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大国フランスの戦後外交に学ぶ
〜フランス外交の戦後半世紀を振り返って〜

中島  健

1、はじめに
 東西冷戦の終結後、我が国の外交政策は、引き続き 日米安保条約 を基幹とする日米同盟による、事実上の米国外交追随路線を継承した。96年の日米安保共同宣言以後突入した日米安保の新時代は、何より我が国の(憲法の制約を含む)自国不信と、アメリカにおける日本「不信」及び「信頼」の、3つの思惑による合作であった。冷戦時代のような明白な「ソ連の脅威」が消滅した中で、アメリカの世界戦略の一貫を担う米軍基地の継続使用を認め、その影響力が極東に及ぶよう担保することで、東アジアにおける我が国の地位維持を保障する。ロシア、中国といった大国がひしめく東アジアにおいて、我が国の立場を強化するために、太平洋の彼方から世界最強国の支援を仰ぐ、というこの方式は、現実性という面では相応のものがあるにしろ、客観的な我が国の国力ということからすれば、あまりにも自国を矮小化した政策であると言わざるを得ない。そういった意味で、現在の我が国の外交は、歴史的に朝鮮半島の政府が中国の顔色を伺わねばならなかったのと同様、あたかも我が国が太平洋の彼方の宗主国の顔色を伺うかのようである。そしてそれは、共産主義の防波堤=自由主義の「柵封体制」下にあった冷戦時代ならともかく、冷戦集結後の独立国家、特に(最近では陰りが見えてきているとはいえ)世界第2位の経済大国のとるべき選択としては、必ずしも全てが最適では無いように思えるのである。
 ところで、我が国と同じく冷戦時代に旧西側諸国の一員であった国で、アメリカからも相応の距離を置こうとし、成功を収めた国がある。西欧の盟主、フランス共和国である。
 フランス政治について考える時、「極右から極左まで、ドゴール派であろうとなかろうと、フランスの政治家はすべてド・ゴール主義者だ」という説は「なるほど」と思わせる説得力がある。この場合において使われる広義の「ド・ゴール主義」とは、フランスの栄光と偉大さを強調するフランス第一主義、そしてそのために米露超大国に対抗するヨーロッパ主義ということだが、それらと同時に、フランスの国益追求を最優先とした現実的な外交路線も又、フランス政治の特徴と言えるだろう。もっとも、このような傾向は、何もド・ゴールが政権を掌握していた時代に限らず、ほぼ全てのフランス人政治家に該当することなのかもしれない。例えば、第2次大戦中ノルマンディー上陸からパリ解放に向かっていた連合国軍の中で、自由フランス軍・第2戦車師団長ルクレール少将は、パリ一番乗りを強硬に主張して実行し、パリのドイツ軍司令官の降伏文書の宛先を、「連合国」ではなく「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官」にさせたという。そして、このパリ進駐一番乗りは、単に自由フランス政府が自国の首都を奪還してその正統性を強化し、フランスの名誉を守るということの他に、いち早く進駐してパリの統治権限をドイツ軍に委譲させることで、多数の共産党員を含むレジスタンスに首都の支配をさせないようにする、という意図もあったと言われている。この例が象徴的に示すように、広義の「ド・ゴール主義」に沿った形で展開した戦後フランス外交は、常に名誉という形式と、実利という現実的考察の両者を含むものだったといえるのである。

