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司法制度改革と裁判員制度(1)
〜国民の意識改革に司法参加を〜

田口 達朗

【目 次】

 第1章 はじめに
 第2章 裁判員制度とその合憲性

    第1節 陪審制とその合憲性
    第2節 参審制とその合憲性
 
(以下、次号)
 
第3章 裁判員制度導入に関する政策上の論議 
 
   第1節 国民の司法参加
    第2節 国民の意識改革
    第3節 制度導入による国民の負担

    第4節 市民参加の教育効果
 第4章 法学−法と道徳・政治
 第5章 結論
 第6章 おわりに

第1章 はじめに

 2001年6月12日、司法制度改革審議会の最終意見書において、法曹人口の拡大、法曹養成制度の改革(法科大学院の設置)と並び、刑事訴訟手続に裁判員制度を導入する提案がなされた。裁判員制度とは、国民を裁判過程(刑事裁判における事実認定と量刑)に参加させるもので、司法がより強固な国民的基盤を得る事をその目的としている(※注記)。現に、例えば、民主主義の本家である欧米諸国では、陪審制、参審制が既に設けられている。しかし、日本は現在、世界でも小数・例外的に、同様の制度を設けていない。従って、裁判員制度の導入については、憲法や立法政策上の制度設計が争点となる。
 そこで本論では、まず第一に我が国における裁判員制度の合憲性について検討する。次に、制度設計上の問題点を、裁判員制度に賛成、反対の論拠を挙げて検討する。そして最後に、裁判員制度の望ましいあり方について提言する。
 (なお、法律論や周辺事項を既にご存知の方は、Ⅳ章より読まれる事をお勧めします。)

※注記
参考:司法制度改革審議会最終意見書における裁判員制度の内容

①権限:裁判官と裁判員は共に評議し、有罪・無罪の決定及び刑の量刑をおこなう。裁判員は、評議において裁判官と基本的に対等の権限を有する。
②任期:裁判員は、具体的事件ごとに選任され、一つの事件を判決に至るまで担当する。
③選出方法:裁判員は、選挙人名簿から無作為抽出した者を母体として選任される。
④対象事件:法定刑の重い重大事件に限られる。
⑤被告人の選択権:被告人は参審裁判を辞退できない。
⑥被告人の認否による区別:公訴事実に対する被告人の認否による区別はもうけない。
⑦上訴の可否:当事者からの事実誤認または量刑不当を理由とする上訴は認められる。
⑧判決書の内容:判決書の内容は、裁判官のみによる裁判の場合と基本的に同様のものとする。
 この内、陪審制的特徴は②、③、④である。もっとも、各国の参審制は多様であり、これらの特徴を備えている事もしばしばである。また、その他はすべて参審制の特徴といえ、とくに①は決定的といえる。
(:長尾一紘 「裁判員制度と日本国憲法」『現代刑事法』2001年12月号、現代法律出版より)

▲東京地方裁判所・東京高等裁判所(東京都千代田区)

第2章 裁判員制度とその合憲性

 結論から言えば、裁判員制度の合憲性は、同制度導入自体を否定するものとはならない、といえる。なぜなら、同制度はそもそも現行憲法が予定していたものではないからである。しかも、陪審制・参審制の合憲性は憲法学上も意見対立が見られる。したがって、裁判員制度の制度設計こそが問題となる、といえる。すなわち憲法上は白紙状態であり、立法政策上の問題として考えるべき問題といえる。
 しかしそうはいうものの、司法制度改革審議会の最終意見報告書の提示した裁判員制度の大枠は、すでに憲法上の争点をはらんでいる。例えば、素人としての裁判員が職業裁判官と対等の権限をもつ、という点である。これは、裁判官の独立の原則(※注1)に抵触する虞がある。そこで、制度設計に関わるであろう憲法上の問題をきちんと確認しておくことは必要であると考える。そこで、まず同審議会が参考にした陪審制・参審制と、その制度の我が国における合憲性につき検討する。

