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司法制度改革と裁判員制度(2)
〜国民の意識改革に司法参加を〜

田口 達朗

【目 次】

 第1章 はじめに
 第2章 裁判員制度とその合憲性

    第1節 陪審制とその合憲性
    第2節 参審制とその合憲性
 
(以上、前号)
 
第3章 裁判員制度導入に関する政策上の論議 
 
   第1節 国民の司法参加
    第2節 国民の意識改革
    第3節 制度導入による国民の負担

    第4節 市民参加の教育効果
 第4章 法学−法と道徳・政治
 第5章 結論
 第6章 おわりに

第3章 裁判員制度導入に関する政策上の論議

 本章では法律論を離れて、裁判員制導入に関する議論を幅広く検討したい。構成としては、裁判員制に賛成する立場、反対する立場の両方の論拠を手短に提示して、私の考えを述べる。

第1節 国民の司法参加

 まず、裁判員制のメリットを考える。第一に、裁判過程に国民が参加することにより、司法が民主的基盤を得る事ができることは素朴によい事だ、とも考えられる。具体的には、裁判員制によって現行よりも公正な刑事裁判が実現できる、と考える事としよう。制度導入に賛成する論拠として、①刑事裁判に国民の常識・良識が反映できる、といえる。例えば日本の裁判の長期化は異常である。田宮前掲書、241ページに掲載された1975年から93年までの「司法統計年報」によれば、第一審は平均審理期間が2〜6年、控訴審が5〜7年、上告審が4〜6年となっている。また、「判検交流」などにより裁判官と検察の関係が余りに緊密といえる。例えば、日本の刑事事件における被告人の有罪率は99.9%であり、この数字は、刑事裁判が無実の被告人の救済という重要な役割を果たしていないという、恐るべき示唆をあたえるものといえる。この点、無罪判決の増加が起こるとすれば、それは裁判所側の検察官に対する厳しい評価であると考える事もできる。②として、裁判員制度は冤罪の防止に有効である、と考えられる。例えば、職業裁判官は事件慣れしており、素人としての市民の目が冤罪を発見できる、といいうる。
 これに対し、制度導入に反対する立場からは、司法が民主的基盤を得る事を「素朴に」良い事とは受け止めない。なぜなら、先の日本の高い有罪率についても、精密司法、起訴便宜主義の成果であるとも考えられるからである。また、賛成の論拠①に対する反論として、素人である裁判員の法的判断能力を信頼しきれない(職業裁判官による裁判の方が信頼に足りる)という点がある。例えば、米国のように、答弁取引で職業裁判官のみに量刑判断をさせられなくなると、被告人に不利益となるといえよう。何故なら、裁判員が事実認定を甘く評価し、量刑を不当に重く判断する事が考えられるからである。また、逆にO.J.シンプソン事件のように裁判員による法の無視(nullification)も考えられる。これは、陪審にしろ、参審(裁判員制)にしろ同様にいえる(※注28)ことである。これと関係して賛成側論拠②は、裁判員制度が冤罪防止に有効な制度ではないことから論破できる、といえる。なぜなら、多数決民主主義は誤判を生まないとはいえず、従って、多数決民主主義が事実誤認などを正当化する論拠(※注29)とは到底ならないからである。
 以上の事から、第一の争点である公平な裁判の実現が期待できる、という裁判員制のメリットは、同制度導入に適切な積極的論拠とはならない、と私は考える。

※注記
28:
もっとも、陪審よりも参審のほうが、職業裁判官の職権が強い点、「法の無視」は起こりにくいといえる。とくに陪審においても職業裁判官の「説示」が、陪審をマスコミ報道による「汚染」から救う、といえる。
29:しかし、アメリカのような多民族からなる不均質社会にとってはこの正当化は有効とも考えられる。これに対し、日本は比較的均質的な社会である点、陪審などの国民の司法参加はコストが高いともいえる。