2、第二次大戦直後のフランス外交
 今日、フランスは国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、「五大国」の一角を占める堂々たる大国である。しかし、フランスは、歴史的に見て必ずしも常に大国だった訳ではない。その端的な例が、第2次世界大戦直後のフランスである。
1945年に第2次世界大戦が終結した時、フランスは確かに戦勝国(連合国)の一員ではあったが、国土の半分、それも首都を含む穀倉地帯や重要産業がある北半分が戦場となった為、経済は落ち込み国力は半減していた。そのため、シャルル・ド・ゴール第4共和国臨時首班が望んだような、「大国フランス」としての政治・外交はとても実行出来たものではなかった。海軍兵力を例に挙げると、第2次世界大戦の勃発で、戦前のフランス海軍艦艇は自由フランス海軍(FNFL)側とビシー政権側の海軍に分裂し、しかもビシー政権側海軍がイギリス海軍に攻撃されたりして、大きな打撃を受けてしまう。結局、終戦直後の自由フランス海軍は、英米からの貸与艦艇や独伊の戦利艦艇を編入して総勢350隻を数えるまでになったが、各国軍艦の寄せ集め所帯であったため武装の規格がまちまちであり、とても使い物にはならなかったのである。もっとも、そんな状況下にあっても、当時自由フランスの首長だったド・ゴール将軍は、欧州の戦後新秩序形成における発言権の確保を狙って、弱体だった陸軍を態々ドイツ進攻作戦に参加させることを忘れなかったが。
 そこで発足した第4共和制政府は、アメリカのマーシャル・プランの援助を受け容れることで、戦争で荒廃した経済の再建を目指す。しかし、トルーマン・ドクトリンに基づくマーシャル・プランの受け容れは、同時にアメリカの主導権の下で共産圏封じ込め政策に参加することを意味していた。実際フランスは、1949年北大西洋条約機構(NATO)に原加盟国として参加し本部にパリを提供、また当時の社会党内閣は共産党閣僚を追放し、アメリカに恭順の意を示す。我が国では丁度、アジアに忍び寄る共産主義勢力に危機感を抱いたアメリカ政府とGHQが、占領政策の転換を行ったころのことである。一方1954年には、ピエール・マンデス・フランス首相がジュネーブ会議において第一次インドシナ戦争の停戦を実現し、インドシナをはじめとする植民地からの撤退政策を推進。こうして、形式的な意味での「大国フランス」は、むしろどんどん凋落していったのだった。
 しかし、その様な苦境にあっても、伝統的な「フランス第一主義」の発想は、絶えることがなかった。1950年には欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)がフランス外相シューマンによって提案され、51年には6ヶ国を以って成立。また、1858年には欧州経済共同体(EEC)がイギリスを締め出す形で結成され、これが後に農業保護主義を採用してアメリカと貿易摩擦を生じることになると共に、イギリスをして経済戦略の見直しを迫らせ、結果として我が国の日英通商航海条約調印の成功にも結びついた。こうして、現在の欧州連合(EU)の原形、即ち欧州中心主義を求めるフランスの政策に沿った、新しい国際協調体制が形成されたのである。更に、同じ年、アルジェルア派遣フランス軍・第10空挺師団長マシュー少将らが決起して、アルジェリア反乱(公安委員会事件)が勃発。反乱軍側は、小党に分裂した議会の優越を定め、政治的不安定を引起こしていた第4共和国憲法体制の打開を目指して、国民的英雄ド・ゴール将軍の政権復帰を求めた。こうして、右派の支持をも集めてド・ゴールは政治の中心に返り咲いたのだが、この時の、フランス国民の彼に対する熱烈な支持は、フランスの栄光と偉大さの回復を求める国民世論の現れとも言えるだろう。実際、彼が大統領であった10年間は、NATO軍事機構からの脱退や「金戦争」で、米仏関係が最も冷却化した時期であったとも言われる。殊に、西側自由主義国家の一員であり、西欧の要であったフランスのNATO軍事機構離脱は、衝撃を以って受け止められた。しかし、当時のNATOが専らアメリカ、イギリスの意向を反映する組織であったことを考えれば(1958年のイラク軍事クーデターの際の対応が、その顕著な例である)、フランスがそのような体制を「好ましくない」と考えたのも無理は無い。また、そもそも米英アングロサクソン民族を支配したノルマン王朝そのものが、自分等フランスの出身であるという、民族感情的な優越感のようなものさえあるとも言われるフランス人の気質からすれば、国民の支持は当然とも考えられる。飛躍を恐れずに言えば、アメリカにとってフランスは、丁度旧ソ連にとって中国のような存在だったのではないだろうか。