※注記
1:
問題となるのは
日本国憲法第76条3項 「裁判官の職権の独立」である。詳細は後述する。

●第1節 陪審制とその合憲性

▲1、陪審制とは何か

 陪審制(Jury Systemとは、主に英米法下で活用されている国民の司法参加の一制度である。ところで、参審制にしろ陪審制にしろ、その制度のあり方は国によって異っている。ここではアメリカを例に述べる。アメリカの場合、刑事事件の場合は合衆国憲法修正第5条及び第6条、民事事件の場合は第7条に明文規定がある。
 米国法上、刑事事件の場合は陪審制が義務付けられており、まず第一に起訴手続としての大陪審(Grand Juryが用いられる。即ち、逮捕した被疑者を裁判にかけるか否かを決定する手続である。これは日本においては公訴手続(※注2)に相当する。大陪審では検察側が単独で被疑者を起訴できないものの、被疑者、検察官、裁判官そして陪審員で構成され、被疑者側の弁護人は出廷、傍聴を許可されず、検察側に主導権が与えられている。この理由は、つまるところ大陪審が「裁判」ではなく、本来は検察側の起訴手続の一部に過ぎないから、である。
 さて、起訴が決定すると、罪状認否(arreignmentの手続となる。これは被告人にとって「答弁取引」(Plea bargaining「陪審裁判」(Jury Trialのいずれを選択するかという意味を持っている。「答弁取引」とは、被告人があらかじめ有罪を認めることで陪審裁判を受ける権利を放棄し、その見返りにより軽い量刑を検察側に求めることである。このとき、公判は省略され、職業裁判官のみによって、検察及び被告人側の弁護人の提案した量刑の判断がなされる。すなわち、答弁取引において陪審員は出番が無い。これに対し、罪状認否で被告人が検察側の容疑事実を否定する「無罪答弁」を選択すると、陪審裁判が開始されるのである。
 ここで重要な事は、被告人が陪審裁判か、職業裁判官のみの裁判を受けるかを選択できる、という点である。
 以上を受けて、被告人が陪審裁判を選択したとき、第二の陪審としての「小陪審」(Petit Juryが用いられる(なお、小陪審については民事事件でも用いられている。但し、連邦裁判所ではない州裁判所における民事事件では陪審裁判は義務付けられてはいない:合衆国憲法修正第7条(※注3))。
 さて、小陪審の役割は大きく分けて二つある。それは、証拠に基づく事実認定と評決である。まず事実認定(Fact Findingだが、その意義は、「ものの見方は人ごとに違う、事実は相対的なものである」という考え方にあり、為に事実認定は一般人からなる陪審員に委ねられるのである。このことは正に、「民主主義が完璧で最良な制度ではないが、それでも最善の制度である」と考えられている事の現れである、と言える。但し、陪審による事実認定にはある前提条件がある。一つは、アメリカでは、証拠法則に基づき裁判官が裁判で用いる事のできる証拠を決定していることである。例えば、伝聞証拠は排除されるし(※注4)、検察官も弁護人も法律論に基づいて証拠の採用の可否を議論する。そして、陪審員にはその様な過程を経て採用された証拠のみが裁判で提示されることとなる。この理由は、ある証拠物が裁判で使用できるか否かという判断は、事実認定そのものではなく、単に手続における純粋な法律論だからである。また、二点目として、陪審の事実認定については、上訴は認められない。上訴審では法律問題だけが争われることは日本の裁判も同様であるし、更に、陪審裁判は職業裁判官のみの裁判よりも時間がかかる点からも、事件の早期解決のためにその様な制限は当然のものと考えられる。
 次に陪審の評決(Jury Verdict(※注5)である。刑事事件では普通、量刑の判断には至らない有罪か無罪かの判断である(なお、評決は陪審員のみの評議で行われる)。その際の陪審員の判断基準として、証拠法上の原則などが職業裁判官から陪審に事前に「説示」(instructionされる事になっている(例えば「被告人の無罪の推定」<presumption of innocence>と検察側の立証責任、「”合理的な疑いを超える”<beyondreasonable doubt>")心証」などである)。この説示は、陪審が正しい判断をするため(※注6)に事件の内容・法律を十分に理解させるという意義を持っており、陪審の重要な手続である。さて、評決には12人の陪審員の全員一致が必要であり、一人でも反対意見がある(評決不成立:hungjury)と裁判をやり直すことになる。陪審の評決により被告人の有罪が決定された場合、普通は職業裁判官が量刑を決定することになる。しかし例外もあり、死刑などの重大犯罪については陪審員による量刑決定がなされている。一方、民事事件では損害賠償額の算定も陪審によって行われている。民事事件の場合は、陪審の判断基準は緩和され、確信に至らない程度の心証で足りる(Preponderance of evidence)他、全員一致原則も緩和される州もある(例えば特別多数決など)。
 ところで、陪審が評決をする意義については、やはり裁判に民主主義の基盤を与えるところに見出す事ができる。特にアメリカのように不均質な社会においては陪審制度は評価が高い、と言える。例えば全米州裁判所センターワシントンDC支部に対する日本の海外実情調査報告において、80%の米国民が「陪審制度は有罪判断を下す為の最も公平な制度」として高い信頼を寄せている、という意識調査結果が言及されている(※注7)
 しかし一方で陪審制の問題点も確かに存在する。例えば陪審員選定手続が陪審裁判の遅滞を招く事である。また、陪審による法の無視(jurynullification(※注8)もしばしば見受けられる、という。このような国民の司法参加による利点とその弊害については、後の我が国の裁判員制度のあり方についての章において検討することとする。

