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第1編 平和主義の位置づけ

 この章では、憲法平和主義がどのように位置づけられているのか、そしてそのような背景を持つのか、についてまとめる。

第1章 日本国憲法の基本原理

 日本国憲法は、国民主権基本的人権の尊重平和主義の三つを基本原理とする(※注1)。これらは、 憲法前文第1項前段 (※注2)の「主権が国民に存すること」、「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保」すること、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」という部分、及びその他の憲法前文で繰り返し表明されている。
 これらの3つの中で、平和主義は他の2つの原理との間に関連性があるとされる。つまり、人間の自由と生存は平和なくして確保されないという意味で、平和主義の原理もまた、人権および国民主権の原理と密接に結びついている(※注3)のである。こうしたことが、 前文第2項第13条(個人の尊重) を根拠とした平和的生存権が主張される原因ともなっている(後述)。

※注釈・参考文献
1:芦部信喜 『憲法』新版 岩波書店、1997年 35ページ
2:日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
3:芦部前掲書、37ページ
 もっとも、だからと言って通説が説くような自衛隊違憲論がただちに導出されるとは思われない。なるほど国民主権と基本的人権が保障されるには平和が必要であるが、その平和をどう確保するのかということは必ずしも自明ではなく、通説が説くように非武装によらなければならないとまでは言えないからである。

第2章 平和主義の歴史的経緯

第1節 序論
  日本国憲法 の平和主義は、単に特殊日本的な規定なのではなく、背景として歴史的、国際的な平和主義・戦争違法化の経緯を持っている、とされる(もっとも、現実には、非武装条項については、明らかに占領軍の影響が見られるという点で「特殊日本的」であるが)。

第2節 第一次世界大戦以前
 古来、国際法では、戦争その他の武力行使は、国際紛争解決の手段として、あるいは国家政策の窮極の権利としてみとめられてきた(※注1)。特に、欧州大陸においては、当初中世キリスト教自然法主義の考え方から正戦論(戦争を正しい戦争と違法な戦争に区別し、正当原因justa causa)に基づく戦争のみを認める)が唱えられ、長い間戦争の原則となった。
 しかし、ローマ教皇の権威失墜と列強間の帝国主義的膨張に伴って、正当原因は相対的であるとされ、無差別戦争論が主張された。そのため、かつては国際紛争の解決は、外交交渉から国際裁判にいたる平和的手続きと、戦争その他の武力の行使に訴える強力的手続きに付せられ、二面の手続きが混在していた(※注2)。国際紛争は、平和的解決に失敗すれば自動的に強行的手続きに移行し、国際紛争の平和的解決は、国際法上の義務ではなかった。列強諸国は、主として勢力均衡政策(balance of power)によって秩序を維持してきたのである。

第3節 戦争違法化のはじまりと国際連盟
 しかし、二度にわたる世界大戦をはじめとする幾多の戦争を経験した国際社会は、平和的解決の義務化(戦争の違法化jus ad bellum)と戦時国際法jus in bello)の規制強化へと向かっていく。前掲の国際連盟規約以前にも、多数国間条約としてはじめて戦争を禁止した1907年の契約上ノ債務回収ノ為ニスル兵力使用ノ制限ニ関スル条約(ポーター条約、大正2年条約第2号)(※注3)、戦争手続を強化した1907年の開戦ニ関スル条約があった。
 1919年の国際連盟規約(1919年、「ベルサイユ条約第一編」大正9年条約第1号)では、史上初の包括的な集団安全保障体制が構築され、その規定には次のような特徴があった。