第2節 国民の意識改革

 次に、裁判員制度のメリットとして、制度導入によって法曹に対する国民の意識改革が期待できる点に争点を設定する。制度導入に賛成する論拠としては、同制度の教育効果を高く評価できる。なぜなら、国民の司法への不信は、国民が裁判及び裁判官をよく知らないためと考えるからだ。
 これに対し制度導入に反対する論拠としては、日本人・日本社会は国民性として法的意識が未熟であり、同制度は時期尚早である、と考える。即ち、職業裁判官や現行の裁判制度に国民は納得しているのだ、というのである。この点につき、日本人は議論下手で自己主張が弱く、権威(例えばここでは職業裁判官や、裁判員多数派意見)に同調しがちである、という指摘も正しいようにも思われる。しかし、私はそのような立場には立たない。まず、国民は、現行の裁判制度に満足しているとは思え割れない。例えば、行政訴訟をより国民に開かれたものとすべきだ、という社会的批判はあまりに有名である。また、日本人の法意識が未熟であるというならば、むしろその様な国民の意識改革の目的に、裁判員制度は極めて有効である、といえるだろう。しかも、そもそも日本は戦前に 陪審法 による刑事陪審制を行っていたのであり、また現在では検察審査会、調停委員制度が国民の司法参加の場を提供しているのである。
 これらのことから、制度導入に反対する論拠の「時期尚早」という点は妥当ではない、と考える。
 以上のことから、第二の争点である「国民の意識改革」という観点からは、私は裁判員制度の導入に賛成する。

第3節 制度導入による国民の負担

 最後の争点として、裁判員制度のデメリットを挙げる。それは、制度導入による一般国民の負担である。この点に付き、大きく分けて「時間」と「費用」の問題が挙げられる。すなわち、前者は裁判員となる者の心身の拘束時間や、裁判審理の長期化の問題である。また後者は財政問題である。例えば裁判員となる者に、彼の本来の職業収入と見合う裁判員従事による給与額を与えられるか、ということや、裁判員への報酬支払いのための国民全体の税金負担が挙げられる。制度導入に反対する論拠としては、以上の「国民の負担」を主張する。
 これに対し制度導入に賛成する論拠としては、そもそも「公共の福祉」の概念と同様に、国民は社会全体に対して権利を持つと同時に義務をもつ、と主張できる。従って、裁判員制度による国民に課される義務の構造変化は、新たに調整され線引きをされるにすぎない、といえる。さらに制度設計を工夫する事で、可能な限りこの負担を低減する事ができる、といえる。例えばアメリカの陪審で用いられている「1日1審理」による裁判の迅速化である。これにより、一つの事件に継続担当せねばならない陪審員の拘束時間は短縮される。また、そのことは同時に、人件費を含めた裁判費用の節約につながる、といえる。
 以上のことから、第三の争点である「国民の負担」につき、反対側の論拠は賛成側の論拠を退けるには至らない、と言える。しかし、現実問題として財政的・時間的な制約がどうなるかは、現在のところ未定なのである。