3、核武装とド・ゴール以後の外交
 ところで、1954年のディエンビエンフー核攻撃の中止や、1956年のスエズ動乱の際に向けられたソ連の核兵器による政治的恫喝は、フランスをして独自外交を担保するための核武装の必要性を痛感させた。そもそも、フランスの核開発計画は1948年頃から始まったとされているが、1954年には本格的に始動し、1956年には最初の原子力発電炉が完成。プルトニウムの製造を開始し、1960年には遂にサハラ砂漠で最初の核実験を行った。71年には初の原子力弾道ミサイル潜水艦(SLBM)を完成させており、以後ごく最近まで、小規模ながら地上発射弾道ミサイル、戦略爆撃機、弾道ミサイル潜水艦の「核の三本柱」を維持していた(但し、冷戦終結後、前二者は現ジャック・シラク政権で廃止が打ち出されている)。また1961年には、現代海洋戦力の象徴であり核攻撃機も搭載できる航空母艦「クレマンソー」も就役している。こうして、フランスの独自外交を裏打ちする独自国防の体制は、武器の国産とあいまって着々と整備されていったのである。
 このような状況に支えられて、フランスの「栄誉ある独自外交」路線は、「共和制的君主」とまでいわれた程大統領の権限が強められたド・ゴール第5共和国政権の下で、更に顕著になっていった。具体的には、前にも述べた欧州経済共同体(EEC)へのイギリス加盟拒否、NATO軍事機構離脱の他、中東戦争でのイスラエル非難と親アラブ政策、独自の対ソ・対中外交などである。そして、これらの政策はド・ゴール大統領の下で首相だったポンピドゥの手によるものでもあり、実際彼が第2代大統領に就任した時には、「開放と継続」を掲げて独自外交の継続を明らかにした。EC拡大の際にイギリスに英連邦諸国との特恵関税廃止を求めたのも、あるいは第4次中東戦争で再びアラブ側についたのも、その現れである。更に、ポンピドゥ急死後政権をついだヴァレリー・ジスカールデスタン大統領も、先進国首脳会議(ランブイエ・サミット)の提唱、「アフリカの憲兵」としての派兵など独自外交を続けたが、国内経済の問題から、中東の石油危機対処に関しては多少対米協調的になった。
 だが、我々がフランス人の気質としての「ド・ゴール主義」を最も強く感じるのは、その後のフランソワ・ミッテラン社会党大統領の時代である。彼はフランス大統領としてはめずらしく2期14年を勤めたが、また第5共和制はじまって以来初の左翼政党出身者でもあり、当然、ミッテラン政権は、それまでの狭義のド・ゴール派とは一線を画した、非ド・ゴール主義的な政治・外交を行うものと見られていた。しかし、蓋を開けてみると、たしかに国内経済の分野においては基幹産業の国有化等、毛並みの違いを見せたものの、こと外交に関しては、ジスカール・デスタン政権時代を引き継ぐ形での独自外交路線であり、また対ソ批判に関してはむしろより強硬ですらあった。その後、内政に関しては、保革共存内閣時代にジャック・シラク首相によって産業国有化政策の一部反転など、多少の右往左往があったが、こと外交・国防については大統領が終始一貫して担当し、「右往左往」等ということは無かったのである。勿論、ミッテラン政権のこのような姿勢の背景には、大統領選の際に獲得した保守票に対する配慮ということもある。しかし、ともかく左翼政党が単独で政権を確保した状況で、なお従来型外交を継承している点は、見逃せないフランス政治の特徴といえるだろう。丁度保守政党がワシントンの風下に立つことを拒否したように、革新政党も又モスクワの風下に立つことを嫌ったのである。そういう意味では、「フランス大革命」という、人類史上に残る劇的な革命を遂行した当のフランス人は、実は案外変化を好まないものなのかもしれない。
 東西冷戦の終結後、フランスの独自外交路線は一見後退したように見える。例えば、それまでフランス軍はあらゆる武器を国産し、輸出することによって独自外交路線に寄与してきた訳だが、最近では戦闘機や海軍艦艇の欧州共同開発などで、武器国産路線を修正しつつある。また、現職のジャック・シラク大統領は、フランスのNATO軍事機構への復帰を示唆している(但し、従来も連絡将校団だけは派遣していた)。しかし、それでもなお根底に流れるフランスの「独立自尊」の精神は健在であり、世界的非難を浴びながら断行した1995年のムルロア環礁での核実験も、臨界前核実験技術の独占と包括的核実験禁止条約の締結によって、核戦力の上で一気に優位に立とうとするアメリカに反発してのことである。また、湾岸戦争に参戦した時も、フランスはNATOではなく西欧同盟(WEU)の軍事機構の下で行動し、冷戦後のNATOとは異なった欧州独自の安全保障機構を模索した。最近では、97年の湾岸危機に際して、アメリカ、イギリス両国が艦隊を派遣してイラクの国連決議違反に対する圧力を加えた中で、フランスは経済制裁解除後のイラクとの通商関係を考慮して兵力を出さず、米英とは一線を画している。現代においても、ド・ゴール精神は不滅なのである。