(1)戦争に訴えない義務を受諾する(前文)。
(2)加盟国相互の領土保全・政治的独立尊重、外部の侵略からこれらを擁護する義務(10条)。
(3)国際紛争を全加盟国の利害関係事項とし(11)、規約違反の戦争行為は全加盟国に対する戦争行為と扱い制裁・除名(16条)
(4)国交断絶に至る恐れのある紛争が生じたときは、仲裁裁判・司法的解決(法律的紛争、相手国との合意必要)・連盟理事会(政治的紛争、相手国との合意不要)に付託しなければならない。
(5)判決・理事会報告の報告後3カ月間は戦争禁止(12条)冷却・熟慮の期間cooling offの制度)。
(6)連盟理事国が報告を受諾した場合、報告を受諾した紛争当事国に対して戦争禁止(15条)。

 もっとも、こうした画期的な意義を持った連盟規約も、いくつかの点で問題を抱えており、結果、第2次世界大戦の勃発を阻止できなかった。

(1)「戦争」に至らない武力紛争(「事変」等)は禁止しなかった。
(2)自衛戦争制裁戦争、「正義公道を維持するため必要と認める戦争」(15条⑦)は合法とされ、国際紛争の平和的な解決は義務ではなかった
(3)自衛・復仇・干渉等が適法かどうか明かではなかった。
(4)理事会は「主権平等原則」を忠実に維持するため全会一致制を採用し、迅速な決定が不可能であった。
(5)違反国に対する制裁は経済制裁が中心(しかも解釈は各国による)で、軍事的な制裁は組織化されなかった(違反国に対する制裁戦争が可能となるに過ぎない)。
(6)米ソ両大国が不参加だった。また、決議を不服として日・独などが脱退してしまった。

 なお、国際連盟について我が国国内では、「白人の世界支配や既得権益を固定化する白人連盟だ」等として、政府・民間に我が国の加盟に反対する論調も存在した。

第4節 第二次世界大戦まで
 その後、1925年のロカルノ条約(英・独・仏・伊・ベルギー)はそれまで無制限だった国際紛争解決の手段としての戦争を、近代史上はじめて制限した。また、当時アメリカを含むほとんどの独立国(15ヶ国)が参加した1928年の 戦争放棄ニ関スル条約 不戦条約又はケロッグ=ブリヤン条約、昭和3年条約第1号)では、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互間系ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争放棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。」として、侵略戦争を禁止した( 不戦条約 第1条)。ただし、最も包括的に戦争を制限したこの不戦条約でも、自衛権の発動としての自衛戦争や条約の規定に基づく制裁戦争、宣戦布告を伴わない武力行使(「〜事変」など)は(国際連盟規約と同じく)例外とされ、完全な戦争違法化条約ではなかったばかりか、①実効的な履行確保の方法が明記されていなかったこと、②解釈宣言や留保が多用されたこと、③解釈・適用の手続規定を欠いていたこと、等から、実効性に問題があった。

第5節 第二次大戦後:国連憲章
 事態が進展したのは、第2次世界大戦終結後のことであった。
 1945年の国際連合憲章(昭和31年条約第26号)は、国連の目的として「国際の平和および安全を維持すること」(憲章第1条1項)を掲げ、加盟国に国際紛争の平和的解決の義務を課し(憲章第2条3項)、武力の行使・威嚇を慎まなければならないとしている(憲章第2条4項)。つまり、国連加盟国は、一元的に武力の行使・威嚇を放棄した上で、(1)憲章第7章に定める強制措置を安保理が発動した場合、(2)旧敵国に対する武力行使の場合、及び(3)憲章第51条に例外的に定められる個別的自衛権及び集団的自衛権を除いては、武力の行使と威嚇が完全に禁じられたのであった。また、1946年の極東国際軍事裁判所条例では、「平和に対する罪」について戦犯の訴追を実施して、侵略戦争の違法化を推進した(※注4)
 現在では、国際紛争の平和的解決の義務(※注5)武力不行使の原則(※注6)は国際慣習法上の原則となっているばかりか、各国憲法にも採用されている(※注7)。但し、各国憲法の平和主義条項の多くは、いずれも侵略戦争の制限ないし放棄にかかわるものにとどまっているのであって(※注8)、その点 日本国憲法 は、①一切の戦争、武力行使を放棄した点、②戦力不保持を宣言した点、③交戦権を否認した点の3点において、比類のない徹底した戦争否定の態度を打ち出しているとされる(※注9)

