このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夫婦別姓に反対する
〜「子供のための夫婦同姓」を〜

中島 健

1、はじめに
 現在法務省は、法律婚した夫婦の別姓(別氏)制度導入に向けた 民法 改正案を準備している。1996年に法制審議会が出した民法改正の答申に基き、これまで法務省は、①夫婦は、婚姻時に各自の結婚前の姓を戸籍に記すことができる、②夫婦が別姓の場合は、複数の子の姓は全て夫又は妻の何れかに統一する(いつまでに決めるかについては検討中)、を基本とする選択的夫婦別姓制度を導入する 民法 改正案を準備してきたが、今年になって同省は、反対論が根強い与党・自由民主党を説得するために、別姓を例外扱いとする「例外的」夫婦別姓制度に修正。野党・民主党等もそれぞれ独自の改正案を提出しており、別姓導入の気運は徐々に高まっている。
 加えて、昨年8月の報道によれば、内閣府が行った「選択的夫婦別氏に関する世論調査」(全国5000人の成年男女、有効回答率69.4%)の中で、42.1%(前回=5年前比9.6%増)が選択的夫婦別姓を容認し、通称使用に限って認める人23.0%(同0.5%増)、法改正は不必要とする人29.9%(同9.9%減)をはじめて上回った、とされた(但し、多くの識者が指摘するように、この調査結果は「別姓容認」42.1%、「別姓反対」52.9%と見るべきであろう。容認派が「通称使用のみ認める」という態度をとるはずが無いからである)。
 しかし、果たして我々は、この選択的(あるいは例外的)夫婦別姓なる制度を導入すべきなのであろうか。

2、法律婚の意義と家族同姓
 そもそも夫婦別姓論を論じるにあたっては、その基礎となるべき婚姻制度(法律婚制度)の意義に遡及して考える必要がある。何故ならば、夫婦同姓制は婚姻制度の一部分を為すのであり、如何なる制度設計が適切かはその存立理由に即して考えなければならないからである。そこで法律婚制度の趣旨目的について複数の法律書にあたってみると、そこには「社会構成員の再生産」(資本主義的に言えば「労働力の世代的再生産」)ということが挙げられている。即ち、生殖により社会構成員の再生産を行う共同体が「家族」であり、その「家族」の維持を法的に保護するのが法律婚制度ということになるのである。従って、親族法における主役は「子供」であり(現に、世界各国の親族法は、「親のための親族法」から次第に子供の福祉を重視する「子のための親族法」へと変化している)、やや極端な言い方をすれば、法律婚において究極的に重視されているのは「子供の福祉」である、と言えよう。実際、夫婦の離婚に際しては、子供の処遇こそがまずもって最大限に尊重される。
 この点異論が無いとすれば、あとはその観点から夫婦の姓を如何に定めるのが適切か、ということになろう。ところで、別姓賛成派が指摘するように、確かに人の「名前」には自己の同一性を確認させ、場合によっては人格と切り離せないものになっているほど重要性を有する。「結婚して姓を変えたら、仕事上のそれまでの業績が認知されなくなった」「自分の名前が自分のものでないように感じてしまった」と訴える女性は少なくないと聞く。しかし、もしそれだけ特定の「姓」を名乗ることにアイデンティティ上の重要性が存するというのであれば、「姓」を家族間、特に親子間で統一することにもまた重大な意義があることを認めることになろう。即ち、夫婦同姓=親子同姓原則が主張する家族間の情緒的連帯を維持するためにこそ同姓は必須なのであり、親子間で「姓」が異なるということは子供の福祉に重大な影響を与えるが故に、(「子供の福祉」を最重要視する)法律婚において夫婦別姓論は排斥されるべきなのである(その点、母子の「姓」が異なることを理由とする婚外子に対する差別あるいは違和感は、無根拠な誹謗・偏見ではない)。
 そもそもこの「姓」を巡る問題は、結局新しい世代の家庭を構築するにあたり、誰が「改姓」の不利益を負担するかということであるが、別姓論は結局これを親の自己都合(それも、多くの場合経済的都合)により子供に押し付けるものであり、法律婚制度の趣旨に反しよう。少なくとも、「家族の連帯意識は姓によって保持されるものではない」とする反対派の論拠は失われている。第一、確かに「同姓」は「唯一の統合手段」ではないかもしれないが「有力な統合手段」ではあり得るし、本当に「姓」を無価値なものと見るのであれば、そもそも別姓論など登場するはずもない。「姓」には確かに価値があるからこそ、それを巡って人々が相争うのである。