4、ド・ゴール主義外交の背景
 フランスがこれらの独自外交路線を歩むことができた背景には、文化的及び経済的、の2つの側面があるように思える。
文化的な側面としては、正にあの偉大なフランス文化ということが挙げられるだろう。啓蒙主義の思想、デカルト以来の合理主義、理性主義の精神風土は、「明晰でないものはフランス的でない」という言葉でも表現される通り、フランス文化の一つの特徴である。そして、このような合理主義的発想が、国益追求に際しての冷徹な計算と、名誉ある現実主義外交に結びついているのである。また、こうした明晰性の追求の一つの帰結が、責任の所在やリーダーの顔がハッキリとした第5共和制大統領の誕生だったのではないだろうか。その意味で、集団主義と「わび、さび」のあいまいさを文化的特徴とする我が国とは、精神風土上も大きな違いがあるといえるだろう。更に、フランスの長い歴史と伝統の誇りが、西側の盟主たる新興国家・アメリカに対する「独立自尊」の立場を宿命的にとらせているのも事実である。戦後の西側世界はある意味でアメリカの時代であり、パックス・アングロ・アメリカニズムの時代であったといえるだろう。アメリカは、その強力な軍事力と自由、市場原理、民主主義といった価値観を武器に、西側資本主義諸国の盟主となり、中には我が国のように文化的にもアメリカニズムに席巻された国まであった。だが、そんな西側諸国の中で、政治から言語に至るまでアメリカニズムを撥ね付けたのが、フランスなのである。例えば、現在フランスには「フランス語使用法」という法律があり、表向きには「フランス語しか理解できない国民の保護」を謳っているが、その根底にはアメリカニズムに対する文化的防衛ということが含まれている。その点、国籍不明のカタカナ語や、英単語をそのまま音だけ写したカタカナ英語が氾濫し(官庁用語や経済学用語、更にはコンピューター関連用語で特にその傾向が強く、また若者は簡易な英語を、知識人は態と難しい英単語を使う悪しき傾向も散見される)、英語表現(決して仏語や独語は入らない)それ自体、何だか格好いいように思われる風潮がある我が国とは、対照的である。そもそも、「自由、平等、博愛」というフランス革命の精神や「自由」を大切にするというフランスの国是は、アメリカのそれとよく似ており、それだけに「こっちが老舗だ」という意識が一層強く出てしまうのだろう。加えて、ピューリタニズム的価値観が未だに残存し、あるいはアメリカ支配層の民族的宗教的傾向を示すWASP(白人アングロサクソン新教徒)という言葉が示すように、アメリカはなおプロテスタント(新教)優位の国家である。これも、宗教的寛容性を特徴とする我が国とは異なり、伝統的にカトリック国家であったフランスにとっては「相容れない」理由の一つになっているのではないだろうか。フランスの宗教的不寛容性は、ユダヤ教に対する偏見からおきた有名なドレフュス事件や、最近では公立学校における、イスラム系移民の師弟のスカーフ着用問題(イスラム教的色彩の強いスカーフの着用と、公立学校の非宗教性とが対立した問題)などでも、見られた現象である。
 経済的な側面に関しては、フランス経済の均衡性ということが指摘できる。フランスは西欧最大の農業国であり、かつ農産物は最大の輸出商品となっている。それでいて、国内資源の存在も手伝って重工業も発達しており、殊に前述のような武器国産政策の結果、航空宇宙産業の発達は注目すべき特質である。独自開発のアリアン・ロケットや欧州共同のエアバス産業などが、その代表格である。1982年のフォークランド紛争では、アルゼンチン軍に5発販売されたフランス製「エグゾセ」対艦ミサイルが、諸島奪回を目指して南下してきたイギリス海軍の駆逐艦を撃沈し、フランス航空宇宙産業の優秀性を世界にアピールした。こうして見るように、フランスにおいては、自国の国家経済の構造が、自づとフランスに誇りある独自外交路線をとることを担保してくれているのであって、これは、「石油」というたった一種類の資源を切断されただけでたちまち国家存立の危機に陥る、砂上の楼閣的な繁栄をしている我が国の国家経済とは、これ又ずいぶんと異なっている、といえるだろう。
 いずれにせよ、これら2つの側面に支えられていたからこそ、フランスの孤高のド・ゴール主義外交は数々の成功をおさめてきたのである。