※注記
2:
田宮 裕 『刑事訴訟法』新版 有斐閣、1996年 11ページ。
 しかし日本では現在、検察官の起訴独占主義、起訴便宜主義(被疑者の起訴を決めるのは検察官の自由裁量で足りる、という考え方)が採用されている点、強力な国家訴追主義となっている。すなわち、現在の日本では国民の参加のは乏しい、と言える。なお日本においては、事後的チェックとなるが、起訴の適正を審査する検察審査会が国民の司法参加をになっている、といえる。
3:例えば特許関係の裁判のように高度の専門性が問題となる民事事件には、陪審制は有効ではない、といえる。
4:この点、ヨーロッパの刑事裁判では、裁判体(職業裁判官+選定された一般市民)は、あらゆる証拠を検討する。アメリカのように、証拠提示の方法の違反がしばしば問題となることはない。
5:鈴木淳司 『これでアメリカの法と社会の実際がわかる』 日本評論社、2001年 273ページ。
 日本の裁判では、有罪・無罪及び量刑、そして損害賠償額の判断はすべて裁判官が行っている。したがってその判断は「判決」と呼ばれている。
6:佐藤幸治、鳥居康彦他 『海外実情調査報告(米国)』 司法制度改革審議会(法務省ホームページ)。
(7)
NationalCenter for State CourtsWashington DC Office)、平成12年5月4日。
 とくに米国では1960年代から各州で陪審制度の改革が進められ、陪審員のメモ取り、質問方法の拡充(裁判官経由での証人尋問を認める)などが図られた。また、同制度改革では一般市民の陪審員義務の例外規定の縮減・廃止や陪審員手当て(給与)の改善なども行われている。
7:『海外実情調査報告(米国)』、先掲(7)
8:『海外実情調査報告(米国)』、先掲(7)。また、同「
New York County District Attorney's Office」、平成12年5月1日。
 「陪審による法の無視」とは、例えば陪審が公訴事実の存在を認定しておきながら、被告人に同情してより軽い犯罪事実を認定する事、あるいは法令違反は認めるが有罪とはしない事などである。このことは陪審の事実誤認として問題視できる反面、地域共同体の正義を裁判に反映させ、刑事手続を適正化させるという制度目的からすれば正当であるとも考えられる。近時の同様の例としては、O.J.シンプソン事件が議論を呼んだ。なおこれとは逆に、陪審制度には事実認定が甘く、より重い量刑が評決される可能性もある、といえる。

▲2、明治憲法下における陪審制

 それでは、我が国における陪審制の合憲性について述べる。
 まず留意すべき事は、我が国は戦前、陪審制を採用していた、ということである。かつての明治憲法下において制定された 陪審法 (大正12年法律第50号)(※注9)では、評決に拘束力の無い刑事小陪審が採用されていた。もっとも、その内容は、当然のことながら先述の現代アメリカの小陪審とは異なっている。例えば陪審員資格は満30歳以上の男子で、2年以上同じ市町村内に居住し、連続して2年以上直接国税3円以上を納め、かつ読み書きの出来る者( 陪審法第12条 )、などと規定されていた。1925年当時に実施された国政選挙の投票権者は全人口の20.8%であり、1927年の陪審員資格者数と比べると、陪審員資格者は全投票権者のわずか14.3%でしかなかったのである。これに対し、現代のアメリカでは(※注10)広く一般国民の中から無作為抽出を試みている。また、陪審法は、陪審員に対する処遇もよくなかった。例えば、陪審の判断が報道などに影響を受けないようにする目的の為、審理が1日で終わらなくても、陪審員は外部との連絡は勿論、帰宅もできなかった( 陪審法第83条、第111条 )。さらに、陪審員の権限も職業裁判官に比べて弱く、例えば、陪審の判断は直接、有罪・無罪を決定するものではなく、単に犯罪構成事実の有無に「然り」または「然らず」と答申するだけであった( 陪審法第88条 )。そしてこれを受けて、職業裁判官が有罪、無罪を言い渡したのである。なお、陪審の答申(評決)は全員一致ではなく過半数一致の多数決で決定されていた( 陪審法第91条 )。加えて特徴的なのは、陪審の答申は職業裁判官を拘束しない点である。すなわち、職業裁判官は陪審の答申に不服の時は、別の陪審に事件を評議させる「更新」を行う権限をもっていたのである( 陪審法第95条 )。この理由は、陪審の答申に拘束力を認めると陪審が裁判権の行使を行う事になり、大日本帝国憲法に反するからである。当時主張されていた陪審制違憲論は、大日本帝国憲法第57条(天皇の裁判)や、第24条(裁判官による裁判)の条項を根拠とするものであった。この争点は、実は今日の日本国憲法第76条「裁判官の独立」についても同様に議論されているところである。
 さて、戦前の 陪審法 による陪審制は1943年に 「陪審法ノ停止ニ関スル法律」 (昭和18年法律第88号)によって廃止された。その原因としては、「戦時」という時局に鑑みて、陪審裁判にかかる「時間労動物資及び費用を節減」するため、といわれている。なぜなら、 「陪審法ノ停止ニ関スル法律」 は、明文で「大東亜戦争終了後」の再施行を規定しているからである( 陪審法ノ停止ニ関スル法律付則3項 )。しかし、戦前の日本の陪審制の廃止の理由を戦局に求めない議論も盛んである(例えば制度上の欠陥(※注11)があった、という指摘がある)。また、陪審裁判は準備が煩雑、控訴が不可である事から、司法の担い手である法曹三者から敬遠され利用率が減少した(※注12)という議論もある。例えば、刑事陪審の実施されていた15年間で、陪審評議事件数は総計で484件に過ぎない。とくに請求陪審はわずか12件なのである。そのほか、日本人の法意識が未熟であり、「お上」すなわち天皇の官吏である職業裁判官による判断を信頼し、素人である陪審を信頼しなかったという説明もしばしばなされる。
 いずれにしても、 陪審法 は戦争後は再施行される予定であったにもかかわらず、1943年以来停止されたまま現在に至っている。これは一体何故であろうか。戦後の民主化過程でGHQは陪審制度の導入に積極的であった。これに対し日本政府は「時期尚早」「実施可能な状況ではない」「違憲論」等の理由により消極的であった(※注13)。結局のところ、1947年5月3日に 日本国憲法 と共に施行された 裁判所法 (昭和22年法律第59号) 第3条第3項 に、「この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない。」と規定されるに至った。すなわち、「実質的意味の憲法」を構成する 裁判所法 が刑事陪審を予定しているのである。そして、これを受けて、現在に至るまで刑事陪審の再施行はしばしば議論されてきたのだが、それが今回の司法制度改革審議会の最終報告により、刑事陪審ではなく刑事裁判員制度としてようやく実現への気運が高まっているのである。

※注記
9:
陪審法 の制定は大正12年(1923年)であり、昭和3年(1928年)から陪審裁判が実施されている。
10:丸田 隆 『陪審裁判を考える』 中公新書、1990年 68ページ。
 かつてはアメリカにおいても陪審候補者選定につき問題があったといわれる。例えば、選挙人登録者名簿を用いた無作為抽出が多くの州で行われていた。しかし、この名簿は有資格者名簿ではないのである。この他、納税者名簿、電話帳、運転免許登録者名簿などを用いた例もあるが、経済的困窮度の高い少数者は排除される虞がある。また、かつては陪審員免除の制度も存在した。これは、社会的に重要な役割を果たしている職業人に、陪審員になる義務を免除していたのである。これらの結果、コミュニティの公正な代表性は担保されないのである。現代では、より柔軟な名簿の作成、免除職制度の廃止、審理の迅速化による陪審員の拘束時間の短縮などが各州で工夫されている。
11:丸田前掲書、148ページ。
 日本の陪審制度は被告人にとって相当不利益な制度であったといわれる。例えば、治安維持法関係の犯罪など、「陪審不適格事件」(
陪審法第4条 )なる類型があらかじめ定められていた。また、公判(準備)期日に自白すると陪審裁判はできず、よしんば陪審裁判であっても、陪審の答申が被告人に有利でも裁判官は「更新」できた( 陪審法第95条 )。さらに、陪審裁判では判決に対する控訴は認められなかった( 陪審法第11条 )。その他費用の面でも、請求陪審で被告人敗訴の場合は、被告人が陪審費用を負担しなければならなかった( 陪審法第107条 )。
12:丸田前掲書、140・150ページ。
 旧日本の刑事陪審には「法定陪審事件」(
陪審法第2条 )と「請求陪審事件」( 陪審法第3条 )があり、前者は陪審裁判が原則、後者は被告人の請求で陪審が開かれるものであった。しかし、いずれも被告人は陪審裁判を「辞退」する事が可能であった( 陪審法第6条 )。陪審裁判は検察にとっては準備・手続の煩雑な「面倒な」ものであり、かつ、陪審請求は裁判官に対する挑戦と受け取られかねなかった。弁護側にとっても控訴が不可能であるという「危険な賭け」であった。このことから、訴追、非訴追者のみならず裁判官にしても、被告人に陪審裁判の辞退をすすめることがあったという。
13:丸田前掲書、152ページで、利谷信義「戦後改革と国民の司法参加」(『戦後改革4』1975年)が紹介されている。そのほか、憲法制定前後の議論として、長尾一紘「裁判員制度と日本国憲法」『現代刑事法2001.12-No.32』30頁が詳しい。