3、別姓推進論の陥穽
 以上の如く考えるとき、法律婚をした夫婦における同姓は「子供の福祉」という婚姻制度の核心をなすものであり、少なくとも親の都合によって安易に改変されるべきものではないことは明らかではないだろうか。後は、別姓推進論者が唱えるいくつかの論点について、簡単に反論しておく。
 前記のような主張に対して、「家族の一体感等というものは主観的な概念である」といった批判がある。確かに、現実的な一体感の有無という意味においては、同じ姓を名乗ることは必ずしも一体感を醸成させるものではない。現に、如何に厳しい夫婦同姓制度を敷いたとしても、別姓の通称を使用したりペーパー離婚をする等してこの拘束から潜脱する方法はいくらでも考えられる。しかし、そうした「現実」をいくら指摘したからといって、家族は須らく自己の名前即ちアイデンティティの一部を他の家族構成員と共通化させ、以って一体感を共有すべきである、との「規範的意義」までも否定出来たことにはならない。そして、「姓」それ自体にアイデンティティ上の重要性が存在することは、別姓論者も認めるところである。
 「夫婦同姓では改姓した側に自己喪失感・違和感が残る他、社会的信用・実績も断絶し、更に文書・身分証明書等の煩雑な変更手続も強要される」「婚姻・離婚・再婚等のプライバシーを公表される」といった批判がある。夫婦別姓推進論を唱えるホームページ等では、主としてこれらのことを切実に訴える別姓希望夫婦が何人も紹介されている。しかし、これらの批判(改姓する者の不利益の問題)については、既に前の章で述べてきたように、それを上回る利益(子供が享受する同姓の利益)が存する以上、夫婦同姓論を完全に否定するまでには至らない。これらの反論は、せいぜい通称使用論を正当化するに留まる。
 「夫婦同姓は個人の自由を拘束し、戦前の旧態依然たる家制度を存置させるものである」との批判もある。しかし、我々が「家族」概念そのものを否定する(即ち、社会構成員の再生産を私的に行う制度を否定する)なら格別、そうでない限り、「家族」と呼ばれる一つの共同体の下で個人的自由が束縛されるのは当然のことであり、「家族」と「家制度」に共通するものを取り出して「家制度の残滓」等と批判するのは極めて不当である。そもそも戦前においても、産業革命や都市化の進展に伴って旧来の家制度は徐々に崩壊しており、結局第二次世界大戦の勃発で審議されなかったものの、昭和戦前期には家制度を緩和する民法改正案まで作成されている。「家制度=戦前の遺物=旧態依然」とし、少しでも「家制度」に近似するものをことごとく「旧態依然」と糾弾するのは、単なるレッテル貼りであろう。
 甚だしくは、「夫婦同姓は『個人の尊厳』を基調とする 日本国憲法 に違反する」といった議論もあるが、これも論理の飛躍に過ぎない。そもそも国法秩序の根幹をなす憲法は、その守備範囲の広さ故に規定が抽象的にならざるを得ないのであり、憲法が明文で何らかの処分を求めているのでない限り、その法文は一定の解釈の幅を持つのが当然である。別姓論者は憲法 第13条 (幸福追求権)、 第14条 (平等権)、 第24条 (婚姻における男女平等)等の規定からして当然に夫婦同姓が違憲であると断じるが、そうした論法が可能なのであれば、逆に「夫婦別姓は憲法 第12条後段 (公共の福祉による制限)に反する」あるいは「子供の人格権、教育を受ける権利を侵害する」とすることも出来よう。仮に、婚姻(法律婚)の要件が憲法 第24条 にあるように「両性の合意のみ」であったとすれば、婚姻適齢(男子18歳、女子16歳)を定めた 民法第731条 、重婚を禁じた 第732条 、女性の再婚禁止期間を定めた 第733条 、血族間・姻族間の婚姻を制限した 第734条第735条 、あるいは婚姻の届け出と証人を定めた 第739条 は悉く違憲・無効となろう。加えて、「個人の自由」という価値が何者にも優るのであれば、そもそも「法」という存在それ自体が「個人の自由」と相容れない社会的存在であり、「憲法」を根拠に「絶対的自由」を論ずるのは矛盾である。