※注釈・参考文献
1:山本草二 『国際法』新版 有斐閣、1994年 704ページ
2:山本前掲書、677ページ
3:小田 滋、石本泰雄『解説 条約集』第4版 有斐閣、1989年 492ページ
4:国連憲章51条:

 「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当つて加盟国がとつた措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。(後略)」
 但し、
極東国際軍事裁判(東京裁判)に関しては、①事後法であり罪形法定主義に反する、②国際法は国家の行為について個人を処罰し得ない、③裁判官の出身国が戦勝国側のみで正当性に欠ける、といった有力な批判があり、更に、米国が、直接処刑を主張するイギリスを抑えて、国内世論対策として裁判の形式を用いたに過ぎず、その本質は「裁判の形式を採用した報復に過ぎない」との有力な見解もある。
5:山本前掲書、678ページ
6:山本前掲書、707ページ
7:代表例として、以下を挙げる。
▲イタリア共和国憲法(1948年施行)第11条
:「イタリアは、他国民の自由に対する攻撃の手段としての、および国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、他国と同等の条件で、諸国家間の平和と正義を保障する機構に必要な主権の制限に同意し、この目的のための国際組織を促進し、かつ助成する。」
▲ドイツ連邦共和国基本法(1949年施行)第26条第1項(侵略戦争準備の禁止)
:「諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、違憲である。これらの行為は処罰される。」
▲フィリピン共和国憲法(1987年施行)第2条第2節(戦争放棄)
:フィリピン国は、国策の手段としての戦争を放棄し、一般的に確立された国際法を国法と認め、平和・対等・公正・自由・協調及び諸国民との有効を政治原理とする。
▲同、第2条第8節(核兵器からの自由)
:フィリピン国は、国益に適合するかぎり、領土内における核兵器からの自由を政策目標とする。
▲大韓民国憲法(1987年施行)第5条
①大韓民国は、国際平和の維持に努力し、侵略的戦争を否認する。
②国軍は、国の安全保障と国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される。

▲その他の平和主義規定を持つ憲法

「国際紛争を解決する手段としての戦争放棄」:ハンガリー(第6条)、エクアドル(第3条)
「侵略戦争の放棄」:パラグアイ(第9条)、ガーボベルデ(第10条)
「侵略戦争の準備・扇動禁止」:クロアチア(第39条)、エチオピア(第29)、リトアニア(第135条)等

 なお、この他にも、「国際協調主義」ということは、日本国憲法第98条第2項をはじめ各国の憲法に採用されている。
:阿部照哉・畑博行 『世界の憲法集』有信堂、1991年(伊、独、比について)
 中野邦観・加藤孔昭編 「日本国憲法のすべて」『This is 読売』1997年5月号臨時増刊 読売新聞社、1997年 376ページ(上記3ヶ国以外)
8:芦部前掲書、54ページ
9:芦部前掲書、54ページ

第3章 憲法第9条成立の経緯

  憲法第9条 が採用された直接の背景は、1941年の大西洋憲章、1945年のポツダム宣言、1946年のマッカーサー・ノート等占領国ことにアメリカ側の意向(※注1)があるが、それに加えて当時の幣原喜重郎総理大臣の平和主義思想があるとされ、日米合作だと言われる(※注2)
 ただし、当時の憲法改正作業は、初めこそ主導権が憲法問題調査会(所謂「松本委員会」)つまり日本側にあったが、後になって完全にGHQ側に奪われてしまうのであり、憲法全体と同様 第9条 は米国製であるということもできる。また、資料によれば、当時GHQ民政局次長で憲法改正に関与したケーディス陸軍大佐と、対日理事会(AJC)米国代表だったW・シーボルトは、「戦争放棄はマッカーサー元帥のアイデアであった」と証言しており、日本側で憲法改正を検討した松本国務大臣も、「幣原首相には戦争放棄、軍備撤廃といった考えはなかったはずだ」と確言しているという(※注3)
 憲法改正を審議した第90帝国議会では、 第9条 に関しては格別の紛糾も無く進み、所謂芦田修正(後述)以外には重大な変更は加えられなかったという。これは、一つには戦前戦中の軍部の横暴や戦争の悲惨な記憶が議員達の脳裏にあったからだろうが、それと並んで、戦争放棄と引き換えに天皇制を維持しようとした幣原首相とマ元帥の思惑があったからだという(※注4)

※注釈・参考文献
1:百瀬 孝 『事典 昭和戦後期の日本』 吉川弘文館、1995年 45ページ以下
 アメリカ側の立場を示したものとして、1945年のアメリカ国務省陸軍省海軍省調整委員会(SWNCC)「降伏後における米国の初期の対日方針(SWNCC第150号4)」、及び統合参謀本部(JCS)「日本占領及び管理のための連合国軍最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令(JCS第1380号4)」がある。
2:芦部前掲書、55ページ 又は
小林直樹 『憲法第9条』 岩波新書、1982年 29ページ以下。
 なお、小林は「マッカーサーの公的証言は、憲法第9条挿入の責任を
幣原に転嫁するものだ」との推定もあるとしている。
3:児島 襄 『史録 日本国憲法』文春文庫、1986年 229ページ。
 現実には、「誰が戦争放棄を言い出したのか」は
ハッキリとはわからないようである。
4:小林直樹前掲書、33ページ。
 当時、天皇制の維持を企図した芦田とマッカーサーは、天皇制に対して否定的だったソ、華、豪、蘭を含む極東委員会が発足する前に憲法改正の既成事実を作ろうとし、これらの反天皇制諸国をはじめとする国際社会の信頼を得る為に、第9条を支持したという。

第4章 憲法第9条の意義

  憲法第9条 が世界に先駆けて徹底した平和主義を採用したことは、単に諸国の疑惑を避けるというような消極的な意義だけではなく、むしろ世界平和の確立に貢献しようとする積極的な意義を持つと考えられてきた(※注1)。つまり、 日本国憲法 は、日本の安全保障について、前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と共存を保持しようと決意した」と述べ、国際的に中立の立場からの平和外交、および国際連合による安全保障を考えていると解される(※注2)。これは、単に自国の安全を他国に守ってもらうという消極的なものではなく、平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的行動をとるべきことを要請している、とされる(特に 憲法前文第2項(※注2)
 もっとも、これらの考え、つまり自国の平和と安定を他国民に委ねてしまうということに対しては、「他力本願だ」という厳しい批判がしばしばなされる。たとえば慶應義塾大学の小林節教授は、国際政治は軍事力学であって「平和外交」や「平和構想」の提示だけで成功した先例は無く、かつ「理想の実現」と称して全国民を(非武装中立の)「人体実験」にかけてみるわけにもゆかない、として非武装中立論を厳しく批判している(※注3)。小林教授の見解は、国際政治学の常識と合致していると言えよう。また、「中立の立場からの平和外交」といっても、我が国の安全保障上の利害が絡む問題(例えば、朝鮮半島問題)について「中立」を維持することは出来ないのも自明である。

※注釈・参考文献
1:橋本公亘「日本国憲法における自衛権」『憲法講座』第1巻(清宮四郎、佐藤功編集)有斐閣、1963年 231ページ
2:芦部前掲書、56ページ
3:小林 節 『憲法』増訂版 南窓社、1994年 75ページ。
 なお、小林教授の「平和主義」に関する主張については、『憲法守って国滅ぶ』(KKベストセラーズ、1992年)に詳しく論述されている。また、芦部前掲書は「他力本願でない」ことの理由に「平和外交、平和構想提示」を掲げているが、小林教授は「それこそ
他力本願だ」と反論しているわけである。


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