▲3、日本国憲法下の刑事陪審の合憲性

 そこで、現憲法下での刑事陪審の合憲性を現実的な法律問題として論じる。
 まず、現行法下で旧憲法下の 陪審法 (大正12年法律第50号)による陪審制を復活させる事は困難である。なぜなら、国家の最高法規としての憲法自体が改正されている(※注14)し、直接関係してくる刑事訴訟法も既に大きく改正されているからである。更に、陪審法は制度的欠陥を孕んでいた。従って現憲法下では、法的整合性および事実上の問題から、裁判所法第3条3項を用いて、新たな陪審制度を作ることが妥当である、と考えられる。なお、現在司法制度改革で検討されている「裁判員制度」と、裁判所法の「陪審制」との整合性は、これから調整されるべき問題である、と言える。ここでは、一般的な法律問題として、現憲法下における刑事陪審制の合憲性につき述べる事とする。
 さて、陪審制の合憲性で問題となるのは 日本国憲法第76条3項 「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」という規定である。すなわち、裁判官の職権の独立の規定である。そこで、そもそも「裁判官の独立の原則」とは何か、ということが問題となる。 日本国憲法 下での司法権は、明治憲法と比べて、①司法権の範囲を拡大し、②司法権の独立を強め、③裁判所に違憲審査権を与える、という点で大きく異なる。①については、明治憲法では司法権は天皇に帰属していたが、 現憲法第76条1項 では名実共に司法権は裁判所に帰属している。その他、行政裁判も含めたすべての裁判作用を司法権としている( 日本国憲法第76条2項 )(勿論、現憲法下でも司法権の限界はあるが、ここでは割愛する)。ここで問題となるのは②である。
 司法権の独立は、裁判が公正に行われ人権の保障が確保されるためにある。すなわち裁判を担当する裁判官が、如何なる外部からの圧力や干渉も受けずに、公正無視の立場で職責を果たす事を保障する趣旨である。なぜなら、まず第一に司法権は非政治的権力であり、政治性の強い立法権・行政権から侵害される危険が大きいからである。第二に、司法権は裁判を通じて国民の権利を保護する事を職責としているので、政治権力の干渉を排除し、とくに少数者の保護を図ることが必要だからである。
 さて、司法権の独立の原則には大別して二つある。一つは広義の司法権の独立であり、司法権が立法権・行政権から独立している事である。例えば、先の③違憲立法審査権の担保のためである。また、判例では戦前の「大津事件」、衆議院法務委員会による量刑批判の国政調査に関する「浦和事件」などが有名である。もう一つは、狭義の司法権の独立である。これは裁判官が裁判を行うにあたって独立して職権を行使することで、裁判官の職権の独立の原則とも呼ばれている。これが 憲法第76条3項 である。さらに、これを側面から補強するものとして 第77条 の規則制定権による自主性の保障、 第78条第80条 などの裁判官の身分保障がある。さて、 第76条3項 は裁判官の職権は「良心」に従うことと規定されている。この「良心」とは、もちろん裁判官の主観的な良心ではなく、裁判官という客観的な職業上の立場にもとづく良心である(例えば、判例として昭和23年11月17日付け最高裁大法廷判決が挙げられる)。また、「独立してその職権を行う」とは、他の何者の指示・命令をも受けずに、自らの判断に基づいて裁判を行うことである(※注15)。このことは、単に裁判官ではない者の指示・命令に拘束されないばかりではなく、事実上、他の機関から、具体的な裁判の進行について重大な影響を受けないという事をも意味する。すなわち、裁判官の自由な判断形成に対して事実上重大な影響を及ぼす行為は、司法権の独立を侵すこととなるのである。

▲最高裁判所(東京都千代田区)

 以上を受けて、陪審制が司法権の独立の原則と抵触しないか、という問題について述べる。
 そもそも陪審制とは、司法に対する国民参加の制度であった。そしてその類型としては、一般国民の中から選任された陪審員が、被疑者を正式起訴するかを決定したり(大陪審)、審理に参加して評決したり(小陪審)するものがある。これらの制度は特に英米法下でよく用いられている。なお、ドイツなどヨーロッパでは参審制という同様の制度が設けられている。すなわち、世界的に見て何からの形で国民の司法参加を勧めているのが民主国家の中では多数派なのである。この点につき、日本においても司法の民主的コントロールは既に法律上、制度化されているとも思われる( 憲法第6条2項 :内閣の指名に基づく天皇の最高裁裁判長の任命、 第79条1項・2項 :国民審査、 第80条 :下級裁判所の人事など)。しかしながら、国民がより直接的な形で司法権の行使に関与する事が、司法の民主主義的正当性という観点からは望ましい、ともいえる。
 そこで、陪審制を司法作用にとって望ましいもの、という観点から、陪審制と職業裁判官の独立の原則との関係につき述べる。すなわち、陪審制度の概念そのものを違憲とは考えない、ということである。その理由としてはまず第一に 裁判所法第3条3項 が刑事陪審を予定している点、憲法秩序の構成要素は陪審制を予定している、といえるからである。第二に、 第76条1項 は確かに司法権が裁判所に一元的に帰属する事を規定しているが、そのことが直ちに陪審裁判を違憲とするものではない、といえる点である。なぜなら、陪審制の制度設計如何では、職業裁判官の独立を脅かさない陪審制も実現可能だからである。すなわち、日本においてアメリカと同じ陪審制を設ける必然性は無いのである。以上の論拠から、アメリカ型の陪審制を修正する事を前提とすれば、陪審制は合憲となることを述べる。
 陪審制を合憲とする第一の立場として、裁判官が陪審の評決に拘束されない制度設計がなされる限りは、陪審制を合憲的に設けることができる、とする考え方がある。なぜなら、憲法第76条は訴訟手続のすべてが裁判所によって行われなければならないとは規定しておらず、事実の問題としてそこでは検察官や弁護士が重要な役割を果たしているのである。したがって、裁判官が裁判官でないものから拘束を受けない以上は、 憲法第76条3項 の裁判官の独立の原則に反しない、といえる。さらに、 憲法第32条 の被告人の職業裁判官の裁判を受ける権利も犯されない、といえる。
 更に一歩進んで、陪審の評決が裁判官を拘束する陪審制度も合憲となる、とする立場もある。但し、陪審の事実認定・評決の判断につき適正を確保するために、裁判官が一定の役割を担う(例えば評議の前の裁判官による説示)事ができることを条件とする。この点につき、司法権に事実認定を含むと考える立場からは、司法権の独立に反するようにも思われる。しかしながら、 日本国憲法 はアメリカ法の強い影響を受けており、司法に対する国民参加制度としての陪審制には一定の合理性が認められる。例えば、裁判所法第3条3項である。とくに、陪審制の概念は、法的な判断にあたっては法律の専門知識が必要であるが、事実認定については法律家がより勝っているとはいえない、という考え方に立脚している。この点、現行では認定されないがゆえに法的事実として裁判過程に浮上してこない、事件に関わる純然たる事実の意義が問題となる。すなわち、この純然たる事実は事件解決に重要な役割を果たし得る、といえる。したがって、司法権に事実認定を含むと考える場合であっても、直ちに陪審の事実認定の意義を否定することはできない、といえる。もっとも、陪審の方が職業裁判官より優れた事実認定が行いえるともいえない。例えば専門先端技術が争点の場合である。また、多数決民主主義であれば事実誤認は正当化される、ともいえない。
 以上の事から、陪審の評決が裁判官を拘束する陪審制度を合憲とする場合は、被告人が陪審裁判か職業裁判官による裁判かのいづれかを選択できるような制度設計が望まれる、といえる。