4、別姓論に代る案
 では、夫婦同姓制度の維持に伴い生じる不利益(中でも、改姓を余儀なくされる女性の経済的不利益)に対しては、どのように対処してゆくべきなのであろうか。
 最大・最良の解決方法は、旧姓の通称使用を広汎に認めてゆく、ということである。具体的には、男女雇用機会均等法等で雇用者に通称使用を認めるべきことを規定したり、各種行政手続において旧姓使用を認めるよう法改正をすることになろう。
 しかしながら、思うに、最近の夫婦別姓論者は、彼らが依って立つ結婚観それ自体、反対論者のそれと大きく異なるのではないだろうか。私見によれば、別姓論者が念頭においているのは自分重視、従って「夫婦関係」重視の結婚であって、「子供」は、あたかもそうした夫婦間の結婚生活を彩る一つの要素として把握され、そもそも「社会構成員の再生産」という認識自体が希薄である。「子供」が家族生活の「主体」でも「客体」でもなく「要素」に貶められているからこそ、「子供」に「親子別姓」の不利益を押しつけても何等痛痒を感じないのではなかろうか。
 確かに、結婚生活(特にその初期)において、夫婦間の愛情による連帯は重要である。誰も、出産や育児を予め計算に入れて相手を好きになったりはしない(例外もあろうが)。また、二人の愛情が二人だけのものであり続ける限りにおいては、その関係は私的なものであり、相手以外の何人に対しても責任を負うものではない(だから、相手さえ同意すれば、「愛情が冷めた」と言って別離することも出来る)。しかし、それが二人だけのものでは無くなったとき、即ち二人の間に子供が生まれた時、二人ははじめて相手以外に「子供」という第三者に対して責任を負うようになる。即ち、私的感情としての「愛」が二人の「愛の生活」の中で徐々に社会的性質を帯び、もはや自らの感情とは別の次元において価値の源泉となり、意味を持ち得るようになるのではないか。
 以上を総括すれば、現代の 民法(身分法) は、子供が生まれていない(=相手以外の何人に対しても責任をとる必要の無い)男女の恋愛関係を保護する「(夫婦)恋愛関係保護法」としての側面と、恋愛の結果生まれた子供を保護する「親子関係保護法」としての側面を有する、と言える。そして夫婦別姓に関する議論も、つまるところ、「夫婦関係保護法的思想」を有する別姓賛成派と、「親子関係保護法的思想」を優先させる別姓反対派のせめぎあいだったのではないだろうか。
 無論、「家族」は「夫婦」と「親子」の2つの異なる「枢軸」によって成り立つものであるから、どちらか一方だけが常に存在するわけではない。しかし、人生のライフステージの中で、「夫婦」と「親子」いずれかが強調される時期(文学的に言えば、「季節」)というものは存在するのであって、夫婦別姓論も、そうした「季節」を見極めて実行されるべきであろう。具体的には、①夫婦に子供がいない場合は「選択的夫婦別姓」を認め、②子供が出来た暁には、予め決めておいたどちらかの姓(あるいは、その場で抽選で決めることも可)を名乗る、のが最適なのではないだろうか。

※フランスの「民事連帯契約」について
 1999年11月、フランスで「民事連帯契約」(
Pacte Civil de Solidarite,通称「PaCS《パックス》」)なる制度が創設された。この制度は、共同生活を営む事実婚のカップルに、夫婦と同じ税制上・社会保障上の優遇措置を認めるもので、近親者等の例外を除けば、同性愛者であっても法律婚と同様の法的保護を受けられるものである。これはつまるところ、男女間の夫婦関係以外にも、その「恋愛関係」を法的に保護するのであって、言わば純粋な形での「恋愛保護法」である(同性愛者のカップルでは、「子供の保護」という伝統的な家族法の要請はないが、「現状の共同生活の利益」を保護する必要は異性愛者と同様にあろう)。

5、おわりに
 最後に、本論では言及しなかった夫婦別姓反対論の今一つの根拠について、簡単に述べたい。それは自由民主党の一部代議士からも指摘されているように、選択的夫婦別姓制度の導入は「別姓を認めない男性は女性の敵」「同姓夫婦は守旧派」といった烙印を押す風潮を助長し、結果として同姓を選択することが不可能になる、というものである。誠にもっともな指摘であり、十分あり得ることでろう。合理的精神と基本的人権の尊重を掲げる別姓論者諸氏が、まさか斯様なレッテル貼りに勤しむとは考えたくないが・・・。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


目次に戻る   記事内容別分類へ

製作著作:健論会・中島 健 無断転載禁止
 
©KENRONKAI/Takeshi Nakajima 2002 All Rights Reserved.

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください