意味では、97年の日米新ガイドラインや98年の 周辺事態法 も、そうした小国意識の流れに根差している)。

▲「大国意識」外交に踏み出す外務省(東京都千代田区)

 ところが今回、政府・外交当局は、 日本国憲法 の禁じる「集団的自衛権の行使」を「海外における武力行使」と事実上再定義(縮小解釈)することで後方支援のための自衛隊派遣の道筋を開き、アフガン戦後復興にも力を入れることを表明。国会でも、戦後一貫して「小国意識」を体現してきた日本共産党・社会民主党を除く全ての政党が、事実上政府の方針に賛成している。即ち、21世紀という新たなを迎えて、我が国外交ははじめて、自国の命運を自ら切り開き、国際社会の潮流を受動的にではなく能動的に形成せんとする「大国」の視点にたった外交を始動させたわけである。無論、こうした「大国主義」外交への方向転換は、長い目で見れば1970年代から模索されてきた(日中国交正常化、福田ドクトリン等)。1993年のカンボジア和平にあたり我が国外交が果たした役割は、湾岸以降の「外交改革」のテストケースであった(もっとも、カンボジア和平そのものは、冷戦終結という大状況に大いに助けられたものであったが)。しかし、70年代の模索はアメリカの国力衰退に対応すべく行われた受動的なものであるし、90年代の日米安保再定義・ガイドライン関連法も台湾海峡危機・朝鮮半島危機という(日本にとっては)身近な脅威に対応したもので、冷戦終結を受けた東アジア安保の「調整局面」の一つであった。外交当局の積極的な姿勢に比べて、国民世論の意識改革がやや遅れていたという面も否定できない。その点今回の新法制定は、国民の圧倒的支持の中で、我が国が世界規模の政治の中で主体的な行動を選択することを行動を以って表明したものであり、1991年の湾岸戦争ではじめられた「戦後外交の総決算」なのである。
 だから、法案に反対する一部の識者・報道機関は今回の法案審議の日数(約20日)を以ってこれを「拙速」「前のめり」「粗雑」と評すが、そうした批判はあたらない。強いて問題点を挙げるとすれば、それは今回のような事態に際して我が国自衛隊が直ちに国際的な役割を果たせるような法律がこれまで存在しなかったことであろう。そして、そうした恒久的な立法をこれまで阻害してきたのは、他ならぬ新法反対派の一部識者や報道機関だったのであり、その意味で今回の「拙速」論は所詮は「自作自演」の批判でしかないのである。
 なお、付言すれば、そうした主体的な外交政策の選択とテロ撲滅の対米協力は、決して矛盾するものではない。冷戦終結後の世界情勢を考える上で唯一の超大国・アメリカを無視することは出来ないし、また現段階では主体的な外交を実施するに必要な資源(軍事力、情報発信力等)を十分に有しない我が国としては、それらを相応に有するアメリカとの協力・協調こそが当面の現実的な選択肢になるからである。

3、不可避となった憲法改正
 ところが、こうした「戦後外交の総決算」を最後のところで阻止しているのが、 日本国憲法 の平和主義である。
 そもそも、一口に「憲法平和主義」と言ってもその内容は多岐にわたり、論者によって定義が異なる。最もゆるやかな定義は、我が国が我が国自身の国際紛争を解決(処理)する手段として軍事力を行使しない、話し合いや経済制裁等の平和的手段による、というものである。これは、国際法上の「国際紛争平和的解決義務」とも合致する常識的なものであり、この意味での「平和主義」は今日、国際慣習法にもなっている(従って、例え我が国が改憲して「国際紛争を戦争で解決する」と宣言しても、国際法上の拘束は免れない)。従って、この定義によれば、国際紛争を解決する手段としてではない武力行使は必ずしも放棄しておらず、例えば国連軍や国連安保理決議で武力行使を授権された多国籍軍には参加できる、ということになる(無論、その裏返しとして集団的自衛権も行使できる)。そして、こうした常識的な憲法解釈による限り、「戦後外交の総決算」は必ずしも不可能ではない(憲法解釈論の詳細については、本誌 1998年8月増刊号 を参照されたい)。しかし、実際にはそうした定義や解釈は憲法学上少数派であり、多数派は依然として「憲法平和主義」を厳しく解釈している。即ち、憲法学の通説によれば、理論構成に多少の差はあれ、 日本国憲法 は我が国の一切の軍事力保有を禁じ、自国の安全保障を国連の集団安全保障体制に全面的に委ねたのであり、この視点では国連軍・集団的自衛権はおろか、自国の領土を守る個別的自衛権の発動すら違憲とされる。日本国に軍事力を持たせることは少年にナイフを持たせることで、自衛隊を認めれば保守政権は「いつかきた道」を辿り、やがては再び近隣諸国を軍事侵略して支配するであろう、だからそうした芽を摘むためにも、戦争放棄は必要なのだ、ということになる。今回の テロ対策特別措置法 が2年間の時限立法となり、かつ、自衛隊の任務が後方支援に限定されたのも、全ては憲法との兼ね合いを気にしてのことである。
 こうした解釈が存在する背景には、1945年当時の国民の劇的な心情の変化があるように思われる。即ち、かつて我が国は、自国の経済的発展を目的として欧米諸国の既存の秩序に挑戦した。しかし、その戦いに敗れ、首都をはじめ国中が焼け野原になった後で、戦前の政府が推進した外交は「自国だけの」発展を願うエゴイズムだとされ、戦後は逆に自己の生命を守ることすら「傲慢な自国エゴ」として排斥され、非武装・反戦平和こそが日本国の使命だとされたのである(もっとも、エゴイズムとは自分が「自分である」というだけで他者を差別することだから、「平和勢力の武力は容認できる。日本国民だけが武装を放棄しなければならない」という議論は依然としてエゴイズムなのだが)。勿論、そうした過激な考え方は現在でこそ排斥されているが、多くの家族や親しい人を失った当時の国民は「1億総玉砕」ならぬ「1億総PTSD」状態(PTSD=心的外傷後ストレス障害)に陥っており、それほど違和感が無かったのであろう(無論、現代に生きる我々としては、当時の人々をそれ故に批判することは出来ない)。歴史家のエドワード・ハレット・カーは「実際が最も倫理的でないところでは、理論は最もユートピア的となる」と述べているが(E.H. Carr『危機の二十年』 岩波文庫)、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といった憲法前文のくだりは正に当時の絶望的な状況を結晶化させた歴史的文言に他ならないし、「憲法三原則」とされる「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」は全く等価のものではあり得ない。「憲法の前文と9条にはすき間がある」とは今回の法案審議に際して小泉純一郎首相が述べた言葉であるが、どっこい、憲法前文の根底に流れる思潮と9条との間には密接な関係があるのである。

 

▲憲法改正論議も進められている国会(左)と参議院憲法調査会(右)

 だが、 憲法第9条 が歴史的条文であるということは即ち、 日本国憲法 の他の規定(例えば人権規定)と違って陳腐化の速度が速く、時代の変化・国際政治の流れに伴う改正の必要性が高くなりやすいことを意味する(もっとも、凡そ人間の英知は歴史的拘束の下に置かれている以上、人権規定とて相対的には改正の必要性も出てくる可能性があるが)。半世紀以上も議論されてきた9条問題ではもはや論点は出尽くしており、このまま改正作業に着手したとしても「前のめり」でも「拙速」でも無い。少なくとも、現在の国民世論が目指そうとしている積極的な国際貢献のためには集団的自衛権の行使が必要であるが、現行憲法の条文のままではそうした解釈は無理ではないものの常に攻撃を受けることになりかねない。9条解釈の進学論争を影で支えていた左翼イデオロギーやPTSD的反戦思想は既に過去のものとなった。憲法改正は不可避となったといわなければなるまい。

4、おわりに
 テロ攻撃事件発生から既に2ヶ月弱が経ち、米軍によるアフガニスタン空爆は続いている。アフガン国内でも北部同盟が攻勢を強める一方、タリバン政権も航空戦力を失った程度で崩壊の兆しはなく、しぶとく空爆に耐えつづけている。一方、アメリカ国内では、オサマ・ビン・ラディン一派との関連性は不明ながら、炭疽菌を使った生物兵器テロ事件の被害が拡大し混乱が続いている。9月11日を境に変わった新たな世界は、今だ混沌の中にある。そうした中で、如何に我が国がこの新たな世界で存在感を発揮し、世界政治の流れをつくるのか。今ほど、日本外交そして日本国民に世界の期待が集まっている時期は無いだろう。問題は、そうした期待や信頼に国民自身がどこまで気付けるか、ということである。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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