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「日の丸」「君が代」法制化に賛同する
〜国民的議論は既に尽くされている〜

中島 健

1、はじめに
 1999年2月、「日の丸」「君が代」問題を巡って対立が続いていた広島県立世羅高等学校で、文部省と教職員の板ばさみになっていた校長が自殺する、という痛ましい事件が発生した。これを機に政府は、それまで慣習法として根付いていた「日の丸」「君が代」(もっとも、船舶法等で既に実定法化されてはいたが)を我が国の国旗・国歌として実定法化し現場の混乱を収拾することにしたが、国旗・国歌の問題は戦後日本の「歴史的な」問題の一つであるだけに、一部のマスコミや団体からは根強い反対意見が出されている。実際、昨年は埼玉県立所沢高等学校で、学習指導要領に基づいて「日の丸」を掲揚し「君が代」を斉唱する「卒業式」を主張する校長側と、「日の丸」「君が代」の無い「卒業記念祭」なる生徒会行事を正式の卒業式とするよう主張する生徒会、一部職員・父兄との間で深刻な対立が生まれ、結局両者は決裂したままそれぞれの式典を実施したという事件があった。そして今年も、問題の所沢高校をはじめ各地の学校で同様の問題が発生しており、そうした傾向は特に広島県において顕著であるとされる(3月1日に行われた世羅高校の卒業式では、「君が代」は斉唱されなかったという)。
 このように、毎年、卒業式や入学式がある度に議論が生まれるこの「日の丸」「君が代」問題であるが、戦後半世紀以上が経過した今、もはやこの問題については決着がついたと見るべきであろう。そうした観点から私は、以下の諸点において「日の丸」「君が代」の 法制化 に賛同する