第4節 市民参加の教育効果

 さて、これまで裁判員制度につき三つの論点を検討した。そして、第一、第三の論点では制度導入に賛成する論拠も、反対する論拠も均衡している、と言える。したがって、私は第二の論点の「司法に対する国民の意識改革」に有効である、という論拠により、裁判員制度の導入に賛成する結論に達した。
 なお、この市民参加の教育効果については、陪審制についてであるが、トクヴィル(Alexis de Tocqueville)『Democracy in America』でも言及されている。それは、次のようなものである。「陪審制度は人々に、自身が社会に対して義務を持っている事、社会の統治を共に担っている事を実感させる。陪審制度は、人々を私的利害から解き放ち、社会の利己主義と対決させる。陪審制度は、各々の陪審員がその権利について学ぶことのできる、無料の公開された学校といえる。・・・陪審制度とは、社会の行い得る市民教育の最も効果的な一手段である、と考える。」
 このような西欧民主主義の概念を日本にそのまま当てはめて考える事は妥当ではないかもしれない。なぜなら、日本人は近代民主・自由主義思想を「既成の社会から自らを解放する努力」によって獲得したわけではないから、である。その結果、民主主義の精神的土壌が日本社会に十分根付いていない、とも考えられよう。かつては、高度経済成長を優先させる風潮のなかで、悪しき集団主義の典型とも言える日本の会社本位主義を、むしろ賢明な個人的戦略からなる共同団体主義(コ−ポラティビズム)として高く評価する「ねじれた」議論(※注30)も見られた。そして、自国の歴史的・文化的文脈から切り離されたところで、日本に外国の法制度(ここでは裁判員制度)を採用することは不適切であるようにも思われる。
 しかし、これには二つの理由から反論できる、と考える。まず第一に、現代の日本社会は変容し、かつての法意識は変化したとは考えられないであろうか。従って、日本人と欧米人の法意識は、かつてほどには相違点が無いといえる。これは、交通・情報手段の発達・促進により、制度・価値観の共有化がある程度進行しているためである。そして第二には、日本が西洋と法意識・価値観を共有する事を迫られている事である。なぜなら、共通のルールを守らなければ、例えば経済・ビジネスの上で市場参入できないから、である。
 これらのことから、現代の日本社会における法意識は、西欧的なそれと同様に語ることが妥当な時代である、と私は考える。そして、裁判員制度導入の意義を国民の司法に対する意識改革にある、と考える。ところが、そうなると次のことが問題として浮上する、といえる。それは、意識改革であるなら、何故わざわざ国民の直接参加を義務づける制度を設ける必要があるのか、という問題である。すなわち、意識改革だけなら、例えば教育機関における法に関する教育を強化することで足りる、とも考えられるのである。
 また、裁判員制度が、昨今の凶悪犯罪に対する国民の道徳心を量刑に反映しうるもの、ともいえなくはない。すなわち、裁判員制度は、コミュニティの道徳・正義が、司法に対して民主主義的政治的機関として介入する、といえる。この点、司法の本質は危ぶまれる。なぜなら、司法はその時々の多数者の意思によって左右されない必要がある、といえるからである。従って、犯罪に対する国民的関心は、法制度よりもむしろ道徳や政治の場面での議論に適している、ともいえる。
 しかし、私はやはり先の理由により裁判員制度の導入に賛成する。即ち、法制度による国民の意識改革の意義を私は強調するのである。そこで、次の章では一般的な法学の議論として、「法と道徳と政治」の関係について述べる。その一般的議論は、「道徳」は一般国民・コミュニティの正義、「政治」は国民の民主主義的司法参加制度としての陪審・参審制度、と捉えることで、裁判員制度の議論に当てはめる事ができるだろう。

※注記
30:
濱口恵俊・公文俊平編『日本的集団主義』 有斐閣選書。

第4章 法学ー法と道徳・政治

 「法」「道徳」そして「政治」。これら三者はすべて相互に相関していると言える。しかし、私はこれらの関係を、法を基点として検討することが有効であると考える。なぜなら、三者の中で法が最も規範的で、かつ広く人々に共有され得る実体的なものだからである。以下、詳しく論じる。
 まず、法とは文化の一部である。すなわち、法は言語・宗教・道徳・政治・経済といった社会的連続体の一部である。従って、法は他の文化領域と交錯関係を持つ。ところで、一般に文化は言語を最たる指標として定義される。それは、言語が人と人とを繋ぐ最も基本的なコミュニケーション・メディアだからである。そして法(法律)とはそれ自体が言語的存在である(例えば、法典)。従って、少なくとも法は、道徳と政治の両者よりもはっきりと観念化して、言語化し得るもの、といえよう。このことから、私は法を基点にして考察するのである。
 次に、法と道徳、法と政治の関係を個別に検討する。
 法と道徳の関係でいうと、「法は、道徳の最小限である」と言い得る。なぜなら、まず第一に法にとって道徳は補完的であるからだ。例えば、「法の欠缺」(規律すべき法律が存在しない場合)や実効性の弱くなった法を支えるのは、人々の道徳律である。第二に、道徳にとって法は最終的、あるいは次善的な強制力の行使手段であるからだ。そもそも道徳規範は子供時代における親のしつけによって形成される。そして、成人社会では個人の道徳が信頼され、法や国家(政治権力)も基本的には民事不介入(※注31)である。
 これらにより、法と道徳は互いに実効性を高める関係にありつつも、法はより明確で正当性のある規範であると考えられる。
 他方、法と政治であるが、法は、政治権力を正当化するものである。なぜなら、第一に法にとって政治は実行力(強制力)を担保するものである。そのため国家(政治権力)ごとに法は異なる、といえる。しかし、第二に政治権力の側も自己の安定のために法による正当化を必要とする。とりわけ、法治主義、法の支配の原則を採る近代国家においては不可欠である。さらに、歴史的に見ても、専断的な政治権力の上位概念として法が位置付けられてきたのである。例えば、王権神授や中世法優位の思想である。
 以上のことから、私は法と道徳と政治は相互に密接に依存関係にありながらも、法は概念上、特別に扱い得るもの(※注32)、と考える。とくに、私は法、あるいは法規範の精神=「リーガリズム」を多くの人間が学ぶべきだ、と主張したい。なぜならば、とくに昨今の日本社会における政治腐敗や倫理問題は、個人レベルでの法的なものの考え方が十分でないことから起こっている、と考えるからである。この点につき、確かに一方ではリーガリズムは法曹職業人が直面する職業倫理であり、社会一般の中では相対化されるべきだ、とも考えられる。なぜなら、形式的法治主義や法律万能主義による弊害はすでに人類の経験した事である。例えば、ナチスの合法戦略による民主主義の実質的破壊である。また、倫理間の欠如した弁護士の問題は、80年代以降のアメリカにおいて重大であった。しかしながら、日本においては、一般市民の法律知識は脆弱であり、かつ法制度も米国のように親しみ深いものではないのだ。従って、私は日本社会に対して、法をより開かれたものとするべきだ、と考える。
 ところで、そのための方法として「法教育の充実」が考えられるが、それでは現在の大学法学部における法律教育はどうであろうか。この点、法学部内部における法曹倫理等の教育強化なども評価できるが、やはりより幅広い法教育のあり方こそが、ここでは問題となる。それは、単に大学における法学部以外の学生にも基礎法学程度は学ばせるべきだ、ということにとどまらず、社会すなわち一般国民を対象とできる教育制度が求められる、といえる。従って、そのようなものの一つとして、裁判員制度の導入が考えられるのである。

※注記
31:
この点、
ドメスティック・バイオレンス(DV)防止法 (平成13年法律第31号「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」)、 ストーカー規制法 (平成12年法律第81号「ストーカー行為等の規制等に関する法律」)など、近時は警察権力が積極的に介入するべきという議論もある。
32:脱線するが、法律学は社会科学ではなくむしろ神学だ、といわれることがある。これは、伝統的な法律学が法解釈学であることに由縁する、と考える。

第5章 結論

 さて、私は政策上の理由から、国民の司法に対する意識改革に有効である裁判員制度の導入に賛成する。
 ところで一方、司法制度改革審議会の最終意見書にある裁判員制度は、合憲性につき問題がある。この点につき、我が国において陪審制・参審制を制度設計するときに、合憲となるための条件はすでにⅡ章、Ⅲ章において述べたとおりである。したがって、これらを参照した上で、我が国における裁判員制度のあるべき姿を提言する。それは、現実的に考えて、審議会の最終意見書に対する批判という形を採る事とする。