※注記
14:丸田前掲書、154ページ。
 但し、
陪審法停止法 は戦後にあたる1946年(昭和21年:新憲法公布の年)に「大東亜戦争終了後」の文言を「今次戦争終了後」と改正するなど手を加えられてはいる(昭和21年3月23日勅令第161号)。だが、事実の問題として 陪審法 は復活されなかった。また、第108回衆議院法務委員会議事録4号5月22日においては、 陪審法停止法付則3項 の「勅令」を「政令」と解釈し、陪審制の再施行は行政府権限であるという議論がされている。この点につき、裁判所法第3条3項と 陪審法 の関係は不明である。
15:これは、立法権・行政権のみならず、司法権内部の指示・命令をも含む。判例では「平賀書簡事件」がある。また先出の「大津事件」は政府の干渉から大審院の判断を護ったもので、当時の大審院長・児島惟謙は「護法の神」等と称されるが、一方で彼の行動は、事件担当裁判官を説得した点が「司法内部の干渉」として問題視された。

●第2節 参審制とその合憲性

▲1、参審制とは何か

 参審制(echevinage、仏)とは、ドイツなどヨーロッパ大陸諸国下で活用されている国民の司法参加の一制度である。参審制では、一般国民の中から選任された参審員が、職業裁判官と共に合議体を構成して裁判を行う。
 注意すべき事は、同じ国民の司法参加であっても、参審制と陪審制は本質的に異なるということである。例えば、参審制では被告人が参審裁判を辞退するという制度を考えていない(※注16)。すなわち、職業裁判官のほかに一般市民が加わった裁判体による裁判につき、被告人がこれを受ける権利を持っているという考え方をしていないのである。また、一般に参審制は任期制がとられ、選出方法も一定の資格要件を持つものの中から公的機関の推薦などによって選出されている(なお、フランスは例外的に無作為選出を行っており、3人の職業裁判官と9人の参審員で合議体が構成される)。また、一般に対象事件も必ずしも重大事件に限定されてはいない。そしてもっとも特徴的なのは「合議」である。すなわち、職業裁判官と参審員とが別々の機関ではなく、一つの裁判体となっている。そして、参審員は事実認定から量刑まですべての判断過程において職業裁判官と議論(合議・評決)する事が原則となる。この点、陪審制には事実認定のみを行い、量刑には関与しない事があるのは先述のとおりである(※注17)。そうなると、裁判官の職務の独立の原則をもつ日本において、参審制は違憲であるとも考えられようが、今回の司法制度改革審議会の提案している「裁判員制度」は、この参審制の一形態として考えられるのである(なお憲法論については後に詳解する)。もっとも、参審制が合議である点を考えるにあたって、これが直ちに一人の裁判官の職務の独立の原則を侵すものと考える事は妥当ではない。なぜなら、我が国の通常の裁判においても、職業裁判官による合議が行われているからである(※注18)。従って、合議を前提とする参審制では、評決権など、職業裁判官と参審員との制度上の地位関係が重大な争点となる、といえる。さらに、合議においては参加者の非制度的なイニシアチブ如何によって、合議体全体の判断が影響を受けるという点が問題といえる。すなわち参審制では、専門家である裁判官に事実上、素人である参審員が指導されるため、司法の民主的コントロールが十分に機能しない、とも考えられる(※注19)。しかしこれらのことは、実際の参審制の運用や、各々の国における文化的背景などを抜きにして評価する事はできないだろう。
 さて、これまで陪審制との比較において参審制の特徴を述べた。ここで、両制度を比較する材料として、我が国における検察審査会調停委員を挙げることができる(※注20)。これらは、現在の日本において制度化されている、数少ない国民の司法参加の例である(※注21)検察審査会(昭和22年法律第127号「検察審査会法」)とは、無作為抽出された一般市民が、事件関係人の申し立てに基づき、検察の不起訴決定の再審査を行う市民の司法参加制度である(検察審査会法第1条)。検察審査会の職権の行使過程は他の機関から独立しており、検察の「起訴便宜主義」「起訴独占主義」に対する事後抑制機能を有している。もっとも実際問題として同審査会に専門的な判断を要求するのは無理である、といえる。この点につき、検察審査会の制度目的を、国民の深い関心を得る事で刑事司法の民主化に寄与する、とする議論もある(※注22)