2、歴史的背景は問題か
 国旗を「日の丸」、国歌を「君が代」と認めるかどうかについては、しばしばその歴史的背景が問題視される。反対派(法制化反対派という意味ではなく、「日の丸」「君が代」を国旗国歌と認めることに対する反対。以下、法制化反対の場合はそう明記する)の主張によれば、「日の丸」は戦前戦中我が国が対外侵略戦争を行った際のシンボルであり、国内ばかりか諸外国(なかでもアジア諸国)にはなお強い拒否反応があるという。そして、そうした感情に配慮すれば、「侵略戦争に対する反省」という意味を込めて「日の丸」を国旗とすべきではないと主張する。そして、その代表例に、ドイツ及びイタリアの国旗変更を挙げる。また、「君が代」については、戦後民主主義国家として再出発した我が国にとって、天皇主権だった戦前と同様、「天皇陛下の末永い統治を願う」という「君が代」の歌詞は相応しくない、とする。
 だが、これらの主張は、一つの主張としては傾聴に値するけれども、説得力を持つものとは言い難いのである。
 第一に、第二次世界大戦における我が国の行動に対する評価はひとまず置くとしても、一独立主権国家の紋章徽章を決定する際に諸外国の感情を考慮するというのは、やはりおかしなことである。無論、先の大戦で大きな被害を受けたアジア諸国の中には、その国なりの立場があるだろう。特に、35年以上の植民地支配を受け、戦後処理のマズさから分断国家となってしまった韓国の国民にしてみれば、国旗のみならず日本という国家そのものを嫌悪する感情を持ったとしても不思議ではない。しかし、だからといって、そうした国々が現代の我が国の内部的な問題に対して干渉しようとし、あるいは我が国の側から干渉を招くような行為までもが正当化される訳では全く無い。端的に言えば、もし韓国人の大多数が「日の丸」を嫌悪する感情を抱いていたとしても(そうした感情的な反感は既に超克されるべき時を迎えていると思うし、実際は日本で報道されるほど反日感情が根強い訳でもないように思えるのだが)、それはそれでよいのである。即ち、我々は、韓国人が抱く感情についてあれこれ論評する立場には無いが、そうかといって韓国人のご機嫌を取る必要も全く無いということである。そもそも、国旗のデザインを少々変更したからといって韓国人の対日意識が大幅に改善されるとは思えないし、また「日の丸」は、古くは室町時代から使用されていた伝統のあるデザインであって、ナチス政権の誕生と共にナチス・デザインの鉤十字旗を導入したドイツとは同列には扱えない。更に、「日の丸」反対論者の多くは、「先の大戦における我が国の戦争犯罪を謝罪すべきである」との主張を同時に持っている場合が多々あるが、この2つの議論は論理的に整合しない。つまり、一方で「戦争犯罪の記憶」を喚起する主張をしながら、他方でそうした記憶を覚醒させる「日の丸」に反対するというのは、明らかに矛盾した主張なのである。
 第二に、「君が代」については、そもそも「君」の指す対象が「天皇」であるか「あなた」であるかさえ特定されていない、ということに注意すべきである。また、例えそれが「天皇」を指すものとしても、日本国憲法第1章の規定により「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」である天皇の、「象徴としての治世」が末永く続く=現行憲法秩序が永続するという趣旨の歌詞は、現行憲法を決して大幅に逸脱するものではない。「しかし、小幅には逸脱しているのではないか」という反論が聞こえてきそうだが、所詮1億2000万人もの人間が100%納得する国歌など作りようが無い以上、小幅な逸脱は問題とはならない。いや、実は国歌の歌詞などというものは、憲法典の精神と大幅な逸脱があったとしてもかまわないものなのであって、むしろその国歌がどれだけ国民に親しまれているかということが重要なのである。例えば、現在イギリスにおいては「信教の自由」をはじめとする広汎な人権が認められ、イギリスに対しては誰もが「民主的な国家」という評価を下すが、その国歌は「long to reign over us, god save the Queen」、つまり「神は女王を救う、君が代は千代に八千代に」と歌い上げている。また我が国同様国歌についての論争が絶えなかったオーストラリアでは、現在の国歌「Advance Australia fair」(アドバンス・オーストラリア・フェア)と英国国歌「God save the Queen」(ゴッド・セーブ・ザ・クイーン)、それに民謡「Waltzing Matilda」(ウォルツィング・マチルダ)の三曲の間でどれを国歌とするかで揉めていたことがあり、一時は「Waltzing Matilda」が国歌として扱われていた。しかし、「Waltzing Matilda」の歌詞は「旅人が木陰で休み、・・・」云々というものであり、オーストラリア連邦憲法法や国民主権とは何等の関係も無い歌詞である。一方、中華人民共和国の国歌は「奴隷状態から立ちあがれ、新たな万里の長城を築け」と歌いあげているが、イギリスよりも民主的な国家であるとは思われていない。そこで「君が代」に目を点じてみると、それが我が国の国歌であるという国民の認識は多くの世論調査で既に確認されており、また自民・自由・民主・公明の主要政党は何れも「君が代」を支持しているのであって、「国民に親しまれている」という(唯一の)要件は、既に満たされているのである。従って、そうした多数意思を実定法として成文化することも又一向に差し支えないばかりか、むしろそのほうが、無駄な紛争を防止して「君が代」の国歌としての地位が安定し、多数意思にも適うので民主的であるとさえ言えるのである。この点、法制化反対派の見解は、殊更に少数者の権利を誇張するきらいがあり、妥当ではない。もし法制化反対派が、「国旗国歌の法制化は、少数者の思想信条の自由を侵害する」というのであれば、それは実定法規範を過度に絶対化する誤った考え方であり、「日本国憲法は国号を『日本』としているが、これは異なる国号を支持する少数者の思想信条の自由を侵害している」等と言うに等しい詭弁であろう(国旗国歌法に強制条項が挿入された場合はまた別だが)。
 なお、蛇足ながら「君が代」のメロディーについて言及すると、私は「君が代」は日本文化を上手く象徴した旋律であり、変更の必要性を全く感じない。実際、世界の国歌でこれほど独自性のある旋律は珍しく、多くのアジア・アフリカ諸国では、欧米の楽曲の影響を受けた行進曲が国歌として制定されている(独特の旋律の国歌としては、イスラエルが挙げられる)。昨年、サッカー日本代表の中田英寿選手が「ダザい」と発言したことについては、個人の感性の問題であるので中田発言それ自体を否定するつもりは無いが、しかし「君が代」はサッカー選手の応援だけのためにあるのではなく、従って「君が代」がフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」ほどに戦闘的でないとしても、何等問題にはならないというべきであろう。ちなみに、中田の言葉を借りれば、イスラエル国歌も又「気分が落ちてゆく」落ち着いた国歌である。