5、日本外交の不甲斐なさ
 翻って、我が国の戦後外交をフランスのそれと比較するとき、我が国外交の独自性の欠如、即ち顕著なる米国追随の傾向(これを対米追随と見るか対米協調と見るかは難しいところだが・・・)には、何とも情けなくなるものがある。あくまで国益の追求という命題の下、現実的な視野に立った外交を実践してきたフランスと、専ら米国外交に追従する形で他の選択肢を失い、「国益」ということに無頓着又は拒絶的だった我が国とでは、やはり大きな違いがあると言わねばなるまい。勿論、我が国とフランスとでは、その置かれた歴史的、地理的環境が異なるのであり、一概に比較することはできない。例えば、我が国の対米貿易依存度や食糧自給率、更には自衛隊の兵力構成等を鑑みれば、フランスと全く同じ外交を為すのは、やはりむずかしかっただろう。歴史的に見ても、フランスは第2次世界大戦の戦勝国であり、戦後世界の形成に参画できる立場にあったのに対し、我が国は敗戦国であって、当時の我が国の国際的な地位は低かった。そして、戦後の我が国経済の復活は、東アジアの共産化防止という共通の利害を持った(そして、反共の「柵封体制」への加盟を許した)アメリカ合衆国の強力な支援の下に行われたのであり、例えば我が国の関税と貿易に関する一般協定(GATT)、あるいは経済協力開発機構(OECD)への加盟も、アメリカの助力なくしては有り得なかっただろう。
 しかし、問題は政治や国民の意識の有無である。その点、ド・ゴール的愛国心によって国益追求を為せる健全な体質を持つのがフランスであるのに対し、我が国に於いては、米国占領下の改革や戦後民主主義教育によって、国益という視点を欠落させた「観念的平和愛好」国民が大量生産されてしまった為、政治や国民に多くを期待することができなくなってしまった観がある。その最たる例が、日本国憲法第9条の非武装規定であろう。太平洋戦争という大きな悲劇の反動で、一時的に非現実的な条文が着想されてしまったのは致し方の無いことだったにせよ、今日なお改正されずにあるこの規定は、国民の無条件的軍事忌避の傾向、ひいては、排他的な主権国家の集合体である国際社会の現実に対する無知を、如実に物語っている。最近では、湾岸戦争の際、冷戦終結後の世界戦略無き状態で、我が国は「平和憲法」に束縛されて人的貢献を拒否し、多国籍軍への資金提供のみで事を済まそうとして、世界の失笑をかって「湾岸戦争における第2の敗戦国」とまで揶揄されてしまった。私は何も、戦前の偏狭な民族主義的外交に回帰せよ等と言うつもりは全く無いが、しかし戦後の我が国外交とフランス外交とをくらべて見れば、我が国が如何に毅然とした主権国家としての振る舞いをしばしば忘れ、国際的な失笑と疑念の目を以って見られてきたかということは、一目瞭然である。

6、おわりに
 冷戦後の混沌とした世界情勢の中で、我々日本人は自国を一体どのように規定するのか、あるいは21世紀に向けて我が国は一体どこへ向かってゆくのか。今、我が国が未曾有の不景気に直面するなかで、根本的に問い直されねばならないこれらの事について、今日の我が国の政治は、何も語ってはいない。その様な状況の中で、フランスが戦後行ってきた、威風堂々とした独自外交路線は、我が国にとっても示唆に富むように思えるのである。

※主要参考文献
柏木 明  『フランス解放戦争史』 原書房
木村尚三郎、志垣嘉夫編  『概説フランス史』 有斐閣選書
児島 譲  『第2次世界大戦 ヒトラーの戦い』 文春文庫
副島隆彦 「World Watch 第13回」『正論』1998年8月号 産経新聞社
中村勝範編  『各国政治制度概説』 慶應義塾大学出版会
二宮道明編  『データブック・オブ・ザ・ワールド 1997年版』 二宮書店、1997年
野木恵一  「フランス海軍戦後半世紀の歩み」『世界の艦船』1997年8月号 海人社
細谷千博  『日本外交の軌跡』 日本放送出版協会
『知恵蔵』1995年版 朝日新聞社

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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