 司法制度改革審議会最終意見書における
裁判員制度の内容
①権 限裁判官と裁判員は、共に評議し、有罪・無罪の決定及び刑の量刑をおこなう。裁判員は、評議において裁判官と基本的に対等の権限を有する。
②任 期裁判員は、具体的事件ごとに選任され、一つの事件を判決に至るまで担当する。
③選出方法裁判員は、選挙人名簿から無作為抽出した者を母体として選任される。
④対象事件対象事件は、法定刑の重い重大事件に限られる。
⑤被告人の選択権被告人は参審裁判を辞退できない。
⑥被告人の認否
  による区別
公訴事実に対する被告人の認否による区別はもうけない。
⑦上訴の可否当事者からの事実誤認または量刑不当を理由とする上訴は認められる。
⑧判決書の内容判決書の内容は、裁判官のみによる裁判の場合と基本的に同様のものとする。

 私は、②、③、④、⑥、⑦、⑧については現在のところ異論はない。しかし、致命的に問題であるのは、①と⑤である。これらは、直接に憲法問題となるのである。①については裁判員の評決が職業裁判官を拘束するならば違憲である。この点、修正なり付則等で裁判員と職業裁判官の差異を明らかにする事が必要であると考える。評決権然りであり、構成人数比なども同様である。また、⑤についても 憲法第32条 の被告人の(職業裁判官の)裁判を受ける権利の問題がある。国民が司法参加することが被告人にとって必ずしも有利に働くわけではないのであるから、少数者(ここでは被告人)を保護する司法の役割が再考される、といえる。
 以上のことから、私は最終意見書の①と⑤は見直すべきだ、と提言する。
も し①と⑤が裁判員制度に不可欠であるという論拠があるとすれば、当局は憲法改正につき現実的で積極的な議論を見せなければならないだろう。