3、校長自殺問題の責任
 ところで、こうした「日の丸」「君が代」問題は教育現場を震源地としているのだが、実は私は、この問題の震源地が教育現場であること自体が批判されるべき事実であると認識している。
 言うまでも無いことだが、公教育の内容については、かつての「教育権論争」で既に「国民」教育権説(教育権は、保護者及びその付託を受けた現場教員にあるとする説。換言すれば、教育内容の決定は現場教師の権限で政府は単に物理的・財政的な問題だけを担当すべきであるとする。)を不当とする最高裁判決が出ており、この点現場教師に教育内容決定権があるとする「国民」教育権説は妥当ではない。しかも、地方公務員たる教職員は、法令遵守義務及び職務命令服従義務を負い、公務員たるの地位から当然に発生する政治的行為の制限や争議行為の制限、更には思想良心の自由の制限も受ける立場にあるのである(通説によれば、少なくとも公務員に「反憲法的思想」の自由は認められない、とする)。なお、行政法学の通説によれば、法令遵守義務と職務命令服従義務との間に衝突が生じた場合でも、それが訓令的なものであって公務員個人の勤務条件や基本的人権の制限に関するものでない職務命令については、当該公務員にその違法性を争わせる実益は無い(違法な命令で被害を蒙った私人が提訴すれば足りる)ので、行政の統一性の確保上違法な命令でも服従しなくてはならないとする(そしてこの通説は、行政組織の統一性や安定性を考慮すれば、妥当なものである)。また、公務員個人の勤務条件等に関する職務命令については、取消訴訟の提起等で違法性を争うことが出来るが、裁判所の判決が下るまでは、当該命令は合法であったとみなされるのである。
 ところで、今回の一連の「日の丸」「君が代」問題では、校長の適法な職務命令に対して、専ら党派的・政治的主張からこれに抵抗する教職員が問題の根源になっており、これは教職員という公の立場を濫用した一種の政治運動であって、到底これを正当と認めることは出来ない。無論、私は「日の丸」「君が代」問題を議論することそれ自体を否定するつもりは無いが、それは国会や報道等一般成人国民の間で議論されるべき問題であって、少なくとも教育現場を巻きこんで騒ぎを起こし、職務命令に違反して政治的な活動をする一部教職員の行動を支持することはできないのである(「公務員の政治活動を認めるべきだ」という主張もあるが、少なくとも勤務時間中にまで政治活動を許すのは明かに不当である)。その点、今回の校長自殺事件について、その責任を文部省の「日の丸」「君が代」強制にあるとする議論が見られるが、これは全く的外れであって、校長を自殺に追い込むほどの命令不服従をなした教職員側にその非があるということが出来よう(校長に対して暴行・脅迫があった場合は、「公務執行妨害」罪に該当する可能性すらある)。
 マックス・ウェーバーは、その著書『職業としての学問』の中で次のように述べている。
「予言者や煽動家に向かっては普通『街頭に出て、公衆に説け』といわれる。というのは、つまりそこでは批判が可能だからである。これに反して、かれの批判者ではなくかれの傾聴者にだけ面して立つ教室では、予言者や煽動家としてのかれは沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。もし教師たるものがこうした事情、つまり学生たちが定められた課程を修了するためにはかれの講義に出席しなければならないということや、また教室には批判者の目をもってかれにたいするなんぴともいないということなどを利用して、それが教師の使命であるにも関わらず、自分の知識や学問上の経験を聴講者らに役立たせるかわりに、自分の政治的見解をかれらに押しつけようとしたならば、わたくしはそれは教師として無責任きわまることだと思う。」
 ウェーバーは主に大学教育を念頭においてこの発言をしたのであろうが、小学生や中学生に学問的な批判能力が無いことを思えば、その内容は正に高校以下の初等・中等教育にも当てはまることであろう。

4、議論は尽くされているか
 その他にも、反対派及び法制化反対派(「慎重派」とも呼べる)は、「日の丸」「君が代」問題について、「国民の間で議論が尽くされていない」ということを理由に、拙速な法制化に反対している。しかし、戦後半世紀にわたって、安保・自衛隊問題と同様に何度も議論され、幾度となく新聞の一面を飾ったこの問題については、むしろ「議論が尽きている」と言うべきではないだろうか。また、実際、この問題について、かつての安保闘争の如き一大反対運動が発生していないのも、この問題が安保・自衛隊問題ほどには反対されておらず、従前からかなりの割合で受け入れられていたことを示していると言えよう(最近では、4月の統一地方選挙において、ガイドライン関連法案が一つの争点になり得たのに対して、「日の丸」「君が代」法制化問題は全くといっていいほど争点にはならなかった)。前述したように、国会においても、「日の丸」「君が代」については与党・自由民主党/自由党の他、主要野党の民主党・公明党も賛成を表明しており、反対(乃至「慎重」)意見を提示しているのは日本共産党と社会民主党のみであるが、このことは、この問題がもはや与野党間の論争を生む余地の無いことを示しているといえよう。
 無論、議論は自由に為されるべきであって、かつての憲法改正問題の如く議論自体を抑圧するのは好ましくない。しかし、この問題に関する限り、既に反対(及び法制化反対)の争点は出尽くしており、そしてそれらの争点は、長期の議論を経た結果何れもある程度解決しているものであると言えよう。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生

※参考: 国旗国歌法私案 (中島案)


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