 次に調停委員(昭和26年法律第222号「民事調停法」、昭和22年法律第152号「家事審判法」)であるが、これは比較的軽微な民事紛争について、「素人」である市民が職業裁判官に混じって法廷外紛争解決(※注23)を図る制度である(民事調停法第6条、家事審判法第3条)。調停委員制度では、市民は職業裁判官との「合議体」に参加することとなる。この点、専門家と素人との能力差の問題(※注24)は、参審制と同様である。また、調停委員の選定方法について、無作為抽出ではなく裁判所の「推薦」、「任命」という形をとっている。この点、国民的基盤の程度は疑わしくなる、といえる反面、調停の性質に鑑み、適切な人選が求められるとも考えられる。
 以上の我が国の2つの制度は、類推比較として各々、陪審制、参審制に対応する事がわかる。とくに、参審制では、素人である参審員に対する職業裁判官の影響力が問題視されうるのである。そこで、陪審制との比較において、参審制ではより国民的基盤の正当性を強調することが求められるのである。そこで、まず参審員の無作為抽出は、当然ではないものの望まれるところである。また、一つの合議体における参審員と職業裁判官の数の比率も問題となる。例えば、北欧の参審制のように1人の裁判官につき12人程度の参審員で合議体を構成すれば、専門家と素人との能力差の問題も緩和されうる。これらの条件下では、陪審制と参審制の差異は、職業裁判官が合議に参加している評決か否か(※注25)、という点に限定されてくるのである。更に、評決ルールを柔軟化すると、参審制と陪審制の相違はなくなってくる。例えば、参審員が全員一致で評決した時は職業裁判官は参審の決定を優先し、一致に至らない場合は、裁判官の判断を最終判断とするルール、などである。

※注記
16:『現代刑事法』、11ページ。
17:『現代刑事法』、12ページ。
 もっとも、デンマーク、ノルウェー、オーストリアの陪審制では、陪審員が裁判官と共に参審制的に量刑に関与する。またアメリカでは、死刑等の重大事件の量刑については陪審の評決を行っている(:鈴木前掲書、273ページ)。 
18:例えば最高裁判所である。裁判所法第9条を見よ。なお、裁判官の合議体が問題となった事件として、昭和54年6月13日付け最高裁判決(参与判事補制度事件)がある。「判事補」は裁判官ではある(裁判所法第5条)が、その権限には制限が課せられる(同法第27条)いわば「見習い」である。地裁において裁判官の単独体による審理が原則であるが、裁判官の負担過重や審理の長期化が問題となっていた。そこで、裁判所規則によって判事補が裁判に参与する事を認めたのである。最高裁は参与判事補制度を合憲とした。ここで重要な事として、参与判事補は合議体における評決権をもたず、その意見にもなんら拘束力は無い、とされた事である。また、同制度の目的が「将来よき裁判の担い手となるように判事補を指導養成すること」とされた。これらのことは、一般国民の司法参加を考える際に極めて参考となる考え方といえる。   
19:『現代刑事法』、6ページ。
 例えばドイツは職権主義(裁判官主導型)の参審制といわれる。また、スウェーデンは当事者主義の参審制といわれている。
20:丸田前掲書、187ページ。
21:これらのほかには
司法委員制度(民事訴訟法)、海難審判の参与員(昭和22年法律第135号「海難審判法」)がある。また、制度趣旨が異なるが裁判官の国民審査制も挙げておく。
22:丸田前掲書、172ページ。岸 盛一『ジュリスト』1953年48号が紹介されている。
23:なお、「裁判上の和解」は、職業裁判官によって行われる。
24:丸田前掲書、179ページでは、陪審裁判の事実認定についてではあるが、このような能力比較論は不毛であるという。たしかに、場合によりけりといった問題である、といえる。なぜなら、逆に職業裁判官を裁判員が補助する場面も考えられるからだ。例えば、刑事事件であっても証拠の専門技術的判断が求められる事もある。したがって法曹専門家以外の専門家の知識やその常識はきわめて参照するに価する、ともいえる。ただし、今回の司法制度改革審議会の最終意見書の念頭においている裁判員制度は、裁判員の優れた能力を期待するものであるとはいえない。なぜなら、同意見書は裁判員選出方法は選挙人名簿からの無作為抽出を主張しているから、である。
25:陪審制でも、評決は12人の陪審員のみによる評議(合議)を行う。