第6章 おわりに

 私は、どちらかといえば法制度に対して信頼を寄せる者である。しかし、法は閉じた厳格な部分社会や、文章の上だけのものではない。法制度は、人が作るものなのである。この点、法は社会統制の手段であると同時に、社会変動により法もまた変化を受けるものなのである。この点につき、社会は本質的に法だけではうまく機能しない、といえる。この最たる例としては、昨年9月11日同時多発テロ以降の民主主義国家の直面した問題が指摘できる。とくにアメリカ国内における問題として、「民主主義社会における個人の自由と社会の安全のバランスの線引き」がある。例えば、テロリストが「イスラム系」であったために、国内のイスラム系であるという理由だけで任意出頭要請が行われたり、ムスリムに対する暴力、差別的な事件が問題となったのである。この問題は、一方の極に個人的活動の自由を重んじる自由尊重主義(リバタリアニズム)をおき、もう一方の極には国家による強力な統制を是とする全体主義をおくことができる。すなわち、民主国家はその均衡点を常に再調整していかなければならない、といえる。
 従って、確かに法は社会にとって普遍的な拠り所となりうるものとはいえない。どんなに優れた法律の条項が存在しても、我々の社会の本質はそのようなものなのである。このことは、何も今回のテロに限った事ではない。私たちは、常に通常犯罪の起こる危険を抱えた社会に生きているのである。例えば、報道規制立法は歴史的概念(※注33)としての言論の自由に反するから認められない、という通説的な議論がある。しかし、報道規制が論じられる背景には、やはり社会的問題が存在しているのである。例えば、有名人のプライバシー侵害の問題である。単純な類型を示す。例えば芸能産業は、マスメディア一般がそうである(※注34)ように、芸能人と視聴者それぞれの一方的なコミュニケーション過程がコミュニケーション・メディアを異として(※注35)結合している、といえる。このことは「錯誤」的である。そして、これが犯罪類型につながる場合の一つがストーカー犯罪である、といえる。例えば、『ジャニーズ追っかけ本』事件である。このような出版物は、芸能人のパブリシティ権を直接に侵害するのみならず、一部の狂信的なファンの犯罪行為を助成するもの、といえる。この点、民間人の出版行為が犯罪と結びつき得ることが確認できる。また、同様のことはワイドショウ的報道についてもいえる。まず、報道関係者は芸能人の「スキャンダル」を第三者的立場から報道している、とも考えられるだろう。例えば、「素敵な」女性と男性の関係を、あたかも自然に存在する客観的事実として報道している、という「客観報道」の考え方である。この点につき、芸能人のように事実上社会に対して強い影響力を持っている人間の行動を報道する事は、多数の視聴者の関心を適切に充足させ、社会的秩序の暴走をとどめる点で「公益」にかなう、とも考えられるかもしれない。しかしながら、その様な論拠で正当化しうる報道の対象とは、社会的秩序を直接に脅かす虞のある、明確に犯罪行為として捉えられる行為、といえる。なぜなら、「下世話な詮索心」に基づく報道が社会秩序を云々することには全く正当性がないから、である。むしろ、その様な報道こそが公的場面にふさわしからぬ人間的欲望を発露させ、社会悪と化している(※注36)ともいえるだろう。ここにおいて、一般に報道が私たちに伝える事実とは、まさにその情報提供者の責任の下にある、と言えるだろう。したがって、報道事実とは、まさに情報提供者の行為そのものである、といえる。勿論、事実とは個人の合理的な再構成によって創られるものだ、という命題は真とはいえない。だが、多かれ少なかれ、人間の営みには必ず恣意性が含まれてくるのである。したがって、先の男女関係の例を持ち出せば、これを公衆の関心事に祭り上げ、名誉を毀損する報道行為は、保障される表現の自由(※注37)にあたらない、といえる。とくに、過剰報道の悲劇として、ダイアナ元皇太子妃の交通事故問題があった。すなわち、報道、あるいは社会が「純然たる事実行為」として「ストーカー」犯罪を行っている虞が指摘できる。
 ところで、最近我が国で立法された DV防止法ストーカー規制法 は、積極的に警察権力を私的領域に導入するものである。確かに、このような立法自体は必ずしも望ましいこととはいえないだろう。だが、それを必要とするような社会問題が生じるに至っているのである。この点、報道規制についても、その需要は認められるのだから立法すべきだ、ともいえる。しかしながら、憲法が保障し、かつ国民の関心の高い「表現の自由」と正面から対立するために、報道規制の立法は困難であろう。そこで、そのように法律がうまく機能できない領域における犯罪的行為を処遇する方法が問題となるのである。すなわち、これまで法律問題等の諸事情により、表面化してこなかった「新しい」犯罪類型をいかにして公けに認知可能にするか、という問題である。まず、第一に立法や法の運用体制を整えることが考えられる。これが、先の DV防止法 等である。だが、問題なのは、その様な制度的な対応が十分機能できない領域である。そこで、第二に非制度面での対応が考えられる。例えば、個人の道徳律である。この点につき、地域共同体の倫理を挙げる事もできるようにも思われる。なぜなら、地縁的結合による人間関係は生活空間をともにするから、非制度的な面にも目が行き届く、と考えるからだ。しかしながら、このような地域共同体の倫理はむしろ問題となるのである。すなわち、制度的な警察権力が有効に機能できない犯罪的行為の温床となりうるからだ。また、現在の日本においては、良くも悪くもかつてのような「顔による紛争解決」(※注38)ができる共同体すら崩壊してしまった、といわれる。以上のことから、とくに日本社会においては個人レベルによる情操教育の必要性(※注39)は認められても、地域共同体の倫理に期待をかけることは楽観的に過ぎる、といえる。
 そこで、第三である。はじめに述べたように、新しい犯罪類型を認知していく為には、厳格な制度では無理である。そこで、柔軟な運用ができる制度を考える。例えば、現在導入が議論されている裁判員制度はこれにあたる、と考える。なぜなら、同制度によって、事実認定が柔軟化し、犯罪事実の認定に関する障害を減じることが期待できるからだ(※注40)。問題点もあろうが、事実を可能な限り客観的事実として尊重していこう、という考え方といえる。ただ、ここで裁判員につき問題となるのは、事実尊重主義の弊害である。例えば、当該事件の判断に関係のない他事考慮(※注41)が入り込む余地がある、とも考えられる。すると、裁判員制度が参審制の一形態である以上は、職業裁判官による適切な指導が求められる、といえる。この点からも、最終意見書のいう裁判員と職業裁判官の「対等の権限」という点は、いささか疑問が残る。
 いずれにしても私たちの生活している社会は、私たち一人一人から構成されている。その社会が、本質においてN人非協力ゲームだ、と捉える事は、相対化する必要はあるが、真理である、といえる。しかし重要な事は、私たちが社会に生きる者としての責任を自覚し、常にその観点から洗練された意識を持つ事であろう。