▲2、日本国憲法下の参審制(裁判員制)の合憲性

 さて、我が国における参審制の合憲性について検討する。とくに、我が国で導入が検討されている裁判員制度を引き付けて検討することとする。
 まず第一に合議判断による裁判官の職務の独立性の問題があり、第二にそれに伴う参審員の制度的地位関係の問題がある。まず、
裁判官の独立の問題について述べる。今時の司法制度改革審議会の最終意見書においては、「裁判員は、評議において、裁判官と基本的に対等な権限を有」するとしている。裁判員制度において裁判員意思と職業裁判官意思とが一致する事は必然ではない点、裁判員が職業裁判官を評議において拘束しうることが前提とされている。この点につき、 憲法第76条3項 (裁判官の職権の独立)の原則に反する虞がある、と言える。
 仮に最終報告書の言う「参審制」としての裁判員制がこれに反しないと考える場合、まず①
憲法76条 のいう裁判官の「職権」の定義を緩和して解することが考えられる。すなわち、あらかじめ我が国の憲法秩序は、上述のような参審制を予定しており、 76条3項 の「職権」は内在的な制約を受けている、と考えるのである。
 しかし、私はこの解釈は誤りである、と考える。なぜなら、裁判所法第3条3項の予定しているのは刑事陪審であり、刑事参審ではないからである。また、参与判事補制度が問題となった事件においても、最高裁は判事補の評決権を無いものと解している点、判例秩序からも否定できるように思われる。
 以上の事から、裁判員制度が評議及び評決において職業裁判官を拘束するものとなる場合、裁判員制度は違憲である、と考えられる。しかし、陪審制の合憲性と同じく、裁判員制度の制度設計如何では、合憲である裁判員制度の実現は可能である。例えば、「評議において」職業裁判官と裁判員が対等であったとしても、評決が職業裁判官を拘束しない(※注26)ならば合憲であると考えられる。この点につき先の節で参審制を陪審制に近づける評決ルールの言及をしたように、評決の「拘束性」を緩和する事で、職業裁判官の独立と拘束のバランスを調整すれば合憲にはならないか、とも考えられる。しかしながら、憲法の明文上で裁判官の独立が保障されている以上、「拘束がある」ということは違憲である、といえる。もっとも、裁判員制度のために改憲を行うことは当然可能である。この点、
憲法第9条 の問題も同様である(※注27)といえる。
 次に、
裁判員と職業裁判官の憲法上の地位関係が問題である。 憲法第78条 は「裁判官の身分保障」を、 第80条 は資格要件や任期を規定している。まず裁判員は職業裁判官とは異なり、裁判員収入を生計の糧とはしないから、 第78条 の保障は及ばないのは当然であると考えられる。しかし、参審員(裁判員)が陪審員とは異なり、職業裁判官と対等の権限で法律事項も判断することが問題となる。すなわち、事実上裁判員とは 憲法第80条 の要件を欠く裁判官ではないか、という問題である。この点、 現憲法 第78条 第80条 で想定している裁判官とは当然に職業裁判官であるから、 第80条 は裁判員には適用されないのも当然だ、とも考えられる。しかしながら、そうなると裁判官の役割を果たす事になる裁判員は事実上、違憲となる、とも主張できる。これらを受けて、前提問題として「裁判官」とはなにかということが争点となる、といえる。これについては、素直に「裁判官」とは「職業裁判官である」とすることが妥当である、と考える。すなわち、裁判員は事実上、裁判官となるという考えを認めない。すると、職業裁判官と裁判員との制度設計上の差異化が必要となると言える。この点、司法制度改革審議会の最終意見書のいう「職業裁判官と裁判員の対等な権限」には何らかの修正が望まれる。例えば、合議体において職業裁判官を数の上で少数とする事が考えられる。
 以上をまとめると、参審制(裁判員制)は
参審の評決が裁判官を拘束するなら違憲である。また、裁判員の地位が事実上、職業裁判官のそれと等価なものとなるとすれば、違憲の疑いが生じる事となる。勿論、評議における権限のほか、総合的に見て、制度的に対等の権限をもつと規定される裁判員設置の法律は違憲となる、と考えられる。

※注記
26:この評決権なき参審制は平成12年9月12日の司法制度改革審議会において最高裁判所が提案したものである。しかし、評判がよくなく、平成13年1月に法務省が評決権を認める見解を発表し、最終意見書の裁判員と職業裁判官の「対等な権限」に至っている。
27:もっとも、平和主義をはじめとして、国民主権、人権保障、
96条(国民投票) は憲法改正の限界とする解釈も存在している。

田口 達朗(たぐち・たつろう) 大学生


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