※注記
33:
すなわち、経験的に言論の自由は国家権力による侵害をしばしば受けてきた結果、獲得された自由であるということ。
34:すなわち、情報の受け手と送り手の固定化、情報のやり取りの非対称性のことである。
35:例えば健全な例では歌謡曲(CD)の販売である。アーティストはメディアとして芸術を用いる。彼らは歌にメッセージを込めたり、コンサートツアーなどにより視聴者とのコミュニケーションを図ろうとする。
しかし、視聴者が用いる事ができるのは貨幣メディアである。この点、視聴者(ファン)はアーティストと人的結合を果たしているとはいえないだろう。もっとも、これは健全な例であるから、あまりいびつには思われないだろう。
36:一方で、社会的必要悪と呼ばれるものは確かに存在する。
37:まさか私人の個人情報を「知る権利」として主張する法知識の誤解者は、さすがにいないだろう。
38:渡辺洋三 『法とは何か』新版、26ページ。
39:例えば、高校生の奉仕活動の義務化が議論された時期がある。結局は義務化は否定された。確かに、本来自発的であるはずの「ボランティア」が義務付けられることはおかしい、といえる。さらに義務化された「奉仕活動」が地域社会とのつながりを指向するとすれば、極めて時代を逆行する思想だと言わざるを得ない。
40:しかし、それは必ずしも被告人の利益にかなうとはいえない。もっとも、司法制度改革審議会の最終意見書では、参審裁判を被告人に辞退させることを考えていないから、そもそも糾問的(当事者主義的ではない)である、ともいえる。
41:例えば、余罪と量刑の問題である。高橋和之他『月刊ジュリスト別冊・憲法判例百選Ⅱ』117事件(昭和42年7月5日最高裁大法廷判決、昭和41年7月13日最高裁大法廷判決)

※参考文献一覧
平良木登規男他 「座談会・裁判員制度導入の是非をめぐって」『現代刑事法』2001年12月号 現代法律出版
丸田 隆 『陪審裁判を考える 法廷に見る日米文化比較』 中公新書、1990年
佐藤幸治、鳥居康彦他 『海外実情調査報告(米国)』 司法制度改革審議会(法務省ホームページ)
鈴木淳司 『これでアメリカの法と社会の実際がわかる』 日本評論社、2001年
碧海純一 『法と社会 新しい法学入門』 中公新書、1967年
川島武宜 『日本人の法意識』 岩波新書、1967年
福田歓一 『近代の政治思想−その現実的・理論的諸前提−』 岩波新書、1970年
J・N・シュクラー著、田中成明訳 『リーガリズム 法と道徳・政治』 岩波書店、2000年
芦部信喜 『憲法』新版補訂版 岩波書店、1999年
伊藤 真 『憲法』 弘文堂、1998年
高橋和之他 『ジュリスト憲法判例百選Ⅱ』 有斐閣、2000年
田宮 裕 『刑事訴訟法 新版』 有斐閣、1996年
井田 良 『基礎から学ぶ刑事法』 有斐閣アルマ、1995年
Niklas Luhmann, translated by Eva M. KnodtArt as a Social SystemSTANFORD UNIVERSITY PRESS、2000年
Random House Webster'sDictionary of the Law』 2000年
渡辺洋三 『法とは何か』新版 岩波新書、1998年

田口 達朗(たぐち・たつろう) 大学生


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